倫理学11

11回(7月20/21日)


大学の講義は半期で、試験を除くと、13回ほど行うことになっています。

ですから、講義は、今回を除くと、あと二回です。

予定は、フェミニズムの倫理と仏教の倫理。


現状では、IRL(=in Real Life)で試験を行うことは困難なようです。

オンラインで90分時間を区切って、試験をするか、

レポートにするか、どちらかしかないでしょう。

韓国で、オンラインで試験をしたら、80%ほどカンニングがあったというニュースが前にありました。

コピペとかまったく同じ答案とか、零点という条件で、試験かレポートですか。

それで成績を評価します。

詳しいことは、13回目に発表します。


前回の課題

君は環境庁長官、小泉進次郎です。レジ袋の有料化について、清水化学工業から、

次のような意見が届きました。環境庁長官として見解を述べなさい。
「1.ポリエチレンは理論上、発生するのは二酸化炭素と水、そして熱。ダイオキシンなどの有害物質は発生しない。
.石油精製時に(ポリ)エチレンは必然的にできるので、ポリエチレンを使用する方が資源の無駄がなく、エコ。

ポリエチレンは石油をガソリン、重油等に精製した残り・余りもの。
.ポリ袋は薄いので、資源使用量が少量で済む。
.ポリ袋は見かけほどごみ問題にはならない。目に見えるごみの1%未満、自治体のごみのわずか0.4%。
.繰り返し使用のエコバッグより、都度使用ポリ袋は衛生的。
.ポリ袋はリユース率が高い。例)レジ袋として使用した後ごみ袋として利用
さらに、環境省のデータでは海洋プラごみの容積で見ると、ポリ袋は全体の0.3%。」


無茶な課題を出してしまいましたが、回答は、二つあります。

一つは、正論。

「仰る通りです。

レジ袋は、石油のごみをリサイクルして作られている、エコ製品です。

海の汚染も、ペットボトルに比べれば、ほとんど害はありません。

ポリ袋を使う方がエコだということが、よく分かりました。

レジ袋の有料化なんて、間違いでした。

余計な法律なんか作ってしまってすみません。」

人としては、これが正しい。

そもそも法律なんて必要最低限のものに留めるべきです。

もう一つは、環境庁長官として、公式見解を繰り返すことです。

「仰ることは、ごもっともです。よく検討させていただきます。しかし、

海のプラスチックごみを減らすため、ああたら。

国民に環境への意識を、こうたら。」

社会人としては、こちらの方が正解かもしれません。

環境庁のやってることを長官が否定してはいけないですよね。

あと、力業で、この二つを矛盾なく統合するという夢のような方法もありますが、

まあ、厳しいでしょう。


さて、今日は、ニーチェ。

ニーチェ(Nietzche 1844-1900)は19世紀後半のドイツの哲学者。

「神は死んだ」「超人」という言葉が有名。

ついでに、徳の倫理にも少し触れます。


二―チェ


1)神の死とニヒリズム

まず、ニーチェがいきなり「神は死んだ」と宣言した、短い文章を読んでください。


狂気の人─君たちはあの狂気の人のことを聞かなかったか。─真昼間、提灯をつけて、広場に出てきて、ひっきりなしに「俺は神を探している!俺は神を探している!」と叫んだ人のことを。

─―広場にはちょうど神を信じない人たちが大勢集まっていたので、彼はたちまちひどい物笑いの種になった。神様が行方不明になったのか、とる者は言った。神様が子どものように迷子になったのか、と他の者は言った。船に乗ったのか? 移民というわけか?─彼等は口々に叫び笑った。

狂気の人は彼等の中に飛びこみ、鋭い目つきで睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」と彼は叫んだ、「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が!我々はみんな神の殺害者だ。

だが、どうしてそんなことができたのだ?地球を太陽から切り離すようなことをどうしてやってしまったのか? 我々は無限の無の中をさ迷って行くのではないか?絶えず夜が、ますます暗い夜がやって来るのではないか? 真昼間から提灯をつけなければならないのではないか?

