ホッブズ
Thomas Hobbes ( 1588-1679 )


  1. 自然―原子論と機械論; 『物体論』
  2. 人間―感覚論; 『人間論』
  3. 社会―自然状態と社会契約; 『リヴァイアサン(Leviathan)』

中世のキリスト教道徳と絶縁し、新たな観点から法と道徳を基礎づけたのが、ホッブズである。
ホッブズによると、人間は、自己保存の欲望(コナトゥス)によって動かされる、利己的存在である(注)が、その自己保存のために、法と道徳を必要とするのである。

(注)ホッブズによれば、人間の全ての行為は、利己的なものである。例えば、「慈愛(隣人愛)」と呼ばれるものは、「自分の欲望を満たすことが出来るだけでなく、他人の欲望を満たす手助けをすることが出来るという、自分の力」を実感したいという利己的行為である。しかし当人はそれが、「隣人愛(=自分は利己主義者ではない)」という、自分にとって好ましい動機に基づく行為であると理解(誤解)し信じたがるのである。

1)感覚論 外界の影響によって、われわれのコナトゥス(存在性、生活力)が増大するとき、快の感情が生じ、減少するとき、不快の感情が生ずる。
この快をもたらすものが、善であり、不快をもたらすものが、悪である。
But whatsoever is the object of any mans Appetite or Desire; that is it, which for his part calleth Good : And object of his Hate, and Aversion, Evil ;
( Leviathan. Chap.6)

2)善悪の基準 しかし、外的対象の善悪は、それを欲求(または嫌悪)する個人との関係によって決まるので、全ての個人に共通する一般的な善悪の基準は存在しない。
従って、善悪の一般的基準は、「自然法」(=「理性」)を介して、結局は、国家とその法に求められる。

「自然状態においては、各人それぞれが、自分の裁判官である。そこでは、事物を指示する名辞や形容詞が各人各様で、ここから人々の間に数々の争いが生じ、平和が破壊されてしまう。だからこそ、論争の的になるような事柄のすべてにわたって共通の基準が必要になる。例えば、正義、善、美徳と呼ばれるものや、物が多いとか少ないとかいったこと、何が我のもので何が汝のものか[所有権]、ポンドやクオーターといった目方などについては、争いが絶えない。これらの事柄に関しては、人によって判断が異なるゆえにすぐさま論争が始まる訳である。ところで、「正しい理性」こそが、これらの論争を裁定する共通の基準だと言う人々がいる。もしも自然の事物の中に正しい理性なるものがあることがはっきりしているのであれば、私もこのような主張をする人々に同意するのに吝かではない。けれども、争いに決着をつけるために正しい理性なるものを持ち出す人々は、結局のところ、自分の理性を正しい理性と呼んでいるのが普通である。正しい理性と呼ばれるものなど、実は存在しない。だから、誰かの理性、一定の人々の理性が、正しい理性の代役を果たさなければならない。そして、主権を有する人ないし人々の理性こそが、その適役であることははっきりしている。……このように、国の法律は、人々の行動の共通規範である。人々は、この国の法律に照らして、自分の行動が正しいか間違っているか、得をするのか損をするのか、有徳か悪徳かを判断しなければならない。言葉の意味に共通の合意がなくて、しばしばそれに関して論争が生じている場合、これに確固とした定義を与え、その用法を定めるのも国の法律に他ならない。例えば、通常の姿態とはかなり異なった子がたまたま生まれた場合、これを人とみなすべきかどうかを決するのは、アリストテレスのような哲学者ではなく、法律なのである。」(『法学要綱』 引用は、リチャード・タック『トマス・ホッブズ』(田中浩・重森臣広訳)未来社 から)

3)自然状態
自然状態は、以下のような、暴力と恐怖の無政府状態であるから、各人は自分を守るためには、自然権を棄てて、契約によって絶対的な権力の支配下にある国家状態に移行せざるをえない。

「自然の権利(自然権)とは、各人が自分自身の自然すなわち自分自身の生を維持するために、自分の欲するままに自己の力を用いるという、各人が持つ自由である。」
The Right Of Nature, which Writers commonly call Jus Naturale, is the Liberty each man hath, to use his own power, as he will himselfe, for the preservation of his own Nature; that is to say, of his own Life; and consequently, of doing any thing, which in his own Judgement, and Reason, he shall conceive to be the aptest means thereunto.
( Leviathan. Chap.14)

「全ての人を威圧しておく共通の力を持たずに生活している間は、人々は戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そしてかかる戦争は、各人の各人に対する戦争なのである。」
Hereby it is manifest, that during the time men live without a common Power to keep them all in awe, they are in that condition which is called Warre; and such a warre, as is of every man, against every man.
( Leviathan. Chap.13)

「自然法とは、理性によって発見される戒律または一般法則であり、これによって人は、自分の生命を破壊したり、あるいは自分の生命を維持する手段を奪い去ることを禁じられ、また、生命を維持するのに最も良いと思うことを避けることを禁じられるのである。」
A Law Of Nature, (Lex Naturalis,) is a Precept, or generall Rule, found out by Reason, by which a man is forbidden to do, that, which is destructive of his life, or taketh away the means of preserving the same; and omit, that, by which he thinketh it may be best preserved.
( Leviathan. Chap.14)


「武力をもった権威者による裁定は、全般的に暴力を減らす手法として、これまで考案されたなかでもっとも効果的であるらしい。…国家成立以前の社会で殺人の発生率が衝撃的に高く、男性の一〇から六〇パーセントがほかの男性の手にかかって死んでいるという事実がその一つの証拠になる。…
 逆もまた真で、法の執行がなくなると、あらゆる様式の暴力が発生する。…ロマン主義の一九六〇年代、誇りにできるほど平和なカナダでティーンエイジャーだった私はバクーニンのアナーキズムを熱狂的に信奉していた。そして、もし政府が武力を捨てれば大混乱が起こるという両親の意見を笑いとばしていた。私たちの対立する予測が検証されたのは、一九六九年一〇月一七日午前八時、モントリオール警察がストライキに入ったときだった。午前一一時二〇分に最初の銀行強盗が起こった。正午には略奪のためにダウンタウンの商店が閉まった。それから二、三時間にうちに、タクシー運転手たちが、空港利用客をとりあう競争相手のリムジンサービスの車庫を焼き払い、州警察の警官が屋上から狙撃され、数件のホテルやレストランが暴徒に襲われ、医師が郊外の自宅で強盗を殺害した。その日は結局、銀行強盗が六件、商店の略奪が一〇〇件、放火が一二件あり、割れたショーウインドーのガラスが積荷にして車四〇台分、物品損害額が三〇〇万ドルで、市当局は軍隊と騎馬警察隊の出動を要請して秩序を回復しなくてはならなかった。…」
スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』 (山下篤子訳) 第17章 暴力の起源 より


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