脳死と臓器移植
(Brain Death and Organ Transplantation)


1 脳死とは何か? 

脳死の定義―「脳幹を含む脳全体の機能の不可逆的な停止」
「脳死した者の身体」とは、…脳幹を含む全能の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されるものの身体をいう。
臓器移植法 第六条)

A)脳死と心臓死
「死」の伝統的な定義は、「心臓死」であった。(心臓、肺、脳機能の停止を確認する「三点死」である。)
心臓が止まれば、血流が停止し、やがて脳も死ぬ。逆に脳機能が停止すれば、心臓も止まる。
「脳死」とは、生命維持装置によって人工的に心臓や肺は動いている(=体は生きている)が、脳機能が停止した状態を言う。
 ←心臓や肺や肝臓は、心臓停止後では、移植できない。

B)大脳死と全脳死
大脳=意識の働き
脳幹(中脳+橋+延髄)=生命維持の機能
大脳が「死に」、脳幹が生きている状態が、大脳死(=植物状態)≠脳死
その逆が脳幹死。(イギリスでは、脳幹死=脳死、と定義する。)
大脳と脳幹の両方(=全脳)が機能を停止した状態が、全脳死。(多くの国で、これが脳死の定義として採用されている。)

C)判定基準;竹内基準(厚生省基準)
1 深昏睡
2 瞳孔拡大
3 脳幹反射の消失(対光反射、角膜反射など)
4 平坦脳波
5 自発呼吸の消失
6 時間経過(6時間)
 他に、聴性脳幹反応や脳血流停止の確認を加えることもある。
(1と4が大脳死を、2と3と5が脳幹死を、6が不可逆性を、チェックしている。)

2 問題点

「脳死」が死の定義としてふさわしいか、また現在の判定基準が正当か、という二点において考えるべき問題がある。

A 脳死という概念は、臓器移植を可能にするために作られたものである。臓器移植をしないなら、脳死判定する必要はない。
  臓器移植に都合がいいように、死の定義を変えていいのか?
  「死」という事実は、個人にとって、絶対的なものではないのか?

B 「脳死から蘇った人はいない」といわれるが、《助からない=死》か?
1) 死は一連の連続した状態、《死につつある≠死んでいる》
2) 竹内基準は「これ以上治療しても助からない」という延命措置を停止する限界点を(=蘇生限界点)示している。
3) 蘇生限界点は技術の進歩によって変わる。
   →林成之医師の低体温療法
4) 臓器摘出が可能な死の時点≠蘇生限界点
 (以上は、主として、立花隆が展開した論点。
立花は、(医学技術の進歩によって変わらない)厳密な死の定義を求めて、「機能死」から「器質死」へと踏み込むことを主張した。
「器質死」とは、上の定義が基づいている「脳機能の喪失」ではなく、「脳細胞の死滅」を意味する。
具体的には、脳血流の停止によって、脳細胞が器質的に死に始める時点を「脳死」の定義として定めよ、という主張である。)

C 脳死判定を受けるかどうかを、つまり脳死を死とみなすかどうかを、本人が選択するという、折衷的な「中山案」は、死の定義として本当に妥当なのだろうか?
  (死は、個人が決めるものか?)
  また、現在検討されているように、「脳死判定に反対しない者は賛成しているとみなす」という(フランス式の)考え方は、正しいと言えるのだろうか?


3 臓器移植の現状

当初は生存率も低かったが、70年代後半に免疫抑制剤(サイクロスポリン)が向上し、生存率が伸びた。
(アメリカのデータでは、心臓移植後の生存率は、
一年後で、79.4%、五年後で、65.2%、10年後で、45.8% である。)
アメリカでは、毎年二万件近くの移植が行なわれている。(移植の希望者は、その倍以上いる。)
臓器不足は深刻であり、そのための問題も生じている。

日本では、1997年6月に臓器移植法が成立し(10月から施行)、翌年(1999年)になって、脳死からの移植が何件か行なわれた。
その後、脳死からの臓器移植は、2001年10月現在で、10件程度、法律の施行から10年を経た2007年4月現在で、60件程度である。
(平均して年に五件という数字は、国内で臓器移植を希望する患者にとっては、限りなく望みの薄いものである。)
現在の臓器移植法は、本人が心臓死か脳死かという判定方法を選択できるとした点と、15歳未満については対象外とするという点が特徴的であるが、
これらの点に関しては、三年を経過した2000年10月から見直しが行われ、2007年4月現在も審議中である。
具体的には、
1)脳死を一律に死の定義とする、
2)本人の意志が確認できなくても、家族の同意だけで脳死の判定と脳死体からの移植を行えるようにする、
3)15歳未満の青少年も対象に含める、
という三点が改訂案の骨子である。
(この改正案が2009年7月に国会で承認され、2010年から施行されることになっている。)

