キース・ジャレット(Keith Jarrett)

キース・ジャレットの「天才」
昨年(2003年)は、キース・ジャレットのDVDを三枚買いました。映像の方は、どうでもよかったのですが、CDでは発売されていない日本でのライブ演奏が収められているからです。(96年のライブは、CDで出ているので、私は要りません。)
映像で見るキース・ジャレットは、中腰の恰好で、椅子から腰を浮かせ、軟体動物のように体をくねらせ、時折「ギィーイッ」「ウフォ〜オ」などという奇声を発し、お世辞にも美しい姿だとは申せません。でも、一度ピアノの音が鳴り始めると、流れてくる音の連続に引きずり込まれてしまいます。つまり、ちょっと聴くつもりでも、その音楽の美しさに、つい終わりまで聴いてしまうのです。世界の外面は仮象であるのだ、と、身をもって教えてくれます。
教師をしていると、年に二回は、試験の採点という、かなり嫌な仕事が待っています。そういう気の進まない仕事の時には、手を動かすためにリズムの軽快なピアノトリオのCDなど掛けるのですが、経験上、キース・ジャレットはそういう用途には向きません。かえって段々イライラしてきて、仕事の邪魔になるのです。理由は、リズムが自由に即興的に変わっていくというようなこともあるのでしょうが、もともとキース・ジャッレットという人の音楽は、何かしている人の邪魔にならないように片隅で愛らしい曲を奏でるというタイプの音楽では、全くないからです。聴く人を引き込むような強靭さと集中力を持っており、聞け!聞け!と訴えかけてくる力があります。(絶頂期のバド・パウエル並み!?)
キース・ジャレットと言えば、注意を集中して聴くようにと、聴衆に「演説する」ことでも有名でした。コンサートに行って、「演説」を聞かされるのは不幸なことです。(私も、授業中に「演説」をしなくてはいけなくなると不幸です。)でも、客観的に見ると、演奏している音楽が、そういう音楽なのですから、仕方がないような気もします。キース・ジャレットの場合、集中して聴くか、聴かないか、どちらかであり、中間は存在しない、のです。(「排中律 law of excluded middle」ですね。)これはフリージャズを通過してきた音楽家の特徴でもあります。フリージャズなんて、集中して聴かなければ、ただの騒音にしか過ぎません。
誰でも分かる音楽の才能の形は、魅力的なメロディを作る能力でしょう。キース・ジャレットが最初に広い注目をあびたのは、1973年にLP三枚組で出た「ソロ・コンサート」によってです。これは、ピアノ一台で、しかも事前に演奏する曲など一切決めず、その場で思いついたメロディを元に、自由な即興演奏を繰り広げる、という破格の試みでした。そんなことをしようと思ったこと自体、すごいと思いましたが、結果として演じられたものが、密度の高い一つの曲になっていることでも、世間を驚かせました。(教師でも、何の準備もしないで自分の考えていることを二時間話せと言われたら、冷や汗が出ます。)
同じソロのコンサートで、次に出た「ケルン・コンサート」のロマンティックなメロディは、当時、一世を風靡しました。
ですから、テーマのヴァリエィションを聞かせる、伝統的なジャズ演奏でも、キース・ジャレットが即興的に演奏するソロは、メロディアスで聴きやすいのです。ソロの中で、元のメロディを超える美しい旋律が現れることもよくあります。「Standards」のシリーズにそれは顕著です。スタンダードの曲の演奏中に、突然、元の曲より美しいオリジナルな旋律が現われたりするのです。

「Standards」の演奏
キース・ジャレットを聴いてみたいという人に勧められるのは、「Standards」のシリーズです。Gary Peacock (bass) とJack DeJohnette (drums) という二人の名手と組んだトリオで、ジャズのスタンダード曲を演奏しています。もう20年以上も続いており、CDも何十枚となく出ています。どれでもいいのですが、一枚というなら、最初の「Standards vol.1」、もう一枚と言うなら、二枚組みですが、「Still Live」を薦めたいと思います。(「Standards vol.2」も同じレベルの演奏ですが、「vol.1」の方が、曲も演奏も、変化に富んでいます。「Still Live」は、一枚目もいいですが、二枚目が更にいいと思います。)
キース・ジャレットというのは、本当に、わが道を行く天才タイプの人で、次に何をするのか予想がつかない所があります。
人間には、「天才タイプ」と「秀才タイプ」、言い換えると、「馬鹿タイプ」と「利口タイプ」があり、前者が「これしか出来ない」のに対して、後者は「まわりに合わせて変えていく」という器用さがあります。コルトレーンとか、キース・ジャレットは、天才タイプの典型です。とはいえ、コルトレーンが、信念の人で、同じ途を突き進んでいったような印象があるのに対し、キース・ジャレットは、周りから見ると、我がままな気分屋に見えるのです。
マイルスのバンドを去った後、自分のグループ(アメリカン・カルテット)で活動し、「生と死の幻想」などの名演を残したかと思うと、いきなり解散し、別のグループ(ヨーロピアン・カルテット)で活動し、これもすぐ解散した後、クラッシックの演奏に熱中し、また急にジャズの典型的なスタイルに戻り「スタンダーズ・トリオ」での活動を始める、といった具合に、聞き手の予想を裏切る所があるのです。
でも、恐らく、本人の内部では、一貫したものがあるのでしょう、きっと。
1945年生まれですから、キース・ジャレットも、来年は60歳、なんと還暦です。さすがに若い頃の演奏と比べると、枯れてきている雰囲気もあります。上に挙げた「Vol.1」や「Still Live」では、元の曲を超えてそれを突き抜けるような境地で演奏していますが、最近は、原曲のメロディに寄り掛ったような演奏(つまり「普通のジャズ」的演奏)が増えているような印象があります。あるいは、猛烈なスピード感・ドライブ感が感じられない、とか、やはり歳の影響かなあ、とも思います。
DVDも、予想されるように、最初の一枚がベストです。

