八達門

水原華城(一)韓国
城と言えば天守閣や石垣を思い起こす。これらはいわゆる城下町から仰ぎ見るものであり、そのなかで生活するといったたぐいのものではない。また、これら日本の城郭に曲線は少ない。石垣や屋根の反り返りに僅かに見られるくらいで、門にしても木造のせいか角張ったものばかりで、アーチ型のものなどまずないだろう。


そんな日本人の目で隣国である韓国の城を見れば、その異質さは際だつ。韓国のそれは欧州で見られるような城郭であり、本来は市街地を取り囲むものである。つまりcastleではなくfortressであって、首都ソウルにしても昔は城壁に囲まれていたのである。いまでは南大門や東大門のような旧市街地に入る門のみが城郭都市の名残をとどめている。
そのソウルから南に40Km、地下鉄で一時間ほどの水原市中心部には、世界遺産に登録までされた瞠目すべき城塞がある。それが1794年に築城を開始して2年8ヶ月で完成した水原城である。周囲5.7Km、随所に見張り台、砲台、暗門等を備えた城は機能美に溢れ、華城(ファソン)と呼ばれるのも頷ける。かなりの部分が時の流れと朝鮮戦争とで崩壊と消失の憂き目を見ていたようだが、1974年から1979年にかけて水原市により本来の姿に再建されたという。
水原華城
華城全体図(西将台近くにある案内図を撮影)
じつは、それまではとりたてて興味のなかった韓国に行く気になったのは、この華城の写真を見てのことだった。威風堂々たる門の前面に置かれた半月型の城壁(これのことを甕城というらしい)を見て、ぜひこの目で見てみたいと思ったのがきっかけである。それで連れともども「韓国の世界遺産を巡る旅」なるツアー旅行に申し込んで、華城を歩いてみたのだった。
だがしかしそこは団体旅行の悲しさ、歩けたのは城郭のごく一部だった。背後を振り返れば、城壁の並びは山の上にまで及んでいる。その山は高いものではなかったのだが、ぜひあの山を越えて城郭を一周し、ところどころに設けられている石造建築を見て回りたいとツアーの旗の後ろで思ったものである。よし次はフリーでソウルを訪問し、自力で水原を訪れよう。そう考えているうち一年が経ち、再び連れと一緒に韓国に行くことにして、ならば水原へ、というわけで華城を再訪することになったのだった。


韓国の交通機関は日本に比べてかなり格安だ。ソウル中心部から一時間も地下鉄に乗っていたのに1,100ウォン(約110円)しかかからない。水原駅から華城探索の出発点となる八達門まではタクシーで10分弱だが、初乗り150円くらいから始まって400円かからずに着く。物価がそもそも安いのだろう。
しかし表示がすべてハングルなのが困る。話すにしても二人して「こんにちは」「ありがとう」くらいしかしゃべれない。これでソウルを離れて大丈夫かと危惧していたが、幸いに水原までの地下鉄(1号線)は電車の行き先表示にSUWONと英語読みが併記されていたし、タクシーの運転手さんも八達門の韓国読み("パルタルムン")で意を汲んでくれた。
このタクシーだが、乗り場で車の脇に立ったからといってドアが開くわけではない。見ているとみな自分でドアを開けて乗り込んでいく。どうも一人客だと運転手の隣に乗り込むのが通例のようである。こちらはふたりなので後部座席のドアを開けてみると、なるほど、自動ドアではないのである。こちらから意思表示しないとタクシーにも乗れないわけだが、日本式に慣れた我々は「愛想がないね」みたいに思っていたのだった。
南砲楼を経て八達山へ
南砲楼を経て八達山へ
乗った車の運転手さんは初老のかたで、八達門行きを告げることができて安心していると、渋滞で進まない車の中でしきりに「トラブル?」と聞いてくる。事故でもあって渋滞しているのだろうか、もしや降りろと言っているのでは...とこちら二人で心配になってくる。ただでさえ親しみがなく感じているところに、そんなことを言われては....と思っていると、「トラブルフロムジャパン?」と言われて、ようやくtroubleではなくてtravelだとわかる。連れともども一安心。しかしbとvの音の区別は難しい。運転手さんにしても区別していたのかどうかは今となっては不明だが。
この方は日本の別府に行ったことがあるそうで、あちこちから湯気が出ている様を身振り手振りで表してはしきりに感心していた。韓国にも温陽温泉とかがあり、行ったことがあると言うと、あれはだめだ(別府とは比べものにならない)と肩をすくめる。前回韓国に来たときに添乗員の人から聞いた話では、箱根の大湧谷に韓国人を連れて行くとかなり驚くそうだ。地面から湯気やら煙やらが出ているのがかなり珍しいらしい。朝鮮半島にはそういう火山活動地域がないので(済州島は火山だが)、初めて雪を見る南国のひとのように驚異に思うのだろう。
これから華城を歩いて一周するんですよ、と連れが車のなかで身振りを交えて説明すると、very good!と褒められる。そんなうちに八達門の脇に到着。この脇の道から歩いていくんだよ、といったことを教えてくれつつ、どこまでも親切な運転手さんは駅前に戻っていった。


