胴結場より高社山稜線を望む

高社山

いつの夏だったか、長野に出かけて葛飾北斎と栗で有名な小布施に立ち寄った折り、郊外の果樹園越しに北を望むと容姿のすっきりした山が目に入った。初めは斑尾山かと思ったものの、やや尖った山頂部と優美な裾野は斑尾山のものとは思えず、何という山だろうか気になった。それが高社山だった。
山名の読みは”こうしゃさん”が一般的になっているようだが、山中にある由緒書きの案内板にも清水栄一氏の『信州百名山』ハードカバー版にも”たかやしろ”という読みが書かれている(後者の普及版では両方の読みが併記されている)。登る前は気にならなかったが、仰ぎ見て登ったうえで思うのは、この山の名にふさわしい音は”たかやしろ”だということだ。
その高社山に初めて出かけたのは11月の上旬、里では取り入れの季節であり、山中では紅葉が駆け下っているころだった。南東のよませスキー場からの往復をガイドするものもあったがそれでは退屈そうなので、南西の赤岩から尾根を上がり、上下する稜線をたどって山頂に達し、よませスキー場に下ってそこにある温泉で汗を流して帰ったのだが、これはよい山歩きだった。秀麗な山容で眺めて佳い山であるだけでなく、赤岩からの尾根道はそこここに線刻の石仏や天狗伝説を伝える大岩を配し、高度を上げるにしたがって広がる展望とあいまって愉しい。登りの歩程が長くも充実しているわりに下りは1時間とかからないというのも気に入った。それで1年後の同じ季節、まったく同じコースで再訪した。


高社山を赤岩から登る場合、古いガイドには長野電鉄河東線赤岩駅に出るよう書かれているが、河東線のうち信州中野から木島までの路線(通称は木島線)は2002年に廃止されていて今は存在しない。このため信州中野駅からバスに乗って赤岩バス停まで出た。停留所はやや高台を走る車道にあり、見下ろすとおそらく木島線が通っていただろう細長い平坦地が見える。取り入れの季節、空気は夏の重たさを振り払ってひんやりとしている。鳥脅しの爆音が響いては消え、また響く。
時刻は10時半、赤岩バス停からはまず谷厳寺(こくごんじ)という寺を目指す。停留所脇からりんご畑を左右に見つつ坂道を上がり、つきあたりを左へ。すぐまた上に登る道があり、これを行くと広めの車道がクランクしているところに出る。登り方向に進むと道標があり、左の山側への道に入る。広い道路の両脇には背が高く頑丈そうな石造りの常夜燈が一基ずつ建っており、ここから先は今はともかくかつては聖域であったことを感じさせる。文字がが刻まれていて”高社山”とあり、建立は幕末の文久三年らしい。見上げる常夜燈の大きさは世相の不穏さを避け信仰に安寧を求めようとした表れかもしれない。
高社神社
高社神社
<FONT size="-1">谷厳寺の上の高社山。山頂は右奥</FONT>
谷厳寺の上の高社山。山頂は右奥
広々とした空の下から林のなかに入ると深みのある朱色の鳥居が目に入る。掲額に金色で記された名は高社神社、下の横木から下がる注連縄が目を惹く。本殿の脇、多少高くなった場所に出てみると案内板があって、"赤岩の宣澄踊り"という無形文化財についての説明が書かれている。付近には同じく”赤岩の太々神楽”についての案内もあり、いずれも高社講の人たちを中心に保存されているとある。先ほどの大きな常夜燈に見られる信仰心がこのような文化の継承を可能にしてきたのだろうし、それは高社山という求心力のある存在があるからこそなのだろう。
神社を見送って林を抜けるとすぐに谷厳寺の墓地の外れとなる。寺は桜の名所だそうで、花見の季節には壮観となるようだ。敷地の上には山の稜線が黄や紅に染まって伸びている。墓地の脇の農道を上がっていくと登山口の看板が掛かっていて、脇には「従是*上七拾弐丁」と刻まれた石柱が立っている(*の字は読めなかった)。文久三癸亥卯月吉日とも刻まれており、先ほどの常夜燈と同じ年の建立だった。振り返って遠望すれば千曲川の向こうに斑尾山が長々と広い。