クラシックの演奏
キース・ジャレットは、バッハを始めとするクラシックのピアノ曲も演奏しています。
ジャズマンが演奏するクラシックは、哲学教授が弾くピアノ、みたいに、素人の余技のような所がありますが、キース・ジャレットの場合は、意外にまっとう、と言うか、本格的です。評価はいろいろあると思いますが、自発的な嘘のない演奏で、私はけっこう好きです。
ジャズとクラシックでは、美学が違います。クラシックでは、一定のリズムをキープし、揃ったタッチで、正しい音程で演奏することが好まれます。でも、そうだから、クラシックの音楽家がジャズを演奏すると詰まらないことが多いのです。
フリードリッヒ・グルダという素晴らしいピアニストがいます。ベートーヴェンなど弾かせたら、超一流の演奏をします。そのグルダは、ジャズも好きで、自分でも演奏していますが、全く面白くない演奏です。いわゆる「スウィング」しない演奏なのです。まず、リズムが違います。「乗らない」のです。
逆に、ジャズ・ピアニストがクラシックの曲を演奏すると、タッチが乱れていることがよく指摘されます。でも、音程やリズムの微妙な「乱れ」が、ジャズでは好まれます。リズムや音程が前後・上下したりすることが、ジャズでは効果的なことがあるのです。
絶頂期のビル・エバンスの演奏では、強さもタイミングも、タッチが微妙に揺らぎます。それが今生まれつつある音楽の生命を感じさせるのです。
デビュー当時は、音程もリズムも調子外れだと言われたオーネット・コールマンは、「同じ音でも、『悲しみ』という曲の中と、『幸せ』という曲の中では、違う音であるべきだ」と言いました。これはジャズの美学をよく表現しています。
キース・ジャレットには、自分で作曲した「現代音楽」みたいな曲もありますし、ジャズだのクラシックだの、区別しないで自分の音楽を演奏しているだけなのだと思います。でも、あえて本格的にクラシックを演奏したことが、今度はあえて「ジャズ」でもやってみるか、という発想で「スタンダーズ・トリオ」結成の切っ掛けになったのだと思います。それは、譬えて言うなら、即興的なフリー・トークを身上とするダウンタウンが、あえて古典落語をやるようなものです。
そして、それが結果的に、常に進歩する音楽だった「ジャズ」を、「古典落語」のような伝統芸能の形式として完成させることになったのです。「スタンダーズ・トリオ」で、ジャズの歴史は完成した、と言うことも出来そうです。

クラシックの演奏は、キース・ジャレット自身にも、いろいろ影響を与えていると思います。
「The Tribute」に入っている「All the Things You are」では、右手と左手のリズムをずらすことによって、右手と左手の旋律が追いかけっこをしてバッハのフーガを思わせるようなソロを聞かせてくれます。Brad Mehldau かと思いますよ。昔初めて聞いた時、クラシック効果だと思いました。「All the Things You are」という、ジャズのスタンダードのベスト・スリーに入るような曲で、あえてやるのが、キースです。

