石田梅岩(1685−1744)


石田梅岩は、禅の思想体験を朱子学の言葉で語り、町人の正しい生き方を教えた。
その教えは心学と呼ばれ、弟子たちの活躍もあり、江戸後期、全国に広まった。
明治時代になって、心学の学校も教師も姿を消したが、利己心を捨て心を磨く、その教えは、
倹約・勤勉・正直といった徳目とともに、明治時代以降の道徳の教科書の中に残り、広範に広まった。

0)生涯
京都の山村に百姓の次男として生まれる。11歳の時、京都の商家に丁稚奉公をするが、途中で止めて田舎に帰る。その後、23歳の時、再び京都の商家に奉公し、神道や儒教を独学で学ぶ。43歳の時、師の小栗了雲に出会う。裏の森で雀が鳴く夜明けに体験した、禅の悟りに似た自らの経験を、こう記述している。
「その時、腹中(ふくちゅう)は大海の静々たるごとく、青天の如し。その雀の啼(な)ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分って入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を離れ給いしとなり。」
その後、梅岩は、京都の自宅で、質疑問答をまじえながら、集まってきた町人たちに無料で講釈し、「商人に商人の道あること」を教えた。

「本質的には、この過程に含まれることは、天地の心と一体である心を曇らせないようにすることである。曇らせるものは、人間的な心、利己的な心、あるいは欲望心と呼ばれる。梅岩は、曇らされているものを示すのに、たんに、心(英訳すれば「精神(マインド)」)という言葉を、ほとんどの場合に使用しているが、これは、ある専門語特有の複雑さをもつようになっている。梅岩の弟子、手島堵庵(てしまとあん)は、本心(ほんしん)という言葉を使ってこの困難を解決したが、この意味は、利己的、あるいは貪欲的な心とは対照的に、基本的な心あるいは本源的な心である。それで、利己的な心によって曇らされているのは、自己の本心である、ということができる。いずれにしても、利己心を排除することが重要な点である。…それらを排除する方法にはいくつかある。
 第一に、最も形式的であるが、瞑想の実行である。「心を空にし」、そうしてから「性」を知る。…梅岩はそれを、工夫あるいは静座と呼んだ。工夫とは努力を費やすことであり、静座は、たんに、静かに座っていることである。…
 第二の方法は、禁欲主義の実行によるものである。…瞑想の実行は、明確に、日常生活から離れた宗教的なおこないであったが、これ反して、梅岩の唱えた禁欲主義は、明確に、商人および農民倫理の特徴である実際的な倹約と容易にまじりあい、これを強めているものである。
 最後に利己心は、自己の義務と職業に献身することで排除することができる。…」
(ベラー『徳川時代の宗教』池田昭訳 岩波文庫)

1)身分社会の道徳
a) 知性・知心(性を知る、心を知る)
「形に由るの心」―本質は同じだが、形は異なる、と言うか、形は違っても本質は同じ、という意味。
「ぼうふらは水中では人を刺さないが、蚊になるとたちまち人を刺す。」
ここで「同じ人間」という面を強調すると、身分社会を否定する革命の理論になるが、梅岩の意図はどちらかと言えば逆で、
同じ人間だが身分に応じて取るべき正しい行動は違う、という点に重点がある。

b) 知足・知分(足るを知る、分を知る)
「一般的に言えば道は一つである。しかし、士・農・工・商それぞれの道があります。商人は申すまでもなく、士・農・工・商のほか乞食までそれにはそれの道があります。
こういう話を聞いたことがあります。或人が近江(おうみ)の国へ行くと、そこに非人(賎民)の部落がありました。そこで新しい橋の渡り初めの祝儀をしているのを立ち止まって見ると、親方と思われる男が、わらの座蒲団にすわっていて、村の人たちがその祝いの品物を持って来ます。その中から、やせて顔色の悪い男が一人、茄子(なすび)を三つ持ってきて親方の前に出しました。親方はそれを見て、「おまえはこのごろ病気をしていると聞いたのに、どうして茄子を持って来たのか」と訊いたので、「そのことですが、長く病気で苦しんでいたところに、このたび新しい橋ができたので親方へ祝儀をしろと、小頭から言われたので、昨夜よその畑へ行って盗んできました」と答えた。親方は「乞食は盗みをしないためにするものだ。盗みをすれば乞食はしない。おまえは村から追い出す」と言って小頭を呼び、「この男の病気がなおったら村から追い払え。病気のうちは見張っておけ」と言い渡したということです。飢えて死んでも盗まないのが乞食の道です。」(『都鄙問答』加藤周一訳)