臓器移植を受けたくても臓器が手に入らないというのが現状であるから、
問題になるのが、臓器売買である。
多くの国で臓器の売買は禁止されているが、中国やフィリピンやインドなど国外での臓器売買は現実に行われている。
また日本国内でも、2006年に臓器売買の事件が明らかになり問題になったが、これは氷山の一角にすぎないのかもしれない。
(さらにまた、売買は禁止されていても(つまり臓器の提供者に報酬は出ないが)、臓器を加工し販売する際に「加工料」として技術料を取ることは認められている。)
関心のある人は、一橋文哉『ドナービジネス』(新潮文庫)などを一読されたい。

→臓器移植の現状(日本移植者協議会)

4 シアトルの「神の委員会」―誰に生き残る権利があるのか?

腎臓の透析が始まった1962年、シアトルのスウィーディシュ病院では
17人の患者に透析を行うことができたが、透析を必要とする患者はそれより遥かに多かった。
そこで患者の選択に関する意思決定をするための委員会が作られた。
委員会は地域社会を代表するのにふさわしい構成となるように、
(聖職者、弁護士、労働団体の幹部、州の役人、銀行員、外科医、の7人に加え、透析の専門医2人がアドヴァイザーとして参加した。)
当初、患者は、透析の費用(年間2万ドル)を負担できる、45歳未満のワシントン州在住者に限られたが、それでも数が多すぎた。
そこで委員会は、
「候補者が定職に就いているか、子供を扶養する親であるか、教育を受けているか、意欲は強いか、すぐれた業績をあげているか、他人に役立つ何らかの能力があるか、を検討事項に加えるようになった。」(ペンス『医療倫理』)
この事実は『シアトル・タイムズ』や『ライフ』など雑誌や新聞に取り上げられ、
「誰が生き、誰が死ぬべきかを決めるという、神のような役割を演じている」<神の委員会>だと非難された。
こうした「社会的価値」によってレシピアントを決定するという選択は、倫理的にどう考えるべきなのだろうか?

トリアージ
緊急時における、医療資源(医師や薬など)の制限を考慮→治療効果を考慮した選別
(省略)

5 応用問題

ジョン・ハリスが呈示した「生き残るための抽選(The Survival Lottery)」というモデルを考えてみよう。
いま、臓器移植の技術が向上し、臓器移植で完全に病気が治るようになったと仮定する。すると、心臓病と肝臓病で死にかかっている二人の病人が、病院の近くにいる誰かを捕まえてきて殺し、その臓器を自分たちに移植しないなら、自分たちが死ぬのは医者の責任だと主張し始める。しかし実際にそんなことを実行したら、社会不安を引き起こすだろう。(例えば、病院には恐くて行けなくなる。今でもそうだが。)そこで次のような、臓器提供の抽選制度を作ることにする。
社会のメンバーのうち、健康な者には全て抽選番号が与えられる。どうしても必要な臓器が「自然」死によって入手できない場合、、医師はコンピューター・プログラムでランダムに数字を選び、その当選者は、自分の健康な臓器を病人に提供しなければならないものとする。そうすると、一人の犠牲によって、少なくとも二人以上の病人が助かるから、現在よりも多くの人が健康で長生きできるようになる。(ただし、例えば、煙草の吸いすぎで肺癌になった者など、不節制で病気になった人は自業自得だから、対象外とする。)
これは、功利主義の原則「最大多数の最大幸福」によって判断すれば、「善い」ことである。
反論(1) くじの犠牲者は何の罪も無いのに殺されるのは非人道的だ。
再反論 自分の臓器の病気のために死ぬ病人にも罪は無い。健康な人は、たまたま運がよくて健康なだけで、病人よりも生きる値打ちがあるという訳ではない。
反論(2) 病気で死ぬ人を放置することと、健康な人を殺すこととは道徳的に別である。
再反論 多くの人の命を救うのを避けて通るのも、結果的に殺人になる。何もしないで放置することも、行為である。消極的に死ぬに任せることと積極的に殺すこととの違いに基づいて、これに反論しようとするのは、救うことが出来る命を放置して死なせるのは、結果的に殺人になるのではないか、という問いを避けているだけだ。


参考文献
竹内一夫『脳死とは何か』(講談社ブルーバックス)
立花隆『脳死』『脳死再論』『脳死臨調批判』(中公文庫)、(三冊あるが、一冊だけ読むなら『脳死再論』を読んだらどうか。)
柳田邦夫『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』(文春文庫)
小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)


