ハイデガー
Martin Heidegger(1889-1976)
―なぜ、有るものがあって、無ではないのか?


「哲学とは、いつも同じところを掘り返している道路工事のようなものです。それは、しかし、年度末に予算を消却するためにではありませんが。」(偽ハイデガー)
というわけで、現在工事中です。
今のところは、『三十分でわかるドイツ哲学』のハイデガーの個所で許してもらえますか。
(と言いながらも、暇な時、少しずつ書いています。―というか、結構書きました。まだまだですが。)
(2018年冬に色々書き足しました。あと『存在と時間』を書き直し、「存在の歴史」について書き足すと、一応完成です。何時のことになるのか…)

 さて二十世紀のドイツ哲学といえば、まずハイデガー(1889-1976)だ。ハイデガー哲学のテーマは、ただ一つ、「存在」である。平たく言えば「ある」とは何か、である。「ある」ものが何か、ではない。ここは要注意。「ある」もの(=存在者)と、「ある」という事柄(=存在)とは、厳しく区別しなければならない。この二つを混同して、その上、精神ではなく物の存在を、「存在」の意味だと考えしまうと、「ある」という事柄が誤解される、とハイデガーは言う。むしろ「存在」とは、全ての「あるもの」をあらしめている働きである。(この働きの根源を、中世の神学者たちは「神」と呼んだ。)
 次に「ある」という言葉には、本屋さんに本「がある」という意味の「ある(現実存在existence)」と、これは万引きしてきた本「である」という意味での「ある(本質存在essence)」という二つの意味がある。(あちらの言葉では両方ともbe動詞。)哲学の歴史は、「何であるか」という本質存在だけを重視することによって、本当の「ある」の意味を平板化してきた、とハイデガーは言うのである。「存在」というこの単純で壮大な問いを、『存在と時間』を書いていた「前期」のハイデガーは、唯一「ある」ことの意味を問うことができる、人間の存在(=現存在)を通路にして、解明しようとした。おまけに前半しか書かなかったものだから、ハイデガーは「実存主義」だと誤解された。当然である。しかし「後期」のハイデガーは、オーソドックスな哲学のテキストを天才的な仕方で「解釈=改釈」することによって、哲学の歴史そのものを解体し再構築する作業に従事していたのであった。その影響力は今なお大きい。

→足元存在に関する現象学的考察


(1)
『存在と時間(Sein und Zeit)(1927)

§1 存在への問い
「「存在」は自明の概念である(、と思われている)。どんな認識にも、どんな言表にも、また存在者に対してどのように振る舞い、自分自身にどのような態度をとろうとも、「存在(ある)」(という言葉)が用いられており、その際この表現は「何事もなく」理解されている。「空が青い(=青くある)」「私は嬉しい(=嬉しくある)」ということを誰でも理解する。しかしこの普通の解りやすさは、解りにくさを証明しているにすぎない。…我々はすでにその都度何らかの存在了解(理解)のうちで生きており、(しかも)それと同時に存在の意味は闇に覆われている。このことが「存在」の意味への問を繰り返さねばならない原理的な必然性を証明している。」

§12 世界内存在
「こうした現存在(Dasein)(*)の存在規定は、我々が世界-内-存在(das In-der-Welt-sein)と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない。…
〔それには、
1)「世界の中に」(→世界の世界性)、
2)「世界内存在」である存在者(→日常的現存在)、
3)「内-存在」そのもの、
という三つの観点がある。〕

内-存在とはどういうことか?〔それは通常「コップの中の水」「戸棚の中の服」というような空間的関係として理解されている。こうした物体的存在の空間的位置関係は、カテゴリー(存在の範疇)的存在性格に属し、現存在的でない存在者の特徴である。〕
これに対して、内-存在(In-Sein)というのは、現存在の存在体制の一つを指していて、一つの実存カテゴリーである。そうだとすれば、それはある物体的な事物(人体)が、ある事物的存在者の「なか」に事物的に存在しているというようなことではありえない。内-存在は、空間的な意味で一方が他方の「なか」にあるという関係を指すものではないし、「内」はもともと決してそうした空間的関係を意味するものではない。「内」(in)は≪innan-≫から派生した語で、これは「住む」(wohnen、habitare)、「滞在する」ことである。「において」(an)は、「私は…に慣れている」「私は…に親しんでいる」「私は世話している」ということで、habito(住む)やdiligo(大事にする)という意味でのcolo(耕す、世話をする)という意味を持っている。こうした意味での内-存在がそれに属している存在者を、我々は、私がその都度自らそれである存在者として特徴づけておいた。「(私は)ある」≪bin≫という表現は、「…のもとで」≪bei≫と関係がある。「私はある」≪ich bin≫もやはり、「私は住む、…に滞在している」つまり「かくかくしかじかに親しまれたものとしての世界に、住み、滞在している」ことを言う。「私はある」≪ich bin≫の不定形である、つまり実存範疇として理解された、存在(Sein)は、…に住む、…に親しんでいる、を意味する。内存在とは、従って、世界内存在という本質的体制を持つ、現存在の存在の、形式的、実存論的な表現なのである。」

