妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
F−5:シンジの計算――吉凶の分かれ目
 
 
 
 
 
 神話に言う。
 その昔に妖狼ありき、と。
 ウルド・ヴェルダンディ・そしてスクルド。
 彼女たちは女神であり、それぞれ過去・現在・未来を司る者達であった。
 魔神ロキの子達を、その母が邪悪と言ったのはウルドであり。
 父親のせいにしたのはヴェルダンディであった。
 さらにその子供達を最悪と決定し、ろくな者にならないとさえ言ったのはスクルドである。
 このろくでもない予言、特に三番目のやつにより子供達はひどい目に遭った。
 すなわち、冥府の女王にされてしまったヘラー。
 すなわち、大洋に放り込まれてヨルムンガンド。
 すなわち、小人達の細縄で縛られたフェンリル。
 中でも、奇怪な縄で縛られた挙げ句、地中に固定されてしまったフェンリルは、いい迷惑であったろう。
 女神の戯言ごときで、勝手に運命を決められてしまったのだから。
 だが今、かつて神話にその名を残した強大な妖狼は、一人の人間の前にその姿を現していた。
 用もなく呼ばれたものとして。
 
 
「あっつー!」
 脇腹を押さえながらシンジが起きあがった時、そこからは鮮血が滲みだしていた。
 さっき手から流れたのは、絡んできた者達の血のそれであったが、今度は違う。
 紛う方無き自分の物である。
 しかも、純白のコートが染まりだしている所を見ると、結構深いらしい。
「…出られないんじゃなかったんかい」
「誰がそんな事を言った?」
 妖狼は揶揄するように言った。
「結界は張ってある故、軽く押しただけでは出られぬ。だが、身動きがとれぬ等とは誰も言っておら…ぬ」
 言葉が途中で切れたのは、すっと身を引いたからだ。
「それはそれは」
 ずい、と伸ばされた手から飛んだ炎が、フェンリルを襲ったのだ。
「まあいい、これ位はちょうどいいハンデだ」
 とは言いながらも、出血の止まった様子は見られず、ハンデにしてはやや大きなダメージと言える。
 それに何よりも。
「人間よ、その言葉後悔するな」
 声に危険な物の混ざったフェンリルが、一気に間合いを詰めたのだ。
 ぶうん、とうなりを立てて飛来する前足の一撃だが、ローザは気付いていた。
 すなわち、それが少しも本気など出していないことを。
 そして今のこれは、フェンリル本来の姿からはほど遠いこともまた。
 無論これは、ローザの打った手である。
 フェンリルの完全体など、いくらシンジでも敵うとは思えない。
 第一、あんな数十メートルにも及ぶ巨躯では、この地が覆りかねない。
 ハンデはいわば、フェンリルの方なのだ。
 しかし。
「一応やる物だね」
 ローザの言葉通り、紙一重ではあるがシンジはかわしている。
 どこで見切っているのかは不明だが、ぎりぎりの線で避けているのだ。
 とはいえ、あの大きな足だけあって風圧もまた、並大抵ではない。
 現に、シンジの頬はあちこちが切れているではないか。
 当たってはいないものの、風だけで皮膚が裂かれているのだ。
 このままでは、到底シンジに勝ち目はない。
 唯一救いがあるとすれば、シンジの息がほとんど上がっていないことか。
 体躯の差もあるが、これだけ動いてもシンジは殆ど言っていい程息を乱していない。
「なかなかやるな、人間」
 十三撃目をかわした所で、フェンリルの動きが止まった。
「余計なお世話だ木偶の坊」
 ふん、とシンジが言うと、
「木偶の坊、とは悪口の類だな。だが、それに追われるだけのお前は何だ?」
 とフェンリルが言った。
 やはり、俗語に通じきってはいないらしい。
「今捕まえて、焼き肉にして食ってやっ」
 終わらぬ内に、シンジは宙へ飛翔していた。
 前足がそこを抉ったのは、秒と経たぬ内であった。
「神を食うのは私の専門だ――人間よ、知らなかったか?」
「オーディンだったな、よくあんな物食べる気になったな…む?」
「お前には分かるまい、人間よ。決して…分かるまい」
 風圧が襲う寸前、シンジは炎を放って避けた。
 夜露のせいもあるのか、緑の青草は瞬時に炎をはねのける。
 巨躯の生み出す風圧は、確実にシンジに傷を負わせていく。
 避けるだけで精一杯に見えるシンジには、どう考えても勝ち目などありそうにない。
 いやむしろ、どの時点で捉えられるかを賭けた方が、現実的かも知れない。
 が、
「分かりたくない」
 それだけ聞けば、まだ元気そうに見える。
 それに何よりも。
 かつて冥府の女王に仕えた老婆は、見抜いていたのだ。
 シンジが何かを計っていることを。
 そしてそれが、もうすぐに違いないと言う事も。
「よく逃げる人間だ。生まれて最初に教わったのは逃げ足か?」
 嘲るような内容だが、その声色はそうでもない。
 むしろ、感嘆している風さえ感じられる。
 本来の力には遠いとは言え、かつて神に名を連ねたもの、その一撃をかわし続けているとあれば、ある意味では当然かも知れない。
「完全体にはほど遠いとは言え、人間程度に神の名を冠する者が遅れも取れまい。どうした、もう終わりか?」
 シンジの口調に、ローザがおや、と言う表情を見せた。
 シンジの言葉に何かを感じ取ったのか。
 フェンリルはすぐに応じた。
「良かろう。私の力、すべてを持って葬ってくれる。死者の國で誇るがいい」
 不意に風が変わった。
 静かな風から、生臭いそれへと。
 シンジ自身は知らなかったが、もし戦場へ赴いた事のあるものがいたなら、こう言ったに違いない。
 死屍累々の戦場に吹く風だと。
 屍肉をついばむ鳥たちを、夕暮れの訪れと共に招き寄せる風だと。
 ローザはクレアをその胸に抱き、視界も聴覚も、そして嗅覚すら奪うかのように、いや可愛い孫に凄惨な物を見せまいとするかのように、その胸にぎゅっとかき抱いた。
 風にあおられて、シンジの髪がざわざわと逆立っていき、反比例するかのように、フェンリルの真っ白な毛並みは静かに寝ていく。
 対称的な両者の間を、鋭利な殺気が繋いだ。
「私もいずれ行く。死者の国で会おう」
 今までで、一番速いスピードで足が振り上げられ、最高の重さを込めて振り下ろされた。
 シンジは動かない。
 
