妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
F−4:残されし者
 
 
 
 
 
 秋風吹きすさぶ荒野に、一人の女がうずくまっていた。
 いや、うずくまっていたと言うのは少し正確ではないかも知れない。
 何かを抱えるようにしているその女の衣服は、あちこちが朱に染まっている。
 だが妙なのは、出血からすれば大怪我の筈なのだが、彼女にはどこにもそんな様子が見られないのだ。
 卓越した精神力、あるいは治癒力の持ち主なのか。
 答えは否、である。
 座っている姿だけでも、身の丈をおよそ想像する事はできる。
 そう、五メートル近くはあろうか。
 角が生えている訳でもないし、尻尾が見受けられる訳でもない。
 一見すれば普通の女だが、それでもやはり尋常な体躯とは言えなかった。
 そしてその膝にあるのは、一頭の狼であった。
 これは文字通り、全身が朱にまみれており、何よりもその口元は凄惨な物があった。
 下顎はもう、主の元を離れていたのである。
 既に死者の色に支配されたそれを見ながら、ただそれを抱きしめたまま、女の口からは嗚咽が止まらない。
「私が…私が死なせはしない。フェンリル…絶対に…」
 鬼女の慟哭に聞こえるそれだが、それにしては幾分妙だ。
 北欧神話によれば、魔神オーディンと義兄弟であったこれまた魔神ロキには、三人の子供がいた。
 すなわち、冥府の女王ヘル(ヘラー)
 すなわち、ヨルムンガンド(オルム)
 そして、巨大な妖狼フェンリル。
 ヨルムンガンド、フェンリル、いずれも巨躯の大蛇と巨狼であり、こんな女の膝に抱かれる程のサイズでは無いはずだ。
 主神オーディンを呑み込んだまではいいが、その息子のヴィダルによって、顎を引き裂かれて息絶えた、とされている。
 ではなぜ?
「これさえなければ…妖精共がこんな物さえ造らなければ…」
 奇妙な事を呟きながら、その手はフェンリルの身体から何かを引き抜いているように見える。
 その身体に比べ、あまりにも細い物体だが、一体何を引き抜いているのか。
 そして、フェンリルを抱くその身体が、徐々に色あせているように見える理由はどこにあるのだろうか?
 
 
 
 
 
「16ヤードの大きさは、さすがに少しこたえるね。私も老いたものだよ」
 緑の大地に大きな魔法陣が、たった今描かれた所であった。
 1ヤードが0.9メートルだから、大体二十メートル近くある、と言うことになる。
 そこにびっしりと描かれた文字を見れば、この老婆にはあまりにも重労働に違いないと言うことに、異を唱える者は誰もいるまい。
 ただし、その言葉通り少しこたえた、だけにしか見えないのがローザである。
 額面通りに取るならば、以前ならばさしたる労働量にも値しなかったのだろうか。
 ところで、そこに描かれた文字を見た時、ある事に気付くかもしれない。
 かつてヨーロッパ全域に及ぶ勢力を持ちながら、ローマ人やアングロ・サクソン、さらにはバイキングの侵入によって次々と追いやられ、一時は文化衰退の危機にまで至ったとある民族が使ってた文字に、どこか似ていることに。
 そう、英国に統合されながら今なお気を吐き続けているウェールズ、そこで見られるようになったケルト文化の文字に、どことなく似ていると言うに違いない。
 
 
 
 
 
「ここはいい」
 不意に口を開いたシンジに、クレアは驚いた顔を向けた。
 車に乗ってからここまで、眠っているとばかり思っていたのだ。
「寝ていたんじゃ…なかったの?」
「ここの道路は日本と同じだからな。いい感じだ。まだかかるか?」
「四十キロ位はあるから。でもあと十分もあれば着くわ」
 泣きながら帰ってきた娘に両親は驚愕した表情を見せたが、クレアが出かけると言った時何故か引き留めようとはしなかった。
 あるいはキャシーが、女の勘で知ったのかもしれない。
 乱暴されたりしたそれではない、と。
 それにしても、妙にあっさりと許した両親にクレアは首を捻ったが、ローザが来ていたからだとは想像が付かなかった。
 シンジの言葉に泣いて帰ったクレアだが、よく考えると腹が立ってきた。
 だいたいこの男、一度はいいと言ったではないか。それを直前になってから翻すだなんて。
 無論シンジとて気まぐれではなく、その本能が察した直感からの事なのだが、そこまではクレアには分からない。絶対に付いていってやると、固く決意していたのだ。
 ついでに、顔を見たら一発かましてやるわと決めていたのだが、顔を見た途端なぜかすうっと萎んでしまった。
 …あんなに怒っていたのに。
 どうしてかと、自分でも不思議ではあったが答えは出なかった。
「日本と同じ、何のこと?」
 訊きたいこととは、まったく別の言葉が出てきた。
「車の往来だよ。車は左側通行、日本もそうだからな。ところでクレア、海外に興味はあるかい?」
 ちょっと考えてから、
「日本とか?」
 そう訊いたとき、かなり勇気が要った。
 だから、シートを倒して目を閉じているシンジが、あっさりと頷いた時は少しほっとした。
「そうね…でも怖いわ」
「怖い?ジャパニーズマフィアが?」
「違うわ」
 首を振って、
「一人で異国を旅行するのは」
 含み、を入れるにはあまりにもストレートな言葉だったが、
「いいガイドを付けよう。1日辺り2£(ポンド)でいいや」
 1£はだいたい、179円である。
 思わず力任せにつねりたくなったが、一応訊いた。
「その…ガイドの名前はなんて言うのかしら」
「シンジ・イカリさ」
 いいわね、ところっと一転し、手がきゅっと握られたのは数秒後の事であった。
 
