倫理学2

第2回(5月18/19日)

キリスト教の倫理

今回は、キリスト教です。

テーマは、絶対的道徳(神)、自由、内面からの自主的行為(愛)、という三点。

宗教と倫理

宗教と倫理は深い関係があります。

(キリスト教は宗教ですから、神話として予め与えられたものを信じて行動することが、求められます。

そこが理論に基づいて議論するという学問としての倫理学の立場と根本的に違う点です。)

明治時代のベストセラー、新渡戸稲造『武士道』 の序文(奈良本辰也訳)を読んでみましょう。

「約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。」

欧米の道徳の基礎にあるのは、キリスト教です。

(日本人の道徳の基盤が武士道であるかどうかには、大いなる疑問がありますが。)

今でも、欧米の学校では「宗教」の授業があり、そこで教えられるのは、キリスト教道徳です。

キリスト教以外の宗教の信者や、宗教は信じないという学生は、代わりに「哲学的倫理学」の授業を受けます。

前回にも言ったように、カントの倫理学説は、キリスト教の理論化と言ってもよいくらいなのです。

自由や主体性(内面性)の考え方は、キリスト教そのものです。

キリスト教の基本知識(1)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この三つは、同じ神を信じるという点で、親戚のようなものです。

(それぞれの宗教の信者は、違う神だと思っているようです。)

その同じ神というのは、『旧約聖書』における、「ヤハウエ」(昔は間違って「エホバ」と読まれた)という名の神です。

(「ヤハウエ」というのはヘブライ語で、「私は存在する」という意味。これが神の名前。

アッラーというのはアラビア語の「神」という普通名詞。神の名前ではありません。)

三つの宗教に共通の神は、

この世界のすべてを無から創造し(創造主)、

人間を自分の姿に似せて特別なものとして造り(人間=神の像)

さまざまな預言者を介して人間と契約を交わした神です。

ですから簡単に言うと、その神の言葉を誰が伝えたか、という違いが三つの宗教の違いです。

シナイ山で神と向かい合ってその言葉を伝えた、モーゼの言葉(『旧約聖書』)なのか、

新しい契約(=新約)をもたらした「神の子」イエス・キリストの言葉なのか(『新約聖書』)、

その口を借りて直接に神が人間に語りかける、ムハンマドの言葉(『クルアーン』)なのか、

どれを最重要と見るか、で三つの宗教は分かれます。

A)古代ユダヤ教(→キリスト教)における「自由」の概念

今回でいちばん重要な点。

私が昔書いた文章を読んでもらいましょう。

 『聖書』に描かれた、神と神の定めた人間の本質、及び神との契約という「絶対的な原理」から出発するのが、キリスト教の立場である。人間とはどういう存在か、『聖書』では、先ず、こう述べている。
 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(『創世記』1・27
 この「神のかたどり=神に似たもの=神の似像(imago Dei)」であるという点こそが、キリスト教文化において、人間の本質と考えられてきた当のものである。その際、身体は「土から造られ土に帰る」ものであるから、精神(霊)こそが、神に似たものだ、とされる。さらに、これに、最初の人間アダムとイブが神の命令に背いて、禁じられた知恵の木の実を食べたという「堕罪の神話」が加わり、神の命令にさえ背きうる自由な意志に、人間の最も神的な能力があるとされた。キリスト教の伝統的思考では、人間は根源的に自由であり、神が無から世界を創造したように、自分の未来を自分の意志で創ってゆくことが出来る存在である。これが「自律」という概念の原型である。
 さらに、ここから、人間は他の動物と違う特別の存在である、というヒューマニズムの第一の意味と、さらにはまた、どんな人であれ、神の被造物である以上は、少なくとも神の目には全ての人が平等である、という第二の意味が現われてくる。
 エルンスト・ベンツは、キリスト教の人間観を、こうまとめている。

「キリスト教の人間像の出発点は、人間が神の像に似せてつくられたという認識である――「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(創1:27)。この考えは神と人とは互いに神秘的に結ばれていることを伝えている。存在を超えてとらえるすべもない神は、被造物のうちの何ものかに自分の姿を映そうと欲し、人間を選んだ。…神は人間を特別な被造物へと高め、そこに自分自身の姿を認識し、自己意識をもとうとする姿をあらわしたのである。…神は自己実現のパートナーとして人間を選んだのである。…ところで、人間を人格としてつくったことによって、神は大きな危険を冒した。神の人格性の本来のしるしは自由である。人をみずからの姿にかたどってつくったとき、神は人間にこの高貴なしるし、自由を与えたのである。自由があってこそはじめて愛がある。この自由が与えられたからこそ人間は神のパートナーとして自由な愛を神に捧げることができる。…しかし、自由が与えられたことは、神に逆らい、また自分自身を自己の愛の対象にまで引き上げる自由をもつことをも意味する。「創世記」に「堕罪」として描かれている出来事の本質は、与えられた自由を人間がこころみ、神に反逆する決断を人間が自由のうちに下したことにある。人間は神から与えられた自由を誤用し、神に逆らい、みずから「神のごとく」ありたいと欲したのである(創3)。」エルンスト・ベンツ『キリスト教 その本質と現れ』南原和子訳 190頁)