─―神は死んだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」

─―ここで狂気の人は口をつぐみ、改めて聴衆の顔を見た。聴衆もまた押し黙って、訝しげに彼を見つめた。ついに彼は、提灯を地面に投げつけた。提灯は壊れて消えた。「俺は早く来すぎた」と彼は言った。「まだその時ではなかった。この恐るべき出来事は目下進行中なのだ。まだ人間たちの耳には達していないのだ。電光と雷鳴は時を要する。実際に起こった後でやっと、人の目に入り耳に入る。この所業は、人間たちには最も遠い星よりもまだ遠いのだ。─にもかかわらず彼等はこの所業をやってのけたのだ。」


少し説明します。

この話は、古代ギリシャのディオゲネス(→ウィキペディア)の逸話を下敷きにしています。

ディオゲネスはソクラテスの流れをくむ犬儒派の哲学者。

真昼間にランプを提げて「俺は人間を探している」と言ったという逸話があります。


ニーチェは、何の理由もいわず、神の死を既成の事実として宣言します。

まだ誰も気づいていないが、事実として神は死んでいるのだと。

その理由は簡単です。

もともと神など存在しなかったからです。

宇宙の隅々まで探求したら、どこにも神が存在しないことに、

人間は遠からず気付いてしまうだろう、ということです。

ではなぜ、神が存在すると信じられていたのか?

それは、神が必要だったからです。

人は生きていくために、神の存在を必要としたからです。


では神とは何か?

それは、目には見えないが全てを支配している、永遠の真理のことです。

ニーチェに言わせると、キリスト教の神とは、大衆版のプラトン主義です。

プラトンは、この世界の背後に、この世界の原型である超感覚的世界があると考え、

それをイデアの世界と呼びました。

例えば、自然法則そのものの世界を考えてみてください。

数学の法則とか、e = mc2 といった物理法則の世界。

それはどこにもない、ただの数式ですが、宇宙の全てを支配する真理です。

そういう真理と真理の世界があると考えることは、少しも変ではありません。

でも、一般人には分かりにくい。

そこで、神という、人に似た(人が神に似ているのですが)存在を想定し、

その意志によって世界は動いている、と考えることになったのです。

この世界の彼方に、神の国や天国があるのだと。

その方が、分かりやすいから。


では、なぜ神の存在が必要だったのか?

人は自分が生きていることには意味がないという事実に耐えられないからです。

この考えを、ニヒリズムといいます。

「ニヒリズム(nihilism)」とは「無(nihil)である」、という立場をいいます

世界が存在する意味、自分が生きている意味、それは無だ、とニヒリズムは言います

これはかなり厳しい考えです。

自分が突然、原因不明の病気になっても、そこには何の意味もない。

君や君の最も大切な人が誰かに殺されても、そこには意味はない。

もともと人が生きていること自体に、何の意味もない。

こんな考えに耐えられますか?


ニーチェの遺構からの、次の一節を読んでみてください。


「キリスト教の道徳という仮説は、どんな利益をもたらしたか?

1)それは、人間に絶対的価値を与えた。

  生成と消滅の流れのうちにある人間の卑小さや偶然性に反対して。

2)それは、神の弁護者の役割を果たした。

  …禍害は十分に意味があると思われたのである。

3)それは、絶対的価値についての知を人間に与えた

4)それは、人間が人間である自分を軽蔑しないように、

  生に敵対しないように、認識することに絶望しないように、取り計らった。

  つまりそれは、自己保存の手段であった。」

(『力への意志』第一巻「ヨーロッパのニヒリズム」4)


人は生きていくために、何らかの「意味」を必要とします。

辛いことがあっても、それは神の試練だと思えれば、希望が持てます。

4月にTBSで再放送していたドラマ「仁」でも、

「神は乗り越えられる試練しか人に与えない」という台詞が何度も言われていました。

この世の善さや人生の有意味性を、人は信じたいのです。


でも、神は死んだ。

ニヒリズムが現われざるを得ないのは、我々が世界の内に、

そこにはない「意味」を探し求めたからです。

その結果、ニヒリズムが到来する。

ニーチェによれば、これは避けられない事実です。

では、そこで、人はどのように生きることができるのでしょうか?



2)キリスト教の批判

神なき世界での人の生きる道を示すのが、ニーチェの「超人」です。

それを見る前に、キリスト教がなぜダメなのか、ちょっと見ておきましょう。


ニーチェはキリスト教を「ルサンチマン」の宗教だと言います。

Ressentiment、フランス語です。英語のresentiment

恨み、嫉妬、嫌悪などの「怨恨感情」を意味します。)