 
 
 
 
「はて、そろそろ来る頃なんだけどねえ」
 よっこらせと立ち上がったローザは、道路の遙か向こうに目を凝らした。
 まだライトは見えてこない。
 私が運転して連れて行く、クレアの涙を見た後だけにその言葉を聞いた時は、一瞬驚いたもののすぐに納得した。
 あのジャパニーズのボーイなら、してのけてもおかしくはあるまい。
 そう、クレアに久方ぶりの笑顔を思い出させ、しかもあっさりとその心を虜にした、としても。
 色々とやるもんだね、と内心で呟いたとき、エンジンの音が聞こえてきた。
 まだ距離は遠いが、湖面はほとんど音を立てないため、かすかな音でもはっきり聞こえる。
 ましてローザの耳に掛かっては、その距離もほとんど掴めていた。
「やっと来たようだね」
 ローザは空を見上げると、刹那目を閉じた。
 軽く手を組んで空を見上げる姿勢は、どこか祈りを捧げる敬虔なクリスチャンにも見えた。
 
 
 
 
 
「ほうこれは…」
 目を閉じていたシンジだが、窓を開けた途端にその双眸は開いた。
 自動、等という便利な物はないから、手で開けなくてはならない。
 ぎい、とセンチ単位で開けた途端、その嗅覚がある物を捉えたのだ。
 すなわち壮絶な迄の妖気を。
 このロモンド湖が観光名所であることは、シンジも知っている。
 ネス湖のネッシーじゃあるまいし、妖気を湛えた湖などに外人の観光客は来るまい。
 だとしたら。
 すでに、魔法陣を描いた羊皮紙が無くなっているのは知っていた。
 メモにも、自分が描いてやると記されてあったのだ。
「あとどのくらい?」
「二キロを切ったわ」
 と言うことは、キロ単位で離れても伝わるほどの妖気と言う事になる。
「一体何が待っている」
 呟いた日本語を、クレアは無論理解できなかったが、それが妙に嬉しそうだと言うことには気が付いた。
「嬉しそうね、シンジ」
「ええ、とっても」
 妙なアクセントで返したシンジに、クレアが肩をすくめた時、
「着いたわ」
 シンジは軽く頷いた。
 が、降りようとドアに手を掛けたクレアを、シンジは制した。
「…何?」 
「いや、何でもない」
 ここまで来たら、後は仕方あるまい。
 クレアの強運に賭けるだけだ。
「俺が先に出る」
 外に降りた途端、凄まじい妖気がシンジを包んだ。
 普通の人間なら、それだけで昏倒しかねないほどの、そしてシンジにとっては心地よいそれが。
 先に降りたシンジは、反対側に回ってドアを開けた。
「どうぞ、姫」
 ありがとう、と嬉しそうに降りたその身体が、ぐらりとよろめくのには二秒と要さなかった。
「これは何…」
 震える声で訊いたクレアに、
「始まる前から、既にこの気だ。これで現れたらどうなるか、見当もつかん」
 だが、
「ちゃんと守ってね…」
 よろめきながらも、腕を掴む力は緩まない。
 シンジは黙って腕を放させた。
 一瞬クレアの顔色が変わるが、それが赤くなったのは次の瞬間である。
 シンジは横抱きにして、ひょいと腕の中に抱き上げたのだ。
 ちょうど、初夜にベッドへ運ばれる花嫁のような格好に、クレアの顔は真っ赤になったが、それでも抗おうとはしなかった。
 