その他の推薦盤
ソロの演奏は、最初の「Facing You」から始めて、LPで三枚組の「ソロ・コンサート」、二枚組の「ケルン・コンサート」、10枚組の「サンベア・コンサート」など、いろいろありますが、私は、「Staircase」が短くて好きです。急にソロを演奏したくなってスタジオで急遽、録音したというもの。LPでは二枚組でしたが、CDなら一枚です。(以上、全てECM。)
デューイ・レッドマンを加えた「アメリカン・カルテット」の演奏は、「生と死の幻想(Death and the Flower)」(Impulse!)が名演の誉れ高く、実際、よく纏まっています。レコードではB面の「祈り」など、よく聞きました。同じような傾向のものなら、「The Survivors' Suite」と「Eyes of the Heart」(ECM)も力作。(Impulse! のカルテットでは、あと、「Shades」が、評判がよかった覚えがあります。纏まりはいいのですが、オーソドックスな感じのする演奏で、当時としても、以前どこかで聞いたような気のする、ちょっと古いスタイルでした。)
(「Eyes of the Heart」はレコードで出たときは、二枚目の裏側には何も入っていない中途半端な二枚(一枚半)組みで、当時のレコード・レビューで油井正一氏が、一枚に編集して出せと、怒っていました。確かに、二枚目の最後のピアノ・ソロだけを一枚目の最後に入れて出せば、名盤になったかも知れません。でも、CDなら一枚で何の問題もありません。キース・ジャレットは、当時からレコードというフォーマットに収まらない、CD時代の演奏家だったのでしょう。)
ヤン・ガルバレクを加えた「ヨーロピアン・カルテット」では、「My Song」(ECM)でしょう。ヨーロッパの香りと言うか、ロマンティックの濃厚な香りが漂います。(「Belongings」も、同じようなものですが、曲は「My Song」の方がいいと思います。)ただし、このカルテットのライブ録音は、どこが面白いのか全く分らず、LPを買って、すぐ売り払った記憶があります。(キース・ジャレットには、そういう記憶も多いのです。天才なんですから、変なものに当っても「天災」だと諦めるしかないです。)
トランペットのKenny Wheeler の「Gnu High」(ECM)も、知られざる名作です。演奏の途中で、ソロ・コンサートが始まったりして、学生時代に聞いたときは、引っくり返りました。
スタンダーズ・トリオと同じメンバーですが、ベースのゲイリー・ピーコックの作品「Tales of Another」(ECM)も、名盤の誉れ高い演奏でした。ただし、全編ゲイリー・ピーコックのオリジナル曲(いい曲だが、少し地味)で、後の「Standards」のイメージを期待して聴くと、肩透しを食わされます。「Standards」は、曲もアドリブも聴きやすいので、ジャズ・ファンでなくても楽しめると思いますが、これは、ジャズ・ファン向けです。ソロとか、インタープレイとかを楽しんで下さい。ベースのプレイも美しく、後半は疾走するスピード感が心地よい名盤です。

96年以降のキース・ジャッレット
恐らく96年の日本公演を終えた後のことでしょう、キースはCFIDSという謎の病気に冒され、ピアノが弾けなくなりました。幸いその後、病状は徐々に回復して、99年のソロ「The Melody at Night with You」以降、演奏活動を再会しています。トリオでのフリーな即興演奏を含めて、年に一枚くらいのペースで新譜も出ています。新譜が出たら一応買っていますが、正直に言うと、それほど深い関心はありません。新録音よりも、83/6年頃のライブを発掘して出してくれないかなあ、などと思っていたりします。
そのキースの最新作は「up for it」(ECM)です。今年(2004)の九月に、「The Out-of-Towners」という新作が出ましたが、これは2001年7月のライブ録音で、2002年のアンティーブ・ジャズ祭でのライブである「up for it」の方が新しいことになります。このCDにはキース自身が書いた解説がついており、それによると、このライブは考えられうる最悪の状況で行われた演奏だったようです。一部引用すると、「ゲイリーは67歳で、ガンの大きな手術を間近に控えて、そのための治療を受けたところだった。ジャックは59歳で、その前の年、舞台に立てられた壁板が風で倒れて当り、数年にわたって体の不調で苦しんでいた。私は57歳で、96年に罹ったCFIDSからは徐々に回復しつつあったが、背骨の状態が悪化しており、首に円盤状の隆起が生じ、関節炎と肩の炎症で、云々。」更に、こうした身体的な不調だけでなく、数日間続いた雨が当日になっても降り止まず、野外ステージでは演奏できる状態ではなかったそうです。でも演奏を始めると、老化や様々な悪条件に負けず、会心の演奏になりました。一人退場になり10人で戦ったサッカーの試合で勝つようなものでしょうか、逆境が有利に働くことがあります。
(「The Out-of-Towners」もキースのソロで始まって、アンコールのソロで終わる、優雅な演奏です。ソロと表題作のブルース以外は有名なスタンダード曲を演奏しており、当然ですが、悪くはありません。)
という訳で、『スウイング・ジャーナル』でディスク大賞を取った「up for it」を勧めたいところですが、内容的には、99年のパリでのライブ「Whisper Not」が一番いいのではないかと思います。こちらの方は、二枚組みで、聞き出もあります。

→音楽の喫茶店に戻る
→村の広場に帰る