ジャーナリズムの倫理


写真家の仕事―ケヴィン・カーターの場合

ケヴィン・カーターは、「ハゲワシと少女(Sudanese Girl and Vulture)」の写真によって有名な、南アフリカの写真家である。
1993年3月に「ニューヨーク・タイムズ」の一面に載ったこの一枚の写真は、大きな反響を呼んだ。
スーダンは長く続いた内戦によって荒れ果てていたが、政府の政策のせいで、その事実は殆ど知られていなかった。
地面に突っ伏しているやせ細った少女の背後でハゲワシが少女の死を待っている―ように見えるこの写真は、スーダンの悲惨な現実を雄弁に語っている。
多くの人がこの写真を見てショックを受けた。
それはスーダンへの善意の援助を促す結果にもなったし、写真家にも翌年のピュリッツアー賞受賞という栄誉をもたらした。
しかしそれと同時に湧き起こったのは、写真家への非難の声であった。
写真を掲載した新聞社には、「少女は無事だったのか?」、「この写真を撮った写真家は少女を助けなかったのか?」という問い合わせの電話が相次ぎ、
新聞社は後日、これに関する声明を発表しなければならなかった。
これは「報道か救助か」というジャーナリズムの本質に関する議論を巻き起こした。
ジャーナリストは事実をそのまま伝えることが仕事であって、カーターが写真を撮ったのは正しいという意見もあれば、
人を助けなければならない状況では、写真なんか撮らないという写真家たちの意見もあった。
そしてこの騒ぎの結末は、ピュリッツアー賞受賞式翌々月の、ケヴィン・カーターの自死であった。

では事実はどうだったのか、次の二つの発言を読み比べてほしい。

柏倉康夫『マスコミの倫理学』(丸善)
「私はそこから食料センターまで歩いていき、そこでもやせ細った大勢の子どのたちを見ました。…
「私はもう我慢ができなくなり、砂漠に入っていきました。そして村から五〇〇メートルほど離れた場所で、一人の少女に出会いました。少女はやせ細ったか細い足で歩いていました。ひどく飢えている様子でしたが、他の子どもたちより増しでした。一度に二、三歩しか歩くことができず、すぐに立ち止まってはうずくまってしまいます。」
「少女のすぐそばに禿鷲がいたのです。その子に向かって飛び跳ねて近づいてきました。これはみなさんにとっては少し理解し難いことかもしれませんが、私の本能が私に写真を撮れと命じたのです。
「私は禿鷲を刺激しないように気を遣いました。自分が一番いいと思うアングルになるまで近づいていきました。そしてしゃがみこんで何枚か撮りました。…一五分、二〇分、私は禿鷲が翼を広げるのをひたすら待ち続けました。…私は起き上がると、急に怒りを覚え、禿鷲を追い払いました。禿鷲は飛び去りました。私は少女が無事でいるかどうか確かめてみました。私が禿鷲を追い払ったとき、彼女は動き始めました。彼女は立ち上がり、食料センターのほうへ歩き始めました。
 このあと私はとてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情がわき起こってきました。…
 私は祈りたいと思いました。神様に話を聞いてもらわなければならないと思いました。そしてこの場所から私を連れ出し、私の人生を変えてほしいと神様にお願いしたかったんです。私は近くの木陰へ行って泣き続けたことを告白しなければなりません」

藤原章生『絵はがきにされた少年』(集英社)
「時間は三十分しかない。だから、俺たちは走り回ってた。村々に食料を届ける国連機、オペレーション・ライフライン・スーダンっていうやつ、聞いたことあるだろ? それに乗れるっていうんで、俺はケビンを誘っていったんだ。あのころ、あいつ、もう生活が完全に破綻してて、アルバイトでやってた深夜のディスクジョッキーの仕事も、トークラジオの仕事も契約が取れなくて、離婚もしてて、まともに食えなくて、変な女につかまって、麻薬づけになってて、だから、『おい、ケビン、行くぞ、アフリカの真ん中、スーダンに行くぞ』って、引っ張っていったんだ。あいつ、質に入れてたから、手元にカメラもなかったんだ」
「ケビンが撮った子も同じ、母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま神さまがケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ、あいつの目の前に。あいつ? あの時、カメラ、借りてきたやつだから、180ミリレンズしか持ってなかったんだ。だから、そーっと、ハゲワシが逃げないように両方うまくピントが合うように移動して、一〇メートルくらい? それくらいの距離から撮ったらしい。で、何枚か撮ったところで、ハゲワシは、またすーっと消えてったって」

ハゲワシと少女

→ウィキペディアの「Kevin Carter」の頁


ウィキリークスはジャーナリズムなのか犯罪者集団なのか?
(略)


→倫理の公民館

→村の広場に帰る