 
「遅かったね」
 プリンセスを抱いたナイトを、ローザはじろりと出迎えた。
「安全運転が第一だ。さ、どこに降ろせばいい?」
「描かれた魔法陣から、最低二十メートルは離しておくんだ。それでも完全じゃあないが、あまり遠くだと本人もつまらないだろうよ」
 結構とんでもない事を言うのは、シンジの影響でも受けたものか。
 しかし、その言葉の意味はすぐに知れた。
「ここで待っていてね」
 ええ、と頷いたクレアだが、シンジがそっと降ろした途端、急激にその身体が弛緩したのだ。
 気絶したのである。
「それでいいさ。もし見てしまったら、おそらく精神は保たないからね」
「名案だ」
 シンジが戻っていくと、
「もう、準備はできている。後は、あんたが血を置くだけさ。それにしても、鶏を使わずして人間の血を使うとはね。いい使い方を知っているよ」
 褒められたのか、よく分からない。
 シンジはそれには答えず、
「ここに描かれたこの文字、判読できるのは何人ぐらいいる」
「半分読めるのが世界を捜して三人、全部読めるのは一人だよ」
「神々の時代も今は昔、と言う事か。俺には読めるのかな」
「だったら、さっさとお外しよ」
 既にローザの目は、シンジのプロテクトを見破っていた。
 すなわち、情報量から自らをガードしていることを。
 シンジがその気になれば、この魔法陣くらい簡単にマスターするであろうことも。
 それも学習するのではない、描かれた大地がシンジにそのすべてを囁くのだ。
 言ってみれば瞬間的な睡眠学習みたいな物だが、強引なだけにやや鬱陶しい。
 だからシンジは、それが流れ込んでこないよう、意識化にプロテクトを掛けていた。
 分かりすぎる、と言うのもなかなか大変なのだ。
 す、とシンジの口元に笑みが浮かぶと円の中央へと歩み寄った。
「では始めよう」
 中心部分の円上には、すでにいくつもの品物が置かれており、そこにはシンジが見たこともないような物もあった。
「出よ、不浄の物よ、今大地へそのすべてを返せ」
 ふっとシンジが軽く手を振った瞬間、その先端から血が滴った。
 そこまではさっきと同じ。
 そして違うのは、その量であった。
 誰でも血相を変えそうな量が、みるみる太い筋となってそこから流れ出した。
 たちまち地に落ちて足元を濡らし、シンジへと跳ね返り…はしなかった。
 色鮮やかなその血液は、ことごとくが足元の大地へと吸い込まれていたのである。
 そう、まるで勿体ないと大地が飲み干しているかのように。
 人一人分、いやそれにしてはあまりにも大量の血液が、シンジの手から流れ出して大地に吸い込まれていく。
 止まるまでに、十分以上掛かった。
 その間シンジの指先からは、止まることなく鮮血が滴っていたのである。
 誰でも顔をしかめそうな血の匂いが周囲を支配した時、シンジは軽く手を振った。
「持っているのも嫌だからな」
 奇妙な事を呟くと、
「そのまま行っていいのか?」
 ローザに訊いた。
 軽く頷いたローザを見ながら、シンジは両手を軽く組み合わせた。
 そこにはもう、血の痕はまったく残っていない。
(さて、何を詠唱するかね)
 何かと引き替えに、大地の精を大量に使用せんとする時、呪文の詠唱は不可欠だ。
 ただし、文化が溢れたのと同様それは多種多様であり、東洋から来たこの青年が何を使うのかと、内心では興味津々であった。
 がしかし。
「星は人を、大地は永劫の時を示す。刻まれた螺旋よ、今その中を我に示せ」
 ゆっくりと口にした後、
「我今、大地の精に命ず。われが捧げし贄の元、我が名に置いてここに封じられし者を解き放て」
 身を屈めて、右手を大地へ差し込んだのを見て、その表情が驚愕へと変わった。
 まさか、まさかこれだけで?
 大地と契約もせず、血と少量の贄とそれだけで、描かれた陣から込められた者を喚び出そうと言うのか。
 刹那、その双眸が大きく見開かれた時、シンジは軽く後ろへ飛んだ。
 凄まじい地鳴りが、辺りを揺るがしたのは次の瞬間である。
 湖面の水が一斉に揺れ始め、木々がまるで悲鳴を上げるように激しく揺れ動く。
 変わらないのはただ空だけであったろう。
 雲一つない晴天に、大きな満月でじっと見下ろしている空のみ。
 不意にそれが止んだ。
 突如として、また静寂が訪れる。
 だがそれが終わりでないことをローザも、そしてシンジも分かっていた。
 見よ、数秒と経たない内に描かれた文字が、青白く発光し始めたではないか。
 シンジの表情が動き、一瞬空を見上げた。