堕罪の神話は有名です。

「園の中の木の実は何でも食べてよいが、知恵の木と命の木だけは食べてはならない」

という神の言葉に背いて知恵の木の実を食べ、アダムとイブは、楽園から追放されてしまうのです。

神が絶対的な存在で、この世のすべてを支配しているのなら、

なぜ人間に善いことも悪いこともできるような能力を与え、

その結果、悪いことばっかりすることを許したのか。

そのうえで、善いことをせよと約束させたのか。

普通に考えれば、疑問でしょう。

その理由は、人間を神の奴隷にしないためだというのです。

もし人間が他の動物と同じように、自然法則(=本能)にだけ従って行動する存在なら、

そこには善も悪もありません。

神の命じた正しい行為を、自ら選ぶ、という点に、善と悪の判断が生じるのです。

ですから、神は人間と契約を結びます。

ノア(ノアの箱舟)、アブラハム(ユダヤ民族の祖)、そして、民族の解放者モーゼ。

モーゼとモーゼの十戒(じっかい)が『旧約聖書』における契約の代表です。

いちおう、読んでおきましょう。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
5)あなたの父母を敬え。
6)殺してはならない。
7)姦淫してはならない。
8)盗んではならない。
9)隣人に関して偽証してはならない。
10
)隣人のものを一切欲してはならない。」(『出エジプト記』20章)

1から4までは宗教でしょうが、5から10 までは、法や道徳です。

これらについては、いろいろ言いたいことがあります。

例えば、「姦淫」とは具体的に何をすることなのか、

(後にイエスは、淫らな思いで女を見たなら姦淫したのと同じだ、

というようなことを言いますが、そこまで言っていいのいか?)

同性愛が姦淫に含まれるのはどうなのか、

などなど、考えるべき問題がいろいろあります。

2)についてだけ、一言。

普通は、これは、偶像崇拝の禁止だと理解されていますし、その通りです。

が、もっと深く考えると、人間が造ったものが神であるはずがないという主張です。

人間が自分たちで造り、それを神だと思って崇めるもの、それが偶像です。

その代表は、お金です。

金のために人を殺したり()騙したりする()人は、金が神だと思っている偶像崇拝者です。

イエスの言葉(『マタイによる福音書』第6章)。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたたちは、神と富とに仕えることはできない。
 だから、言っておくが、何を食べようか何を飲もうかと命のことで、何を着ようかと体のことで思い悩んではならない。命は食べ物よりもたいせつであり、体は衣服よりもたいせつではないか。空の鳥を見なさい。種をまくことも、刈り入れることも、倉に納めることもない。だが、あなたたちの天の父は鳥を養ってくださる。あなたたちは、鳥よりもはるかに価値のあるものではないか。あなたたちのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができるだろうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働くことも、紡ぐこともない。しかし、言っておくが、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、まして、あなたたちにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たち。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」などと言って、思い悩んではならない。それはみな、異邦人がせつに求めているものだ。あなたたちの天の父は、これらのものがみな必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものもすべて加えて与えられる。」

キリスト教の基本知識(2)

イエスが何を言い何をしたかが描かれているのが『新約聖書』の中に四つある「福音書」。

(福音というのは、あの「新世紀エヴァンゲリオン」と同じギリシャ語「エウヴァンゲリオン」の訳で

直訳は、Good News よい知らせ、です。

ちょっとだけ読んでみるのなら「マタイによる福音書」が宜しいでしょう。)

