ジョン・コルトレーン(John Coltrane)

Ballads
コルトレーンのレコードやCDで、一番売れたものが、「バラード」だそうです。一去年(2002年)でしたか、「Ballads - Deluxe Editon」という二枚組みのCDが出て、未発表曲や別テイクが公開されたので、改めて聴き直したりしました。
コルトレーンの残した演奏の中では、この「バラード」と「ウイズ・ジョニー・ハートマン」がソフトな演奏の代名詞でしょう。どちらも、優しく、曲を歌い上げるような演奏です。
コルトレーンと言えば、フリーキーなトーンを交えた激しい演奏が多いのですが、バラードの名手でもあります。
バラード演奏では、コルトレーンは、何の細工もせずに、ストレートにメロディを歌い上げていきます。
ジャズにおいては、譜面に書いてあるテーマ(曲)を演奏することの方が、最大限に演奏者の工夫が要求されるアドリブ(即興演奏)よりは簡単だと言うこともできるでしょう。しかし、単純なものほど難しい、ということもあります。
ストレートにメロディを演奏しているので分りやすく、甘さに流されていないので聞き飽きないというのが、人気の秘密かもしれません。
コルトレーンの演奏には、バラードの要素が含まれています。これは、フリー・ジャズに突入した後期の激しい演奏においても失われていない特徴で、途中は混沌とした嵐のような演奏であっても、曲の最初と最後に、コルトレーンがゆったりとテーマを奏すると、美しい曲だなあ、としみじみと聴いてしまう、というような事がよくあります。

A Love Supreme
高校生の頃だと思いますが、最初に聴いたコルトレーンのレコードが「至上の愛」でした。当時は、ジャズが何であり、コルトレーンが誰であるか、全く知らず、ピアノを演奏しているのがコルトレーンだと思っていましたから、他の奏者の音が煩くて(確かにテナーもドラムも煩い!)、コルトレーンが全然聞こえないじゃないか、と思いながら聞いた覚えがあります。
このレコードは、全体が一つの曲で、「承認」「決意」「追求」「讃歌」という四つの楽章からなる組曲の構成をとっています。第一楽章で、唐突に「A Love Supreme」と四人が声を合わせて歌い出したり、第四楽章が悲痛な感じのバラード演奏であったり、普通の音楽の演奏ではないという雰囲気は随所にあります。やはり、宗教的な告白と祈りの音楽なのでしょう。
私は、第三楽章が好きです。ここで、コルトレーンは、短いフレーズを重ねるようにしてソロを取り、疾走するスピードのなかで、何か切迫したものを訴えかけてきます。そのスピード感が好きなのです。
この曲が録音された64年頃のアメリカは、怒涛の時代を迎えていました。ベトナム戦争への介入、ケネディ大統領の暗殺、黒人の解放を求める公民権運動、その指導者であったキング牧師の暗殺と暴動(68年)――そうした時代背景の中で、愛と自由と平和を求める声も上がってきたのです。
そうした時代とともに、先へ先へと突き進んでいったのが、コルトレーンです。それは、勿論、音楽的な自由を求める探究だったのですが、それに留まらず、精神的な何かを求める探究という意味も、持たざるを得ませんでした。今聴くと、けっこう息苦しい所があります。
それが、「至上の愛」や、「アセンション(神の園)」以降のコルトレーンの演奏を気軽に聴こうという気持ちにさせない一因なのかもしれません。
同時期の「Transition」の方が、音楽的にはより充実していて、宗教性もより薄く、誰にでも勧められます(ただし、曲の配列は、CDよりオリジナルのLPの方がよかった気がします)。
(註) 1974年に出たLPでは、A面が「Transition」と「Dear Lord」、B面が「組曲―祈りと瞑想」でしたが、現在アメリカで出ているCDでは、「Dear Lord」が割愛され、「Transition」「Welcome」「組曲」「Wigil」という構成になっています。