 
 
 
 
「シンジ、と言ったわね、あのジャパニーズボーイは無事かしら」
 キャシーが、夫の胸に埋めていた顔を上げて聞いた。
 揃って独り寝するには、二人の身体はまだ静寂の時を迎えておらず、夫の上で激しく腰を使い、足をびくびくと突っ張らせて果てた所だ。
「大丈夫だよ、きっと。確かに彼の事は分からないが、ローザが一緒に行っている。死者を連れ戻すあの人が一緒なんだ、間違いは無いだろうよ」
 妻の張りを失っていない顔に指を這わせると、徐々にその目が濡れてきた。
 顔に軽く手を掛けると、ずりずりと上にあがって…は来なかった。
 代わりに、んぐんぐとくぐもった音が聞こえてくる。
 言葉ではなく、態度で示すことにしたらしかった。
 むき出しの男根を、口の中いっぱいに頬張る事で。
 自分の前で左右に開かれた淫唇からは、赤黒くなった内襞が誘うように蠢いており、ボビーは躊躇う事無くその中に舌を差し込んだ。
 室内が徐々に喘ぎで満ちていった。
 
 
 
 
 
「…な、なに…」
 渾身の力を込めて振り下ろしたそれは、かつてグレイプニルを引き千切らんとしたあの時に、勝るとも劣らぬ物であった。
 それなのに。
「日本武道では寸止めと言う」
 ただし、言葉と状況はあまり一致してはいなかった。
 シンジの顔までの距離はおよそ二メートル。
 とは言え、風圧を考えればこれが限界であろう。
 これ以上近づけば、前足が巻き起こす風圧だけで、シンジの顔は拉げかねない。
 それでも、突き出されているのが指二本だけである事を見れば、強ち誇張とも言い切れないかも知れない。
 一体何をしたものか、巨躯の妖狼をシンジは、指二本だけで受け止めたのだ。
「貴様…何をした…」
「エネルギー切れだ」
 とシンジは、どこか楽しそうに言った。
「何!?」
「大地に封じられた物を呼び出す、それにはさっきの言葉で足りるが、どうも妙だと思った。本当に大地に封じられたものなら、こんな観光地にはあり得ない。それになによりも、こんなアングロサクソンが横行する地に、狼とは言え神の名を冠する物が封印されるとも思えない」
 とそこまで言ってから、
「羊皮紙の中の住人だと言う事を、すっかり忘れていた。気の流れが衰える地脈を見越して、姉上はお前をそこに封じたな」
 分析するように言葉を紡いだ。
 しかしながら、もしそうだとしたら最初から、まともにやり合っては勝ち目が無いと判断して、フェンリルの魔力が衰えるのを待っていたというのか。
 いやそれよりも。
 もしも妖狼の気が変わり、街を標的にしたらどうするつもりだったのか。
 しかし、次の瞬間シンジは奇妙な行動に出た。
 何を考えたのかは不明だが、ふっとその手を下ろしたのだ。
 唯一掴んだかに見えた勝機を手放すとは、一体何を考えているのか。
 だが一方のフェンリルも、
「やはりそうか」
 あっさりと前足を降ろしたではないか。
「妙だ、とは思っていた。お前の身に宿る力は、私から逃げ回るだけではない事を示していたからな。起きたばかり、しかもこの肉体(からだ)しか持たぬ私が、備えられた魔力を使い果たすのはさして遠くない。そこをじっと待っていたか」
「神を向こうに回して楽勝できると思う程、そこまで自惚れてはいないつもりだ」
 と言ったが、
「多分、な」
 そう付け加えたのはシンジらしいかも知れない。
 それにしても、今のシンジの姿を見たらフユノやミサトは、いやそれよりも葉子が血相を変えるに違いない。
 脇腹は危険な朱色に染まり、直撃は無かったにもかかわらず、顔や腕に幾つもの傷ができている。
 無論フェンリルの足の一撃が起こす風圧のせいだが、今までにここまで怪我を負った事は一度もない。
 文字通り、満身創痍と言うに相応しいだろう。
 ふふっとフェンリルは笑った。
「ラグナロクの折、お前がオーディンの配下にいれば、あやつも私に食われなどしなかっただろうに。とはいえ、お前は誤った事を口にしたぞ」
「は?」
「姉が私を魔法陣に封じた、お前はそう言ったな。だがそれは誤りだ」
「あやま…なっ!?」
 よろめいた途端脇腹の傷が悲鳴を上げ、
「いっでー!!」
 が、それが幾分素っ頓狂なのは仕方あるまい。
 シンジの前には今、全裸の美女が立っていたからだ。
