オーネット・コールマン(Ornette Coleman)

「チャパカ組曲」
天才という言葉は、この人のためにある。
今年(2004年)になって、CDで「チャパカ組曲」を買いました(レコードは持っています)。それで久しぶりに、聞き返してみました。
これは、ベースとドラムが刻むリズムと管楽器の不協和音に満ちたアンサンブルをバックに、80分間近く延々と、オーネットがソロを吹き続けるという演奏です。コルトレーンでも、30分もソロを続けることがありますが、そういう場合には、途中で同じ事の繰り返しという印象を与えることがあります。ところがオーネットのこの演奏には、そういう印象が全くありません。楽想が泉のように湧いて来るのです。
片面20分のレコードでは短いので、学生時代には、90分のテープに録音して、イージー・リスニング風に流して、よく聞いていました。とにかく次から次へと新しい楽想が続いて出てくるので、退屈しません。キース・ジャレットのソロ・コンサートのようなものです。
ただし、楽想と言っても、キース・ジャレットのように甘美なメロディではありません。時にひょうきんな、時に調子外れな、オリジナルなメロディなのです。
オーネットの代表作と言えば、「ゴールデン・サークル」でのライブ録音です。これも最近になって、Rudy van Gelder がデジタル・リマスターした新しいCDが出ました。しかも未発表曲が何曲か新しく収録されています。ここでも「チャパカ」と同じレベルの演奏が聞かれます。
ともに65/6年頃の録音ですが、この時期のオーネットは、相棒のドン・チェリーと別れたこともあって、トリオという形式で、ただひたすら自分の音楽を演奏しているように聞こえます。

70年代以降のオーネット
オーネット・コールマンは、「フリー・ジャズ」のスタイルを創始した前衛芸術家であり、オリジナルな曲を書く作曲家でもあります。しかし、その一番の天才は、比類のないソロイストであるという点にあります。
70年代や80年代になって、オーネットは、バンドの編成とリズムを変えてゆきます。76年に「Dancing on your Head」というレコードが出た時には、それが何なのか、予想もつきませんでした。メロディは一度聞いたら忘れられない、阿波踊りか何かのような能天気な曲(当時の印象!)ですし、電気楽器の強烈なリズムに乗せて、それが延々繰り返されます。これは何なんだ!?
80年代になると、更にポップなリズムに乗せて、自分の音楽を演奏しているのです。例えば、「Virgin Beauty」。そのソロは、60年代と本質的には何も変わりません。表題通り、踊ることさえ出来る音楽なのです。リズムがポップになったことによって、聞いていると快感を覚えるような音楽になっています。
ただ、繰り返しますが、その音楽は、どこか調子の外れたような、どこか捩れているような、独特の音楽です。だから「快感」と言っても、変態的なテイストの混じった快感です。別の世界に引き込まれるような変態的快感――そういう意味では、ポール・ブレイに似た点があるかもしれません。そう言えば、オーネットの最初期の録音は、「ポール・ブレイ・クインテット」名義のものでした。

「裸のランチ」
ついでに映画の話をしておくと(言い忘れていましたが、「チャパカ組曲」は映画音楽(!)でした)、クローネンバーグ監督「裸のランチ(Naked Lunch)」の音楽を担当したのも、オーネット・コールマンです。この映画は、アメリカのドラッグ作家ウイリアム・バロウズの小説を基にした、一種独特の傑作です。原作は、支離滅裂な小説で、ちょっと読んでも意味が分りません。バロウズの自伝的な要素を取り入れていますが、それでもよく映画化したものだと思います。
クローネンバーグ監督の作品は、「ザ・フライ(蝿)」が一番有名でしょう。天才科学者が自分で行った人体実験の途中で偶然に蝿の遺伝子が混入し、蝿人間に変身していくという恐怖映画です。「裸のランチ」にも、それと似た不気味な雰囲気が漂っています。私はむしろ音楽の方を聴きたくて見てみましたが、映像と音楽の相乗効果で、変態度100%の映画になっています。

前衛ジャズ変態論
「変態、変態」と言っていますが、フリー・ジャズというのは「変態の音楽」ではないかと思います。
どういう種類の変態かと言うと、第一にマゾヒズムでしょう。
例えば、Cecil Taylor の「Conquistador!」とか「JCOA」とか、あるいはAlbert Ayler の「Gohst」とか、聴いていると、「もっと、もっと、虐めてっ!!」と言いたいような気分になるのは私だけでしょうか? 「ええっ!そんなことまで、しちゃうのっ!私、ど〜にか・なっ・ちゃい・そうっ〜」とか、思わず叫んでいるのって、私だけ〜?(@だいたひかる)
クラシックのコンサートで、「鳥肌がたった」「失禁した」「失神した」といえば、それは圧倒的な感動を与える、とてつもなく素晴らしい演奏だったということでしょう。芸術への欲求には、そうした「圧倒されたい」「滅茶苦茶にされたい」というようなマゾヒスティックな深層心理があります。「楽しければいい」という程度のものでは、「芸術」の名に値しません。
心地よいスタンダード曲をうまく聴かせるというようなエンターテインメントも、ジャズの一部ではあります。テーマにも、リズムにも、ソロのやり方にも、一定のルールがあり、聴き手の側にも演奏内容についてある程度の予想があります。そうした約束事を取り去ろうというのがフリー・ジャズです。演奏家の創造行為が最大限に重視されます。聞き手は放置プレイです。
演奏家という主体の意志の中に、自分の主体性を消し去りたいという欲求がマゾヒズム(相手を自分の意志に屈服させたいというサディズムの裏返し)です。
第二に、常識的な快楽からの逸脱という変態性があります。「裸のランチ」など、気持ち悪い、不快だ、という印象しか受けない人もいるでしょう。しかし、その「気持ち悪さ」「不快さ」の中に、飽くことなく快楽を求めるのが「変態」です。
(続く)

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