福沢諭吉(1834−1901)


1)独立自尊の気概

『学問のすすめ』
「一身独立して、一国独立す。」
「国の文明は形のあるもので評価してはならない。学校とか、工業とか、陸軍とか、海軍とかいうのも、これらはすべて文明の形である。これらの形を作るのは難しくはない。金を出せば買えるのだから。
 ただ、ここに形のないものが一つある。
 これは、目で見えない、耳に聞こえない、売り買いもできない、貸し借りもできない。しかし、国民の間にまんべんなく存在して、その作用は大変強い。これがなければ、学校その他の形あるものも、実際の役には立たない。真に「文明の精神」と呼ぶべき最も偉大で、最も重要なものなのだ。
 では、そのものとは何なのだろうか? 「人民独立の気概」である。
 …」
「第一条。独立の気概がない人間は、国を思う気持ちも浅い。
 独立とは、自分の身を自分で支配して、他人に依存する心がないことを言う。自分自身で物事の正しい正しくないを判断して、間違いのない対応ができるものは、他人の知恵に頼らず独立していると言える。自分自身で、頭や体を使って働いて生計を立てているものは、他人の財産に依存せず独立していると言える。…
 第二条。国内で独立した立場を持っていない人間は、国外に向かって外国人と接するときも、独立の権理を主張することができない。
 独立の気概がない者は、必ず人に頼ることになる。人に頼る者は、必ずその人を恐れることになる。人を恐れる者は、必ずその人間にへつらうようになる。常に人を恐れ、へつらう者は、だんだんとそれに慣れ、面の皮だけがどんどん厚くなり、恥じるべきことを恥じず、論じるべきことを論じず、人を見ればただ卑屈になるばかりとなる。いわゆる「習い性となる」とはこのことで、習慣となってしまったことは容易に改められない。…
 第三条。独立の気概がない者は、人の権威をかさに着て悪事をなすことがある。
 …」
(斎藤孝訳)

「痩我慢の説」
「立国(国を建てること)は、私である。公ではない。
 地球上の人類が、山や海の自然の境界に隔てられて、各地域に集まったり別れたりしているのはやむを得ないことだが、各地域でそれぞれ衣食を供給できるならば、それで生活できる。
 もし、各地域に余りや不足があれば、互いに交易すればよい。天が与えた恩恵により、耕し、食べ、物を作って使い、また交易して豊かな生活を送る。人生の望みは、これ以外にはない。どうして人の手によって国を分け、人工の境界を定めなければならないのだろうか。
 人は国を建て、隣国と境界を争ったり、隣国の不幸を顧みず自国の利益をはかろうとする。また、国に一人の首領を立てて君主として仰ぎ、その君主のために多くの国民の生命財産を失わせる。一国の中でもいくつもの小地域が分立し、その地域ごとに一人の主君をもち、彼に服従して隣の地域と競争して利害を争ってさえいる。
 これらはすべて人間の私情(個人的な感情)から生じたもので、自然の公道ではない。
 しかし、人類が誕生して以来の世界の歴史を見ると、それぞれの人種が分かれて民族を作り、その民族の間では言語文字を共通にしている。民族は、共通の歴史や言い伝えを持ち、民族間で婚姻関係を結び、交際してともに親しみ、飲食や衣服の習慣も同じである。民族として、こうした苦楽を共にする歴史的経験があれば、もはや離散することはないだろう。それが、国を建て、政府を作った理由である。
 いったん国を建てると、人々はますますそれに固執し、自国と他国の区別をはっきりと意識するようになる。他国、他政府の不幸な出来事にはまったく痛みを感じないようになり、陰に陽に自国の利益や栄誉を主張すようになる。
 こうした主張の最も盛んなものを、「忠君愛国」と称し、国民の最高の美徳とすることは、まったく不思議なことである。
 忠君愛国は、哲学流に解釈すればまったく人類の私情だが、今日までの世界では、これが美徳とされている。
つまり哲学上の私情は、立国の正義である。この正義が公認されるのは、ただ一国に限らない。その国に多くの小区域があれば、その区域ごとに特定の利害があり、外に対しての私情が内では正義だと認められている。
 たとえば、西洋諸国が互いに対立し、日本と中国、朝鮮が国を接して互いに利害を異にしているのは当然のことである。日本でも、封建の時代に幕府のもとに三百の藩が分かれ、各藩が相互に自分の利害や栄誉を重んじ、少しも他藩に譲歩することはなかった。その競争のあげく、他を攻撃してでも、自藩の利益をはかろうとしていた。これを見ても、私情が正義となっていたことが証明される。
 国を建て、政府を作った後は、平時においてはたいした苦労もない。しかし、時勢が変化するに従って国には盛衰がある。
 国が盛衰に向かう時は、それを押しとどめることができない。しかし、廃滅する運命がすでに明らかであっても、万一の僥倖(ぎょうこう)を期待して屈せず、実際に力が尽きるまで倒れないというのは、人情によってそうなるのである。
 それは、たとえて言えば、父母の大病の際、回復の望みがないことを知りながら、実際に臨終に至るまで医薬の手当てをするようなものである。
 これも哲学流に言えば、死にゆく病人であれば、望みのない回復をはかろうとして無駄に病苦を長引かせるよりも、モルヒネなどを与えて臨終を安楽にする方が賢い。しかし、子として考えれば、奇跡的に助かることを期待することはあっても、ことさらに父母の死を早めることは情において忍びないのである。
 そうであれば、自国が衰退に向かう時、敵国に対し勝算のない場合でも、力の限りを尽くして戦う。いよいよ敗北が眼前に迫った時、はじめて講和を考え、また死を決意するのは、立国の正義であって、国民が国に報ずる義務である。
 これが俗に言う痩我慢(やせがまん)である。
 強い者と弱い者が対峙して、弱者が地位を保つことができるのは、この痩我慢があるからである。ただ、戦争の勝敗だけに限らず、通常の国交においても、痩我慢ということは、決して忘れることはできない。
 ヨーロッパでは、オランダやベルギーのような小国が、フランス、ドイツの間にあって小さな政府を維持している。大国に合併する方が安楽だろうが、なお独立を保っているのは小国の痩我慢であって、よく我慢して独立国の栄誉を保っていると言うべきだろう。

