ハイデガー
Martin Heidegger(1889-1976)
―なぜ、有るものがあって、無ではないのか?


「哲学とは、いつも同じところを掘り返している道路工事のようなものです。それは、しかし、年度末に予算を消却するためにではありませんが。」(偽ハイデガー)
というわけで、現在工事中です。
今のところは、『三十分でわかるドイツ哲学』のハイデガーの個所で許してもらえますか。
(と言いながらも、暇な時、少しずつ書いています。)

 さて二十世紀のドイツ哲学といえば、まずハイデガー(1890-1976)だ。ハイデガー哲学のテーマは、ただ一つ、「存在」である。平たく言えば「ある」とは何か、である。「ある」ものが何か、ではない。ここは要注意。「ある」もの(=存在者)と、「ある」という事柄(=存在)とは、厳しく区別しなければならない。この二つを混同して、その上、精神ではなく物の存在を、「存在」の意味だと考えしまうと、「ある」という事柄が誤解される、とハイデガーは言う。むしろ「存在」とは、全ての「あるもの」をあらしめている働きである。(この働きの根源を、中世の神学者たちは「神」と呼んだ。)
 次に「ある」という言葉には、本屋さんに本「がある」という意味の「ある(現実存在existence)」と、これは万引きしてきた本「である」という意味での「ある(本質存在essence)」という二つの意味がある。(あちらの言葉では両方ともbe動詞。)哲学の歴史は、「何であるか」という本質存在だけを重視することによって、本当の「ある」の意味を平板化してきた、とハイデガーは言うのである。「存在」というこの単純で壮大な問いを、『存在と時間』を書いていた「前期」のハイデガーは、唯一「ある」ことの意味を問うことができる、人間の存在(=現存在)を通路にして、解明しようとした。おまけに前半しか書かなかったものだから、ハイデガーは「実存主義」だと誤解された。当然である。しかし「後期」のハイデガーは、オーソドックスな哲学のテキストを天才的な仕方で「解釈=改釈」することによって、哲学の歴史そのものを解体し再構築する作業に従事していたのであった。その影響力は今なお大きい。

→足元存在に関する現象学的考察


『存在と時間(Sein und Zeit)(1927)より

§1 存在への問い
「「存在」は自明の概念である(、と思われている)。どんな認識にも、どんな言表にも、また存在者に対してどのように振る舞い、自分自身にどのような態度をとろうとも、「存在(ある)」(という言葉)が用いられており、その際この表現は「何事もなく」理解されている。「空が青い(=青くある)」「私は嬉しい(=嬉しくある)」ということを誰でも理解する。しかしこの普通の解りやすさは、解りにくさを証明しているにすぎない。…我々はすでにその都度何らかの存在了解(理解)のうちで生きており、(しかも)それと同時に存在の意味は闇に覆われている。このことが「存在」の意味への問を繰り返さねばならない原理的な必然性を証明している。」

§12 世界内存在
「こうした現存在(Dasein)(*)の存在規定は、我々が世界=内=存在(das In-der-Welt-sein)と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない。…
〔それには、
1)「世界の中に」(→世界の世界性)、
2)「世界内存在」である存在者(→日常的現存在)、
3)「内=存在」そのもの、
という三つの観点がある。〕

内=存在とはどういうことか?〔それは通常「コップの中の水」「戸棚の中の服」というような空間的関係として理解されている。こうした物体的存在の空間的位置関係は、カテゴリー(存在範疇)的存在性格に属し、現存在的でない存在者の特徴である。〕
これに対して、内=存在(In-Sein)というのは、現存在の存在体制の一つを指していて、一つの実存範疇である。そうだとすれば、それはある物体的な事物(人体)が、ある事物的存在者の「なか」に事物的に存在しているというようなことではありえない。内=存在は、空間的な意味で一方が他方の「なか」にあるという関係を指すものではないし、「内」はもともと決してそうした空間的関係を意味するものではない。「内」(in)は≪innan-≫から派生した語で、これは「住む」(wohnen、habitare)、「滞在する」ことである。「において」(an)は、「私は…に慣れている」「私は…に親しんでいる」「私は世話している」ということで、habito(住む)やdiligo(大事にする)という意味でのcolo(耕す、世話をする)という意味を持っている。こうした意味での内=存在がそれに属している存在者を、我々は、私がその都度自らそれである存在者として特徴づけておいた。「(私は)ある」≪bin≫という表現は、「…のもとで」≪bei≫と関係がある。「私はある」≪ich bin≫もやはり、「私は住む、…に滞在している」つまり「かくかくしかじかに親しまれたものとしての世界に、住み、滞在している」ことを言う。「私はある」≪ich bin≫の不定形である、つまり実存範疇として理解された、存在(Sein)は、…に住む、…に親しんでいる、を意味する。内存在とは、従って、世界内存在という本質的体制を持つ、現存在の存在の、形式的、実存論的な表現なのである。」

