妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
M−7:国王ヌーボーと動きやすい水着の事
 
 
 
 
 
 例えば、出世コースから外れた下っ端役人が、己の私服を肥やすため、商人の悪巧みに手を貸したとしよう。よくある事だ。
 さてその結果事は上手く運び、商人は泡銭を手に入れて左うちわとなった。
 ところがお礼を確約されたにもかかわらず、一向にその話はなく、それどころかそれを持ち出した途端、逆に脅されたのだ。
 下っ端とは言え役人なのだから違う方法もあった筈だが、事もあろうに脅迫されたと訴え出たのだ。
 自分の事は棚に上げて脅迫されたなどとは、厚顔無恥も甚だしい所だが、結果として悪事は発覚し、役人は商人もろとも処罰されたから、本望かも知れない。
 武士が刀を差してウロウロしていた頃は、よくこんな話があったが、それはこの日本だけではなかった。
 東欧のある国で、ワインに不凍液を混入すると甘みとコクが増す事が分かり、さっそくそれは実行された。
 しかもそれは、スピード狂御用達のナンバー隠し同様、検査にも引っかからない代物であり、結果として安物のワインが高級なそれへと姿を変えて、大量に輸出されたのだが間抜けと強欲を衣とする者はどこにでもいるもので、よりによって不凍液に対する付加価値税を要求したのだ。
 ここに至って悪事は発覚した。普通ならば天網恢々云々で済むのだが、そうは行かなかった。国を挙げての悪事などではなかったにもかかわらず、その国で生産されたと言うだけで品物は突き返され、多数の失業者が出てしまったのだ。
 なお我が国はその際、一文字しか変わらぬ国のワインまで販売禁止にすると言う醜態を晒した事は、付け加えておかなければならない。
 