 尻尾を表すような髪はシンジよりなお長く。
 ただし、秘所を覆っている秘毛も、艶々と伸びた髪も、いずれも白ではなかった。
 それは漆黒の色をたたえていたのである。
「ど、どういうこと…」
 思わず唖然として訊いたシンジに、フェンリルは妖しく笑って見せた。
 成熟した女の色香が辺りにさっと散る。
「ヘルの記述、お前は何と知る?冥府を司る者にして、その身体は半ば朽ちているとあったであろうが」
「…違ったかな」
「合っている――半分はな。では訊こう、ヴィダルによって顔の下半分を喪った私が、何故ここにいると思う?」
「…ま、まさか…」
「大して驚く事でもあるまい。姉は私にその肉体を与えた故に、自らは不完全なそれとなったのだ。この妹に、それを与えたが為にな」
「うーん」
 今度こそ、本当にシンジは唸った。
 初耳もいい所な内容に、気が遠くなりそうな気がしたのだ。
 いや、正確にはその出血の多さからなのだが。
「だが人間よ、私の状態は関係ない。よく、この私を抑えてのけたものだ。私も約定は違えぬ、お前の僕となること承諾しよう――名は何という?」
「シンジ――碇シンジ」
 美女が黒髪を揺らして近づいてくるのを、シンジは半ば陶然となって見ていた。
 フェンリルは無論の事ローザも、既にシンジの出血には気付いている。
 その気になれば、シンジの首はあっさりと地に舞ったであろう。
 だがフェンリルはしなかった。
 代わりに。
「誓いの証を」
 そう言うと、いきなりシンジを抱き寄せて唇を重ねたのだ。
 口腔に熱い舌が入り込んできたと思うと、シンジの舌は捉えられていた。
 かくん、と倒れ込んだシンジの身体を、フェンリルは優しく受け止めた。
 そっと抱き上げると、
「ローザ」
 金剛石のような声で呼んだ。
「はい、ここにおります」
「この私が人間の従魔になるだなどと、姉は泣いているであろうの」
 いいえ、とローザは首を振った。
「時を異なれば、世界を手に入れる事すら望みうる者にございます。決して、見劣りは致しますまい」
「これが、か?」
 腕の中のシンジに視線を向けたフェンリルだが、その双眸にはどこか、奇妙な色が見受けられた。
「我が主なれど、自らの力もまだ分かり切っておらぬ。これでは、放っておけばまもなく出血によって魂は消える。気付いておれば、この程度の傷など自らの力で治せるものを。これではまず、己の力を教える事から始めなくてはならぬな」
「仰せの通りにございます」
「五精すら使いうる者、確かに我が主には相応しいかも知れぬな」
 フェンリルはそう言うと、とん、と軽く足を踏みならした。
 その足踏みで起きた事は二つ。
 まず一つは、急激に辺りが元のそれを取り戻した事であった。
 裂けた大地はまた青々とした緑に覆われ、妖気を孕んだ風も、元の月の囁きだけを乗せた物へと戻っていく。
 そしてもう一つは。
「重い」
 フェンリルの外見にあった。
 フェンリルは服を着たのだ――事実だけを言うならば。
 そしてそれは、まるで古典の世界にでも出てくるような十二単であった。
 おそらく、口づけした時にシンジの思考を読みとったのであろう。
 だが裸や色っぽい格好ならともかく、なぜこんな十二単などになったものか。
 引きずらざるを得ない裾を見ながら、
「その娘、私の姿を見なかったのは正解であった。あたら、むざむざと生涯を終える事もないからの」
 未だ目覚めぬクレアに視線を向けて、
「我が主からも命があろうが、お前にはこの地に留まってもらわねばならぬ」
「は?」
「やってもらうことがある」
「それは何でしょうか、フェンリル様」
「我が主が目覚めてから訊くがよい」
 それだけ言うと、シンジを腕(かいな)に抱いたまま、フェンリルはくるりと背を向けた。
 引きずっている、ような気もしたが平伏したまま頭は上げない。
 周囲は草原となっていたが、まもなくローザが顔を上げた時、その姿はどこにも見えなかった。
「ヘラー様…これにて、私の役目はお終いです。できることならあなたのお側へ…」
 溢れる涙を拭おうともしなかったが、さすがの彼女も、フェンリルの腕に抱かれていたシンジが、いつの間にかその出血が止まっていた事までには気付かなかった。
 