ユダヤ人の王が生まれたという知らせが伝わり、幼い子供たちがみんな殺された、

それを避けて、イエスの一家は、エジプトに逃れた、といったイエス誕生時の伝説は、

モーゼの説話をなぞることで、イエスが第二のモーゼであることを示そうとしています。

イエスはナザレという田舎町に生まれ、30歳ころから、

「神の国は近づいた。悔い改めよ」と、内面性を重視する革命的な教えを説き、

伝説では、病気を治したり、水をワインに石をパンに変えたり、死者を蘇らせたり、いろいろな奇跡を起こし、

「神の子」を名乗る犯罪者として捕らえられ、十字架の上で処刑され死にました。

キリストというのは名前ではありません。

ギリシャ語で「油を注がれたもの(=王)」つまり「救世主」という意味。

しかも神が人の姿をとって現れた、神の子。第二のモーゼ以上の存在です。

イエスこそがキリストであると信じる人が、キリスト教徒。

B)キリスト教における愛と自発性

キリスト教は「愛の宗教」であると言われます。

次のイエスの言葉は、キリスト教の本質をよく言い表しています。

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、おまえの神である主を愛せよ」。

これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。

隣人を自分のように愛せよ」。

律法全体と預言者の教えは、この二つの掟に基づいている。」マタイによる福音書22

「律法全体と預言者の教え」というのは『旧約聖書』のことです。

『聖書』の中で何が一番重要な言葉かと訊かれて、イエスは答えました。

1)神を愛せ

2)隣人を自分のように愛せ

大事なのは、この二つだけだと。

1)も2)も「愛せ」という命令文です。

キリスト教が「愛の宗教」であるということが分かります。


では、「愛する」とは何をすることなのか?

普通は「愛している(I love you)」というのは、「大好き」という意味です。

では「神を愛せ」というのは「神を好きになれ」ということですか?

「敵を愛せ」も「嫌なやつを好きになれ」という意味ですか?

そういう意味がまったく無いとは言いませんが、まあ、誤解でしょう。

第一、好きになれって、無理だし。

江戸時代、キリスト教は禁止されましたが、こっそり布教されました。

そのとき外国の宣教師が困ったのは、日本人にどう言って教えるかです。

「神」でいいのか、「愛」でいいのか。

そんなこと言ったら、日本人は間違いなく誤解するよ。

日本語では「神」って野山にたくさんいる霊のことだし、「愛」って「めでる」って意味でしょ。

「神」もまずいけど、「愛」もまずい。

「愛」は人の物を欲しがる欲望のことだって、商売敵の連中が言ってる。

「愛」はすべての苦しみを生む邪な欲望ですぞって、絶対、突っ込まれる。

じゃあ、「神」はダメだから、ここは訳さないで「デウス」のまんまでお願いしましょうか。

ええ、そうしましょう。

「愛」は「お・も・て・な・し」でどう?

それは日本人には悪い連想を生むから却下。

じゃあ、「大事にする」では?

「お大事に」って、病人の挨拶ですか。

じゃあ、「大切」ということで、どうですか?

「デウスを大切に」ですか。

それ、いいかも。

うん、それがいい、そうしよう!

というような対話があったのか、なかったのか、

江戸時代のキリスト教文献(例えば、『どちりいな・きりしたん』)では、そう訳してます。

「お母さん、愛してる」というのは、親を大切にすることです。

「神を大切にする」とは、いつも神の言葉を心に留めて尊重することです。

何をすればいいのか、分かりますよね。


次に、「隣人を自分のように愛する」というのはどういう意味なのか?

隣人というのは、たまたま隣にいる人、つまり任意の人です。

「人を大切にする」はいいとして、問題は「自分のように」です。

これを別の言い方で、イエスはこう言っています。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちも人にしてやりなさい。これこそ律法と預言者の教えなのだ。」

(『マタイによる福音書』第7章)

これは、一般には、相互性(reciprocity)と言われ、

ネガティブな表現だと「自分がされたくないことを人にするな」(仏陀・孔子)

ポジティブな表現だと「自分がしてほしいと思うことを人にしなさい」(イエス)

人間関係の基本です。

よく「道徳の黄金法則(黄金律)」と言われます。

倫理の法則で、何か一つだけ残せ、と言われたら、これかもしれない。

有名なイエスの言葉。

「あなたたちも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、悪人に手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、千歩行くように強要するなら、いっしょに二千歩行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
あなたたちも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…」(『マタイによる福音書』第5章)

私は、こういう言葉を読むと、イエス、ただものではないなと思うのですが、どうでしょうか。

でも、これも誤解されやすい言葉だと思います。

「人に優しくしなさい」みたいな意味だとおもっていませんか。

例題1

君は春休みにアルバイトをしたので、当座は必要でない貯金が30万円あります。

それを知った友人が、すまん、親友だと思って頼む。20万円貸してくれ、

と頼んできました。君がキリスト教徒なら、どうしますか?

1)貸す

2)だが、断る

どっちが正解ですか? またその理由は?

