倫理学12

12回(7月27/28日)


フェミニズム

今回のテーマは、フェミニズム。「女性」という問題です。

女性としての美徳とは何か、という徳の倫理の問題だとも言えます。

今回は、そのいくつかの問題を扱います。残りは、後期の倫理学で。

普段なら、もう夏休みに入る頃ですが、来週まで講義、

再来週は試験ということで、もう少しです。


前回の課題

「吾輩はニーチェである。名前は、フリードリッヒ。

先日、親戚が亡くなったので葬儀に行きたいと思うのだが、

「神は死んだ」と公言している手前もあり、どうしようか迷っておる。

あんたは、どう思う?」

これは、個人の信念と、共同体の慣習との対立という問題です。

多くの日本人は、仏教だろうがキリスト教だろうが、

葬式と宗教の関係は気にしないで、葬儀に出るでしょう。

葬式自体も、宗教的行事というより、社会的な習慣とみなされています。

そういう状況ならば、宗教のことなど気にせずに、出席すればよいでしょう。

しかし、そうでない状況では、話はそれほど単純ではありません。

欧米では、少なくとも20世紀前半まで、キリスト教は強い力を持っていました。

「神が存在しないなら、全てのことが許される」

という、ニーチェと同時代のドストエフスキーの言葉は、

神を信じない無神論者が、良心を持たない、反社会的な犯罪者とさえ

みなされかねないという当時の事情を示しています。

ちょっと前までは、外国で宗教を聞かれたら、

「無神論者です」とは言うな、

「まったく熱心ではない、仏教徒です」と答えておけ、と言われたものです。

ですから、ニーチェ先生。どちらを選ぶかは、あなた次第です。

葬式と宗教は関係ないと割り切って、

(そうです、もともと宗教と葬式は関係がありません。)

死者への敬意を示すために葬儀に出席するのもよいでしょうし、

あなたがキリスト教やキリスト教道徳を否定していることは周知の事実なのですから、

親族に迷惑がられたり、石を投げられたりしかねませんので、

隣人との余計なトラブルを避けるために出席を見合わせるものよいでしょう。



倫理学説における性差

今回は、まず、コールバークの道徳の発達段階説と

それに対するフェミニストの批判を見ておきます。

これまでの倫理学説は、中高年の男性の思想家が作ってきたから、

男性特有意の思考が影響している、という批判です。

最初に、「ハインツのジレンマ」という問題を見ておきます。


ハインツのジレンマ

「ある女性が特殊なガンで死にそうな状態にあった。

彼女の命を救うには特別な薬が必要だったが、

薬を開発した薬剤師は、それを法外な値段で売っていた。

(原価2万円の薬を20万円で売っていた。)