付録
『現代用語の基礎知識』(1999)から
(この項の執筆は、星野一正氏)

脳死(brain death)
南アフリカで一九六七年にバナード(Christian Bernard)が初めて心臓移植を実施した翌年、アメリカのハーバード大学医学部から不可逆的昏睡の判定基準が出された。それが脳死に関する最初の判定法である。昏睡状態の患者に生命維持装置を付けて人為的に呼吸運動や血液循環を補助していると、脳の寿命が尽きた後でも装置による強制的呼吸運動や血液循環により、外見上は血色はよく、胸郭は上下して自発的呼吸を続けているかに見えるにかかわらず、脳の機能は永久に、不可逆的に停止して「脳死」と定義される現象が起こる。脳死は進歩した生命維持装置による延命治療の落とし子であり、この装置がなかった時代には見られなかった現象で、現在でも生命維持装置を付けていない患者には絶対に起こりえない特殊な「脳の死」である。見かけ上は生きているのではないかと思える「見えない死」であるところに一般の人にとって「死んだ」と認めにくい理由がある。脳死と判定された患者から生命維持装置を取り外せば、数分から数時間内に心臓死が起こる。脳死が起こっているかどうかを診断する際には、患者に生命維持装置を付けたままで、集中治療室などの医療機器が装備された室内で、高度な医療技術を駆使して専門家が判定して診断できる死の現象であるので「密室の死」という批判を受けかねない。そのうえ、死の瞬間は、生から死への過程で「不帰の点」を過ぎた時点で起こるのに、「いま不帰の点を過ぎた」と確定する医療技術がないために、脳死判定で脳死と最初に判定された時点から六時間なり一二時間の時間経過中に、何ら生きている徴候が見られなかった場合に「不帰の点」をすでに過ぎていると判断し、再度脳死の判定を行って、最初の脳死の判定に誤りがなかったことを再確認して診断を確認する以外に、信頼性のある脳死の診断法はないのである。それゆえ、患者の家族たちに死んだという医学的事実を納得して死者儀礼をしてもらうのが困難である。このようにして診断された医学的な脳死を人間の死と社会が容認するかどうかは別な問題であり、医師側が医学的脳死を人間の死として社会に押し付けることは妥当ではない。現代日本の各個人の遺体観・死生観・宗教観や哲学に基づく多様な価値観によって社会的に判断されるべき問題である。わが国では、六八年の初めての心臓移植(通称和田移植)の問題がこじれて、その後の脳死臓器移植がまったく進展しなかったが、九七年七月「臓器移植法」が制定された。

臓器移植(organ trans-plantation)
患者のある臓器の障害が強く治療による回復が望めない場合に、同種臓器を提供者(ドナー)から被提供者(レシピエント)に移植して治療する方法を臓器移植という。ドナーとレシピエントの両者によく説明して本人の自主的な意思による決断が必要であるので、両者から十分にインフォームド・コンセントをとってから実施する。移植医がドナーを探したり、ドナーとレシピエントの組み合わせを行うと誤解のもととなるので、移植チームから独立したドナー側の移植コーディネーターに担当してもらう必要がある。臓器の提供は、生きているドナーあるいは死者となったドナーから行われる。後者には心臓死による死者の場合と脳死者の場合とがあるが、生前の本人の意思による臓器の提供が必須であり、本人の意思を無視した家族などによる提供の承諾は、バイオエシックスの立場からは妥当でない。たとえ親子の間の移植であっても異なる個人の間での移植であるので、組織和合性の程度によっては臓器拒絶反応が起こって移植のしなおし(再移植)が必要になるので、できるだけ組織和合性の高い組み合わせを選ぶことが大切である。また移植時の臓器の生存能力がはじめから劣っていると組織和合性がよくても移植臓器が機能低下したり死んでしまうことも多いので、ドナーからの臓器摘出から移植までの時間をできるだけ短くする必要がある。肝臓や膵臓は生体移植あるいは脳死者からの移植しかできない。心臓移植も肺移植も脳死者からしかできない。

臓器移植法(Organ Transplanttation Act)
一九九七年(平成九)七月一六日に「臓器の移植に関する法律」(略して臓器移植法)が公布された。本法律では、死亡した者が生存中に、(1)臓器提供の意思と、(2)脳死判定に伴う意思を書面により表明している場合であって、(3)遺族が脳死臓器移植を拒まないとき、という厳しい条件がついている。本法では、生前に臓器提供の意思表示のない者は、脳死しても脳死したと認められないのである。


→倫理の公民館へ戻る
→村の広場に帰る