 このように、痩我慢の主義は、人の私情から出るものである。冷たい数理だけの世界で論じれば、ほとんど児戯に等しいと言われても仕方がない。しかし、世界古今の歴史において、国家を正義とし、これを維持保存しようとするのであれば、この主義に依らない者はいない。

 二十余年前、日本において王政維新の事が起った。その時、不幸にもこの大切な痩我慢の大義を害したことがあったのは残念なことだった。
 徳川家が滅亡に瀕した時、家臣の一部分がもはや抵抗しがたいことを悟り、敵に向かってまったく抵抗することなく、ただひたすら講和を求め、自ら家を失わせた。これは、日本の経済においては一時の利益をなしたが、数百年の間養ってきた我が日本武士の気風を傷つけた不利益は決して小さなものではない。利益よりも損害の方が大きいと言える。

 おそらく勝氏は、内乱をこの上ない災害で無益の浪費だと考え、味方に勝算がない限りはすみやかに講和して事を治める方がよい、という計算をしたのだろう。勝氏は、主君の安危や外交上の利益を理由にする。しかしその心の底を覗いて見れば、人事国事に痩我慢は無益だと考え、古来日本国の支配者階層が最も重んじた一大主義をどさくさに紛れて誤魔化(ごまか)したのである。こう評しても、勝氏はこれに答えられないだろう。
 その場限りの強がりは臆病な者を驚かせる。一場を誤魔化すための詭弁(きべん)でも、若い者の心を篭絡(ろうらく)することができるだろう。しかし、見る眼がありも物がわかった者を欺(あざむ)くことはできない。
 当時、弱体化した幕府に勝算がないのは、私も勝氏と同じく知っていた。しかし、士風維持の観点から論じれば、国家存亡の危機が迫っている時は勝算の有無を論じている場合ではない。必ず勝つという戦いに敗れ、負けを覚悟した戦いに勝つ事例も少なくないのである。
 それなのに勝氏は、最初から負けると思い、まだ実際には負けていないのに、自分から主家の大権を投げ捨て、ただ講和を結ぼうと努めたのである。それは兵乱の際に多くの人命や財産を失わせる災禍をを軽くしたかもしれないが、立国の要素である痩我慢の士風を傷つけたという責めは負わなければならない。
 殺人は一時の災禍であり、士風の維持は万世の要である。その万世の要を売って一時の災禍を防ぐのは、その功罪は償われたと言えるだろうか。これは容易に断定できる問題ではない。