ニーチェによると、「善い/悪い」という言葉の本来の意味は、

騎士的/貴族的(日本なら武士的)見方で、

<力を持つ、常に創造的、生を楽しむ>という特徴を持つ、

自己肯定的な感情のことで、それが「善い」の本来の意味です

具体的には、戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技など

強く快活で自由な活動を含む全てのものを意味します

その逆が「悪い」。

力なく、生を創り出せないもの、弱いもの、劣っているもの、です。


キリスト教は、これをひっくり返した、とニーチェは言います。

マックス・ウェーバーが「パーリア(賤民)の宗教」と特徴づけたように、

キリスト教は、常に弱者たちの間に信者を広げて、力を拡大して来ました。

この世で富や力を持つ者は、この世にそこそこ満足しており、

神から遠ざかっているから「悪い」とされます。

逆に、惨めな者、貧しき者、力なき者、一般的に言えば、弱者たちは

この世を捨てて、ただ神を求めるから善い。

つまり、権力者たちは悪い、それに比べると、弱者は善い。

(だから「善い」行為とは、「無私、自己否定、自己犠牲」といった

<非利己的な行為>です。)

出発点が、悪いものである権力者たち。

絶対的な価値(=神)を立てることによって、

強者の現実肯定的な態度を、否定できるのです

そこには弱者の、強者に対する復讐の感情があります


例えば、君の学校に評判の美少女がいたとします。

君は外見でも人望でもその人には勝てません。

だから君はこう思います。

あの人は、確かにちょっとカワイイわ。

でも、この学校だから、ちやほやされているだけ。

斉藤由貴(「跳ね駒」再放送中)と比べたら、ゴミよね。

由貴ちゃんはホントにカワイイ。神。

それと比べたら、あの人も私も、おんなじゴミ。

ちょっとカワイイからって、得意になって、最低。

私の方が、まだましなくらいだわ。

――こういう考え方の底には、嫉妬や恨みの感情があります。

それがルサンチマンです。


韓国が世界中に建てようとしている「少女像」、私は大嫌いです。

なぜなら、そこには「ルサンチマン」しかないからです。

(小林よしのり『慰安婦』、過去の『ゴーマニズム宣言』から集めたもので、

文字がやたら多いので読むのは大変ですが、

この問題について知らなかったら、一読を勧めます。)

人は他人を恨んで生きて行っても、幸せにはなれません。

自分の中で「これは善い」という何かを見つけていくしかないのです。



3)超人と永劫回帰

「超人」というのは、決して、赤いマントを着て空を飛ぶような

スーパーマンのことではありません。

人間の新しい生き方を示す言葉です。

これまでの人間の生き方を超えている「超えてる人間」です。

それは簡単に言えば、新しい価値(例えば、自分の生きる意味)を

自分で創り出すことができる人間のことです。

 『ツァラトゥストラかく語りき』(Also Sprach Zarathustra

という本の中で、物語の形で、二ーチェはこの思想を表現しました。

(ツァラトゥストラというのは、ゾロアスターのドイツ語形。

ゾロアスターはペルシャの宗教の教祖です。

モーツァルトのオペラ『魔笛』の聖者ザラストロとも同じで、

エキゾチックな賢者のイメージなのでしょう。

文体は、『新訳聖書』のパロディです。)