(*)ハイデガーは人間を「現存在(Dasein=そこにある)」と呼ぶ。それは一面では、人間が、「そこ」に投げ出されている存在であるからだが、もう一面では、それだけが「存在(「ある」ということ)」の意味を理解している存在であり、存在の意味が明らかになる「現Da=そこ」であるからだ。
「現存在は、単に他の存在者の間に並んで現れる存在者ではない。それはむしろ、自己の存在においてこの存在(=「ある」ということ)そのものに関わっていることによって、存在的に際立たされているのである。…この存在者には、自己の存在と共に、この存在を通して、この存在が自分自身に開示されている、ということが具わっているのである。存在了解そのものが、現存在の存在規定なのである。」(§4)
つまり人間はここにある「自分の存在」の意味を問うことによって同時に「存在」の意味を明らかにする。それは「存在」の側から見れば、「存在」が自分を開く「そこ」である。
その「現存在」の存在をハイデガーは「実存(Existenz)」と特徴づける。「実存Existenz」とは「外にEx-」「立つistenz」ことである。「自分の外に出ている」ことが「現存在」の特徴である。

§14-44 平均的な日常性における現存在の分析
1)目の前にあるものと手許にあるもの(§15-18)
2)世界の意味連関
3)情態性と理解(§29-34)
4)「世人」と頽落(§35-38)
5)開示性と関心(§39-44)
以下、要点だけを書くと―、
漠然としてではあっても、「存在」を理解してるのは「現存在(=人間)」だけである。(しかしその理解は誤解である。古代ギリシャの時代から現在に至るまで、どのように誤解の上に誤解が積み重なって来たか、それを明らかにするのは、「存在論の歴史を解体する」ことを課題とする後半部である。)前半部では、現存在の平均的な日常性において、「存在」がどのように理解されているかを解明する。「存在」を理解している、その「現存在」の存在を、ハイデガーは「実存(Existenz)」と呼ぶ。(「実存」の本来の意味は「脱自(Ex-ist)」である。)従って、『存在と時間』の前半は、実存の分析となる。
日常において「存在」が現れてくるのは、目の前に転がっている、さまざまな存在者としてである。例えば教室の中ならば、目の前には、机や椅子、チョークや黒板などといった、客体的な「もの」(Vorhanden-Sein)が転がっている。そして「存在」とは、そういうものとして通常は理解されている。しかし、よく見ると、それらは、単なる「物体」ではない。チョークは、それを用いて字を書く「ため」に、黒板はその上に文字や図を書くためのもの「として」、そこに存在している。それは「手許にあるもの=道具的存在」(Zurhanden-Sein)である。
われわれの住んでいる世界は、「として」と「ために」によって関連づけられた意味連関の総体であり、「世界」とは、それらが出会う場である。そして、それらを「そこ」で出会わせているものが「現(そこ)存在」である。だから現存在の本質は「世界内存在」なのである。その際、チョークは、黒板に字を書くだけでなく、場合によっては怠けている学生に投げつけたり、場合によっては汚れたシャツの襟に塗って洗濯の際に汚れ落ちをよくしたりできるという、その新たな関係性と可能性において理解される。「内存在」において、「存在」の意味は、開かれる。
一方、「現存在」の方は、「哲学かよ、だり〜」と思っている。しかし、この教室で「だるい」若者は、食堂でも電車の中でも「だり〜」とゆっているのである。その「だるさ」は、「気分」という形で現れているが、現存在の「存在」との直接的な関係を示している。それが「情態性」(Befindlichkeit)だ。情態性と理解が現存在の根源的な条件なのである。
(その「だるい」というのが「退屈だ」という意味なら、
1 することがなくて退屈だ(だから携帯やスマホを弄る)、という意味より、
2 先生が言ってることはわからんではないが、な〜んか違うし、どうでもいい、というより深い意味か
3 授業も、大学も、俺の生活も、何かつまんねーし、どーでもいい、という更により深い意味での退屈であるとすれば、
そこに「情態性=気分」として、否定的にではあるが、(空虚に放置されているという)存在全体への関わりが、現れていると言える。)
そういうことに気づけば、まっとうな人間になれるのに、「Y先生はゼミの学生にすぐ手を出すらしいぜ」「授業は出なくても、試験さえ受ければ単位取れるって」などという「好奇心、お喋り、曖昧さ」のなかで日々を過ごしているのである、このバカ学生は。「みんなと同じにやってりゃいいじゃん」と思っているのである。そうした現存在が落ち込んでいる非本来的な有り方を、ハイデガーは「ひと(世人)」(das Man)と呼んだ。言い換えれば、one of them というあり方であり、「ふつう」というあり方である。この「みんなと同じ=ふつうのひと」という存在に陥んでいる連中は、「ヴィンテージのジーンズ」といった細かいことに拘り、「俺っていろいろ拘りがあるから他の奴とは違う」と自己主張したりするのであるが、それこそが「ふつう」の特徴だということには死んでも気づかないのである。殊更「ひと」との違いを言い立てるのは、自分も同じ「ひと」だからなのに。
この「頽落した」学生が「本来の」自分に帰ることは、どのようにして可能なのだろうか。
存在の意味は「時間」である。