彼女の夫ハインツは、半分の金しか集められず、薬屋に相談したが、

この新薬で私腹を肥やしたいと思っている薬剤師は、値引きも分割払いも断った。

思いつめたハインツは、薬屋に押し入って薬を盗んだ。

これは正しい行動だろうか?」


突っ込み所はいろいろありますが、

これは、発達心理学者のコールバーク(1827-1987)が

子供の道徳意識の発達を調べるために作った問題の一つです。


典型的な回答例。

11歳の男の子ジェイクは、こう言って、ハインツの行動を肯定しました。

「泥棒は悪いことだけど、命はお金より尊いんだから、ハインツのとった行動は、悪くはない。

薬屋は20万円なくても生きていけるけど、薬がなかったら奥さんは死ぬんだから。

それに、事情を知ったら、裁判官も分かってくれるよ。」

これに対して同じく11歳の女の子エイミーは、

「ええっと、どうなんだろう。盗むのはだめ。

サラ金でお金を借りるとか、ローンを組むとか、他の方法があるんじゃないかな。

盗むのはダメ。でも、奥さんが死んじゃうのもだめ。

薬を盗んだら、奥さんは助かるかもしれないけど、

ハインツは捕まって刑務所に入れられるわ。

そしたら、奥さんはどうなるの。誰が奥さんの世話をするの。

だから、もう一度よく話し合って、別のやり方を考えるべきだわ。」

と言って、ハインツの行動を否定しました。


そもそも発達心理学を始めたのは、スイスの心理学者ピアジェです。

ピアジェは主に子供の論理的能力・数学や物理学の能力の発達を研究しました。

コールバークは、そのピアジェの弟子で、

子供の道徳意識の発達を専門的に研究しました。

その子供の道徳意識の発達を、彼は。六段階に分けました。


 (A)慣習以前の水準―命令する人の権威や行為の結果から

1)罰と服従への志向

2)道具主義的相対主義への志向

1)は、弟をいじめるとお父さんとお母さんに叱られる、とか、

お菓子を盗むとお巡りさんに捕まえられる、といったレベルです。

2)は、弟をおだてておけば、弟のおもちゃでも遊べるし、お母さんも何か買ってくれる、

というような、人を手段として利用するというような段階です。

自分が損をするか得をするかで考えることが、この段階の思考の特徴です。

1)と2)は、道徳以前の段階です。

 (B)慣習の水準―自分の属する集団の期待に応える

3)対人的同調、あるいは「よい子」への志向

4)法と秩序の維持への志向

3)は、周りの人の期待にこたえて行動する、普通の道徳的行動のレベル。

子供が「いい子」の役割を演じる段階。

4)は、集団のルールや決まりに従って行動するという、これも普通の道徳的行動のレベル。

違いは、3)他の人との関係なのか、4)一般的な法則なのか、という点です。

 (C)慣習以降の水準―自律性と原理からの判断

5)社会契約的な遵法への志向

6)普遍的な倫理的原理への志向

5)と6)は、意識高い系の、一般的な原理から自分で判断するというレベル。

5)は功利主義、6)は、カントの義務倫理を思い出すとよいでしょう。

  (英語ですが、→Wikipedia―Kohlberg's stages of moral development


このコールバーグの理論によれば、

女の子エイミーの答は、

奥さんとハインツ、薬屋とハインツという対人関係を中心に考えているから、

私的関係を重視する第三段階(対人的同調への志向)に当たります。

一方、男の子ジェイクの答は

「命はお金より尊い」という、一般的な原則から判断しているので、

法や倫理原則から判断する第四・五段階に立っていることになります。

こうした様々な心理テストの結果から、コールバークは、

「男子の方が女子より高い道徳意識の発達段階に達している」

という結論を出しました。


ギリガンの批判

フェミニストが黙っているわけがない。

キャロル・ギリガン(Carol Gilligan, In A Different Voice)は、

コールバーグ先生は、おっさん臭くて、うざいんだよ、と批判しました。

これまでの倫理学の理論は、ぜ〜んぶ、いい年こいたおっさん達が作ってきたでしょ。

特におっさんは、そうなんだけど、男って、一般的な法則、大好きよね。

数学者とか理論物理学者とか、もう、男ばっかし。

リーダーが指示を出して、みんなはそのルールに従う、なんて典型的な男のやり方よね。

このジェイクって男の子もおんなじ。

「命はお金より尊い」って、どこかで聞いた一般法則で割り切ってる。

だから、こんな答が出ないような問題でも答えが出るのよ。

それに男の子って、戦いが大好きでしょ。

悪いやつと戦って勝つのが大好き。

この薬屋は悪いやつだから、やっつけろ、ってこの子、本当は言いたいのよね。

男って、単純なのよ。

そう、男の倫理って、「正義の倫理」なのよ。

一般的な法則を作って、何でもそれで判断するの。それが「男性の道徳」。

具体的な対人関係なんて、少しも考えていない。

女は違うわ。

具体的な人間関係のなかで、考えるの。

「ハインツのジレンマ」っていうこの問題で、いちばん大事なのは奥さんよ。

エイミーは、まず奥さん、次にハインツ、おまけに薬屋さんのことも考えてるから、

簡単に答えが出ないの。

それが女。女は共感と他者への応答から出発するから、まず一緒に悩むのよ。

一般的な法則で割り切るなんてしたくないの。

「女性の倫理」、それは「ケア(care)の倫理」。

「配慮の倫理」、「気配りの倫理」なの。

薬を盗むなんて犯罪は、人間関係がもう壊れてる証拠。

アメリカのある州には二つのグループがいて、

犯罪の90%は、その一方のグループがやってるの。

それが、男っていうグループよ。

薬屋さんともっとよく話すとか、薬屋さんの奥さんに相談するとか、

人間関係を深めるって方向で、考えていかなきゃだめ。

男の倫理って、なぜ、お互いの親密さとか、気遣いとか、

私とあなたっていう、私的な関係を大事にしないの?