フリー・ジャズ
65年の「Ascension」以降、コルトレーンは、本格的にフリー・ジャズの道に足を踏み入れていきます。私は、けっこう好きですが、曲も長くなりますし、混沌とした個所が続いたりするので、聴くのに体力(と忍耐力)が要ります。でも、「Live In Seattle」「Om」「Meditations」(Impulse!)とか、聴くのに全然抵抗はありません。(失敗作と言われる「Ascension」でさえ、前衛派のショウケースとして、それなりに楽しく聴けます。)
中でも、「Live at the Village Vanguard Again」(Impulse!)は、学生時代の愛聴盤の一つでした。
私は音楽理論には疎いので、間違っているかもしれませんが、私が理解している範囲内では―、
1)コルトレーンは、基本的には伝統的=保守的な音楽家であり、フリーな演奏をしている時でも、モード奏法を大きく逸脱してはいない。
2)だから最初から「向こう側」にいる若手ファラオ・サンダース(Pharoah Sanders)を加えて、音楽の幅を「フリー」の方向へ広げる必要があった。
3)結果として、ファラオは音響効果製造係の役割を果し、コルトレーン→ファラオ→コルトレーンと続くソロの系列において、コルトレーンには出来ない部分をファラオが演じ、全体として一つの作品として纏まるようになっている。
それが最もよく現れているのが、この「Village Vanguard Again」である。
4)ファラオ・サンダースというテナーは、毀誉褒貶はあるが、テナーサックスという一本の楽器から信じられないほど多様な響きを引き出すことが出来るという点に於いて、代わる者のない存在である。
5)以上は主に65/6年のこと。日本公演の後、最晩年(1967年)の「Expression」辺りになると、また違う局面に入っているようで、64年までとは違うモードの探求ではないかと思うが、何をやっているのか私には分からない。誰か説明して欲しい。

ライブ録音
これも一昨年、ヨーロッパでのライブ録音を集大成した『ライブ・トレーン』という六枚組のCDが出ました。パブロ・レーベルや海賊盤で既に出ていたものが大半でしたが、その中でやっと、私が密かに愛聴しているライブ録音が正式に日の目を見ました。
それは、62年11月19日のスットクホルムでのコンサートで、「Naima」「Impressions」などを演奏しています。
正規の録音に較べれば音はイマイチですが、充分鑑賞には堪えますし、なんと言っても、演奏が、素晴らしいのです。
まず、演奏時間が短くて、通常は十数分(長ければ20分以上)かかる同曲の演奏が、十分以内(Naima が9分、Impressions が7分半)に収まっています。次に、「Impressions」では、ピアノの間奏とかをはさまず(と言うより、ピアノの出番は殆ど無く、実質トリオでの演奏です)最初から最後まで、コルトレーンがソロを吹ききっています。だから、一部の無駄もない緊密な演奏という印象があり、コルトレーンがテーマとその変奏を基に、次々に音楽を組み立てていく様子がよく分かります。
そしてまた、エルビン・ジョーンズのドラムが素晴らしい。「Naima」でピアノソロが終わってコルトレーンが再びソロを取るとき、エルビンは背後で、幾つかのリズムが複合したポリフォニックなリズムを叩き出して、否応なしに(と言うか「暴力」的に)演奏を盛り上げています。
海賊盤で出たレコードには、「Naima」と「Impressions」が片面にカットされており、コルトレーンを聴きたいという気分の時に、昔はよくこれを掛けました。16分で40分くらい聞いたような気がします(この音源は、その後「Visit to Scandinavia」(Jazz Door)という二枚組CDで出ていました)。
これは、ちょうど「バラード」を吹き込んでいた時期です。この時期のコルトレーンは、スランプだったと言われています。だから目先を変える意味でも、「バラード」「ウイズ・デューク・エリントン」「ウイズ・ジョニー・ハートマン」といった、ソフトな演奏を試みたようです。でも、このライブ録音を聞くと、「どこがスランプ!?」と思います。それとも、スランプでも三割は打つ、イチローみたいなものでしょうか。
因みに、「ナイーマ」はコルトレーンの前の奥さんの名前、「インプレッションズ(印象)」は、「Excerpts(抜粋)」というのが最初の名前で、ラベルの曲から抜粋して作った曲だそうです。
(註 『ライヴ・トレーン』に記載されているデータには幾つかのミスがあります。私が持っているのはビクターから出た国内盤で、「The European Tours」を「ジ・ヨーロピアン・ツアーズ」なんて表記してあるのも恥ずかしい(The European の「Eu」は子音(ju:)なので「The」の発音は「ジ」じゃなくて「ザ」です)ですが、最大のミスは、ドルフィーが加わった二枚目の最初の三曲が、ヨーロッパではなく、ニューヨークのBirdland で演奏された(1962年2月9日)ものだという点でしょう。また一枚目の最初の二曲も、1961年11月18日パリでのライブと表記してありますが、正しくは、三曲目以降と同じ、1961年11月23日ストックホルムでの録音、更にまた、三枚目の3/4曲目が1962年11月17日パリでのライブとなっているのは、上に書いた1962年11月19日ストックホルムでのライブ録音というのが正解です。)

→音楽の喫茶店に戻る
→村の広場に帰る