親鸞(1173-1262)


『歎異抄』

第一条
弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をば遂ぐるなりと信じて
念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、
すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃく)の利益(りやく)にあずけしめ給ふなり。
弥陀の本願には老少・善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆへは、罪悪深重(ざいあくじんぢゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじゃう)の衆生を助けんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる べき善なきがゆへに。
悪をもおそるべからず、 弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきゆへにと云々。

第三条
(悪人正機説)
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを、世の人常に曰く、「悪人なを往生す、いかにいはんや 善人をや。」
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。
そのゆへは、自力作善の人は、ひとえに他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願に非ず。
しかれども、自力の心を翻して、他力を頼みみたてまつれば、真実報土(ほうど)の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死(しょうじ)を離るることあるべからざるを憐れみ給いて願をおこしたまう本意、
悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。

第九条
「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくくわんぎ)の心おろそかに候こと、
また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」
と申しいれて候ひしかば、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)、同じ心にてありけり。
よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを、喜ばぬにて、
いよいよ往生は一定(いちじょう)思い給うなり。
喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為(しょい)なり。
しかるに仏(ぶつ)かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、かくの如し。我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、
死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫(くおんごう)より今まで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨てがたく、
いまだ生まれざる安養浄土(あんようじょうど)は恋しからず候こと、
まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候にこそ。
名残惜しく思へども、娑婆(しゃば)の縁つきて力なくして終わるときに、
かの土(ど)へは参るべきなり。
急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみ給うなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定(けつぢやう)と 存じ候え。
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、悪しく候いなまし」と云々。

(引用は、梅原猛『歎異抄』(講談社文庫)から。適宜改行し、一部、漢字に改めた。


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