(*)ハイデガーは人間を「現存在(Dasein=そこにある)」と呼ぶ。それは一面では、人間が、「そこ」に投げ出されている存在であるからだが、もう一面では、それだけが「存在(「ある」ということ)」の意味を理解している存在であり、存在の意味が現に顕かになる「そこ」であるからだ。
「現存在は、単に他の存在者の間に並んで現れる存在者ではない。それはむしろ、自己の存在においてこの存在(=「ある」ということ)そのものに関わっていることによって、存在的に際立たされているのである。…この存在者には、自己の存在と共に、この存在を通して、この存在が自分自身に開示されている、ということが具わっているのである。存在了解そのものが、現存在の存在規定なのである。」(§4)
その「現存在」の存在をハイデガーは「実存(Existenz)」と特徴づける。「実存Existenz」とは「外にEx-」「立つistenz」ことである。「自分の外に出ている」ことが「現存在」の特徴である。

§14-44 平均的な日常性における現存在の分析
1)目の前にあるものと手許にあるもの(§15-18)
2)世界の意味連関
3)情態性と理解(§29-34)
4)「世人」と頽落(§35-38)
5)開示性と関心(§39-44)
以下、要点だけを書くと―、
「存在」を理解してるのは「現存在(=人間)」だけである。しかしその理解は誤解である。古代ギリシャの時代から現在に至るまで、どのように誤解の上に誤解が積み重なって来たか、それを明らかにするのは、「存在論の歴史を解体する」ことを課題とする後半部である。前半部では、現存在の平均的な日常性において、「存在」がどのように理解されているかを解明する。(「現存在」の存在を、ハイデガーは「実存(Existenz)」と呼ぶ。(「実存」とは「脱自(Ex-ist)」である。)従って、『存在と時間』の前半は、実存の分析となる。)
日常において「存在」が現れてくるのは、目の前に転がっている、さまざまな存在者としてである。例えば教室の中ならば、目の前には、机や椅子、チョークや黒板などといった、客体的な「もの」(Vorhanden-Sein)が転がっている。そして「存在」とは、そういうものとして通常は理解されている。しかし、よく見ると、それらは、単なる「物体」ではない。チョークは、それを用いて字を書く「ため」に、黒板はその上に文字や図を書くためのもの「として」、そこに存在している。それは「手許にあるもの=道具的存在」(Zurhanden-Sein)である。
われわれの住んでいる世界は、「として」と「ために」によって関連づけられた意味連関の総体であり、「世界」とは、それらが出会う場である。そして、それらを「そこ」で出会わせているものが「現(そこ)存在」である。だから現存在の本質は「世界内存在」なのである。その際、チョークは、黒板に字を書くだけでなく、場合によっては怠けている学生に投げつけたり、場合によっては汚れたシャツの襟に塗って汚れ落ちをよくしたりできるという、その新たな関係性と可能性において理解される。「内存在」において、「存在」の意味は、開かれる。
一方、「現存在」の方は、「哲学かよ、だり〜」と思っている。しかし、この教室で「だるい」若者は、食堂でも電車の中でも「だり〜」とゆっているのである。その「だるさ」は、「気分」という形で現れる、現存在の「存在」との直接的な関係を示している。それが「情態性」(Befindlichkeit)だ。情態性と理解が現存在の根源的な条件なのである。
そういうことに気づけば、まっとうな人間になれるのに、「Y先生はゼミの学生にすぐ手を出すらしいぜ」「授業は出なくても、試験さえ受ければ単位取れるって」などという「好奇心、お喋り、曖昧さ」のなかで日々を過ごしているのである、このバカ学生は。「みんなと同じにやってりゃいいじゃん」と思っているのである。そうした現存在が落ち込んでいる非本来的な有り方を、ハイデガーは「ひと(世人)」(das Man)と呼んだ。言い換えれば、one of them というあり方であり、「ふつう」というあり方である。この「ふつうのひと」という存在に陥んでいる連中は、「ヴィンテージのジーンズ」といった細かいことに拘り「俺って他の奴とは違う」と自己主張したりするのであるが、それこそが「ふつう」の特徴だということには死んでも気づかないのである。殊更「ひと」との違いを言い立てるのは、自分も同じ「ひと」だからなのに。
この「頽落した」学生が「本来の」自分に帰ることは、どのようにして可能なのだろうか。
存在の意味は「時間」である。

