安楽死/尊厳死
( euthanasia/death with dignity )


1)自殺に関する伝統的見解

 a)自己決定(個人の自由)の立場
 ストア派;自殺の勧め
 「身体上問題がなければ、老年期の人生を自ら放棄しようとは思わない。しかし老いに心むしばまれ身体機能も衰えて、ただ呼吸しているだけのような、名ばかりの人生になったなら、さっさとくたびれた肉体から逃げ出そう。治る見込みがあり正常な精神生活が続けられる限り、病気から逃げ出して死を求めることはしない。苦しいからといって自殺するつもりもない。そんな状況で死を選ぶのは敗北だ。だが苦しみが際限なく続くとわかったとき、苦痛そのものより、苦痛によって生きる意味が失われるために、私はこの世に別れを告げるだろう。」(セネカ『道徳書簡』 引用は、クーゼ編『尊厳死を選んだ人びと』吉田純子訳 から)
  →日本(自殺大国);武士道―潔い死(=腹切り)の勧め、近松の心中物など、死を美しいものと見る伝統
   快楽主義→快楽をもたらさない生は意味がない

 b)自己を超える原理を認める立場
 キリスト教;自殺の禁止
 「13世紀の哲学者・神学者トマス=アクィナスは、自殺は罪であると考えた。…彼は人生(生命)が神からの贈り物であり、それゆえ神だけが人生(生命)を終わらせうるという理由で、自殺が不正であると考えた。彼はまた、自殺はその結果として、社会から有能な人たちを奪うため有害であり、また子どもから両親を奪うことになるので罪であると論じた。」(ペンス『医療倫理』宮坂・長岡訳を改変)
  →日本;儒教―親からもらった身体;それを傷つけるのは、不孝
  仏教−殺生の禁止

 m)自殺=心の病気
実際的な考え方をすれば、自殺は問題解決の一つの(非合理的な)方法であるとも言える。また、自殺者の多くは、正常な精神状態で死を選ぶ、ということはない。自殺未遂で助かった多くの人が、後になると、死ななくてよかった、と言う。
「自殺者は「死にたい」と思う反面、必ず「助けられたい」と願う心を共有しており、だからこそ救うべきだ。」(シュナイドマン博士)*
   * 大原健士郎 『生と死の心模様』 岩波新書(1991)

社会学者デュルケーム(『自殺論』)は、自殺を個人的な現象としてよりも社会的な現象として捉えた。
自殺には「1)自己本位的自殺」「2)集団本位的自殺」「3)アノミー的自殺」がある。
アノミーとは、「無秩序」を表わすギリシャ語で、自殺が多発する社会状況には、<個人の欲望の限りない増大>と<社会的規範の弱体化>という二つの特徴がある。
「アノミーは、現代社会における自殺の、恒常的かつ特殊的な要因の一つであり、年々の自殺率を現状のごとく維持している一つの源泉にほかならない。…自己本位的自殺は、人が、もはや自分の生にその存在理由を認めることができないところから発生し、また集団本位的自殺は、生の存在理由が生そのものの外部にあるかのように感じられるところから発生する。ところが、いま確認してきたこの第三の種類の自殺は、人の活動が規制されなくなり、それによってかれらが苦悩を負わされているところから生じる。その原因にちなんで、この種の自殺をアノミー的自殺と名づけることにしよう。」(デュルケーム『自殺論』 宮島喬訳)


2)死ぬ権利

a)SOLとQOL
医療の伝統的な立場は、命は神聖なものであり、できる限り患者の命を救うべきだ、というものであった。
医師の使命を述べた「ヒポクラテスの誓い」には、
 「何人に請るとも致死薬を与えず、またかかる指導をせず…」
という一文がある。
キリスト教の生命観と併せて、医者は少しでも患者の命を永らえさせることを目指してきた。
しかし、末期ガンの患者などにおいては、死なせてもらえないことが極度に残酷なことになる場合がある。
SOLとQOL:(Keyserlingk)
  「生きる」ことと「よく生きる」ことの区別
  生命の尊厳(Sanctity Of Life) −治療(cure)
  生の質( Quality Of Life) −看護(care)

b)間接的安楽死と積極的安楽死
  消極的安楽死;生命維持装置を外し治療しないことにとって死亡させる
  間接的安楽死;鎮痛剤などによって結果として死を早める
  積極的安楽死;毒物(実際には、筋肉弛緩剤など)を投与して死なせる


3)安楽死の現状

国内の安楽死を巡る判例
 1962年 名古屋高裁(山内事件)―6要件
1)不治の病、死が切迫
2)死に勝る苦しみ
3)病苦の緩和が目的
4)本人の意志
5)医師の手による
6)方法が倫理的に妥当
以上の六要件を満たしている場合、安楽死を認めてもよいという判断が示された。

 1995年 横浜地裁(東海大病院事件)―4要件
この判例は、患者の自己決定権を重視し、治療行為の中止=死を選ぶ権利(消極的安楽死)を認めただけでなく、
以下の四要件を満たしている場合には、薬物等によって患者の生命を短縮する「積極的安楽死」も許されるとした。
1)患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること
2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するための方法を尽くし他に代替手段がないこと
4)生命の短縮を承認する患者の明示の意思表示があること

海外の現状
 オランダとアメリカのオレゴン州の安楽死法(略)
 (2002年に、ベルギーでも安楽死法が施行された。)
これを考える場合に注意すべきなのは、オランダと日本には社会的・文化的に大きな相違があるという点だ。
オランダは、個人主義(自己決定=自己責任)の精神が極めて強い国で、麻薬や売春さえ合法化されている。
また医療制度(ホーム・ドクター制)や社会保障の制度(老人の医療費は全て無料)も行き届いている。
(興味のある人は、三井美奈『安楽死のできる国』(新潮新書)辺りを読んで欲しい。)