(少しくらい、考えてください)


次回まで待ってる余裕がないので、お答えします。

2)普通、友人との間で借金はすべきではありません。それが世間の常識です。

でも、キリスト教徒なら、という前提です。すぐ上に書いてあります。

「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

あなたは、神の言葉よりお金を大事にする、ただのケチです。

キリスト教徒なら、答えは明らか…

1)が正しいかというと、私はそうではないと思います。

20万円というお金は学生にとってどうでもいい額ではありません。

それを何も言わずに貸すというのでは、自分のことしか考えていないと言われても仕方がないでしょう。

正解は

3)友人と話し合う

です。なぜお金が必要なのか、聞かないで、貸すも貸さないもありません。

相手の事情を知らずに金を貸すというのは、相手の立場に立っていません。

自分のことしか考えていないのでは、そこに愛はありません。

大学が暇なので、遊びに行きたい、そのための金がほしいというような事情だったら、

死んでしまえ、と言って断ってください。

コロナ禍で授業料が払えない、というような、

まれに貸した方がいい場合があるかもしれない。

事情によります。

相手の立場に立つためには、徹底的に話し合いその人のことを知る必要があります。


例題2

君は熱心に授業に出て、完璧なノートを造りました。

倫理学の期末試験は、自筆ノート持ち込み可です。

君は試験で優秀な成績をとるでしょう。

それを知った友人の竹山が、すまん、親友だと思って頼む。カンニングさせてくれ、

と頼んできました。君がキリスト教徒なら、どうしますか?

1)させてやる

2)だが、断る

3)話し合うとかは、なし


これは例題1と似ていますが、内容は違います。

正解は2)しかありません。

「金を欲しがってるから貸してやろう」はOKですが、

「カンニングさせて欲しがってるからさせてやろう」はNGです。

なぜなら、この問題には神が関与するからです。

「愛せ」の順番には、1)神、2)隣人という、優先順位があります。

大事なのは、まず、神。

この世には絶対的な真理があります。

「盗むな」

「偽証するな」

といった神の言葉に背いてはいけません。

その次が、人。

もし私が竹山だったら、私は何をしてほしいだろうか?

私が神の命令に背いて悪の道に足を踏み入れようとしているとき、

目を覚ませと叱ってほしいのではないか。

「お前なんか、人間のクズだ!死んでしまえ!」と罵ってほしいのではないか。

いや、まだ時間はある。俺が教えるから、二人で頑張ってSをとろう!!

と励ましてほしいのではないか。

「自分のように愛する」とは、自分の立場を棄てて、その人のことを考えるということですが

前提に神がなかったらキリスト教ではありません。

何にしても、この場合は、「優しくする」のではなく、厳しくすることが愛です。


例題2は、「期末試験で、「カンニングして、良い成績をとろう」という竹山君の行為について」

という前回の課題と同じです。

a)カントとキリスト教は、理由は少し違いますが、だいたい同じ結論になるでしょう。

理由が違うというのは、みんながカンニングしたら試験の意味がなくなるから(普遍化不可能)とか、

楽をしたいという自分の欲望に負けて欲望の奴隷になっているから、というようなことです。

形式的にも内容的にも、自由な自己決定ではありません。

神の言葉を理性で置き換えようとするのが、カントです。

(下のコメントを参照してください。)

「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というイエスの言葉は、

無抵抗、非暴力主義の宣言ではなく、

神を信じる人にとっては、この地上を支配する一つ力である暴力も意味がない、

という宣言ではないでしょうか。

「コンビニでパン盗ってこい。嫌だなんて言ったらボコボコですよ」と言われたとき

「打って、打って、もっと、打って」と君が目を輝かせながら答えるなら

こいつはMだ、こいつはには暴力は通用しない、と思われるでしょう。

価値観がまったく違うからです。

戦争中、日本で最後まで戦争に反対したのがキリスト教です。

「汝、殺すなかれ」―神の言葉は絶対です。

投獄されようが、拷問を受けようが、どうでもいいことです。

(ガンジーの「無抵抗」という主張も、「塩の行進」に表れているように、

どんなに禁止しても止めないよ、という宣言です。)


なぜ、イエスは「愛」と言ったのか。

その意味は、もう明らかでしょう。

『聖書』に書いてある言葉を(例えば十戒を)守る、というだけではダメなのです。

それは神の言葉の奴隷です。自由の逆。

愛に基づく行為は、自分の内面から、自分の自発的な意志によって行われる行為です。

そこに本当の意味での自由があります。


キリスト教ヒューマニズム

「ある人が羊を百頭持っていて、その中の一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭を山に残しておいて、迷い出た一頭を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたなら、迷わないでいた九十九頭よりも、その一頭のことを喜ぶだろう。」(『マタイによる福音書』 第18章)