§45-71 現存在と時間性
やがて能天気な学生生活にも終わりが来る。年貢の納め時である試験が近づく。学生は不安になる。不安とは、この場合は、取るべき単位の「非存在=無」である。しかし一般的に言えば、不安の原因は、「学生である」という自分の存在の非存在であり、さらには、もっと一般的な「人」としての自己の非存在の可能性=死である。アルバイト先の深夜のコンビニで強盗に襲われて殺されるかもしれないという不安と同じである。いずれにせよ、不安は現存在を孤独化し、そこで現存在は自己の有限性に直面する。誰も自分の代わりにはなってくれないのだ。
頽落した現存在は、自分の存在から逃れようとしている。しかし試験という終わりの可能性は、自分が逃れようとしていた「学生の存在の本質は勉学である」という、自己の存在の可能性に目覚めざさせる。バカ学生にも「良心」の欠片が目覚め、自分の「責」に気づくである。(←この辺りは、キルケゴールの影響が強い。)
存在の意味を明らかにするのは、時間である。しかし、「時間」は誤解されている。過去は忘れ去られ(「先週の授業には出たけど、な〜んにも覚えてねえ〜」)、現在は予期していたものの実現でしかなく(「待ってたバイト代、やっと貰えたぜ」)、未来はただ待ち受けられるだけである(「あ〜、授業、早く終んね〜かなぁ」)。そこに「自分」はない。
良心を持とうとする覚悟性は、「残り少ない学生生活、頑張って勉強するぞ!」という先駆的覚悟性である。
でも「あなたの余命は三ヶ月です」などと言われたりしない限り、そういう心境(「死に臨む存在(Sein zum Tode)」)にはならないものだ、「ふつうの人」は。

時間の概念を表にすると、以下のようになる。
    本来性  非本来性
未来 先駆    予期
現在 瞬間    現前化
過去 反復    忘却
(ふつうに「時間」という言葉で思い浮かべられる、カレンダー的な、あるいは無限に続く直線的な、時間の観念は、この非本来的な時間の観念が、さらに平板化され空間化されたものである。)

―こう書いていて、段々飽きてきた。『存在と時間』に書いてあることが、こんな単純なことなら、なぜ、あんなに長い記述が必要なのだろうか。言い換えれば、「不倫して、自殺する女の話」と要約すれば、『アンナ・カレニーナ』が分ったことになるのだろうか。それなら、『ボヴァリー夫人』も同じだし、あんな(オヤジ・ギャグに非ず!)長い小説を読む必要はない。その間の心理が克明に分析されているから、読者は、そこから多くのものを学ぶのである。
『存在と時間』も同じだ。そこで読者は、「存在」という観点から、世界を見ることを学びなおす。諸々の存在者における存在の諸相を区別しながら、「存在とは何か」という、敢えて訊かれたら困ってしまう問いに、一歩一歩迫っていくのである。だからこそハイデガーは、「人間」と言えばいいものを「現存在」と言い、「物」とか「道具」と言えばいいものを「手前(目の前の)存在」とか「手許存在」などと言い、それらの関係を「世界-内-存在」などと言うのである。そのプロセスが重要なのであって、それを省略して結論だけ書いても、余り意味はない。「何を(What)」ではなく「どのように(How)」が重要なのである。
―という訳で、この辺りで、行き詰まっているのである。(続く)


ハイデガー『存在と時間』の意味

サルトルと現象学との出合いを語った、有名なボーヴォワールの一節がある(アロンというのは、現象学者の、モーリス・アロンのこと)。
「アロンは自分のコップを指して、
≪ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!≫
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。」

ボーヴォワール『女ざかり』(朝吹登水子・二宮フサ訳)

われわれが生きている、この現実の、この経験について語ること、しかも、それを哲学として語ること――これを可能にしたのが、ハイデガーの「世界-内-存在」だ。ハイデガーの言う「世界-内-存在」とは、まさしく、そうした、われわれが直に触れている、そして、全ての意味がそこから現われる、「この体験」を意味している。
しかし、誰もが直面している「この体験」を哲学として語るためには、哲学者(現象学者)でなければならない。その場合、哲学者であるとは、無用な決まり文句を捨てて、事象そのものに向かいあうということだ。ハイデガーが言うように科学や宗教の、「どこから」や「どこへ」を、超えて、存在の「現=そこ」に迫ることだ。(現象学の合言葉=「事象そのものへZur Sache selbst」)
しかし、哲学者であっても哲学者でなくても、この体験は、しばしば素通りされてしまう。「世界内存在」という現象が、例えば、デカルトで、どのようにして(=「私」が「考えるもの」として、「世界」が「延長するもの」として理解されることで)素通りされてしまうかを、『存在と時間』の§19-21節で、ハイデガーは明らかにしている。
しかし、全ての知識の根源は、いま、ここで、この私が体験している、この現実だ。
(『存在と時間』の後半では、いま、ここで、この私が体験している「時間」のあり方が分析される。そして、そこから、通常の平板化された「時間」の観念がどう由来するのかが示される。)
「<それ>は動いている。時には流れるように、時には時々止まりながら、いたる所で<それ>は動いている。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ」という、ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』の冒頭も、「世界-内-存在」の記述である。さらに、われわれは、ハイデガーを超えて、「コンピューターに向かう経験」や、ハイデガーが全く語らなかった「性的な経験」についても、哲学として語ることができるだろう。
しかし、それは、ハイデガーの切り開いた「世界-内-存在」という地平において、なのである。

