華西門(手前)と西北空芯敦

水原華城(二)韓国
父である荘献世子が凄絶な死を遂げたとき、正祖はわずか10歳だった。ときに殺人までおよぶ奇行を見せるとはいえ、正祖にとって荘献世子はよき父だったに違いない。父亡き後、正祖は政争に巻き込まれないよう政治的発言を控え、古学の研鑽に励んで自己の内に籠もることにより身の安全を図っていたが、祖父の英祖が没し24歳にして王座につくや、父を陥れた連中への仇討ちを開始したという。


しかし正祖は復讐のために王位についたわけではない。その治世はのちに文芸復興の時代と呼ばれ、朝鮮後期の文化的黄金時代とも評される。この時期を代表する人物が水原城を設計した丁若縺iチャンヤギョン)で、正祖より10歳若い。当時の、いわば現実的な改革路線を追及する考え方を「実学」と呼ぶらしいが、丁若繧ヘこの実学の最高峰と讃えられている。
その業績は多岐に渡る。農民が協同して農作業を行い、収益を分け合うという共同農場制度を提案したという事実一つとっても驚かされるが、国家運営に関する制度・法律を48巻の書物に整理し、刑罰に関する規範を30巻の書物にまとめるなど、生涯で500巻にも及ぶ書籍を執筆したという。その才は民衆に直接有益な分野にも発揮され、たとえば全国に天然痘が流行すると、適切な治療策を講じて既存の医学書に追記し、これが国中に行き渡って多くの患者を救うことになった。象牙の塔の住人ではなかったのである。
当時の朝鮮にはカトリックの神父など欧州の人物の往来もあり、西洋の文物が流れ込んでいた。丁若繧ヘ排外的な保守派人士と異なり、とくに天文、農政、地理、建築などの科学的知識に関心を持ったという。水原城の設計にも彼の知識と技術力が大いに活かされ、結果的に東洋的な城郭建築と西洋の科学的な技術との融合が果たされることになったようだ。大規模な土木工事を人力に頼るだけでは多大な工数と年月がかかる。そう考えた丁若繧ェ発明したのがなんと起重機である。加えて石と煉瓦を組み合わせて使うという新しい工法も編み出した。華城が3年かからずに完成したのは、民衆の負担を少なくしようと考えた丁若繧フおかげなのだった。
北西砲
北西砲
城の機能自体も、それまでの槍や剣に対するばかりでなく銃砲を防御するための構造ともしてあり、城郭施設も合理的に配置されていて実用性も十分という。朝鮮城郭史はまったく知らないのでこれらの評価をそのまま受け取るしかないのだが、実際に歩いてみて回ると、機能的な設備であることは疑いのないところだ。城壁に開いた銃眼も下方を向いたものと遠方(つまり地面に水平)に向いたものが交互に並び、楼には真下を向いた排水口のような穴もあるが、これはきっと爆弾を転がり落とすためのものだろう。城壁に深く切れ込んだ部分があるが、これは弓をつがえる場所だろうか。
他にもきっとさまざまな工夫がしつらえてあるのだろう。だが残念なことに、これらが華城独自のものなのか、すでに前時代の城から備わっているものか区別がつかないのだった。時代の古い城と比較してみたいところではある。