一人の人のために99人を犠牲にするなんて、功利主義の逆です。

「愛」の持つ、もう一つの重要な意味は、あくまでも「この人」を大事にするということです。

裕福だったり貧乏だったり、イケ面だったり不細工だったり、性格がよかったり悪かったり、

この世では、そうした価値によって、褒められたりディスられたりします。

しかし神の目から見ると、すべての人が、アダム(=人)の子であり、神の子です。

個人の絶対的価値、これを別名「尊厳」と呼びます。

神の目、神を信じる人の目から見ると、すべての人は等しく、尊厳があります。

キリスト教ヒューマニズムの根本にあるのが、この考え方でしょう。

「君が傷つき苦しんでいるとき、神はその何十倍も傷つき苦しんでいる」という

中世の神秘主義者、マイスター・エックハルトの言葉は、

キリスト教の本当に美しい思想を言い表した言葉だと思います。


愛は不可能なことを要求する

人には厳しくて、自分には甘い、といった

「ダブル・スタンダード」(省略すると、「ダブスタ」)は、普通は非難される言葉ですが、

私が思うに、多くの人は、普段は、

煙草を吸う、とか、パチンコをするとか、

自分では行わないけど、人がやっていても非難はしない(許す)といった基準をもち、

少なくとも二つくらいの違う基準を持っていて行動しているのではないでしょうか。

自分に厳しい場合には非難されません。

広い意味での倫理は、最低守るvべき基準ですが、

狭い意味での倫理は努力目標です。

でもそれこそが大事なものではありませんか。

功利主義なら、悪を増やす行為は避けろ、と最低限度の基準を示すことができますし、

なるべく多くの幸福をもたらすような行為を選べ、という努力目標を示すこともできます。

カントの義務倫理でも、普遍化不可能=それ自体で矛盾する行為は避けよという枠組みと

自分の欲望に負けず、理性が命じる正しい行為を選べ、という努力目標があります。

キリストが説いた新しい教えは、明らかに、努力目標、個人の規範倫理です。

だから、その言葉は厳しい。

『旧約』の律法は、広い方の、外面的な基準を示しています。

「殺すな」「盗むな」はできるでしょう。

「敵を愛せ」とか、できますか?


倫理というのは、しばしば不可能なことを命じるものです。


次回は、ソクラテス。


課題

次のテーマについて、400字から800字程度で、述べなさい。(LETUSで提出。期限は翌日まで)

「君はコンビニでアルバイト中に万引き犯を捕まえました。

彼はこう言います。

「俺が警察に連れていかれたくないことは君も分かるよね。

「自分がその人なら、その人がしてほしいと思うことをしなさい」って『聖書』書いてあるよね。

警察に連れていくのはダメだよね。

君だって本当は面倒だし商品は返したし、見逃してやりたいって思ってるんだだろう。」

君は彼に何と言い、どうするべきですか。」


前回の課題についてのコメント

読むだけで精一杯。一人一人の回答にコメントをつけるのは、無理です。

ここでまとめてコメントをつけておきます。


A) カント義務倫理の場合、行為の普遍化可能性と行為の動機という二点から、

カンニングしたら試験の意味がなくなるからダメ

勉強して自分の能力を上げるのではなく、楽して単位を取りたいという動機がダメ

あるいは、上で書いたように、自分の理性によって決めた自由な行為ではない、

ということを書くべきでしょう。

B) 功利主義でよくある誤解は、

「カンニングでよい点を取ると、他の人の評価が少し下がることになるから全体から見て悪い」

これはカンニングと関係がないでしょう。

まっとうに勉強していい点を取っても他の人の偏差値が下がるからダメということになりませんか。

偏差値は常に全体で50なのですから、功利主義で顧慮する必要はありません。

いちばん多い回答は、結果として自分の幸福が上がって、他の人は同じだから、全体で+

善い行為であるというものです。

これは結果と全体にの幸福を考えていますから、功利主義の考え方ですが、

私は違うと思います。

その理由はいろいろありますが、

まず、カンニングがばれて留年する可能性を計算しないのはどうかしていると思います。

功利主義の結果というのは予想される結果で、たまたま上手くいったという結果ではありません。

カンニングが見つかる可能性が1%だとしても、バレたら他のテストも零点、よくて留年です。

普通に考えればこれは大きな不幸です(来週は不幸ではないと言うでしょう)。

見つからなくても、単位が1つ取れるだけ、見つかったら留年。

全体としてみた場合、どちらがより幸福でしょうか。

善い成績をとるのは「最大幸福」をもたらしますから、功利主義でも善いことですが、

手段であるカンニングはダメです。

どちらも、カントやベンサムの回で、改めて詳しく説明します。


→資料集

→村の広場に帰る