だから、すぐ犯罪とか戦争とか、間違った方に行くのよ。

コールバーク先生が間違っているのは、

抽象的なもの、一般的なものを重視する男性の思考にはまってるんで、

3)の段階をより深めるって方向を見失ったってこと。

「配慮の倫理」に思い至らなかったのも、そのせい。

エイミーがジェイクより道徳意識が低いなんて、大間違い。


ある解説書には、こう書いてあります。

「ギリガンは、コールバーグの発達段階が抽象性、普遍性、形式性などという男性に特有の思考原理に基づいた「道徳性」理解に基づいており、行為主体の経験的脈絡や人間関係を重視する女性に特有の道徳性を不当に低く評価していると批判した。…コールバーグ的な道徳を<男性の道徳>とし、これに対し、行為主体が現実に切り結んでいる人間関係や、他者への責任・ケアに道徳の基礎を置く<女性の道徳>を対置させるのである。」(佐野安仁・吉田謙二編『コールバーグ理論の基底』)


さて、どうでしょうか?

確かに、肉体的にも精神的にも、男女差はあります。

殺人事件なんて、若い男性の専売特許です。

そういう事実は、倫理を考えるときに無視していいものでもないでしょう。

(人を殺してはいけないというルールに性別は関係ありませんが、

殺人事件が起こるのを防ぐ場合には性別の違いを考慮してもよいでしょう。)

そして倫理学説においても、そういう性差の影響があるかもしれない。

前回も見ましたが、カントとベンサムが代表する、近代の倫理理論が、

「ケアの倫理」が重視する、具体的な人間関係とか身近な他者への配慮とかを、

重要視してこなかったのは事実です。

カントの義務の倫理にも、功利主義の理論にも、私的人間関係への顧慮は希薄です。

(カントは、家族への配慮も、愛情より「義務」ですし、

ベンサムは、家族よりもっと貧しいアフリカ人を配慮せよとか言いかねない。)

しかし、それが倫理学の理論そのものの欠陥なのでしょうか?

個人の私的関係が顧慮されないのは、善かれ悪しかれ、

そうした個人的事情を超えた、一般的なルールを倫理の理論が求めているからです。

個人的な人間関係が倫理的判断の結果に影響を及ぼすことこそ、変なのです。

では、ケアと責任の倫理とは、何なのでしょうか?


具体的な例として、いま、小さい子どもを二人育てながら、

パートで弁当の製造販売の仕事をしている女性がいるとします。

職場で上司が売れ残りの賞味期限切れの食品を使って弁当を作るように指示したとします。

彼女はどういう行動をとるべきでしょうか?

男性的な「正義の倫理」からすれば、

それは味の低下とか食中毒とか客に迷惑をかけ、客の信頼を裏切る行為ですし、

そもそも法律違反ですから、そうした不正行為はなされるべきではありません。

上司への反抗や場合によっては内部告発が義務であるかもしれません。(→職業倫理)

しかしそうした態度をとれば、立場の弱い彼女が

上司からの嫌がらせや解雇という辛い立場に追い込まれることは目に見えています。

ただでさえ苦しい生活のなか、解雇されれば、

不利な立場にある彼女が新しい仕事をみつけるのは大変でしょう。

彼女にとって一番大事なことは何なのか?

今は幼い二人の子どもを立派に育てることでしょう。

女性的な「配慮(care)と応答(responsibility)の倫理」から考えれば、

反抗や内部告発といった手段は避けるべきかもしれません。

では彼女はどうすればよいのか?

泣き寝入りですか? それもダメですよね。

「配慮の倫理」によれば、各人の立場を配慮した解決策が求められるしかないでしょう。

上司とよく話し合って、不正なことはしたくないという自分の意思を伝えることはするべきでしょう。

少なくとも、そういう雰囲気は醸し出さないといけないような気がします。

というよりも、そもそも上司が命令し、それに従って部下は奴隷のように働く、というこの職場のあり方、

上司に対して、パートにはないも言う権利がないという、

男社会特有の人間関係のあり方に、まず問題があります。

普段から、そういう風にならないように、

互いに意思疎通しながら、誰もが満足する職場の人間関係を作るべきだったのでしょう。


しかし、この例でも、各人のしたいことを重視する、とか、みんなが幸せになる

という義務倫理や功利主義の大原則は、話の前提にあります。

その上で、それをどう実現するかというプロセスで、「配慮の倫理」が問題になっています。

「配慮の倫理」は「正義の倫理」に取って代わるものではありません。

むしろ行為や行為する人の性格に関わる理論です。


だとすれば「配慮の倫理」は、結局は「徳の倫理」の一部であると位置づけられます。

徳の倫理は、行為する人の性格やその優れた行為(=美徳)に焦点を当てます。

「しかるべき時に、しかるべき仕方で、しかるべき行為を為せ」

というのが、アリストテレスの標語です。

優れた行為は必ずしも一般的な法則に還元できません。

「しかるべき仕方」というのは、その場の状況で違ってきます。

例えば、世界では女性蔑視と女性差別の甚だしい国であるとみなされている日本で、

(→男女格差、日本は149カ国中、110位)