 
「あ、頭が痛い…どうして…」
 翌朝目覚めたマリアは、凄まじい頭痛に思わず頭を抱えた。
 いくら何でも痛すぎる、と言うより外傷ではないと本能が告げているのだ。
 だが次の瞬間、
「い、一体…きゃあっ!?」
 マリアの口を割って出たのは悲鳴であった。
 妙に寒い気がして自分の身体を見たマリアは、そこにとんでもないものを発見したのである。
 マリアが来ていたのは文字通りV字形の水着――乳輪は少し出てしまっており、乳首が布地をきゅっと押し上げている代物であった。
 無論文字通りの紐だから、乳房はほとんど丸出しだし、胸に厚みがあればあるだけ横から丸見えである。
 元からそんなに濃くないおかげで、淫毛がはみ出していなかったのはせめてもの幸いだったろう。
 がしかし。
 一体誰が、そして何のために?
 答えは一つしかなく、マリアがズキズキする頭をおさえながら身体を回転させると、元凶はそこに転がっていた。
「シン――あうっ」
 大きな声を出しかけて、自爆したらしい。思い切り顔をしかめていたが、何とか収まったようでずるずると這っていき、
「シンジ、ちょっとシンジ起きて」
 揺さぶったが、声は出せないと分かっているから、囁くような声量である。
 当然元凶が起きるわけもなく、結局起きたのは十分も経ってからであった。
「んー…何よもう朝っぱらから…」
「私のこの格好はどういう事かしら」
「ん〜?」
 むにゃむにゃと目をこすり、
「乳輪まで見えちゃってるじゃない。どうしたの、そんな扇情的な格好して」
「わ・た・しが訊いてるのよ」
「……」
「……」
 しばらく二人で顔を見合わせていたが、ふとシンジが気づいたように自分の身体を触った。
「俺の身体濡れてる…マリア何かした?」
「何にもしてないわよ」
 シンジの方が悪酔いしてるらしく、色白のマリアより白くなっている。
 正確には青白いと言うべきか。
 なおも首を捻っていたが、
「思い出した。確か昨日マリアと国王ヌーボー飲んで…」
 国王ヌーボーをオーダーしたシンジ達だが、
「あ?出せないってどういう事」
 客には出せないと言われ早速とっちめた。
 その結果分かったのが、わずかな不凍液でも十分なのに、なんと六割近くも不凍液が占めているワインだと分かったのだ。
 そんな物がメニューに載っていた理由は、単なるミスであった。不凍液入りと知ってすぐにメニューを入れ替えたのだが、この部屋だけはそのままになっていたのだ。
 すぐ代わりの物をと低頭するチーフだったが、
「いいじゃない、頼みましょう」
「マリア?」
「そんな物、他だったらまず手に入らないわ。一度位話の種に飲むのも一興よ」
 と言うマリアの言葉で、一切責任は負わないと言う誓約書と引き替えに、そのワインが出てきたのだ。
 そもそも、誓約書などという時点で尋常ではないが、手を出す方も出す方だ。
 最初から結果は目に見えており、シンジは二口、マリアは三杯ですっかり出来上がってしまった。
「ねえシンジ〜」
「なにぃ?」
 完全に舌足らずになった二人が、身を寄せ合ってグラスを手にしている。
「私暑いのよう、なんとかしてよ、ねえってば」
「なあーんで俺がんな事…ん、待てよ〜」
 カサカサと小冊子を手に取り、
「プールだプール。プール行くぞ〜くえっ」
「あたしの水着はどーすんのよお」
「あ〜?じゃ、買いだ、買いに行くぞ」
「やだ」
「あー?」
「おんぶしてくれなきゃ行かない、やだやだ」
 子供みたいに駄々をこねるマリアを見たら、かつての仲間達は度肝を抜かれる――どころかショック死するかもしれない。
「まったくお前ってやつはよォ」
 そう言いながらもシンジがマリアを背に乗せ、よろめきながらもホテルの外に出た。
「おまえ重いぞお――うげ」
「シンジの力がないからでしょ〜、なんてことゆーのよ〜」
 確かにマリアが正しい。
 無論、背負う力がないのではなく、悪酔いして思考能力すら失われたからだが。
 しかし街に出たのはいいが、もう店はさっさと閉まっており、まして水着など売ってる物ではない。
「もう終わり〜?扉ぶっ壊して開けさせるかあ?」
「ああ、それ賛成〜」
 物騒極まる会話をしながら女を背にした少年がふらふら歩いていると、ふと一軒の店を見つけた。
「あん?なになに…アダルトグッズ〜?よーし、ぢゃあここだここにするぞ」
「いいわねえ〜」
 で、そこで見つけたのが、今マリアが着てる水着である。
 当然帰りもふらふらしながら帰ってきたのだが、
「らめえ〜、あたし泳げないのよう」
「さっさと行け〜」
 プールサイドに立ったマリアが、へろへろしながら尻込みするのを、後ろからげしっと蹴飛ばしたシンジ――無論双方ともベロベロである――だったが、マリアが浮いてくる気配が無い。
「ったく〜」
 ブツブツ言いながら飛び込み――と言うより倒れ込んだと形容する方が正しい動きだったが、下を向いて浮かんできたマリアを引っ張り上げ、この部屋まで戻ってきたのだ。
「思い出した?」
「…よーく思い出したわよ」
「ま、酔っていたから不慮の事故と言う事で」
「よ、よくそんな事言えるわね。私はもう少しで死ぬ所だったのよ。だいたい、シンジが私のお尻を――きゃあっ!!」
「どうしたの?」
「な、な、何これっ」
「あ」
 マリアの震える指の先には、まあるく切り取られた水着があった。
 元々V字形の紐水着、おまけに尻の部分を切り取られたとあって、妖しさ大爆発の水着になっている。
「マリア切ったの?」
「私が切るわけないでしょっ」
 シンジの説明によれば、自分はこれを着て特別階のプールへ行き、溺れた所をシンジに助けられて帰ってきたと言う事になる――しかも負ぶわれたから、後ろから見ると白い尻が丸出しになっていた筈だ。
「じゃ、仕様だな。そっか道理で、店の中にバイブみたいなモンがあったような気がしたんだ」
 一人納得してるシンジを見て、マリアの目に涙が浮かんできた。
「ひどい…私にこんな物着せて楽しんでたのね…」
「違うって。泳ぐモン寄こせって言ったらそれ出してきたんだし、マリアだって着てたじゃない」
「あ、あれは私も酔ってたし…そ、それにシンジはあまり飲んでなかったじゃない――いだっ」
 ぽかっ。
「だーかーらー、弱い…じゃなくて飲めないって最初っから言っただろが。聞いてなかったな」
「じゃ、じゃあ…楽しんだりは全然しなかったの?」
「全然…え?」
「そう…どうせ興味もなかったのよね」
「だから酔ってたって言ったでしょ。酔ってなきゃ着せないし、マリアだって着なかったでしょ」
「いいのよ別に。シンジが女の扱いに慣れてるのは分かってるんだから。熱出してた私の服を脱がせた時だって、ごく普通にしてたんでしょ、別にいいんだから」
「…いや、良くないっつーの。何でそこでぐれるのさ」
「別にぐれてないわ。私は普通よ」
「ぜんっぜん普通じゃないぞ」
「普通よ」
「異常だ」
「普通よ」
 なおこの間中、マリアはV字で尻もほぼ剥き出しの水着もどきを着たままである。
「分かった分かった」
 シンジは軽く肩をすくめた。
 これ以上不毛な議論――議論とも呼べぬそれを続ける気は無かった。
「それで、マリアはどうしろと言うの?」
「……」
「え?」
「…して…」
「へえー」
 シンジの感心したような表情を見て、マリアの口が開いた。
「…え?」
「シテなんてよく知ってたな。あれは結構難しいんだよ。知り合いに関係者がいるからその内頼んであげる。出るのは無論無理だけど、雰囲気ぐらいは味わえるでしょ」
「あ、あの何の話を?」
「何の?今マリアがシテって言ったじゃない。シテってのは、能楽の主演者の事だ。やってみたいんでしょ?」
「ち、違うわよっ」
 反射的に思わずマリアは叫んでいた。
「違う?」
「キスよっ、キスしてって言ったのっ!」
 はあ、とシンジは頷いてから、
「なんでまた?」
 と不思議そうな顔で訊いた。
 