私は勝氏個人のために惜しむだけではなく、武士社会の倫理のためにも深く悲しむものである。」
(山本博文訳)

「痩我慢の説」(1991明治24年)は、江戸城を無血開城し、徳川幕府を終わらせた勝海舟、及び、
函館の五稜郭で最後まで新政府に抵抗した榎本武揚を批判した、激烈な文章である。
その主張の眼目は、新しい国家を支えていくものは、古い武士道に基づく痩せ我慢の精神だという点にある。
痩せ我慢の精神を貫いて、なぜ最後まで戦わなかったのか、また、なぜその後新政府の役人になったのか、と
勝と榎本に問いかけることによって、あるべき個人の倫理の姿を世に示している。
冒頭の「立国は私事であり、公ではない」という逆説(選挙に行ったり税金を払ったりするのは、普通は私事とは言われない)は、
自分の利益に関わることを「私」といい、「自然の公道」つまり理性(真理)や正義に基づくことを「公」と呼ぶことから来ている。


2)権力の偏重
『文明論之概略』から
(そのうち書きます)


付録1―忠臣蔵への批判

『学問のすすめ』から
「浅野家の家来共どもこの裁判を不正なりと思わば、何が故にこれを政府に訴えざるや。四十七士の面々申合せて、各々その筋に由り法に従って政府に訴え出でなば、固より暴政府のことゆえ最初はその訴訟を取上げず、或いはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしと雖ども、仮令い一人は殺さるるもこれを恐れず、また代りて訴え出で、随って殺され随って訴え、四十七人の家来理を訴えて命を失い尽くすに至らば、如何なる悪政府にても遂には必ずその理に伏し、上野介へも刑を加えて裁判を正しうすることあるべし。かくありてこそ始めて真の義士とも称すべき筈なるに、嘗てこの理を知らず、身は国民の地位に居ながら国法の重きを顧みずして妄に上野介を殺したるは、国民の職分をも誤り政府の権を犯して私に人の罪を裁決したるものと言うべし。」

付録2―心訓

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕し決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、すべての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しいことは、うそをつく事です。

福沢諭吉の作として広まっているこの「心訓」が、実際には福沢諭吉の作でないことは周知の事実ですが、
そうした事情については、↓の『福沢諭吉は謎だらけ。』でも詳しく書いています。


読書案内
斎藤孝訳 『文明論之概略』(ちくま文庫)
斎藤孝訳 『学問のすすめ』(ちくま新書)

福沢諭吉は、現在でも読む価値のある、日本最大の啓蒙思想家。代表作は上の二冊。大学生なら現代語訳で読めばよいと思う。
伊藤正雄訳『現代語訳 文明論之概略』(慶應義塾大学出版会)
も詳しい注と解説がついていて、読み易い。

山本博文訳『福沢諭吉 幕末・維新論集』(ちくま新書)
江戸時代の武家社会の実情を描いた「旧藩情」、勝海舟と榎本武揚を批判した「痩我慢の説」、西郷隆盛を論じた「明治十年丁丑公論」、「士人処世論」の四編を収めている。
福沢諭吉『福翁自伝』(岩波文庫)
生き生きと描かれた自伝。現代語訳もあるが、口語体だし、原文でも読めるだろう。
大阪でオランダ語を学んでいた若き日の福沢が、横浜に行っても全く言葉が通じないことにショックを受け、
辞書などもほとんどないのに、独学で英語を学ぶ決心をする辺りの話を読むと、この人は偉いなあと素直に思えるだろう。
清水義範『福沢諭吉は謎だらけ。』(小学館)
「心訓小説」という副題のある、ミステリ仕立てのエッセイ。基本的な知識は得られる。最初の二章は、さらさらっと読むのも可。


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