妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
D−1:貞操を憂う吸血姫
 
 
 
 
 
 夜の空を、二つの影がふわふわと漂っている。
 本来と違う動きなのは、片方がもう片方に捕まっているからだ。
 掴まっている、ではなく捕まっているのだが、
「あのさ」
「なんでしょう」
「一応空は飛べる事だし、掴まえてもらわなくても大丈夫じゃないかあ、と」
「誰がです?」
「俺」
「残念ですが、夜の空は我らの領域です。自分では大丈夫と思っても、ドクターから退院許可が出なければ、勝手に退院はしないでしょう」
「あ、いや俺はするけど。今日もほら」
「ほら、ではなく。私でご不満なら、蝙蝠達に担がせても構いませんが」
 むう、とシンジは唸ってから、自分を抱えている手に触れた。
「仕方がない、こっちで我慢しよう」
「それがよろしいでしょう」
 本来なら巨大な黒翼を羽ばたかせて飛行するのが似合う美影身だが、人間ごときを抱えているせいでふわふわしているのだ。
 ただし、抱えたのは夜香の方からだ。珍しく微熱が出たのだが、本邸にいるとメイドさん達が付きっきりになると、シビウ病院へ入院した。
 妙な菌ね、と美貌の院長はシンジの体内から手を抜きだして診断し、一日の安静を命じた。
 しかし、身体の怠さはもう消えたからと、シンジは勝手に退院してきたのだ。
 ありがと、とハートではなくクローバーを付けて書き置きしてきたが、それを見たシビウは即座に捕縛命令を出したのだ。院内にいれば、あっけなくとっ捕まった事は間違いあるまい。
 妙な菌だが、原因は分かっている。フェンリルに連れられて、と言うより連行された先が冥界との境だったのだ。寝ぼけ眼だったシンジが、妙な霊に脚をかすられたのが直接の原因である。
 なお、その従魔は当分帰ってくるなと、姉の元に放逐されている。
 夜の街を飛行していたシンジだが、力が入らずよろめいた所を背後から抱きかかえられ、後ろを見ると白い乱杭歯が見えた。
 抱えられはしたが、妙に身体がくっついているような気がしていいよと断ったら、冒頭の台詞になったのだ。
「ところで、何が原因だったのです?」
「よく分からない」
 シンジは首を振った。
「綺麗なお花畑がある所の境みたいなんだけど」
「…冥界ですか」
「そうらしい。どうせなら魔界にでも連れてってほしいも――どうかした?」
 魔界、とシンジが言った時、背中の吸血鬼がわずかに反応したような気がしたのだ。
「魔界はご存じですか?」
「ご存じ?行った事なんかないぞ。実在はするんでしょ」
「ええ」
「あれってどうなの」
「どう?」
「時間の軸は一緒だろ。冥界と同じなのかい」
「少し違っています。冥界は、クッションとなる空間を挟んでこの人間界と並列しています。冥界とこの人間界は行き来が不可能ですが、魔界も似たようなものです。ただ、冥界とは少しタイプが異なります」
「姿形が違うの?」
「違うものの方が多いでしょう。何より、冥界は死後の人間が行く所でしょう。魔界は生物が生まれ、そして育って死んでいく所です」
「どこから行ける?」
「私の屋敷の地下から可能です。それと、魔法陣で出入り口を作る事も出来ます。ただし、魔界の者と人間界の者では比較になりません。その為、出入り口は厳重に監視しています」
「ゲートキーパーでもいるのかい」
「私の知り合いが」
「ふーん」
 知り合い、と言った時微妙に台詞が揺れたのに気づいたが、シンジは何も言わなかった。
「よろしければ、一度お連れしますが」
「うん、してくれる」
「分かりました」
 一時間近く飛行してから、二人は夜香の屋敷に着いた。
「兄上お帰りなさい。碇様もご一緒でしたの」
「夜香に拉致されたの。まったく危ない吸血鬼なんだから」
「シンジさんが弱々しく飛ぶ――こんな機会は滅多にありませんから」
「…何のだ」
「いえ、別に」
「まあいい。それより麗香、魔界はよく行くの」
「魔界は…私はあまり行く事はありませんわ。兄は時折行きますけれど」
「知り合いが居るって言ってたけど、麗香の知り合いじゃないの」
「知り合い?」
 ちらっと夜香に視線を向けると、
「モリガンだ」
 短い答えが返ってきた。
「それって単なる知り合い?」
 一瞬迷ったような表情を見せたが、
「従姉ですわ」
「…誰の」
「私と兄のです」
「吸血鬼?」
「いいえ」
「…はあ」
 シンジの口がぽかんと開いた。吸血鬼ではない吸血鬼の従姉――想像付かなかったのである。無論、吸血鬼の親戚が人間でもおかしくはないが、この二人の親戚が単なる人間で、しかも魔界在住だなどとは想像もつかない。
 