§45-71 現存在と時間性
やがて能天気な学生生活にも終わりが来る。年貢の納め時である試験が近づく。学生は不安になる。不安とは、この場合は、取るべき単位の「非存在=無」である。しかし一般的に言えば、不安の原因は、「学生である」という自分の存在の非存在(大学生失格です!)であり、さらには、もっと一般的な「人」としての自己の非存在の可能性(=死)である。アルバイト先の深夜のコンビニで強盗に襲われて土下座させられたり最悪殺されたりするかもしれないという不安と同じである。いずれにせよ、不安は現存在を孤独化し、そこで現存在は自己の有限性に直面する。誰も自分の代わりにはなってくれないのだ。
頽落した現存在は、自分の存在から逃れようとしている。しかし試験という終わりの可能性は、自分が逃れようとしていた「学生の存在の本質は勉学である」という、自己の存在の可能性に目覚めざさせる。バカ学生にも「良心」の欠片が目覚め、自分の「責」に気づくである。(←この辺りは、キルケゴールの影響が強い。)
存在の意味を明らかにするのは、時間である。しかし、「時間」は誤解されている。過去は忘れ去られ(「先週の授業には出たけど、な〜んにも覚えてねえ〜」)、現在は予期していたものの実現でしかなく(「待ってたバイト代、やっと貰えたぜ」)、未来はただ待ち受けられるだけである(「あ〜、授業、早く終んね〜かなぁ」)。そこに現在の瞬間も本来の「自分」もない。
良心を持とうとする覚悟性は、「残り少ない学生生活、頑張って勉強するぞ!」という先駆的覚悟性である。
でも「あなたの余命は三ヶ月です」などと言われたりしない限り、そういう心境(「死に臨む存在(Sein zum Tode)」)にはならないものだ、「ふつうの人」は。

時間の概念を表にすると、以下のようになる。
    本来性  非本来性
未来 先駆    予期
現在 瞬間    現前化
過去 反復    忘却
(ふつうに「時間」という言葉で思い浮かべられる、カレンダー的な、あるいは無限に続く直線的な、時間の観念は、この非本来的な時間の観念が、さらに平板化され空間化されたものである。)
通常は、未来は「まだ無く」、過去は「もう無い」と考えられるが、そうではない。
アメリカ・インディアンのホピ族の言葉には、「過去・現在・未来」という時制はなく、「顕在態」と「潜在態」という二つのモードがある。
過去と現在の出来事は「既に顯かになっている」ものであり、未来の出来事は「まだ顯かになっていない潜在的な」ものである。
過去は「既にある」ものとして現在に留まっている。
そして今も顯かな過去の出来事の多くは、反復され、思い出され保存されたものであり、現在によって選ばれたものである。
言い換えれば、過去とは現在の視点から構成されたものである。
同じように、我々の現在は未来から規定されている。
君が今試験勉強をしているなら、それは未来の試験が目の前にあるからである。
…途中を少し省くが、過去も現在も、我々の未来への投企によって、意味を持つ。

―こう書いていて、段々飽きてきた。『存在と時間』に書いてあることが、こんな単純なことなら、なぜ、あんなに長い記述が必要なのだろうか。言い換えれば、「不倫して、自殺する女の話」と要約すれば、『アンナ・カレニーナ』が分ったことになるのだろうか。それなら、『ボヴァリー夫人』も同じだし、あんな(オヤジ・ギャグに非ず!)長い小説を読む必要はない。その間の心理が克明に分析されているから、読者は、それに共感し、人生というものの皮肉な真実について多くのものを学ぶのである。
『存在と時間』も同じだ。そこで読者は、「存在」という観点から、世界を見ることを学びなおす。諸々の存在者における存在の諸相を区別しながら、「存在とは何か」という、敢えて訊かれたら困ってしまう問いに、一歩一歩迫っていくのである。だからこそハイデガーは、「人間」と言えばいいものを「現存在」と言い、「物」とか「道具」と言えばいいものを「手前存在(=目の前の現前)」とか「手もと在」などと言い、それらの関係を「世界-内-存在」などと言うのである。そのプロセスが重要なのであって、それを省略して結論だけ書いても、余り意味はない。「♪人生は紙飛行機、願いを乗せて飛んでいくよ。その距離を競うより、どう飛んだかどこを飛んだのか、それが一番、大切なんだ」とAKB48も歌っておる。「何を(What)」ではなく「どのように(How)」が重要なのである。
―という訳で、この辺りで、行き詰まっているのである。(続くかも)


『存在と時間』の意義

サルトルと現象学との出合いを語った、有名なボーヴォワールの一節がある(アロンというのは、現象学者の、モーリス・アロンのこと)。
「アロンは自分のコップを指して、
≪ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!≫
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。」

ボーヴォワール『女ざかり』(朝吹登水子・二宮フサ訳)