c) 忠孝―実践の重視
「学問の道は、第一に自分を正しくし、正義に従って主君を尊び、仁と愛で父母に仕え、友人と交際するのに偽りなく、ひろく人を愛し、貧しい人をあわれみ、手柄があっても威張らず、衣服から諸道具にいたるまで、つつましくして美麗なものを避けることです。家の仕事に精通し、財産は収入を考えて出費を決め、規則を守って家の秩序を維持します。学問の道はおよそこういうものです。」(『都鄙問答』加藤周一訳)

2)商業倫理
「武士は義のために利を捨てるが、商人は利のために義を捨てる」と言われ、世間からディスられていた商人だが、
その商人に、プライドを持って生きる道を説いたのが心学である。
a) 倹約
商人の蓄える利益は、その人だけのものではない。天下の宝である。
倹約は、「知足知分(足るを知る、分を知る)」の表現とされ、道徳的価値を与えられる。
そのポイントは、
1)そのもの自体の価値を重視し、物を生かすという精神と、
2)私欲を含まない「無私」の行為である、
という点にある。

「倹約ということは世俗に説くとは異なり、我が為に物事を吝(しわ)くするにはあらず、世界の為に、三つ要る物を二つにてすむようにするを倹約と言う。」(『石田先生語録』)

「欲深い心がなくて、一銭の失われるのを惜しみ、鎌倉の青戸左衛門が十銭を川に落とし、五十銭を出して人夫をやとっても、国全体のために落とした十銭を拾わせた気持を、よく理解しなければならない。」(『都鄙問答』加藤周一訳)

「倹約の至極というは天下のためにも道のためにもわが身のためにもあらず。ためと言うに意あらば実にあらず。何もかも打ち忘れて法を能く守るを倹約と思えり。」(『石田先生語録』)

b) 正直・勤勉
家業に精を出す(=勤勉)
商人の得る利益は、武士の俸禄と同じ、正当な利益である。
だからこそ、商人は「正直」であることが大事。水の上に落ちた一滴の油のように、ちょとした誤魔化しが全てを駄目にする。
お客さんに買って貰うから商売ができるということをちゃんと考えないといけない。
「実(まこと)の商人は先も立ち、我も立つことを思ふなり」

「商人は正しい利益をおさめることで立ちゆくので、それが商人の正直です。利益をおさめないのは商人の道ではありません。だから、正しい人は、損になってもまけてこの品物を売りましょうと言われるときには、買いません。こちらが買うのは相手に利益を得させるためです。…利益を取らないのは商人の道ではない。」(加藤周一訳)

不正な商売の典型は、「二重利得」を取ることである。


参考文献
石川謙『石田梅岩と『都鄙問答』』(岩波新書)
加藤周一編『日本の名著18 富永仲基 石田梅岩』(中央公論社)
(「都鄙問答」を現代語訳で、「石田先生語録」を原文で収録している。こうした名著が新品で買えないのは困った事だ。
未読だが、
いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14 石田梅岩『都鄙問答』 』(致知出版社)が出ている。)
柴田実『石門心学』(岩波書店 日本思想体系42)

ベラー『徳川時代の宗教』池田昭訳 (岩波文庫)

(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』の方法を江戸時代に適用したこの研究では、
多くのページを梅岩の心学の分析に費やしている。)


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