「超人」の正反対の「末人」の方から、見てみましょう。

末人(=終わりの人間)とは、「畜群」ともいわれる、

もっともダメな人間の生き方、

他人と同じでいい、というより他人と同じがいいという、

家畜化されて、創造力を失った人間たちのことです。


「最も軽蔑すべき者達について私は語ろう。それは末人(最後の人間)だ。

人間の土地はまだ十分に豊かである。

しかしこの土地はいつか不毛になり活力を失くすだろう。

高い木がそこから生えてくることは出来なくなるだろう。

私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、

人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。

私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。

災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る

災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。

見よ! 私は君達に末人を示そう。

『愛って何? 創造って何? 憧憬(あこがれ)って何? 星って何?』

こう末人は問い、まばたきをする。

そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。

末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。

末人は一番長く生きる。

『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。

彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。

彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。

ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。

人はもはや貧しくも豊かにもならない。どちらも面倒くさすぎる。

支配する者もいないし、従う者もいない。どちらも面倒くさすぎる。

飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。

考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かう。」(「ツァラトゥストラの序説」5


ずいぶん皮肉っぽく、ニーチェは書いてます。

「踊る星」とか、まるで詩です。

「大地」というのは生命力や未分化なエネルギーの象徴です。

「少しの毒」というのは、酒やドラッグのことでしょう。

「多量の毒」というのは、安楽死のことです。

20世紀の大衆社会の戯画だと昔はよく言われました。


さて、いよいよ、その反対の、超人。

ツァラトゥストラの口を借りて、ニーチェはこう言います。


「聞け、私は君達に超人を教える。

超人は大地の意義である。

君達の意志は、こう言うべきである、超人が大地の意義であれ、と。

兄弟たちよ、私は君達に切望する、大地に忠実であれと。

君達は地上を超えた希望を説く人々を信じてはならない。彼等こそ毒の調合者である。

かつては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。

しかし神は死んだ。そして神とともに、それら冒涜者達も死んだのだ。

今日では大地を冒涜することが、最も恐るべきことである。


まことに、人間は不潔な河流である。

我々は大海にならねばならない。

汚れることなしに不潔な河流を呑みこむことができるために。

聞け、私は君達に超人を教える。超人はそういう大海である。

その中に君達の大いなる軽蔑は流れこむことができるのだ。


私は愛する、人間たちの上を蔽う暗黒の雲から一滴一滴と落下する、重い雨粒のような者たちを。

彼等は稲妻の到来を告知する、そして告知者として滅びるのだ。

見よ、私は稲妻の告知者だ、雲から落ちる重い雨粒だ。

この稲妻こそ、すなわち超人である。」

(「ツァラトゥストラの序説」3/4


これも、半ば詩です。

「大地」「大海」「稲妻」などの言葉が超人の比喩として使われています。

キリスト教では人間の本質は精神です。

自由な意志や理性が、神の国に属する、人間の本来の価値で、

肉体や感性は、克服すべき弱点とさえ考えられてきました。

だから人間の本当の姿は歪められました。

新しい価値ということで、例えば、

芸術作品の創造という場面を考えてみてください。

音楽や絵画の作品をつくるのに、理性や意志だけで大丈夫ですか?

(計算で曲を作る人もまれにいます。AIもそうです。)

音楽家は自分の身体の中から生き生きした楽想が湧いてくるのを感じます。

画家は自分の身体を世界に溶け込ませることで、絵を描きます。

芸術家の閃きというのは、理性に対しては狂気(稲妻)です。

理性と感性という対立を超えた、より深い生命の働きがあるのです。


生きる意味の場合でも同じです。

理性と自由な意志だけで、本当に善く生きることができるでしょうか。

精神や理性という人間の半分だけでなく、

肉体や感性を含めた、より大きな人間の全体性、

それは「生」という言葉で呼ぶことができる根源的なエネルギーの流れです。

自分に嘘をつかずに生きるためには、自分の身体の声に耳を澄まさなくてはなりません。

本当の自分を見つけるためには、生きていて

自分が本当に楽しいことは何かを知らなければならないでしょう。

自分で新しい価値を創るとは、そういうことです。


説明は省きますが、「永劫回帰」について最初にニーチェが書いた文章を読んでみてください。


「最大の重し―或る日、デーモンが君の最も淋しい孤独の中まで忍び寄り、こう言うとしたらどうだろう。『お前が今生きている、これまで生きてきた、この生を、お前はもう一度、さらには無限にわたり、繰り返し生きなければならない。何も新しいものはない。あらゆる苦痛とあらゆる歓び、あらゆる思念とあらゆる溜息、お前の生の言うに言われぬありとあらゆるものが些大もらさず、戻ってくるのだ、しかも全てが同じ順序で。―この蜘蛛も、木の間をもれる月の光も、今のこの瞬間も、私自身も。存在の永遠の砂時計は、そしてその中の砂粒にすぎないお前も、何度も繰り返しひっくり返されるのだ。』―君は地に身を投げ出し、歯軋りをして、こう語ったデーモンを呪わないだろうか?それともデーモンに、『お前は神だ。これより神々しいことは聞いたことがない!』と答える程の、とてつもない瞬間をこれまでに体験したことがあるだろうか?」

(『悦ばしき智慧』341



徳の倫理(アンスコム)

二十世紀の後半になって、近代の倫理学説への反省から、

「徳の倫理(virtue ethics)」という新しい第三の流れが現われてきました。

その主たる論点は、

1)倫理学の原点であるアリストテレスの倫理思想に回帰する。

2)道徳的法則にはではなく、なされるべき行為の性質や行為者の性格に注目する。

3)行為者の属する共同体(community)の価値観を考慮する。

(3)は、アンスコムではなく、マッキンタイヤー『美徳なき時代』の論点です。)