 
 
 
 
「分からんでもないな。大方侮ったのだろうよ」
 脇侍の第一陣に続き、猪鹿蝶の三人を派遣した第二陣すら壊滅、しかも三人とも戻っては来なかったとあって、さすがに木喰も激昂は覚悟して進み出たのだが、葵叉丹の反応は予想外のものであった。
 あるいは、くどい愛情を注ぐ騎士の一人に、少々うんざりしていたのかもしれない、と木喰は考え、そしてそれは正しい発想であった。
「して、如何なさいますか葵叉丹様」
「決まっておる。今回の計画には些かの邪魔も許す事は出来ぬ。帝都侵攻の折、万が一にも背後から襲われでもしてはならぬ。それで木喰」
「はっ」
「小娘一人の仕業ではあるまい。一緒にいた者の見当はついているのか」
「申しわけございません。それはまだ――」
「そうか。ミロク、ミロクはあるか」
「はい、ここにおります」
 妖艶な声と共に、にゅうと首が伸びてきた。
 シンジの手ならにゅっと伸びてもおかしくないが、首だけは伸びない。
 しかしこの女は、簡単に伸ばして見せた。
 そこだけ近づいてきた顔がにこっと笑う。首さえ伸びなければ、なかなかの美人なのにこれのせいで台無しである。
「あの小娘と連れの男を捜せ」
「男、ですの?」
「そうだ、男だ。私の勘が外れていなければだが、どこかの女が力を貸したのではあるまい。それに、そ奴はおそらく我々に挑戦してきている」
「挑戦?」
「脇侍を片づけたのもそいつだろう。もしも偶発ならば、脇侍を倒してそのままさっと去る、すなわち銀角達は帰ってきたはずだ。もっとも、小娘の身体に溺れたのかも知れないがな」
 くっくっと笑った葵叉丹だが、それが何を意味するかを分かっているのかどうか。
「脇侍でも銀角でも、好きに連れて行くがいい」
「いえ、あたし一人で十分です。それに、大勢では却って目立ちますから」
「分かった。では頼んだぞ」
 
 
 
 
 