われわれが生きている、この現実の、この経験について語ること、しかも、それを哲学として語ること――これを可能にしたのが、ハイデガーの「世界-内-存在」だ。ハイデガーの言う「世界-内-存在」とは、まさしく、そうした、われわれが直に触れている、そして、全ての意味がそこから現われる、「この体験」を意味している。
しかし、誰もが直面している「この体験」を哲学として語るためには、哲学者(現象学者)でなければならない。その場合、哲学者であるとは、無用な決まり文句を捨てて、事象そのものに向かいあうということだ。ハイデガーが言うように科学や宗教の、「どこから」や「どこへ」を、超えて、存在の「現=そこ」に迫ることだ。(現象学の合言葉=「事象そのものへZur Sache selbst」)
しかし、哲学者であっても哲学者でなくても、この体験は、しばしば素通りされてしまう。「世界内存在」という現象が、例えば、デカルトで、どのようにして(=「私」が「考えるもの」として、「世界」が「延長するもの」として理解されることで)素通りされてしまうかを、『存在と時間』の§19-21節で、ハイデガーは分析している。
しかし、全ての知識の根源は、いま、ここで、この私が体験している、この現実だ。
(『存在と時間』の後半では、いま、ここで、この私が体験している「時間」のあり方が分析される。そして、そこから、通常の平板化された「時間」の観念がどう由来するのかが示される。)
「<それ>は動いている。時には流れるように、時には時々止まりながら、いたる所で<それ>は動いている。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ」という、ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』の冒頭も、「世界-内-存在」の記述である。さらに、われわれは、ハイデガーを超えて、「コンピューターに向かう経験」や、ハイデガーが全く語らなかった「性的な経験」についても、哲学として語ることができるだろう。
しかし、それは、ハイデガーの切り開いた「世界-内-存在」という地平において、である。
1)物には「世界」がない(weltlos)。
2)動物の「世界」は貧しい(weltarm)。
3)人間は「世界」を創る(weltbildend)。

次に、「脱自」的構造の分析が重要だ。
「存在」と「存在者」の区別を、ハイデガーは「存在論的差異」と呼ぶ。
「存在」とは、「存在者」を「存在者」たらしめている働きであり、存在者を存在者として「存在させる=現し出す」という出来事である。
だからそこに「ある」のは存在者だけで、存在者のもとで「存在」は姿を隠している。
「存在」の発見は、まず、「世界内存在」において、
次に、「時間性」において、行われる。
平均的日常性における「ひと」=自己喪失→本来の自己
という運動は、「不安」→「良心」→「死に臨む存在」
という時間性を媒介とした運動を介して生じる。
その時間性とは、それ自身の外に出る(ex-ist)=先駆ける、という構造である。
時間性こそが、これまで分析されてきた現存在の諸々なあり方を可能ならしめるものである。
(続く)

最後に、言葉の分析がある。ただし、これは駄洒落と紙一重だ。
(ハイデガーに限らないが、そんなもの、駄洒落に過ぎないのに、有り難がることもないだろう、と思うことが私はよくある。)
「存在」とは言葉である。
言葉は世界を切り取り分節化する。
「言葉は存在の住処である。」
(続く)

『存在と時間』の良い点は、人間の日常的経験の分析から「存在」の意味に迫ろうとした、その「現象学的」方法にある。
人間だけが、なぜ自分が生きているのか、という疑問を持ち、自分の「存在」の意味を問う。
それによって人間の存在を含めた「存在する」こと全般の意味を、同時に問い明かすことになる。
(そしてその「存在」の誤解が、現代人の生活の虚しさと惨めさを生む根源である―という、思想としての実効性がある。
その例としては、例えば、「世人」の分析があり、
「大地の上に、大地の廻りに、世界の暗黒化が起こっている…。その本質的な出来事は、神々の逃亡、大地の破壊、人間の集団化、凡庸の優先である。」(『形而上学入門』)
といった文明批評がある。)
中期と後期のハイデガーは、過去の哲学者たちとの対決や、言葉を手がかりにした分析から、存在の問題に迫っていこうとする。
そうした「解釈学的」方法は、それはそれで面白くはあるが、専門的、趣味的という面があることは否定できない。
(しかし、専門的だとはいえ、ハイデガー的「存在」の観点に立つことによって、
イデア(プラトン/アリストテレス)=モナド(ライプニッツ)=概念(ヘーゲル)
といった具合に、過去の哲学者たちの中心概念を「同じ」ものだと考えることが出来る。)
ハイデガーは「実存哲学」ではない。しかしハイデガーがここで行った「実存」の分析は、その後の実存哲学の大きな源流となり、
「ある」ことの意味を問う人にとって、今でも、読むべき古典であり続けている。
(本来のテーマへの導入部(=序論)であったはずの部分が膨れ上がり一冊の本として出版されたという成立過程においても、
その内容が「人間的経験の分析」であるという点でも、『存在と時間』はヘーゲル『精神現象学』と意外な共通点がある。)


(2)
存在論の歴史の解体

『存在と時間』の後半の表題は、
「第二部 時間性の問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの概要を示す」
となっている。これは遂に書かれなかったが、そこでハイデガーが何を言おうとしていたかは、
同時期の講義『現象学の根本問題』や、後年の講義『ニーチェ』などから推測することが出来る。
「存在」そのものを問題にする学問が哲学(形而上学)である。
物理学(または自然学)は「物体(または自然)」としてある限りでの存在者を扱い、
心理学は「心」としてある限りでの存在者を扱う。
それらは全て「存在者」全体の一部分の「存在」に過ぎない。
存在者である限りの全てを「存在」という視点から「存在者」として扱うのは哲学(形而上学)以外にない。
だとすれば、哲学(形而上学)の歴史において、存在がどのように考えられ誤解されてきたか、その核心が明らかにされるだろう。
(この個所を理解するためには、哲学史についての或る程度の理解は必要である。)