アイスランドやノルウェーでと同じ行動を取るのは、優れた行為ではないでしょう。

上のお弁当屋さんの例でも、状況によって、とるべき行為は変わってくるでしょう。

職を失うことになっても、内部告発という行動をとる方がいいこともあります。



ウーマンリブとフェミニズム

1960年代に「ウーマンリブ」と呼ばれる運動がありました。

女性解放運動(Woman Liberation Movement)、略して、ウーマン・リブ。

中心地はアメリカでした。ベトナム戦争で若い男の数が減ると

女性の役割が大きくなります。

男性と同様の「女性の権利」を主張し、あらゆる面での「男女平等」を要求しました。

「女性解放運動」―その後裔がフェミニズムです。

ウーマンリブは「男女平等」という名の下に、社会的な女性差別の廃止を強く主張しました。

これに対し、現代のフェミニズムは、―私の希望ですが―、

男女の差を認めながら、より善い女性の生き方を考えようとしています。


フェミニズムの基本的な立脚点は、両性の人間としての同一性です。

伝統的に、人間の本質は「精神」であり、ゆえに自由であると考えられてきました。

肉体が偶々どちらかの性であるという偶然の事実によって、

精神の自由が脅かされるようなことがあってはならないでしょう。

こういう考え方を代表するのが、マルクス主義や、ボーヴォワールです。

昔の大学生なら誰でも知っていた、ボーヴォワール『第二の性』の一節。


「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。社会において人間の雌がとっている形態を定めているのは、生理的宿命、心理的宿命、経済的宿命のどれでもない。文明全体が、男と去勢者の中間物、つまり女と呼ばれるものを作りあげるのである。他人の介在があってはじめて個人は<他者>となる。」

(ボーヴォワール『第二の性』 「ボーヴォワール『第二の性』を原文で読み直す会」訳)


「性」の違いは、100%社会によって作り出されているというわけです。

女性特有の思考を主張する、上のギリガンとは、反対です。

だから、これはウーマンリブで、フェミニズムとの違いは、ここだと、

ここに線を引きたい気がします。

でもそうすると、従来の性役割が正しかったと無批判に考えられかねません。

それも困る。

藤井聡太さんの棋聖位獲得で、将棋界に注目が集まっていますが、

百何十人かいる将棋のプロのなかに、これまでも今も、女性は一人もいません。

確かに、理数系ですから、男の方が将棋に向いている傾向はありますが、

これは、どう考えても変です。

でも、女性のプロ棋士の数を男性の数と同じにしなさい(ウーマンリブ)、

と主張するのも同じくらい変です。

フェミニズムの主張には意味があるのです。



「性」とは何か?―セックスとジェンダー

「性」には少なくとも二つの違った意味があります。

セックス(sex

ジェンダー(gender

この二つの違いは、まず押さえておく必要があります。

「セックス」は、生物学的・身体的な性の違い、「性別」です。

「ジェンダー」は、もともとは、文法上の「男性名詞/女性名詞」という性の違いでしたが、

これを一般化して、文化や社会的習慣によって作られた「性役割」を意味します。

「スカート」とか「主婦」とか「化粧」とか、女性のジェンダーそのものです。

「男の子だから泣かずに我慢しなさい」なんていうのも、ジェンダーです。

結婚、家事、子育ては女の本能でも女の義務ではない!

(付録を読んでください。)

身体が女であることで、なぜ女の社会的役割を引き受けなければならないのか?