登山靴の紐を結び直し、11時にこの登山口を歩き出す。墓地を抜け、ちょっとした畑地のような脇に出ると、"不動明王"と記された案内板があり、傍らに高さ1メートルほどの石版があって仏像が線刻されている。本日たどる尾根筋にはこのようなものがいくつか出てくるのだが、これが一番手だ。
登山道にいくつもある線刻の一番手、不動明王
登山道にいくつもある線刻の一番手、不動明王
斑尾山を遠望する
斑尾山を遠望する
登りにかかるとすぐ左手に金色の柱のようなものが見える。なにかと思えば5メートルくらいはある仏様の立像で、何かの金属製らしい。初めて見たときはぎょっとしたものだ。上にもう一体、さらにもう二体、目に入った限りで計四体の仏像が出迎えてくれるわけだが、ありがたさよりも不気味さが先に立つ。こういうものに費用をかけるのではなく、なにか社会事業に還元した方がよかったのではと思う。なおこの仏像は全部で八体あるらしい。
金色巨大仏像を過ぎると、次々と線刻の仏像に出会う。釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩と。十阿弥陀まで続くとガイドブックにはあり、同様に石仏の立つ戸隠の高妻山を思い起こさせる。しかしここ高社山では里に近いせいか、お釈迦様は顔を削られ、普賢菩薩などは台座のみとなっている。これもまた明治初期に出された廃仏毀釈令に過激に反応した結果らしい。お触れが出ただけで今まで認めていたものに暴虐を働くというのは長年続いた事大主義の心性ゆえだろう。


雑木林と植林が交互に現れ、斜度はあっても平坦で歩きやすい尾根筋を上がっていくと、"天狗の飛び石"という岩に出くわす。右手、明るく日の回る雑木林を透かして見える谷は、いつのまにか、かなり深い。腰掛けて休みたくなる"飛び石"の前にはこの山への思いが感じられる解説版がある。
「美しいたかやしろは古くから信仰の山でもあった。高社薬師、赤岩のお薬師さまの名は北信一帯に親しまれている。お山の薬師さま、その守護神である天狗さま、御嶽さまが祀られている。殊に変幻自在の天狗さまの伝説が里人に語りつがれている。流僧坊大天狗は岩から生まれ(われ石)、岩で滑り(すべり石)、岩から飛んで(とび石)、向こうの山の大岩に抱きついて(だき石)もうひとつとんで天狗岩までとびついた。今もとび石には天狗の足形、だき石にはその手形が残っているといわれる。」(昭和五十九年六月三日 科野地区分館協議会 科野地区青少年育成会)
天狗の飛び石
天狗の飛び石
秋色の尾根
秋色の尾根
飛び石の先から足下に岩が出始めるが、左右の灌木がとぎれて眺めも広がってくる。10分ほどで地蔵菩薩と案内のある場所に出る。左手の尾根が紅葉の市松模様となって広がり、振り返れば北信五岳の飯縄、戸隠(高妻)、黒姫、妙高に斑尾が霞みつつも勢揃いしているのが見渡せる。風が優しく吹いていて涼しい。首から上しかなくなってしまったお地蔵さまの柔和な顔に挨拶して、一休みすることにした。