1)デカルトからカントに至る、近代哲学における存在概念
a) カント「存在はリアルな述語ではない」
カントは「存在」の意味を「時間」から理解することを企てた唯一の哲学者である。
しかし「存在」は主観によって定立される。(「存在」=「造られたもの」)
「我思う(意識)」から「我あり(存在)」が導き出される、デカルトと同じである。
b) デカルトの「cogito sum」(およびデカルトにおける中世存在論の継承)
中世の存在論において、「存在者(ens)」とは「被造物(ens creatum)」である。
シナイ山でモーゼが神と顔を合わせたとき、「私は「ヤハウェ(=私はある)」という名の者だ」とモーゼは神から告げられたが、
『創世記』冒頭の世界創造の神話と併せて、神とは全ての存在者に存在を与える、存在の根源と理解されていた。
換言すれば、この世界の全ての存在者は、神によって造られたものである。
神によって造られたもの→人間によって造られたもの、という(主語の)大きな転換はあるものの、
「造られたもの」であるという「存在」概念は通底している。

c) 古代ギリシャにおける存在の発見と変貌
ソクラテス以前の哲学者たちによる「存在」の発見と
プラトンによるその変容;「イデア(idea)」=「ウーシア(ousia)」が存在の根本概念になる。
プラトンは、例えば目の前にある家の姿を、その目に見えない家の本質の現われとして見て、それを「イデア」と呼んだ。
しかしその後「あるもの」の「ある」は、「現前性」として理解されることになる。(下の『形而上学入門』を参照)
アリストテレスの存在概念
『存在と時間』の最初の下書きと言われる「ナトルプ報告」(正式には『アリストテレスの現象学的解釈』)では、
アリストテレスの存在概念が検討される。アリストテレスにとって「存在」とは「制作されたもの」である。
制作する者、例えば、家を建てる者は、「まわりの世界」(=生の世界)における有意味性を適切に配慮しながら、
立地がいい、陽当たりがいい、住むと快適である、デザインがいい、といった性質をも重視して家を設計する。
そこでは「家である」という本質と、その他の上記のような付帯性(属性)は、目的において一つである。
ここに「存在」の本源的な意味がある。
しかし存在論の伝統の中で、まわりの世界との関わりや存在の多様な意味は、見失われてゆくことになる。

2)プラトンからニーチェに至る形而上学の歴史と、プラトニズムの転倒
a) 近代哲学の始まりに位置するのはデカルトである。デカルトは真理を確実性として把握する。
「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」
「我思う」という知覚において、表象は表象されるものの中に表象する主体(と表象する作用)をその隠れた前提として含んでいる。
(言い換えれば、「我思う」は「『我思う』と思う我を思う」である。意識は自己意識である。)
「我あり」という命題において言い表されている「あり(=存在)」とは、「思う」という精神の存在である。
(私の身体(body)は物体(body)であって、精神とは異なる別の実体であるとされる。)
デカルトに始まる近代哲学は、主体性の形而上学である。
b) 「存在」を「力への意志」とみなしたニーチェにおいて、プラトニズムの転倒が試みられた。
存在者の全体を問うのが形而上学である。ニーチェは世界の根本を、「生成」=「力への意志」とみなした。
プラトンとは逆に、ニーチェでは、生成/流転するこの世界こそが真実の存在であり、本質とされるイデア界は、その影にすぎない。
「力」とは自分を超え出てゆくものであり、「力への意志」とは自分自身を意志する意志に他ならない。
(知を意志として把握していた、カント以降のドイツ観念論、その頂点であるヘーゲルにおいて、
知はその対象において自分自身を知るという自己同一の構造を持つが、それを更に一歩進めたのがニーチェである。)
これはギリシャ人が「ピュシス/存在」として理解したものを主体性の形而上学の中で思索した結果である。
その意味で、ニーチェ哲学は形而上学が到達するべくしてそこに至った主体性の形而上学の完成である。
しかしニーチェは生成と本質をひっくり返しただけで、両者を分離する従来の形而上学の枠内にまだ留まっている。

3)技術の時代
ニーチェの後に来るのは、哲学の消滅、哲学が消滅しても何の支障もない、という実証主義(Positivismus)の時代である。
より多くを求める生の欲求と、全てを計算(=評価)する理性の本能が、世界と人間を支配する。
それは、プラトンの「イデア」が抽象的な本質に平板化されたように、ニーチェの「力への意志」が平板化された姿である。
そこにおいて世界と人間を支配している「技術」の本質を、ハイデガーは、「ゲシュテル(Gestell)」と名づける。
通常は「台架、骨格(フレーム)」などを意味する名詞Gestellは、動詞gestellen(招集する、調達する)の意味も含めて、
「総駆り立て体制」とも、あるいは直訳的に「集-立」とも訳される(Geが「総…体制」「集」、stellが「駆り立て」「立」)。
人間が自然を用立てる、例えば、鉱石からウランを取り出し、核分裂させて、発電所や核兵器をつくるように、
技術は自然のうちから隠された性質を誘発してエネルギーを調達する。
一方で、Gestellが人間を駆り立てて、より多くを在庫に持ち、支配させようとする。
人間もまた人的資源として挑発され用立てされる対象「=用象(Bestand)」とハイデガーはよぶ)となる。
こうして存在と人間が互いに駆り立てあう。
資源の枯渇と地球温暖化、大規模な格差の拡大、といった現代社会の最大の問題はその直接の結果である。
技術の本質をなすGestellの、別の例として、孔雀の羽根は、なぜ美しいか、を考えてみよう。
美しいオスの羽根の模様はなぜかメスを引きつける。
するとオスは美しい羽根を持つ方が、より多くのメスを引きつけ、より多くの遺伝子を残すことができる。
一方メスもより美しい羽根を持つ子を残すほうが自分の遺伝子を多く残すのに有利だから、美しい羽根のオスに引き寄せられる。
その結果、オスの羽根は、競うようにますます美しくなってゆき、飛べないほどまでに大きくなり、場合によっては滅びてゆく。
オスもメスも、何のためかも意識せず、ただひたすら「羽根の美しさ」に駆り立てられる。
人間も同じだ。かつての石原さとみのようなタラコ唇がなぜか決定的に美しいと感じられるようになれば、
男も女も誰もが競ってタラコ唇を求めるように駆り立てられるだろう。
なぜ、こうした無意味なことが起こるのか。
それは「存在」の意味が完全に見失われているからである。
この「存在に見捨てられていること(Seinsverlassenheit)」が技術の時代の根柢にある。