次に、「脱自」的構造の分析が重要だ。
「存在」と「存在者」の区別を、ハイデガーは「存在論的差異」と呼ぶ。
「存在」とは、「存在者」を「存在者」たらしめている働きであり、存在者を存在者として「現し出す」という出来事である。
だからそこに「ある」のは存在者だけで、存在者のもとで「存在」は姿を隠している。
「存在」の発見は、まず、「世界内存在」において、
次に、「時間性」において、行われる。
平均的日常性における「ひと」=自己喪失→本来の自己
という運動は、「不安」→「良心」→「死に臨む存在」
という時間性を媒介とした運動を介して生じる。
その時間性とは、それ自身の外に出る、先駆ける、構造である。
時間性こそが、これまで分析されてきた現存在の諸々なあり方を可能ならしめるものである。
(続く)

最後に、言葉の分析がある。ただし、これは駄洒落と紙一重だ。
(ハイデガーに限らないが、そんなもの、駄洒落に過ぎないのに、有り難がることもないだろう、と思うことが私はよくある。)
「存在」とは言葉である。
「言葉は存在の住処である。」
(続く)


存在論の歴史の解体

『存在と時間』の後半の表題は、
「第二部 時間性の問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの概要を示す」
となっている。これは遂に書かれなかったが、そこでハイデガーが何を言おうとしていたかは、同時期の講義『現象学の根本問題』や、後年の講義『ニーチェ』などから推測することが出来る。
「存在」そのものを問題にする学問は、哲学(形而上学)である。物理学(または自然学)は「物体(または自然)」としてある限りでの存在者を扱い、心理学は「心」としてある限りでの存在者を扱う。それらは全て「存在者」全体の一部分の「存在」に過ぎない。存在者である限りの全ての存在を扱うのは哲学(形而上学)以外にない。だとすれば、哲学の歴史において、存在がどのように考えられ誤解されてきたか、その核心が明らかにされるだろう。
(この個所を理解するためには、哲学史についての或る程度の理解が必要になる。)

1)デカルトからカントに至る、近代哲学における存在概念
a) カント「存在はリアルな述語ではない」
be動詞は主語と述語を結合する主観の働きを示す
「存在」=「造られたもの」
b) デカルトの「cogito sum」(およびデカルトにおける中世存在論の継承)
存在は主観(精神)によって付与される
中世の存在論において、「存在者(ens)」とは「被造物(ens creatum)」である。
神によって造られたもの→人間によって造られたもの、という大きな転換はあるが、
「造られたもの」であるという「存在」概念は通底している。
c) 古代ギリシャにおける存在の発見と変貌
ソクラテス以前の哲学者たちによる「存在」の発見と
プラトンによるその変容;「ウーシア(ousia)」が存在の根本概念になる

2)プラトンからニーチェに至る、本質存在の優位の歴史と、プラトニズムの転倒
「存在」を「力への意志」とみなしたニーチェにおいて、プラトニズムの転倒が試みられた。
(続く)


読書案内
昔、理想社の「ハイデッガー選集」で出ていた翻訳が、今は文庫で手に入ります。
『存在と時間』(上/下)細谷貞夫訳(ちくま学芸文庫)
最初は、まだるっこい文章だと思われるでしょうが、慣れれば読めます。明快な文章です。
また、後期の代表的な著作『ヒューマニズム書簡』『ニーチェ講義』も、同じく文庫で読めます。
『「ヒューマニズム」について』渡辺二郎訳(ちくま学芸文庫)
『ニーチェ』(T/U)細谷貞夫訳(平凡社ライブラリー)
ハイデガーについて書いたものを、という場合は、何は置いても、まず、
木田元『ハイデガーの思想』(岩波新書)
を一読するべきでしょう。
筒井康隆『唯野文学部教授』(及び『誰にもわかるハイデガー』)は、比較的分かりやすいとは思いますが、その他の箇所はともかく、ハイデガーについては、『存在と時間』(特にその後半の一部)の記述に偏っており、「存在」の意味を問うという、ハイデガーの問題意識を正しく伝えているとは言えません。


→Ereignis(ハイデガーの文献集;ほぼ英語だが、リンク先に『存在と時間』のドイツ語原文もある)

→レヴィナスのページ
→村の広場に帰る