セックスとジェンダーは関係ない、というのが、ちょっと前までのフェミニストの主張でした。

日本のフェミニストの代表者、 上野千鶴子さんはこう書いています。


「セックスとジェンダーのずれを問題化したのは、ジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』(1976)であった。ジョン・ポプキンズ大学の性診療の外来をうけもっていたふたりは、半陰陽や性転換希望者などを相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた。(中略)

 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっとも重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。万一外性器に異常があっても、もし遺伝子やホルモンが性差を決定するならば、患者たちは周囲の性別誤認にもかかわらず、自然に「男性的」もしくは「女性的」な心理的特徴を発達させていたはずである。マネーとタッカーは、生物学的性差の基礎のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性差とはセックスではなくジェンダーであることを、明確に示した。人間においては、遺伝子やホルモンが考える、のではない。言語が考える、のである。」

(上野千鶴子「性差の社会学」 岩波講座 現代社会学11『ジェンダーの社会学』より)


簡単に、結論から言います。

セックスとジェンダーの無関係さを証明するとされる、この双子の実験は間違いでした。

(興味があれば、ジョン・コラピント『ブレンダと呼ばれた少年』 を読んでください。)

「半陰陽」というのは、生まれつき男女の区別がつかないような子供です。

両性の性器を持っているという場合もあります。

現代では、本人が大きくなるまで待ち、本人の希望を聞いて処置します。

しかしこの当時は、小さい頃に、どちらかの性に決めてしまう方が普通でした。

そういう医療の経験から、マネー教授は、性とは身体ではなく環境や教育で決まると考えたのです。

そのマネー教授が待ち望んでいた、格好の患者が現れました。

それが、上の「ブレンダと呼ばれた少年」です。

この子は、一卵性双生児の兄でした。名前はブルース。

生後半年ほどしても、おしっこの出が悪いので、両親は包茎手術を受けさせました。

ところが、この手術は大失敗で、ブレンダはペニスを失ってしまいました。

途方にくれた両親は、この分野の権威であるマネー教授のところへ相談に行ったのです。

そこで、マネー教授は、この子を女の子として育てましょう、と提案しました。

双子の一人を男の子として、もう一人を女の子として育てて、それが上手くいけば、

身体と性は関係がないという自分の学説をはっきりと証明できるからです。

マネー教授の『性の署名』(1976)には、この試みは成功したと書いてあります。

ブレンダは11歳になった今も、女の子として幸福に暮らしている、と。

これはまったくの嘘でした。

実際のブルースは、自分が女の子であることに納得できず、苦しんでいました。

ブレンダという女の子の名前を与えられ、女の子の服を着せられ、女の子として学校に通っても、

すぐに男の子とけんかをしたり、女の子の服を着るのを嫌がり、

立っておしっこをしたがったのです。

女の子になるためのホルモン注射をするマネー教授には嫌悪感を持っていました。

そして後になって両親から本当のことを聞いたとき、やっぱりそうだったんだと、

ブルースは全てを理解したのです。

その後、ブルースは、もちろん男の子として暮らしました。

みなさんは、これを当然のことと思うかもしれません。

でも事態はそう簡単ではありません。

上の『ブレンダと呼ばれた少年』のあとがきには、

ブルースはバツイチの女性と結婚し父となり、幸せに暮らしていますと書いてありますが、

彼はその後、離婚し自殺して死んでいます。

マネー教授がやったことは許されることではありませんが、

彼の治療で幸せになった人も、たぶん、少なからずいたでしょう。

「性」という現象は、単純ではないのです。

何はともあれ、上の上野千鶴子さんの論文には重大な間違いがあります。

そのことは、この論文が書かれたときには明らかになっていました。

フェミニズム、女性差別の実態を指摘し是正しようとするだけでも

その存在価値はありますが、

いろいろと難しいです。


今回は、ここまで。残りは、後期に。今回の課題、難しいですよ。

次回は、仏教の倫理。



付録

「母性」という神話

女性が生得的に母性の持ち主であり、育児に適しているという考え方は、誤解かもしれない。

エリザベート・バダンテール『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)より

「数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。

だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。

パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディーやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警視庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告書は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万から九十万である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるのは千人である。他の一万九千人は里子に出される。」

「一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするように勧め、子どもに授乳をあたえるように「命ずる」書物が数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもたちにたいして本能的な愛を抱くという神話である。」


「著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。」(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)


課題

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

「私は20歳の女子大生です。今年のコロナ禍で、アルバイトの仕事がなくなってしまいました。

実家は観光業で、同じくコロナで、大打撃を受けています。このままでは学費も払えません。

水商売でもして、学費を稼ごうと思うのですが、どうでしょうか?」


→資料集

→村の広場に帰る