(ハイデガーが、自然を挑発する現代の技術に対置するモデルは、農夫や山守りである。
「畑地もまた以前とはまったく異なるありさまで現出する。かつてこれを農夫が耕作したとき、耕作 [bestellen] とはなお、育てること[hegen] 、手入れすること[pflegen] を意味した。農夫の行為は耕地の土壌を挑発しない。穀物の種を蒔くという農夫の行為は、種をその成長力にゆだね、そしてその成長を見守る[hüten] のである。いつのまにか、近年では畑地の耕作も、自然を調達する[stellen] これまでのとは別種の用立て[Bestellen] の吸引力に巻き込まれてしまった。この用立ては自然を挑発という意味で調達する。農耕はいまや機械化された食品工業である。」
(『技術への問い』関口浩訳

「育てる」という態度は、徳の倫理の一つである「配慮(ケアcare)の倫理」の本質的な特徴である。
また「配慮」とは、『存在と時間』において、否定的なニュアンスの扱いではあるが、日常性における現存在の基本的態度である。しかし、「世界内存在」も「配慮」も、本来は肯定的な意味にとらえるべき概念である。
見守り、配慮し、育てるという姿勢こそが、「存在の牧者」である人間が、存在者の固有の本質を実現するためにとるべき態度なのだろう。)

(3)
『形而上学入門』(1935)

「動詞「ある(sein)」の変化形に現れてくる語根について、言語学が知っていることをここで簡単に紹介しておこう。…
 1. 最も古く基本的な語根は<es>、サンスクリット語の<asus>であり、これは、生命、生きているもの、自分自身から自分の中に立ち運動し静止するもの、すなわち自立的なもの、である。…
 2. もう一つのインド・ゲルマン語系の語根はblu、bheuである。これに属するのが、ギリシャ語のphyoであり、現われ出る、支配する、それ自身から存立に至り、存立の中に留まることを意味する。このbluはこれまでピュシス(physis)とピュエイン(phyein)の普通の表面的な把握に従って、自然及び<成長する>という意味に理解されていた。しかし…もっと根源的な解釈によれば、この<成長する>は現われ出ることだという事が明らかになる。…最近では語根phu-はpha-、phainesthai
(現れる)と関係づけられる。そうであれば、ピュシスは光の中に現われ出るという意味になる。…
 これと同じ語根に属するのが、ドイツ語のbin, bist…である。
 3. 三つ目の語根はゲルマン語系の動詞<sein>の変化形にだけ現れる、wesである。…これからドイツ語の<gewesen>
(seinの過去分詞)…<wesen>(本質)が作られる。名詞<wesen>は、本来は「何であるか(Was-sein)」つまりquidditas(何性=質)を意味するのではなく、現在として留まること、An-wesen(現前)とAb-wesen(不在)を意味する。…
 この三つの語根から、我々は、直観的に規定された最初の三つの意味を取り出す、すなわち、生きる、現われ出る、滞在する、である。…」


「全体としての存在者そのものへの問が最初の真の始まりを得たのはギリシャ人においてであった。…そこで存在者はピュシスと呼ばれた。存在者を表すこのギリシャの根本語は通常、<自然(Natur)>と翻訳される。…」
「いまや我々は「存在」のギリシャ的解釈、つまり存在をピュシスとして受け取ることを…よりよく理解できる。その際「自然」についての後世の解釈は退けておかねばならない…。ピュシスとは現われ出ながら自分を立てること、自分のうちに留まりながら自らを展開すること、を意味する。…」

