「足元存在」に関する現象学的考 (丸珍・ハイデガー著)             

 著者が近年著しく心を撃たれたのは、我々の時代に特有の、一つのテレヴィジョンのコマーシャルである。そのコマーシャル映像では、一晩かけて製作されたと思われる手製の厚底靴をはいたガングロと呼ばれる女性と、その同伴者と推定される茶髪と呼ばれる男性との間に、次のような会話が交わされる。それは、
(顔黒)「携帯忘れた」
(茶髪)「マジホンキー」
(黒)「マジホンキ、マジ」
(茶)「マジホンキ、マジホンキ、マジホンキー」
然る後に、再び、
(茶)「マジホンキ、マジホンキ」
という一連の呼びかけと応答が行われるのである。
 これらの単純に反復される言葉は、現存在(=人間)の語りかけなのであろうか。この事実からして既に驚嘆と言うほか無いが、しかしこの言葉が余りに単純であるという事実こそが、実はその複雑さを示しているのである。ここでは、「マジ」及び「マジホンキ」、更に「マジホンキマジ」という三つの意味がそれぞれ分析されねばならない。
(編者註;後半は未刊。)

 第一声の「マジホンキー」は、携帯の忘却という事実に直面し、これに驚嘆しつつも問い確かめる声である。そもそも、この女性が製作した厚底靴は、現象学的に考察すれば、現存在が開示する、存在の真相を暴露している。それは「足元存在」ZufussenSein という事実である。これに対して携帯は、「形態(Gestalt)」という語と関係がある。従って「携帯を忘却した」という発言は「形態を失った」という意味である。これは、このCMにおいては暗示される程度に留まっている、手製の足元存在の「不恰好である」という真相を隠しつつも顕わにしているのである。
 これに関して更に述べれば、「ホンキー」は英語の「騒々しくてけばけばしい安キャバレーの」を意味するhonkey-tonkと語源を同じくしており、また「ホンキ」と同じ意味を持つ「ホント」は、「恥」を意味するフランス語のhontoと等しい語である。足元存在の非覆蔵性は、「不恰好で安っぽく恥ずかしい」という、その真相がここで開示されているのである。

 第二の「マジホンキ、マジ」は、存在に関して問われる声に応えながら、自己の携帯の忘却という驚くべき事実を、再確認し、発せられた声である。読者はここで同じように、存在の忘却という驚くべき事実を、再確認せざるを得ないのである。

 第三の、三度繰り返される「マジホンキマジホンキマジホンキ」は、なお驚嘆しながらも、先駆的に予量された将来への期待に向かって、逡巡しつつも受け入れ、決断する過程を示している。要するに
「これからどーするんだよ? どーすりゃいいんだよ? どーしようもねーよ。」
と言っているのである。
 「マジホンキ」はここでは極めて平坦に発声される。それは、逢引の平均的日常性において、余りに自明であるがゆえに忘却された携帯の現前性が、その欠如態において、不安の情態性のうちで迫ってくることを我々に語る。
 そして二人は、このコマーシャル映像の終末において、更に問いを発しながらも、現存在の平均的日常性である「ひと」の他者性へと消えてゆくのである。「学生さん金が無い」というテロップと共に示される女性の足元がこれを暗示しているのだが、「お足(が出ない)」という表現に見られるように、しばしば「貨幣」を意味することが判る、「足元存在」の不安定さのなかで。ここで「学割半額」という、あまりに直截であるがゆえに誰も読まないテロップと共に、隠されていた最後の真相がついに顕わになる。それは、おお、これがauという名の靴屋の半額セールの宣伝だった、という隠れもない事実である。


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