クラシックの私的名盤

ブルックナー
交響曲―シューリヒト、ヴァント、チェリビダッケ
ギュンター・ヴァントは、ブルックナーに関しては最高の指揮者の一人でしょう。本人もブルックナーを得意にしており、ケルン放送交響楽団、北ドイツ放送(NDR)交響楽団、ベルリン・フィルと、三つのオーケストラによる全集&選集があります。70年代末から80年代初めにかけて録音された、最初のケルン放送響との全集は、強烈なリズムに乗って金管が雄叫びを上げ、合奏の多少の乱れなど気にせず、ずんずん大股で進んでいくような、まことに男っぽい演奏で、表面上の欠点はあるものの、ブルックナーの本質を掴んだ素晴らしい演奏だと思いました。(この対極にあるのが、細部のニュアンスを重視した、カラヤンやシャイーの演奏でしょう。)しかしその後、期待して聴いた、80年代末の北ドイツ放送響との第8、第9、第6のCDは、もしかして残響の長すぎる録音のせいなのか、イマイチぱっとせず、一体どうしたのかと疑問に思っていたのですが、これは本人も満足しなかったのでしょう、後に同じオーケストラで再録音しています。さらにその後、他に人材がいなくなったというクラシック界の事情もあってか、晩年は「ドイツ音楽の精髄を受け継ぐ巨匠=マエストロ」という扱いで、広く持て囃されました。しかし、90年代末から21世紀初頭にかけてベルリン・フィルと録音した三回目の選集は、ヴァントの音楽というよりベルリン・フィルが勝手に演奏しているような印象で、スケールが大きいとも言えますが、ヴァントの持ち味は出ていないとも言えるような演奏でした。――という訳で、最初のケルン放送響との全集、もしくは、再録音を含めた北ドイツ放送響との選集の方を、私はより高く買います。打楽器と金管が活躍し、軽くて透明感のあるケルン放送との全集と、より身振りが大きく重厚な北ドイツ放送との録音は、一概にどちらが優れていると言えないほど、性格が違います。
ブルックナーは後期ロマン派の音楽ではありません。個人の内面的な憧憬や心情の葛藤といったものとは無縁の音楽です(―と言うのは、言い過ぎ?)。だから、何でも後期ロマン派の様式で演奏してしまうカラヤンだとか、音楽の精神的統一性を志向するフルトヴェングラーだとか、ブルックナーとは相容れない所があると思います。しかし、第九は違います。第三楽章までしか完成しなかった、この最後の交響曲は、書法も精緻ですが、ロマンチックな要素を含んだ音楽になっています。だからこの曲だけは、ロマンティックに演奏しても聴けるのです。ハイティンクの演奏がその代表で、これはこれでアリかと思ってしまいます(第三楽章は煩くて聴けませんが)。
変わってるのが、テェリビダッケ。組織の一枚一枚を解剖して並べていくようなその演奏は、これがブルックナーかという違和感はありますが、CDを掛けるとつい聴いてしまう魅力があり、やはり優れたものの一つであることは否定できないと思います。テェリビダッケという人は、明らかに変態というか、頭が変というか、くるくるパーなのですが、ただの変態やくるくるパーはない、というところでしょう。本来ならブルックナーに向いているとは思えないのに、にも拘わらず、本人が異常にブルックナー好き(らしい)というのが世の中の不思議なところです。

平成最後の年の秋から冬にかけて、集中的にブルックナーを聴き直しました。
まず聴いたのは、チェリビダッケ。特に第八は、チェリビダッケの演奏の中でも、第八の多くの演奏の中でも、最高のものの一つだと思いました。あの遅いテンポでも、長さを感じません。幾つか録音がありますが、1990年の東京でのライブ録音。(リスボンでのライブが有名ですが、海賊盤だし、聴いていません。)
次に今回(遅ればせながら)初めて聞いたのは、スクロヴァチェフスキ(Skrowaczewski)の全集です。素晴らしい。
全集は0番や00番も含む本当の「交響曲全集」だし、ヴァントに並ぶブルックナー指揮者と言っていい。(2019/5/21)


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