この流れを生み出したのは、まず、1958年に発表された、

アンスコム(G. E. M. Anscombe, 1919-2001)の論文

「近代の道徳哲学(Modern Moral Philosophy)」です。

この論文、かなり難解です。

論点をまとめると、


カントの義務倫理と、ベンサムとJ.S.ミルの功利主義という、

近代の代表的な倫理学説は、ともに

0)「善」と「正義」を混同し、道徳的行為の「よさ」をその行為の「正しさ」に還元しようとしている。

1)行為の「正しさ」は、道徳法則への一致として理解される。

 道徳法則とは神の法の代理物である。

2)カントも功利主義者たちも、道徳法則の「立法者」の存在を前提にしている。

3)20世紀も後半を過ぎた現在、我々の多くは神を信じていない(「神は死んだ」)のだから、

 聖なる「立法者」という観念も、それに基づく「義務」という観念も、もはや無意味である。

4)また、現代の倫理学者が前提にしている、

 「結果が良ければどんな行為も道徳的に許される」という帰結主義(consequentialism)は間違っている。

したがって、

5)アリストテレスが探求した「幸福(エウダイモニア)」

すなわち「生きがいのあるよい人生を送ること(human flourishing or success)」

(それは「徳=優れた性質の実現」によって導かれる)

こそが倫理学において問われるべき事柄であり、

7)道徳の一般的法則ではなく、

 よい人生とそうした人生を送ることを可能にする人間の性格の研究が、

 また、義務に基づく美徳ではなく、

 「法則」や「義務」といった観念に依存しない「徳(アレテー)」の分析こそが、

 倫理学が取り扱うべき本来のテーマである。


カントの倫理学がキリスト教の理論化という性格を強く持つことは、これまで何度か注意しましたが、

ベンサムの功利主義も、すべてを見通す神の視点から、人間の快苦を計算するという点において、

「神の法の代理物」という性格がないとは言えません。

その点は、ひとまず置いても、絶対的な法則によって、行為の善悪を決定しようという方法は共通です。

そして、その法則が「絶対的」であるのは、「神」の代理という性格を持つからだ、と言うことは可能です。

「道徳法則の絶対性」

これこそが疑わなければならない、近代倫理思想の前提かもしれません。

つまり、絶対的真理を前提して、そこから行為の善悪を判断するという方法は、どうなのよ、という疑問です。

ニーチェのところで書いたように、「神は死んだ」という認識が現状なら、

客観的な「絶対」を想定すること自体に問題がある、ということになります。

具体的に言えば、「自由」や「幸福」が絶対ではないだろう、ということです。

家庭生活で不満があれば、当事者たちでルールを作る努力が必要です。

学校でも、社会でも、国でも、同じかもしれません。

ある場所の、個々人の合意によって、下からコツコツと築き上げていくべきもの。

倫理というのは、そうしたものではないのか、とも考えられます。

その場合、その個人がいま生きている現場の価値観も考慮されねばなりません。

伝統的な共同体の価値観を配慮する立場が、共同体主義(communitarianism)です。


共同体主義

倫理学の理論の出発点には、自由な個人があります。

カント(自己決定する自由な主体)

ロールズ(無知のヴェールに覆われた理性的個人)

シンガー(世界中の人たちの利益を配慮する功利主義者)

それは、この世のどこにもいない、抽象的な存在です。

現実の個人は、身体を持ち、みなこの世のどこかに、

ある家族、ある組織、ある国家、

そうした共同体の一員として存在しています。

そうした共同体の中に埋め込まれた自己として、日々暮らしています。

共同体にはそれぞれの価値観があり、それに従って、我々は生きています。

以前の課題で出したような、

自分の家族より遠い国の知らない誰かを大事に考えるお父さんなど存在しません。

善い行為を考えるとき、そうした価値観を無視していいのでしょうか?

(白熱教室で有名になった、サンデル教授が共同体主義の代表者です。

『これからの「正義」の話をしよう』は、半分以上が倫理学です。)