東海大学安楽死事件(ウィキペディア)


4)死ぬに任せることと殺すこと

これは、『ブラック・ジャックによろしく』でも扱われているケース。

ジョンズ・ホプキンスの症例(1971)
十二指腸の閉鎖(栄養と水分の通過が妨げられる)を生じたダウン症の幼児が、両親の要請で手術が為されずに死んだというケースがある。
これは、作為と不作為の問題である。
今、ジョーンズとスミスは、六歳のいとこが死んだら、遺産を相続する立場にあるとする。ジョーンズは、このいとこを浴槽で溺死させ、事故を装う。一方、スミスは、このいとこを溺死させることを決意して浴槽に行くと、いとこが滑って頭を打ち浴槽の底に沈んでいるのを発見する。ジョーンズは何もせず、いとこの死を見届ける。―この二つのケースは、一方が作為、もう一方が不作為である点以外は、全く同じである。両者の間に(つまり殺すことと死ぬに任せることとの間に)道徳的な差異は存在するだろうか?
「一つの重要な道徳的問題は、命に危機の迫った障害新生児を、治療せずにゆっくりと死ぬにまかせるよりも、単純に殺してしまった方が思いやりのあることではないのか、という問題である。…
治療しないことと嬰児殺しのいずれも、その意図は赤ん坊の死という同じものであり、またどちらの場合でも赤ん坊が死ぬという同じ結果がもたらされる。意図が同じで、導かれる結果も同じなら、どうしてこの二つが道徳的に異なりうるのだろうか。」(ペンス『医療倫理』宮坂道夫・長岡成夫訳)
  


5)尊厳死

リヴィング・ウィル(Living Will);尊厳死の宣言書
「私は、私の傷病が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。…
 私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切お断りいたします。
 但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施してください。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
 私が数ヶ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持措置をとりやめて下さい。
 以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。」


付録
尊厳死/リビング・ウイル(living-will)
一九七六年に、アメリカのニュージャージー州最高裁判所で、持続的植物状態で生命維持装置を付けられていたカレン・アン・クインラン嬢からその装置を外してよろしいという画期的な判決が出された。生命維持装置を外された後、カレンは自発呼吸を続け、九年間持続的植物状態のまま生き続けた。ちなみに、覚醒と睡眠の周期のある持続的植物状態では、個人としての知的精神的活動はできないが、植物機能としての自発的呼吸や血液循環、消化、さらに失禁しながら排尿、排便なども継続して、いつ果てるとも知れずに眠り続けている。その裁判の数カ月後にカリフォルニア州で、世界で初めてリビング・ウイルを法制化した「自然死法」が施行された。この法律には「成人が、末期状態になった時には生命維持装置を使わないか取り外すようにと、前もって医師に対して文書で指示する書面を作成しておく権利を認める」という内容が明記されている。この法律によって、カリフォルニア州の住民は、知的精神的判断能力がある間に前もって医師に対する自分の医療についての指示を書いたリビング・ウイルの文書を残しておけば、死ぬ前にその文書は法的に発効するので、医師は患者の意思に従って、延命治療をしないでよいことになった。このような文書は「生きているうちに発効する遺言」ともいえる。
生命維持装置を付けられた患者は、集中治療室の中で、人工呼吸装置、人工栄養装置、水分補給装置、持続導尿あるいは人工透析装置などに接続されたうえ、脳波、心電図、血圧、脈拍、呼吸などの持続的モニターの器具とも繋がれて、患者はチューブや電線などに囲まれて、俗にスパゲッティ症候群といわれるような状態で生かされ続けている。このような状態で生きていることに疑問をもち、生命維持装置などのやり甲斐のない延命医療の介入を止めて、寿命がきたら息を引き取れるよう自然な状態に戻してもらって、自分らしい死を迎えたいというリビング・ウイルを残す人が増えていった。つまり一分でも長く生きていることに生命の尊さや神聖さを認めるのではなく、自分らしい生き方をして死ぬことに自分の生命の質(クオリティー・オブ・ライフ)の高さを感じ、自然死すなわち尊厳死と考える人々が増えてきた。カリフォルニア州の自然死法に続いてアメリカの他の州でも同じような法律が制定されたが、尊厳死法と称する州も出てきた。
八一年に世界医師会が「患者の権利に関するリスボン宣言」を採択し、「患者は尊厳のうちに死ぬ権利を持っている」と宣言している。日本医師会生命倫理懇談会では九二(平成四)年春「末期医療に臨む医師の在り方」の報告書を発表し、末期状態を「六カ月以内に死が不可避な状態」と想定、自然死(尊厳死)を希望する患者の意思を尊重して延命措置を打ち切ることとし、リビング・ウイルの法制化を提唱した。九四年五月に日本学術会議は「尊厳死について」の報告書を公表した。これは重要な文書ではあるが、尊厳死の生命倫理学的意義が「終末期患者の人間としての尊厳を保ち生命の質を高めること」にあることが強調されておらず、また患者の意思を家族に忖度(そんたく)させて確認できるとするが、妥当ではないと思われる。
特に、植物状態の患者から強制栄養補給や水分補給を中止して死亡させるかどうかという場合に、本人の意思によらず、家族などの忖度により実施することは許されることではない。尊厳死は、元来、以上のような死を意味するのであるが、尊厳ある死と考えられる死、たとえば安楽死を含める人もあるが、適切でない。
(星野一正)『現代用語の基礎知識1999』


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