 
 
 
 
 そして三日後の事。
「このあたしに記憶を封じておけ、そう言うのかい」
「そう言うこと」
 あっけらかんと言ったシンジは、既に完全復活している。
「フェンリル様は何と言われたね?」
「フェンリル?俺と意見が違うわけが無いだろうが。それに、もう術が掛かっているのは知っているな」
 言われずとも、ロモンド湖周辺の人々から、あの夜についてまったく聞かれないのにローザは気付いていた。
 無人の観光地ではないし、少なくとも音や異様な風には気付いてもいい筈なのだが。
「フェンリルは術を掛けて、今はもう眠っている」
「ではフェンリル様が?」
 そうだ、と頷いて、
「ただあいつも、まだ完全に戻った訳ではない。大技使って今は眠っている所だし、術の方も完全ではない。長いことは言わない。そう、まず四年かその辺りだ。その位立てばもう間違いないだろう。それまでは、ここの要となっていてはくれないか?」
 そう言ったシンジの全身から、今までとは異なった気が漂っているのにローザは気付いていた。
 フェンリルを従魔にしたこと、或いは神の名を冠する者を向こうにした事かは分からないが、また一つ成長したのだろう、ローザはそう思った。
「分かったよ」
 ローザは静かに頷いた。
「この街に、今更余計な騒ぎを引き込む事もない。きっと、ヘラー様もお許し下さる事だろうよ」
「ありがとう」
 シンジは静かに笑った。
 
 
 
 
 
「さてと、葉ちゃんにもちゃんと買ったし、うちのフランケンシュタイン、じゃなかったホルスタインにもスコッチは一応買ったし、と」
 スーツケースを持ったシンジの姿が、グラスゴー空港にあった。
 帰りはここからヒースロー空港に向かい、そこから日本へと帰路へ着く。
 ふとシンジは、絶滅種の輸入は禁止されている事を思い出した。
 北欧神話にその名が見られる中で、形を取っているのはフェンリルだけだと既に聞いている。
(これは持ち込み禁止かな)
 ぼんやりとそんな事を考えた時、聞き慣れた声がしてシンジはそっちを見た。
「クレア、もう空港なんか何度も来ただろう。今更、見に来る事も無いじゃないか」
「違うのよパパ、なんか…何か来なくてはいけない気がして」
「いいわ、クレア。あなたが気の済むまで見ていらっしゃいな」
 既にローザの手によって、彼らからシンジの記憶は消されている。
 本当なら、こんな所に来るはずはなかったのだ。
 タータンが近づいて来た時、シンジはさりげなく後ろを向いた。かつてケルト民族が生み出したそれは、クレアによく似合っている。 
「何かを忘れているような気がする…とても大切な何かを…」
 どこか哀しげな呟きであった。
 シンジは視線をそっちに向けようとはせず、それが去るまで黙然と立っていた。
 搭乗可能を告げるアナウンスが流れ、シンジはスーツケースを持って歩き出した。
 その時になって初めて、シンジの表情が動いた。
 正確にはその唇が。
「元気でね、クレア」
 日本語のそれは、例え本人がそこにいても理解はされなかったかも知れない。
 だがシンジも気付かなかった。
 シンジが呟いた時、まるで自分の名前が呼ばれでもしたかのように、クレアがはっと振り向いた事を。
 そして、
「今誰かが私を呼んだ…?」
 誰かを捜すように周囲を見回した事も、五精使いは知らないのだった。
 ただ一人、
「フェンリル様、お元気で…」
 遠くからそれをじっと見ており、涙を隠すように深々と腰を折った老婆以外は。
 
 
 
 
 
(了)


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