しかし一方で、そうした伝統的な価値観は、偏見や差別と隣り合わせです。

5/60年前には、人種差別、女性差別、動物の種差別など当たり前でした。


私は、カントの義務倫理と、ベンサム&ミルの功利主義は、

いろいろ欠点はあるものの、有効な理論だと思っています。

義務倫理や功利主義的な観点で考えると、

上に書いたような差別が間違いだと分かります。

共同体の価値観を大事にするということは、

それに無批判に従うことではなく、

他の共同体の価値観や、普遍的な倫理学の理論と対比しながら、

その是非について、くり返し問い直していくことだと思います。



課題

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

「吾輩はニーチェである。名前は、フリードリッヒ。

先日、親戚が亡くなったので、葬式に出ようと思うが、

「神は死んだ」と公言している手前、ちょっと迷っておる。

あんたは、どうしたらいいと思うか?」



付録―『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)より

精神の三段の変化

わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

畏敬を宿している、強力で、重荷に堪える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

最も重いものは何か、英雄たちよ、と、この重荷に堪える精神はたずねる。わたしはそれを自分の身に担って、わたしの強さを喜びたいのだ。

最も重いのは、こういうことではないか。おのれの驕慢に痛みを与えるために、自分を低くすることではないか? 自分の智慧をあざけるために、自分の愚かさを外にあらわすことではないか?

(中略)

すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。

しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。このとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものにしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

その砂漠でかれはかれを最後に支配した者を呼び出す。かれはその最後の支配者、かれの神の敵になろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な竜と角逐する。

精神がもはや主と認めず神と呼ぼうとしない巨大な竜とは何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な竜の名である。しかし獅子の精神は言う、「われは欲す」と。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有鱗動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。(中略)

わたしの兄弟たちよ、何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念に満ちた駱駝では不十分なのか。

新しい諸価値を創造すること――それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目指して自由をわがものにすること――これは獅子の力でなければできないのだ。

自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。(中略)

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろうか。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

そうだ、わたしの兄弟たちよ、創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

精神の三様の変化をわたしは君たちに述べた。どのようにして精神が駱駝になり、駱駝が獅子になり、獅子が小児になったかを述べた。――


ツァラトゥストラはこう語った。そのときかれは「まだら牛」と呼ばれる都市に滞在していた。


純潔

わたしは森を愛する。都市は住むに堪えない。そこには淫蕩な者が多すぎる。

淫蕩な女の夢のなかに落ちこむよりは、殺人者の手に落ちこむほうが、ましではないか。

またあの男たちを見るがいい。彼等の目が語っている。―彼等はこの地上で、女と寝るよりましなことは何も知らないのだ。

彼等の魂の底には泥がたまっている。しかもその魂に精神があるとなると、災いである。

彼等が、せめて動物として完全であるならいいのだが。だが動物であるためには、無邪気さが必要なのだ。

わたしは君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。わたしが勧めるのは、官能の無邪気さだ。

わたしは君たちに貞潔を勧めるのではない。貞潔は、ある人々においては徳であるが、多くの者においては、ほとんど悪徳である。

そういう多くの者も、なるほどおのれの欲望をおさえはする。しかし、彼等の行う一切のことから、肉欲の雌犬の妬みの目がのぞいている。

彼等の達する徳の高みへも、彼等の持ちつづけている冷ややかな精神の底にも、この雌犬とその不満とは、ついていく。

そしてこの雌犬は、一片の肉が拒まれると、なんと殊勝げに一片の精神をねだることだろう。

君たちは悲劇を愛するのか。すべての悲痛なものを愛するのか。しかし、わたしは君たちの内部に住む雌犬に心を許すことはできない。

わたしの見るところでは、君たちはあまりにも残忍なまなざしをしている。そして悩んでいる者たちを淫らな目でながめるのだ。それはただ、淫欲が変装して、同情と自称しているだけではないのか。

さらに、こういう比喩を君たちに与えたい。世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れの中へ走りこんだという人間が少なくないのだ。

純潔を守ることが困難な者には、純潔を思い切るように勧めるのがいい。純潔が、地獄―すなわち魂の泥と淫蕩―への道とならぬために。

わたしが汚らわしいことについて語っているというのか。だが、これはわたしの語る最悪のことではない。

認識をこころざす者が、真理の水にはいることをいとうのは、その水が浅いときだけであって、真理が汚らわしいからといって、彼はその中に入ることをいといはしない。

まことに、根本的に純潔な人々がいるものだ。彼等は心から柔和に、君たちよりも、好んで笑い、ゆたかに笑う。

彼等は純潔そのものをも笑う、そして言う。「純潔とは何であるか。

純潔とは愚かしさではないのか。しかしこの愚かしさは、愚かしさのほうからわたしたちのところへ来たのであって、わたしたちがわざわざその愚かしさに近づきになろうとしたのではない。

わたしたちはこの客に、わたしたちの心を宿として提供した。そこで今彼はわたしたちのところに泊まっている。―泊まっていたいあいだは、そこに泊まっているがいい」


ツァラトゥストラはこう語った。 


→資料集

→村の広場に帰る