「なんで俺がキスなど?」
「キスしてくれなきゃ起きないもん」
 言うなり、ぷいっと背を向けたマリアに、
「あの、お尻見えてるよ」
「知らない」
 頭隠して尻隠さず、の例えもあるが尻も隠そうともしない。
 まさかここまで派手な代物だとは、さすがにシンジも思っていなかった。
 実を言うと、昨晩は普通の水着だと思っていたのである。
「あのねえマリ――をうっ」
 言いかけた途端頭痛が頭部全体をキリキリと襲い、シンジは頭をおさえた。
(こんなに酔うとは…って、俺飲めないのにまったく)
 とは言っても、飲んでしまったものは仕方ない。
 そんな事より、目下この甘えている――と言うより退行してるみたいな娘をどうするかなのだが、どうしてこの流れになったのかは分からない。
 だいたい、お互いに酔っていたとは言え、その間にマリアに何かしてなどいたら、それこそ変態の烙印をフェンリルに押されかねないし、自分は何にもしてないのだ。
(ちょっとフェンリルどうす…あれ?)
 従魔にまで見捨てられたのをシンジは知った。
 しようがない、と諦めて、
「分かったからマリア起きて」
「やだ」
「頬くらいならしてあげるから」
(してあげる――ものなのかな)
 シンジとしてはやや疑問だが、どう考えてもキスをせがんだりせがまれたりする関係とは言えないわけで、突っ込みを入れるもう一人の自分を簀巻きにしておいた。
「…ほんとうに?」
「うん」
「うそ…言わない?」
「言わないからほら、起きて。と言うより頭痛いんだから、あまり待たせないで」
 顔をしかめてるのは、単に悪酔いのせいだ。
 起きあがったマリアを引き寄せ、頬に顔を近づける。
 ちゅ。
 小さな音がしたが、シンジはまだしもマリアも赤くならない。
 しかも三秒後、
「『くっさー』」
 揃って出た台詞がこれである。
 ムードも何もあったものじゃない。
「やはり夕べは飲み過ぎたか」
「そうね…って、シンジ私の三分の一も飲んでないじゃない」
「だから弱いって言ったろ。にしてもこの国王ヌーボー、とんでもないワインだな。こんなのを前に出――」
 言いかけた時、ドアがノックされた。
「マリア、隠れて」
 ぷにっとお尻を押すと、きゃっと叫んでマリアは箪笥の中に隠れた。
「どなた?」
 確かめもせずにドアを開けると、支配人が立っていた。
「何か?」
「申しわけありません。昨晩お客様に国王ヌーボーをお出ししたと、うちの者から聞いたものですから――まだお飲みになっていらっしゃいませんね?」
「もう飲んだ」
「の、飲んだ?よく死にませんでしたね」
「そんなアブナいものを売るなー!!だいたい、今まではあったんだろうが。飲んだ客はいないのか?」
「それが…元々ネーミングで仕入れたもので、しかも試飲したのが別のワインでして…幸い今までに飲んだ方は一人もいらっしゃいませんでしたから」
「本当にここ成都一のホテルか?」
「あ、あのお客様」
「何?」
「お客様の宿泊代は勿論無料とさせて頂きます。ですので何とぞ…」
「あ、それはいい」
 シンジは手を振り、
「それより一つ頼みがあるんだけど」
「何でございましょう」
「特別階にプールがあったな。あれに繋がってる部屋ある?」
「特別室がございますが」
「料金は出すからそっちに移して。それと一週間プールは貸し切りで」
「は、はあ」
 一瞬戸惑った様子を見せたものの、結局VIPルームとの料金の差額だけでシンジ達はそっちに移ることになった。
 支配人が戻っていった後、マリアがそろそろと顔を出した。
「シンジ、どうして移るの?」
「マリアがそんなの着てるから」
「え?」
「プールって言ったでしょ」
「ま、まさかっ!?」
「そのまさか、だ。マリアはカナヅチらしいから、少し鍛えてくれる。オホーツク海峡を泳いで横断出来る位にしてやるから」
「べ、別にそんなのなりたくないし…」
「マリアの意見は聞いてない。さっさと移るよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「何」
「こ、この水着なの?」
「それ」
「や、やだこんなの」
「いいよ、別に」
「え?」
「見てても面白くも何ともない水着に着替えても。そう言うのだったら沢山売ってそうだし、買いに行く?」
「…べ、別にいいわ。シンジがそう言うのならこのままで…」
 シンジに言われたから、と言う所を強調したが、さすがに気になるのか尻の辺りをおさえているマリアが思い出したように、
「こ、これ昨日…誰かに見られたのよね」
「誰か?見られてないよ」
「どうして分かるの?」
「こっちに帰ってきてから誰にも会ってない。それに妙な視線で見てるのがいれば、俺が気づく。泥酔していても、それも分からないって事はない。それよりマリア、お風呂入っておいで。夕べからそれで気持ち悪いでしょ」
「シンジも一緒に入る?」
「…入りません。ほらとっとと行った行った」
 痛む頭を動かさないように、室内の後かたづけを始めた途端、にゅっと首に腕が巻き付いた。
「シンジも一緒」
「やだ。今はそんな余力無い。頭がガンガンしてるんだから割れたらどうすんの」
「そんな事言わないで。ね?」
「ね、じゃない。我が儘言ってないでさっさと行きなさい」
「じゃあ…してくれる?」
「何を」
「キス」
「さっきしたじゃない」
「朝」
「朝?」
「起きる前に…してくれる?」
「朝ね、いいよ」
 商談成立。
 結局この日は悪酔いして、二人とも一日ゴロゴロして過ごした――と言うよりそうせざるを得なかったのだが、次の日からシンジは契約の中身を確かめなかったのを後悔する事になった。
 朝、とは言ったが一日だけとは言わなかったのだ。
「キスしてくれなきゃ起きない。シンジもいいって言ったじゃない」
 いやいやと首を振って駄々をこねるマリアも、シンジが身をかがめて軽く頬に口づけすると、うっすらと頬を染めて起きるのだった。
 しかし、その後はもう件の扇情的と評した方が近い代物を着て、
「さっさと泳げ」
 文字通りの金槌だったマリアをプールに放り込み、容赦のない水練が続けられた。
 降魔を探しに行く事もなく、それだけを一日やってるのだから、嫌でも上達していくというもので、一週間も経った頃には一往復を泳げるようになっていた。距離は五十メートルだが、浮く事すら出来なかったのだから大したものである。
 夜になると、疲れたからと言ってシンジのベッドに侵入し、そのまま泥のように眠るマリアと、抱き枕どころか添い寝してる赤子程度にしか見ていないシンジとの間に、当然進展などないが、シンジが自分の姿に全く反応していない事も、頬とは言えキスにこだわる一因だったのかも知れない。
 とは言え、
「だいぶ泳げるようになったか。頑張ったね」
 褒められて小さく頷いたマリアは、確かに幸せであった。
 そう――例えこれが長くは続かないと分かってはいても。
 女の子らしさ、などという物は無駄で不要、そう割り切っていたマリアも、変わっていく自分の内面に気づいていた。
 そしてそれを、すんなり受け入れられる自分に幾分戸惑いながらも、それは決して不快な感触ではなかったのである。
 だがマリアは気づいていなかった。
 シンジの目は、単にマリアの水練にだけ向けられていたのではない、と言う事に。
 無論身体でもないが、マリア自体を見ていなかったのではないと言う事にも、また気づいていなかった。
 何よりも、シンジがマリアの水泳コーチとして来たのではないと言う、当たり前の事もマリアは忘れかけていた。
 