ここからは斜度も上がりだし、凹凸も出てきてやや歩きにくくなる。地蔵さまに続いて出てくるのは薬師観音で、尊顔は優しさのうえに威厳がある。背後の彼方には屏風岩の岩塔がすでに低い。半時ほど登ると見事な紅葉に包まれた一角に出る。文字がだいぶ薄れた標識がかかっており、ようやく"三本杉"と読める。
三本杉から10分ほどで勢至菩薩に出会う。この仏様は地蔵菩薩とは逆に、胸から上がない。しかし残された岩に彫られた手は溌剌としながら優美で、上半身らしき石が目に入らないか、立ち止まってあたりを見回した。
勢至菩薩のすぐ上で道は分岐する。左手に行くものはゆるやかで、さらに石仏がありそうな気がするが、入り口にはロープが張ってあって進入禁止になっている。右手のものはわりと急で、後から付けた道筋の感がある。かなり葉を落とした木々が目立ち、足下の落ち葉も茶褐色に乾いたものばかりになる。この山での紅葉は11月上旬ともなると稜線は終わり、山腹を駆け下る最中となるのだろう。
"三本杉"付近の紅葉
"三本杉"付近の紅葉
胴結場から望む山稜
胴結場から望む山稜
分岐から15分ほどで、斜度がゆるまり、稜線上のちょっとした平坦な草地に出る。胴結場または土用場と呼ばれる場所で眺めが良く、ここから仰ぐ高社の山稜は麓から望むのと同様に優雅かつ威厳を感じさせる。紅葉が流れ落ちていく山腹が明るく、そのなかに点在する岩峰が浮き立つものを引き締めて緊張感を呼ぶ。どこからかじーじーと泣く虫の音が聞こえる。浅間連峰から積雲が列をなして迫ってくる。
胴結場は平坦地のため、太平洋戦争時には食糧増産のためサツマイモやカボチャをつくったらしい。家が二軒ほど建つのがせいぜいの広さの畑を維持するため、こんな高いところまで耕作に上がってきたというのは可笑しくも悲惨だ。胴結場から稜線を反対側へやや下ったところに一杯清水という湧き水がある。前回来たときに寄ってみたところ清水がわき出ているはずの場所は草の葉が散乱するだけの泥濘で、溜まっている水に口をつける気がしなかった。


さてここからは稜線の道だ。まずは歩きやすい緩やかなものを行く。礎石のみの大日如来を脇に見て、徐々に急登となっていく。まず行き着くコブには八幡神というのを祀る小さな祠がある。これを下ると右手には麓の田圃が昼下がりの日に輝いているのが見渡せる。しかしこの季節にしては日差しが強い。左手、北斜面からはひんやりとした空気が漂い登ってくるのだが、そちら側は概して木々で遮られ空気の通りが悪く、見晴らしの良い右手の南方から暖められた空気が上昇してくる。おかげでTシャツ一枚で登っているというのに汗が予想以上に出る。
天狗岩ら俯瞰する大黒岩基部
天狗岩から俯瞰する大黒岩基部
岩室、高社山の奥の院
岩室、高社山の奥の院
胴結場から約半時、正面に4,5メートルの鎖場が目にはいるところで左手を見上げれば、入り口を木枠で補強した岩窟が大きな口を開けている。これが高社の岩室で、案内板があって「奈良、平安の昔から高社山お山そのものを神体として崇め薬師如来を祀り岩屋を奥の院とした」とある。岩室が今日のように広げられたのは明治の初め、御嶽行者の労苦によるものともあるが、その時期は廃仏毀釈運動が盛んであったはずで、これを拡張した人はどういう状況でノミを振るったのだろうと思う。
この岩室の直下はいわば十字路になっており、山腹に向かって伸びる細い踏み跡がある。これは天狗岩と呼ばれる岩へのもので、やや足場が悪いなかをワイヤーロープを掴みつつ行けば、2分とかからず見晴らしの良い岩場に出る。気を抜くと真下に転落していってしまう急峻さなので、見渡す眺めは大きい。いくつもの紅葉の尾根が里へと下って田畑のなかに消えていき、その向こうには一筋の川が銀の帯となって山を取り巻く。
左手すぐ近くの尾根の中頃にあって鋭く牙を剥くような岩は大黒岩と呼ばれるものらしいが、その基部に突き立つやや小振りの岩塔はエジプトかメソポタミアの神殿にありそうな石像のようだ。犬かカラスに見える頭をした神が凍り付いたような笑いを浮かべて王座に浅く腰掛けている。自分の足下の横には大岩をくりぬいて小さな祠が設置されており、その手前に立てられた鉄製の赤い、これまた小振りな鳥居と、その上の岩から垂らされた紫の布が、灰色の岩の前に鮮やかに映えている。