「形而下/形而上」という言葉は、「目に見える/見えない世界」というほどの意で、日常でも使われることがある。
一般的な意味での「形而上学」は、「メタフィジック(Meta-physics)」の訳語で、
「physic自然=目に見える物質世界」の「meta後に(を超えて)」存在するものについての学であり、
アリストテレスによれば「存在」そのものを問う学である。
古代ギリシャの時代に、「存在」についての最初の思索が始まったとき、「自然について」という表題の多くの著作が書かれた。
「存在」が「ピュシス/自然」として理解されていたからである。
「ピュシスとは、バラが咲くように、自分のうちから展開して自分を示すように、現われ出ることである(das Aufgehen, so wie die Rose aufgeht, sich aus sich entfaltend sich zeigt)。」
ハイデガーがこの講義で語るのは、本来の「存在」の意味であった「ピュシス(physis)=現われ出る力」が、
近代科学(物理学physics)の前提にある「物体」という概念へと平板化してゆくことになる、その始まりである。
「物体」とは、デカルトによれば、生命を欠いた、空間内に広がっている塊(=量)にすぎず、
その本質(何であるか)は、精神によって見いだされる法則(=量化されたものの計算)によって、示される。
その実用化が、産業革命であり、その結果生じたのが資本主義である。
(ハイデガーによれば、事情は逆で、産業革命で現れた自然を強制的に用立てる「技術」という態度は産業革命以前からあって、それが近代科学を可能にした。)
その根っこ(=根源)にあるのは、「存在」を「現前性」と、更には「被制作性」とみなす理解である。

「存在の規定は、四つの区別を究明することで、明らかになった。
 存在は生成(Werden)に対しては、持続(das Bleiben)である。
 存在は仮象(Schein)に対しては、持続する原型、常に同じものである。

 存在は思考(Denken)に対しては、根底に横たわるもの、眼前にあるもの(das Vorhandene)である。
 存在は当為(Sollen)に対しては、まだ実現されていない、あるいは既に実現されている当為の目標として、そのつど前に横たわるものである。
 持続すること、常に同じもの、眼前にあるもの、前に横たわるもの―これらは根本において同じ事を言っている。持続する現前性(Anwesenheit)、ウーシア(ousia)としてのオン(on)である*。」
(*ギリシャ語のオンは「存在者」、ウーシアは「現前/本質(本当に存在するもの)」)

プラトンは「現われ出たものの姿」を「イデア(idea)」と名づけた。
イデアは形相(けいそう)と訳されるが、何かがその何かである本質そのものを意味する(例えば、眼の前にある机が「机である」こと)。
「現前」として理解することが間違っているわけではない。
結果だけが見られ、それが本質だとされることがまずいのである。

ハイデガーの観点では、自然を支配しようとする人間の態度は、人間が「ピュシス/自然」から遊離したことで始まった。
この講義の中ほどの「存在と思考」の関係を論じた箇所で、ハイデガーは、唐突に、ソフォクレスの合唱詩を引用し、
そこに現れているギリシャ的人間観について語りだす。
1)人間は海や空や土地といった自然を征服する、最も「不気味な者」である。
 「不気味(un-heimlich)」とは故郷(Heim)から離れ去っていることを意味し、
 他の存在者との抗争のうちで、人間は技術と力によって自然を暴力的に支配しようとする。
2)しかし人間は、逃げ道もなく無に至る(死に至る)。
3)存在しないものを存在するとみなす者には居場所はない。
4)思考/理性(ヌース)は、本来は「聴き取る」ことであり、自然/存在の声を聴く可能性は人間に開かれている。
ここには『存在と時間』との、微妙だが大きな違いがある。

『存在と時間』は、「現存在(=人間)」の「存在(→実存)」の内在的(=現象学的)分析によって、
「存在」の真の意味は「時間(の脱自的構造)」から解明されることを示そうとした。
具体的には、平均的日常性における頽落から「死に臨む存在」に至り本来のあり方に戻ることによって存在の真実に到達できる、とした。
簡単に言えば、忘れているものを思い出す、という方法である。
しかし、人間がもとより「存在」から離れ去っているのであれば、それは不可能である。
「非本来性(頽落)」から「本来性」への覚醒では、存在の真理へ到達することはできない、ということになる。
では、存在の意味は何なのか。本当は、どのようにして解明され得るのか。
それは平均的日常性にある現存在ではなく、存在そのものの真実に直接に迫ろうとした「哲学者(と詩人)」の思索に即して、である。
元初の思索において「存在」の真実が誤解されていく有様を解き明かしていくことによってである。
そしてそこに「存在」へ向かう、これまでとは「別の端初」を見出し、そこに「跳躍」することによってである。
それが、いわゆる「後期ハイデガー」の思索であり、この後の『哲学(への寄与)論稿』(1936-38)において試みられている道である。

「それゆえ、これまでの存在の概念は、「ある」もの全てを名指すには十分ではない。
 従って、存在は、根底から…新しく経験されねばならない。…
 哲学は
(存在者と存在の)区別を考えることを、どこで始めることができるのだろうか? いや、むしろ、ここでは始めることについて語るのではなく、その始めを我々は自ら繰り返さなければならない。この始めはその始めることの必然性のゆえに既に行われているのであり、我々はその支配下にあるからである。…」