 みるみるかき曇ってきた空を。
 光った、と思われた次の瞬間に、いきなり落ちた。
 それも二カ所に。
 一カ所は、シンジ達から数十メートル離れた大木の上に。
 そしてもう一カ所は、シンジが血を注いだまさにその場所へと。
「始まったね」
 呟いたローザの目から、涙が落ちた。
 彼女の耳は捉えていたのだ。
 発光している文字から発する音が、ある歌をなしていることに。
 そしてそれは、ローザに取ってあまりにも懐かしい物であった。
 が。
「あーうるさい」
 無粋にも、耳を塞いでいるのがいるではないか。
 何と無粋な、とその眉が寄り掛けたまさにその時、急にそれは終わった。
 しかし発光は終わらない。
 描かれた文字の発光は、その形を変えつつあった。
 すなわち、その中心点へとの集束へと。
 青白い光のそれが、段々と大きくなっていき、中心に描かれた円を超えて次へと達した。
 第二、第三と進んでいくのを、二人はじっと見ていた。
 まるで、領土を侵すかのように次々と面積を増していく。
 不意に、妖気が強くなった。
 ひときわ強くなったそれに、すっとローザはひざまずき、シンジはその口元に僅かな笑みを浮かべた。
 ちょうどそれが、自分の体質には合っていると言うかのように。
 そしてその三秒後、その視界にある物が映った。
 真っ白な物体に見えたそれは、足の姿をしていた。
 真っ白な毛並みを持ったそれは、売り飛ばせば途方もない高値が付きそうに見えた。
 だが途方もないのはその価値だけではなかったのだ。
 五メートル近くもあるそれが、ゆっくりとその全貌を見せていく。
 まずは右前足が。
 続いて左前足も。
 それが完全に姿を現すまで、十分近くも掛かった。
 そして光が消えた時、シンジの前には巨大な妖狼が姿を見せていた。
 狼の群を捕まえてきて機械に放り込む。
 そこから一頭だけを合成すれば、或いはこんな風になるのかとも思われた。
 ただし、大きさだけだが。
 この妖気、そして周囲を圧倒するこの雰囲気は、野生の獣ごときでは到底出し得るまい。
 が、シンジは気付いていた。
 この巨躯は、まだ本当のそれではないのだと。
 そう、魔法陣の大きさがその巨躯の出現を、自由にはさせていないのだと。
 金色の瞳が、ゆっくりとシンジを捉える。
「この私に何の用だ、人間よ」
 にこり、とシンジは笑った。
「別に」
「今…何と言ったのだ、お前は」
「別に、と言った。こんな狼呼んできても、既に餌にするオーディンはいない。かと言って、俺が乗用にするには大きすぎる」
「我が名を知っていたか、人間よ」
「フェンリル、伝承だけなら知っている。ロキの子にしてラグナロクの立役者、グレイプニルが無ければ、大地はすべてお前の物になっていたかもしれないな」
 不意にフェンリルが咆哮した。
 木々も湖面も、悲鳴を上げて泣き叫ぶような声であった。
「下らぬ事を知っているな。ではせめて、それを死者の國まで持っていくがよい」
 ぐわっと前足を振り上げて、そのまま前に出ようとした。
 が、出られない。
「この私を…人間のお前が止めたか?いや、違うな。人間に我は止められぬ」
 ゆっくりとその首が動き、小柄な老婆を認めた。
 跪いて何かを唱えているローザを見つけ、
「お前は…お前には見覚えがあるな」
「お久しぶりでございます…フェンリル様」
「確かお前は、ヘルの側にいた者だな。何故、我を呼びだした」
「ヘル様のお言葉にございます」
「ほう、ヘルとな」
 どこか、嘲笑が混ざったような気がした。
「神々の末裔…唯一の生き残りたるあなたを、お前が選んだ者に託すようにと、そう私に命じられました」
(末裔?最後の者って意味か?)
 子孫、ではおかしくなる。
 では生き残りの意かと勝手に頷いた時、
「良かろう、ローザよ」
 フェンリルの声に、シンジがそっちを向いた。
「だが、お前が選んだとは言え私が選んだ訳ではない。試す事に異存はあるまいな」
「御意のままになさりませ。この者がその程度なら、あなた様が大地をすべて手に入れることも容易いことでございましょう」
 やれやれ、とシンジは内心でぼやいた。
 どうせ、そんな事だと思っていたのだ。
 だがシンジは油断した。
 どうやって結界を外すのか、と眺めた瞬間、
「そのままでも外れているぞ、人間よ」
 はっきりと笑みを含んだ声と共に、巨大な前足が落ちてきた。
 ズウン、と地響きがした。
 
 
 
 
 
(つづく)


TOP><NEXT