岩室からしばし登って着くコブはこれまた大きな祠を乗せている。科野地区で祀る御嶽の祠らしい。これでもかとばかりに随所に信仰の跡を配し、高社山はまさに神域というにふさわしい。ここから一直線に伸びた山道の彼方に山頂が見える。平坦な道のりを行くかのようで楽に着くかと思ったら、直下ではやや息が切れた。山頂へは岩室から半時弱ほどだった。
岩室の上のピークより高社山頂を望む、背後は焼額山
岩室の上のピークより高社山頂を望む、背後は焼額山
山頂より五輪山(左)、横手山、笠ヶ岳を望む
山頂より五輪山(左)、横手山、笠ヶ岳を望む
展望台もあれば複数の祠、記念柱も1,2本では済まない賑やかな頂だが、すでに午後3時近くなので人間は誰もいない。眺めは広大だ。手前のコブから目立っていたが、ここでもまん丸な頭を突き出す志賀の笠ヶ岳が顕著だ。その横にはゆったりとした背を伸ばす竜王山、焼額山が大きい。展望表示板によれば岩菅山も望めるようだが本日はガスで見えない。代わりと言ってはなんだが高標山の上に鋭い頂を二つ突き出す鳥甲山を仰げるので不満はない。
沸かした湯でコーヒーを入れながらさらに展望を愉しむ。斑尾山の上に雲で隠れていた妙高山が再び姿を現し、北信五岳が勢揃いしている。空気が澄んでいれば北アルプスの連山も見られるそうだ。眺めに浸っていると夜間瀬スキー場側から小学生くらいの子供を連れたお年寄りのご夫婦が上がってきた。どうもお孫さんらしく、まずは祠に向かって手を合わせるよう諭していた。山頂からはこの3人が上がってきた道の他にも、北西に続く幅広のものもある。先ほどの胴結場からも赤岩登山口近道なるものや、一杯清水を経ていくものなどがある。高社山は独立峰でもあることから周辺の人たちに親しまれている山なのだろう。


夜間瀬スキー場に下る山道に入ると、わずか15分ほどでスキー場の上辺に出る。あとはゲレンデ内を下っていくだけだ。前回訪れたときはここですでにかなり暗くなっており、踏み跡を探すことも難しかったため適当に下ったが、今回は比較的早い時間に下りだしたのでその踏み跡を見つけることができた。正面上空に見える志賀の山々を仰ぎつつゲレンデを下ること30分、最初の舗装車道に出た。
夜間瀬スキー場を下る 夜間瀬スキー場を下る
夜間瀬駅に向かう道すがら高社山を振り返る 夜間瀬駅に向かう道すがら高社山を振り返る
ゲレンデ末端から延びる舗装道沿いに歩いてもよく、途中のゲレンデを横切ってショートカットするもよく、とにかく下ると夜間瀬温泉とされる地域に出る。ここには右手のホテル敷地内に”遠見の湯”、左手やや奥に”日新の湯”と日帰り入浴施設がある。舗装道に出てから約10分、大きな車道との交差点に着く。ここに信州中野駅行きのバス停がある。
前回来たときは夜間瀬温泉に入ってのんびりしたため最後のバスが行ってしまい、夜間瀬駅まで近道を取りつつ40分ほど歩いた。今回は入浴をカットしたため間に合ったものの、待ち時間が30分以上あり、交通量もそれなりにあって落ち着かないたため、前回同様に夜間瀬駅まで行くことにした。そうであれば入浴してもよかったのだが、車道とはいえ坂道を温泉まで登り返す気力は残っていなかった。
2006/11/4

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