話をもの凄く単純化すると、ハイデガーの言う「存在」とは、「存在させる働き/存在させる力」である。
ところが我々は「存在」を「持続的に眼の前にあること(=現前性)」と理解している。
(現に、すぐ上の行の「存在させる働き」という文句の中の「存在」って、そういう意味でしょう?)
そうだとすると、存在者(眼の前に存在しているもの)には「存在」は現れていない。
「存在」は、痕跡は残っているが、姿を消している。
現れることによって隠れる。
だから、「「存在者」は「存在」していない」(『ヒューマニズム書簡』)、ということにすらなる。
「存在」の姿に直面した古代ギリシャ人たちは、「存在」に驚き、そこから哲学が始まった、とハイデガーは言う。
「存在」という根本的事実に驚きつつ向かい合うという体験は、紀元前5世紀の古代ギリシャでも現代の我々でも変わらない。
問われている「存在」という事実は一つである。
しかし我々は、例えば「存在」という日本語を話し、ネットで情報を検索し、コンビニで商品を買う。
最初の存在の思索の上に築きあげられてきた、長い歴史的伝統の下で、考えたり行動したりしている。
伝統という負荷がかかっているから、存在と向かい合うために、我々には最初の始まりの場合とは違うスタンスが必要になる。
(例えば、子供が一から言葉を学ぶ場合と、学生が外国語を学ぶのでは、事情が違う。後者は既に言語のシステムに組み込まれている。)
その伝統を、ハイデガーは、現前性の形而上学とよぶ。

考えてみれば『存在と時間』は、平均的日常性への頽落と現前性の形而上学の伝統という、二つのハードルを超えて、
存在の真相に迫ろうという、困難だが、実り豊かな成果を生む可能性のある試みだった。
(「実り豊かな」という事の一端には、レヴィナスやサルトルの、実存や現象学的分析の立場に留まる方向がある。)
逆に言えば、後期ハイデガーの思索の困難さと難解さがここに始まるとも言える。
「<存在の開け/明るみの中に立つ>ということしか言ってないじゃん」みたいな言われ方をしても仕方がない。
(もう少し、続く)


読書案内
昔、理想社の「ハイデッガー選集」で出ていた翻訳が、今は文庫で手に入ります。
『存在と時間』(上/下)細谷貞夫訳(ちくま学芸文庫)
最初は、まだるっこい文章だと思われるでしょうが、慣れれば読めます。明快な文章です。
岩波文庫の改訳版も出ました。
『存在と時間』(1-4) 熊野純彦訳(岩波文庫)
また、中期から後期の代表的な著作『ヒューマニズム書簡』と『ニーチェ講義』も、同じく文庫本で読めます。
『「ヒューマニズム」について』渡辺二郎訳(ちくま学芸文庫)
『ニーチェ』(T/U)細谷貞夫訳(平凡社ライブラリー)
(『形而上学入門』(1935)の翌年から4/5年間にわたって行われ、引き続き「形而上学」の始まりから終わりまでを描いた講義の記録。
全訳ではありませんが、中心となる四つの講義(Tは36/7年、Uは39/40年の講義)が収録されています。
長すぎて手が出し難いという場合には、一応それぞれ独立の講義ですから、U巻目の後半を。)

ハイデガーについて書いたものを、という場合は、何は措いても、まず、
木田元『ハイデガーの思想』(岩波新書)
を一読するべきでしょう。距離の取り方がいい。
その上で、『存在と時間』を読もうという篤志家、あるいは読んでみたがよく分からないという不幸な人には、
轟孝夫『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)
は役に立つと思います。
『存在と時間』の見取り図ならば、
新井恵雄『ハイデッガー』(清水書院 センチュリー・ブックス)
後藤嘉也『ハイデガー『存在と時間』』(晃洋書房 哲学書概説シリーズ)

辺りが分かりやすいと思います。
筒井康隆『唯野文学部教授』(及び『誰にもわかるハイデガー』)は、面白いとは思いますが、その他の箇所はともかく、ハイデガーについては、『存在と時間』(特にその後半の一部)の記述に偏っており、「存在」の意味を問うという、ハイデガーの問題意識を正しく伝えているとは言えません。「世人」と「死に向かう存在」の話は聞き飽きたと思うのは私だけでしょうか。

『形而上学入門』川原栄峰訳(平凡社ライブラリー)
ハイデッガー全集 第40巻『形而上学入門』岩田靖夫他訳 (創文社)

『存在と時間』の次に読むならばこれ、と勧めたい『形而上学入門』には、二種類の翻訳があります。
川原訳で少し不満が残るギリシャ語の扱いは、岩田訳は、さすがに丁寧です。
わざと読み難くしてるんですか、と時々嫌味を言いたくなる邦訳ハイデッガー全集ですが、これは問題ありません。

ハイデガーに限らず、本物の哲学書は、一度読んで分かるというようなものではありません。
一度読んで挫折しても、しかし、数か月後(あるいは数年後)に、もう一度、読み直してみると、意外に良く分かるということはあります。
私の場合は、たいていそうです。基本、何度か読みます。
初読で理解できるなら、それは既に知っていることを確認しているだけだからだ、とも言えます。
ハイデガーも「ハイデガー流の(強引な)解釈(=改釈)」という世間の批判に応えて、
本当に見なければならないものの方には目を向けず、世間で自明と思われているものをそのまま受け取って分かったと思い込んで行われる解釈と、そうした普通の視線を根底から疑問に付す解釈と、どちらが真の解釈なのか?」(『形而上学入門』
と鋭く反論していますが、
常識に反して物事の根本を問うのが哲学であれば、初読で理解できないのは当然の事です。
「時間化する」という意味のハイデガーの用語「zeitigen」を「時熟する」と訳すことがありますが、
脳は休んでいる時に活動していると言われますから、時とともに理解が熟するのを待つ、というのは、読書でも大事なことです。


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