 
「そろそろ服買いに行かないとね。同じ物ばかり着てるのもなんだし」
 勿論水着でマリアが過ごしたわけではないが、元が皆無なせいで、最小限の物しか買っていなかったのだ。
 部屋を出た時、マリアはきゅっとシンジに腕を絡めた。
 ごく自然な動きに見えたが、刹那シンジの表情が僅かに動いたのに、マリアは気づかなかった。
 午前中はそのまま街を散策し、午後から二人は買い物を始めた。
 衣類を始め必要な物を買いそろえ、入れ物がないマリア用にスーツケースも一つ買った。
「これ、ちょっと色が派手過ぎて私には…」
 色自体は薄いのだが、ピンク色のそれを前に躊躇するマリアに、
「二週間前のマリアなら似合わなかった。ま、今は大丈夫だ」
「シンジ…」
 ぎゅっと一層強くマリアが腕を絡めた直後、シンジの足が止まった。
 やり過ぎたかとマリアが腕を放そうとした時、
「分かってるならさっさと出てきたら?」
「え!?」
「ふうん、お見通しだったって事かい。さすが、あの三人を銀角諸共片づけただけの事はあるねえ」
 半分壊れたスピーカーから出るような声は、後ろから聞こえた。
 
 
 
 
 
(つづく)


TOP><NEXT