徳の倫理
(Virtue Ethics)

二十世紀の後半になって、近代の倫理学説への反省から、倫理学の原点であるアリストテレスの倫理思想に回帰しながら、道徳的法則にはではなく、なされるべき行為の性質や行為者の性格に注目する、徳の倫理という新しい流れが現われた。
この流れを生み出したのは、1958年に発表された、アンスコム(G. E. M. Anscombe, 1919-2001)の論文「近代の道徳哲学(Modern Moral Philosophy)」である。
アンスコムによれば、カントの義務倫理とベンサム及びJ.S.ミルの功利主義という、近代の代表的な倫理学説は、ともに
1)「善」と「正義」を混同し、道徳的行為の「よさ」をその行為の「正しさ」に還元しようとしている。
2)行為の「正しさ」は、道徳法則への一致として理解される。道徳法則とは神の法の代理物である。
3)カントも功利主義者たちも、道徳法則の「立法者」の存在を前提にしている。
4)20世紀も後半を過ぎた現在、我々の多くは神を信じていない(「神は死んだ」)のだから、聖なる「立法者」という観念も、それに基づく「義務」という観念も、もはや無意味である。
5)また、現代の倫理学者が前提にしている、「結果が良ければどんな行為も道徳的に許される」という結果主義(consequentialism)は間違っている。
したがって、
6)アリストテレスが探求した「幸福(エウダイモニア)」すなわち「生きがいのあるよい人生を送ること(human flourishing or success)」(それは「徳=優れた性質の実現」によって導かれる)こそが倫理学において問われるべき事柄であり、
7)道徳の一般的法則ではなく、よい人生とそうした人生を送ることを可能にする人間の性格の研究が、また、義務に基づく美徳ではなく、「法則」や「義務」といった観念に依存しない「徳(アレテー)」の分析こそが、倫理学が取り扱うべき本来のテーマである。
8)そのためには、「意図すること」「欲すること」「快楽」「行為すること」などという用語に関する新しい心理学が必要である。

マッキンタイヤー(Alasdair MacIntyre)は、『美徳なき時代(After Virtue 1981)』において、徳の中心概念を「実践(practice)」という言葉で表現する。
ホメロスでは「屈強さ」が美徳と呼ばれ、アリストテレスでは「(戦いにおける)勇敢さ」が、初期のキリスト教では「謙虚さ=己を卑しくすること」が美徳と呼ばれている。多くの時代、多くの場所で、種々多様な性質が「徳」と呼ばれ、それらの間には矛盾するものも多い。
しかしそうした表面的な多様性の奥に、中心となる徳の概念は見出されうる。
「ルター派の牧師は子供に、状況や結果がどうあろうとも何時でもみんなに本当のことを言うべきだと信じるように育てた。カントはその子供たちの一人だった。伝統的なバンツー族の両親は、家族が魔法の攻撃にさらされる危険があるので、知らない人には本当のことを言わないように、子供を育てた。私たちの文化では、新しい帽子を披露するために大叔母の家に招かれた時、本当のことを言わないように育てられた。しかしこれらのどの掟も、本当のことを言うという美徳が認められていることを示している。」
「徳とは、それを所有し実行することによって実践に内属する善が獲得され、それを欠けばそうした善は何も獲得できないような、習得される人間の性質である。」
それには、三つの視点というか、「三つの段階」がある。
1)「実践」
フットボール、チェス、建築、園芸、諸々の学問や芸術といったような、
「それを通してその形態の活動に内在する善が実現される、社会的に確立された人間の共同の活動」
2)「一人の人生における物語性(the narrative order of a single human life)」
「人間は本質的に…物語をする動物である。『私は何を為すべきなのか』という問いに答えることが出来るのは、『私はどんな物語の一部なのか』という先立つ問いに答えることが出来て初めて、なのだ。」
3)「道徳的伝統を構成するもの」

徳の倫理の主張点
徳の倫理は、行為する人の性格と自己実現に関する倫理である。
その目標は、徳の実現とそれによる善い人生の実現(開花)であり、その特徴は、
1)徳にはそれ自体で価値があるという視点(内在的価値)
2)行為者の自己同一性(個人の人格的統合性)
3)他者との関係(=共同態)における自己実現
という点にある。
個人の美徳を追及することは、西洋古代・中世において、倫理学の中心的課題であったし、中国の倫理思想のテーマでもあったが、
特にアリストテレスを重視し、その「徳(アレテー)」、「幸福(エウダイモニア)」、「思慮(プロネーシス)」、「目的(テロス)」、「共通善」といった概念を再利用することを試みている。

ところで、「徳の倫理」とは何なのだろうか。
確かに、徳の倫理は重要な論点を提示している。
実際に、義務倫理や功利主義だけでは、我々が日常生活で実行している行為の倫理性を説明することは出来ない。
例えば、街中で友人が倒れたので助けるという行為と、街中で倒れているサラリーマンのおじさんを助けるという行為には、義務倫理と功利主義の観点からは、何の差もない。それどころか、優先的に自分の友人を助けるという選択は、不道徳な行為であるかもしれない。
しかしそこには、友人に対する「誠実さと信頼」という徳があって、多くの人は、それに従って行為するだろう。
同じことだが、野球選手が試合のある日に、息子が事故で大怪我をして手術を受けることになったとしよう。この選手は、もちろん試合に出ることも出来るが、試合を休んで息子の傍についていてやることも出来る。功利主義の観点から見れば、息子の傍についていても手術の結果は変わらないし、試合に出れば多くの人が喜ぶのだから、試合の方を優先するべきだろう。しかし、この選手は父として息子の手術に付き添う方を選ぶかもしれない。そこに存在するモラルは、家族に対する「誠実さと信頼」という徳の倫理であろう。
この徳なしでは、彼の人生は幸福なものにはなり得ないだろう。

しかし徳の倫理は、義務倫理や功利主義と並ぶ、あるいはそれらに取って代わる、新しい一つの理論なのだろうか。
例えば、いま、ある球団の監督に息子がおり、その息子も野球選手で、自分の球団でプレーしているとする。監督は、能力のある選手に適切かつ公平に出場機会を与えてチームを勝利に導くという(選手への「公平さ」という)徳と、息子に出場機会を与えて息子の能力を伸ばすという(息子への「誠実さ」という)徳の両方を発揮しなければならない。しかし監督が後者の徳を優先したなら、「えこひいき」と呼ばれるだろう。
この場合には、私情を介入させずに監督としての義務にしたがって行為せよという義務倫理の立場が採用されるべきである。あるいは「チームが勝って多くの選手が幸福になるという結果が出るように行為せよ」という功利主義の原則が用いられるべきである。
「私は監督である前に一人の父親である」と監督が言ったとしても、無意味である。息子への誠実さという徳はここでは問題にならない。
そういう点を考えると、徳の倫理とは、一つの理論と言うよりは、むしろ義務倫理や功利主義の欠けている部分を補う存在であり、倫理学の「隙間産業」であるようにも思える。
(―徳の倫理の立場からすれば、こういう発想自体が、行為の法則を求める思考に由来するものだ、ということになるだろうが…。)


→Wikipedia の「Virtue Ethics」の項

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