八達門(冒頭写真)は繁華街のなかに取り残されたような大門で、周囲は市街地開発により城壁が壊されてしまい復元は難しい状態になっているそうだ。すぐ近くに仰げる八達山に向かって行くと、上り坂になったところで城壁が現れる。ここからは軽いものとはいえ山登りだ。標高わずか143メートルしかない八達山だが、わたしたちにとっては2003年の登り初めである。どっしりとした砲楼を脇に見ながら階段の続く山道を上がっていく。地元の人か、ジョギングして降りてくる人もいれば、固まって下ってくる高校生くらいの一団もいる。城壁の向こう側にも踏み跡があって散策路になっているようで、壁に開いている銃眼からは壁にもたれてひなたぼっこをしている中年の女性や、背筋を伸ばしてストレッチをしている初老の男性の姿が垣間見えた。
八達山山頂の西将台
水原市街を望む(サッカー場方面)
なだらかな稜線に出てゆったりと行けば、同様に城壁巡りをしているひとたちと行き交う。なかには日本人の若者カップルや親子連れまでいる。比較的知られていないはずの華城だが、やはり歩いてみたくなる人たちは多いらしい。右手は山の斜面で、おそらく松だったか、常緑の木々が植えられているのも散策するひとたちを心安らげているようだ。八達山の最高点は名前の通り周囲の見晴らしのよいところで、水原市の展望台であるためか直下まで車道が延び、駐車場に売店、レストハウスに観光案内所まである。しかし本日は人の数は多くなく、おちついて周囲を眺めることができた。
ここからは高層団地群が立ち並ぶ市街地が一望にできる。2002年ワールドカップでも使用されたサッカー場も遠望できれば、ゴシック様式かとみまがうキリスト教の大きな教会建築も間近に見られる。この眺めのなか、水原華城の城郭がところどころに大門や砲台などをアクセントに置きながら延々と延びている。


この華城が築かれたのは、李氏朝鮮第二十二代国王である正祖が亡き父への思慕を高じさせてのことだった。若くして悲劇的な死を迎えた父の遺骸を、風水で最も優れるとされた水原に移し、さらにはその墓のそばに住みたいという願望から築城が始まったのである。韓国では、正祖は歴代の王でも最も親思いの王であるとして有名らしい。儒教精神が強く残る国では正祖は子の鑑のようだ。
正祖の父は荘献世子といい、諡号を思悼とされた。わずか27歳で没したが、その死に方は尋常ではなかった。実の父親である時の国王に米櫃に閉じこめられ、飢えと渇きで絶命したのである。この米櫃というのは、ひと一人くらいが入れる長方形の箱のようなものらしい。1762年のことだが、なぜそんなことが起こったのだろう?
蒼竜門付近より八達山を望む
蒼龍門付近より八達山を望む
荘献世子の父、つまりは華城を築城した正祖の祖父は英祖といい、李氏朝鮮の第二十一代国王である。1724年に即位してから1776年に世を去るまでの52年間、「党争」と呼ばれるいわゆる政権内の苛烈な派閥争いを抑えて王権を強化し、政局の安定に努めたという。その結果、同時期の朝鮮社会の発展を促し、たとえば残虐な刑罰の禁止と死刑囚への三審の実施による死刑執行の慎重化、一般庶民の軍役負担軽減による経済活性化、実学と呼ばれる新学問の広がりなど広い分野にわたって功績があった。ひとことで言えばきわめて有能な指導者であり政治家であった。
その英祖が健康上の理由から息子である荘献世子に代理聴政、要するに国王代行をさせたところから悲劇の幕が上がる。荘献世子はそのとき14歳、聡明さは幼時より評判だったそうだが、おそらくは若さのせいもあってか、魑魅魍魎の跋扈する政界にあって賢明さを欠いていたらしい。父王の代理を始めてから派閥の道具として狙われ、逆にその対抗派閥からは父である英祖との仲違い工作をしかけられ、そのたび英祖から幾たびも叱責を受けたという。王座にあって自己の意志を通すに命がけの毎日を過ごしてきた英祖にあっては、息子の不甲斐なさが実際以上に目に映ったのではなかろうか。
こうして世子は、徐々に精神のバランスを崩していってしまったらしい。父王の許可を得ずに勝手に地方巡行にでかける、宮廷を抜け出して問題を起こす、官女を何人も殺す。そんな世子の息の根を止めたのは、父子を離反させようとした派閥から英祖に提出された讒言だった。これを目にした英祖は、息子に対する積年の不満が一挙に爆発したらしく、英明な国王の風格をいっとき失い、事実をよく調べもせず世子に対して自決を命じたのである。世子はこれを拒否した。そこで英祖は、宮殿の庭に米櫃を持ち出させて実の息子を押し込め、水も食料も与えずに放置したのである。暗く息苦しい箱のなかで世子が死んだのは、監禁されてから8日目のことだった。
(続く)

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