道教
(Taoism)
The wind blows over the lake and stirs the surface of the water.
Thus visible effects of the invisible manifest themselves.
(『易経(The I Ching or Book of Changes)』 中孚(Inner Truth), translated by Wilhelm/Baynes)


『老子』

これが道だと言えるようなものは不変の道ではない。これが名だと言って名づけられるようなものは、不変の名ではない。名づけられないものが天地の始めであり、名を持つものはせいぜい万物の母である。


『荘子』

第一 逍遥遊(しょうようゆう)篇
北の果ての暗い海に、魚が住んでいる。その名前を「魚昆(こん)」という。その大きさは何千里あるか分らない程である。この魚が姿を変えて鳥になる。その名前を「鵬(ほう)」という。鵬の背中は何千里あるか分らない程である。奮い立って飛ぶと、その翼は空に垂れこめる雲のようである。この鳥は、海が荒れると、南の果ての海に移ろうとする。…
蜩(ひぐらし)と小鳩は、これを笑って言う。「われわれも思い切って飛び立ち、楡や枋(まゆみ)の木に止まろうとしても、失敗して地面に叩きつけられることもある。それなのに九万里の空に上って南を目指すなんて、一体、何のつもりなんだろう?」
小さな知恵は大きな知恵に及ばないものである。

第二 斉物論(さいぶつろん)篇

全てのものは、「あれ」でないものはなく、「これ」でないものもない。「あれ」の方からは見えないものも、自分の方から考えれば分る。だから、「あれ」は「これ」から発し、「これ」も同じく「あれ」に由来する。「あれ」と「これ」は、同じものでありそれが同時に生じるという「方生の説」そのものである。
であるから、聖人はこうした相対的な対立の立場をとらず、自然の立場からものを見る。…
このように、「あれ」と「これ」が、その対立を失う境地を,、「道枢(どうすう)(枢(とぼそ)とは、扉の回転軸)」という。

指によって指が指でないことを示すのは、指でないものによって指が指でないことを示すのに及ばない。馬によって馬が馬でないことを示すのは、馬でないものによって馬が馬でないことを示すのに及ばない。天地も一本の指である。万物も一匹の馬である。

世間の人は、(もともと一つのものであるのに)良いものを良いとし、良くないもの良くないとしている。…

人は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気で半身不随になって死んでしまうが、鰌(どじょう)はそうではないだろう。人は木の高い所に登ると震え上がってしまうが、猿はそうではないだろう。人と鰌と猿のうち、本当の場所を知っているのはどれだろうか。…私の目から見ると、世間でいう仁義や是非の区別は、訳が分らないほど混乱しており、私には区別がつかない。

麗姫(りき)は、ガイという土地の役人の子だった。晋の国に連れて来られたときには、襟元を濡らすほど泣いた。ところが王の所に来て、寝食を共にし牛や豚の美食に与るようになると、以前泣いたのを後悔するようになった。同じように死者も、死にたくないと思ったのを後悔しないとは限らないだろう。

以前、荘周(=荘子)は夢で蝶になった。嬉々として蝶そのものだった。楽しくて自由に飛び回り、自分が周だと知らなかった。しかしふと目が覚めると、荘周そのものだった。一体荘周が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘周になったのか、私には分らない。周と蝶とでは確かに区別があるはずである。(それなのに区別がつかない。)これが「物化(=万物の流転)」というものである。


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