華城の城壁は八達山を越えて再び平地に下り、大門としては最も美しいと思われる華西門(冒頭写真)へと続いていく。ここから城の正門である長安門までの区間が、おそらく観光ツアーで最も歩かれるところだろう。以前に来たときもこの区間を歩いたのだった。だが二度続けて同じところを踏むのも工夫がないので、今回はこの区間だけ城壁の外側を散策することにした。
東北空心敦(* 本来は土偏に敦)
韓国唯一の煉瓦造円形構造物
やはり城は外から見上げるほうが堂々としたものを受ける。上にいるときは感じないが、じっさいにはかなり高い壁なのだ。しかし威圧感が続き、脇を自動車が行き交うのが楽しくないのか、連れは上に戻ろうという。なだめながら行くと、公園のようになった散策路の脇の屋台からよい匂いがする。
見れば、鯛焼きを売っている。昼とはいえ寒い韓国になんとも美味しそうな眺めだ。ひとつ買って食べてみよう。で、売り子の若い女性に身振りで値段をきくと200ウォンという。だが1,000ウォン紙幣を取り出しているのに鯛焼きを渡してくれない。よくわからなくて途方に暮れ、離れて立っている連れに助けを求めると、小銭を出せということじゃないか、と言う。財布から100ウォン硬貨二枚を取り出して渡すと、ようやく暖かいのを出してくれた。
この鯛焼きだが、どちらかというと金魚焼きと呼んだほうがよい大きさである。皮も日本のようにふっくらとしたものではなく、天ぷらのようにからっとしたものだ。三口くらいで食べ終わってしまうが、それでも餡がおいしくて、かなり満足した。(この鯛焼きだが、ソウルの町中でも売っていたので買おうとしたところ、5個セットで1,000ウォンでないと売れないと断られてしまった。)
しかし鯛焼きもさることながら、その隣の大鍋にまず日本では見られないものがどっさりと入っていたのには肝をつぶした。カイコのサナギを味付けしたものである(らしい)。繭玉ではない。茶色の三葉虫のミニサイズ。以前来たときにガイドさんから聞いた話だと、これを紙コップとかに掬って入れてもらい、食べるのだそうだ。しげしげと見てしまったからか.....そんな度胸は出てこなかった。


長安門から先、川が城内に流れ込んでくる。城壁はそのまま名も美しい華虹門という水門となり、水流のある夏場はかなり見応えがあるだろう。だが今は冬、流れも細く、周囲の草木も葉を落として寒々しい。ほぼここで城を半周したことになるので、西将台の観光案内所で連れが場所を聞き込んでおいた水原カルビの焼き肉屋に入って昼食とすることにした。
華虹門
こちらの焼き肉は脇役が圧倒的である。カルビのセットを2人前頼むと、キムチから始まって13品くらいの小皿が付き、とても食べきれない量で一人22,000ウォン(約2,200円)である。肉はあらかじめ味付けがしてあり、大きいのを店の女性がハサミでじょきじょきと小さくしては炭火焼きの網の上に並べてくれる。焼けたのをそのまま食べてもおいしく、サンチュに巻いて辛し味噌を付け、あわせて焼いているニンニクと一緒に食べても美味である。臭くなってもいいんだいいんだと言い合いながら、焼けて甘くなったニンニクを二人して一つ残らず食べてしまった。
水原カルビ
水原カルビ 小皿盛りだくさん
満腹になってふたたび城壁に上がる。ところどころの楼閣には、昔の衛視の格好をしたひとが立って行き交う人を眺めている。実は警備に当たっている人たちだったのだが、あれは写真を撮らせては代金を要求する人だよ(中国でえらい目に遭ったひとを見たことがある)と連れが言うので、警戒して近づかないようにしていたのだった。悪い人ではないと知っていればそれこそ写真のモデルになってもらったところである。


しかしさすがに歩けば長い。わたしたちも結果的に休憩込みで一周に四時間かかったが、みなまで歩くひとは少ないのではなかろうか。水門を越えて八達門に近づくころになると、地元のひとたちが散歩する姿のほうが目立つ。なかには小さな毛糸玉のような子犬を散歩させている家族連れもいる。思わず連れが構ってしまうと、まるで握手でもするようにじゃれついてくる。犬と飼い主に分かれたあと、連れが「あれはハナっていう名なんだよ」と言う。なんでそんなことがわかるの、と聞くと、だって韓国語で1はハナと言うでしょう、犬は”わん”と鳴くからね。
で、我が家では華城で出会った犬のことを、いまでもハナと勝手に呼んでいるのである。
ハナ!
ハナ!
2003/1/1

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