 
 いったい何者だと、首を傾げながらシンジは屋敷に帰ってきた。病院から脱走した事は、本邸へはまだ連絡が入っておらず誰も知らないが、病院で見かけられていた事に本人は気づいていない。
 シビウ病院は、シンジ一人の病院ではないのだ。
「お風呂入って、暖まれば良くなるで――おうっ!?」
 門を一歩入った途端、がしっと後ろから捕縛されたのだ。それも、逃げようもかわしようもない完璧な捕縛術であり、これが出来るのは一人しかいない。
「熱のあるお体でどこをほっつき歩いていたんですか」
「そう言うお前はなんでここにいるんだ。まだ出雲の筈だろ」
「発作が落ち着いたので帰ってきたんです。もう、ちょっと目を離すとすぐこれなんだから」
「葉ちゃん、これって何よこれって」
「比奈ちゃんが、友達のお見舞いに行った時、シビウ病院で若を見かけたんです。今日は入院じゃなかったんですか」
 やっと拘束を解いた綾小路葉子は、前に回るとシンジの肩を両手で掴んだ。
「微熱があるじゃないですか。こんな身体で何を――んむっ!?」
 シンジの手が伸びた瞬間攻守は逆転し、言葉の途中だから当然開いていた唇は、あっという間に舌の侵入を許していた。
 舌が絡め取られて引き込まれ、伸びた舌が好きなように玩ばれる。葉子の全身から力が抜けてから、やっとシンジは放した。
「わ、若なにを…」
 ぼうっとなった瞳で、力無くシンジを睨んだシンジに、
「よく考えれば、お前に移せば良かったんだ。口移しじゃ不安だから、粘膜移しにしよう。さ、行きますよ」
 かつてのシンジではなく、葉子が敵う力ではない。何よりも、しばらくぶりのキスに力が抜けてしまい、容易く肩に担がれてしまった。
「確か今日は安全日だったな。確実に子宮で持ってってもらお…あら?」
 軽々と担いで歩き出したのだが、その首にきゅっと腕が巻き付いたのだ。
「あたし今日は大丈夫だから…いっぱい中に…」
 濡れた声で囁いた。
 葉子があたしの呼称を使うのは、シンジと身体を重ねる時しかない。また、シンジも碇家に仕えるメイドさん達の中で、唯一葉子にしか手を出していない。
「どうしよっかなあ」
「もう、意地悪言わないでぇ…」
「はいはい」
 葉子が母の容態悪化に実家へ戻ったのは一ヶ月前であり、最後に身体を重ねてから久しい。
 キスだけで淫らな記憶が蘇ったのか、切なげに脚を摺り合わせている葉子の髪を軽く撫でると、そのまま浴場へ向かって歩き出した。
 
 
「兄上、本当によろしいのですか」
「碇さんなら良かろう。それに」
 一度言葉を切ってから夜香は宙を見上げた。
「お前にいつまでも、貞操の心配などさせる訳にはいかない」
「兄上…」
 小さく頷いた麗香は、そっと夜香に身を寄せた。
 シンジがメイドさん達に手を出さないのは、別に本人の美学ではなくポリシーだ。彼女達との間にどんな感情があろうと、お手伝いさんと言う認識がシンジにはある。その中で唯一葉子を抱いたのは、それ以上の認識をしていたからであり、処女だった葉子が身を任せたのもまた、心からシンジを慕っていたからだ。
 だからシンジはメイド達の事は葉子に一任し、また葉子も応えてきた。
 シンジに取っての信頼は葉子であり――そして夜香には、麗香がちょうどその存在であった。
 
 
 
 
 
「身体の方はもういいのかい?」
「大丈夫、ほぼ治った」
 翌朝シンジが目覚めると、もう横に葉子の姿はなかった。浴場で岩場に手をついた姿勢でバックから貫かれ、最後はもう膣に受けてそのまま失神してしまい、そのままシンジが部屋まで運んで一緒に寝た筈なのだが、もう出かけたらしい。
 フユノには既に一報が届いていたらしいが、シンジの首筋には三枚ばかり絆創膏が貼ってある。
「次はきっと、あたしの身体につけて下さい」
 そう書かれた紙に、
「何じゃこれは?」
 と首を捻ったシンジだったが、鏡を見た途端赤くなった。
 そこには、まるで所有権を主張するかのようにキスマークが、それも三カ所にくっきりとついていたのだ。
「シンジ、学校の方は手を回してある。当分、お前の好きなように遊んでくるがよい」
「ん」
「それと、出国前にリツコの所に顔を出しておいで。お前が来ないとぼやいていたよ」
「はーい」
 本来ならロンドンへ飛んでいる時間なのだが、シンジを病院のベッドで見かけたと聞いて、急遽取り止めたのだ。自分の後はシンジしかいないと、既に決めているフユノであり、シンジにもしもの事があれば、財閥など塵程の価値もない。
「じゃ、ちょっと行ってくる。あ、それから」
「どうしたね?」
「俺なら、手足落とされない限り大事にはならないよ。財閥当主が、不祥の孫にかまけて大事な会議を放り出しも出来ないでしょ。俺は大丈夫だから」
「そうであったの」
 うっすらと笑ったフユノだが、その不祥の孫の方が遙かに大事なのだ。
 そう、間違いなく碇家歴代の中で最優秀の能力を持つこの孫は。
「儂の後を継がせる、そんな事だけの為に気にしてはおらぬよ」
 小さく呟いた声は、無論シンジには届かなかった。
 
 
 
 
 
「で、どこまで行くのこれ」
「もう少しです」
「もうやだ。疲れた、歩けない」
「私が背負いますか?」
 向けられた視線に本能が危険信号を発し、シンジは慌てて起きた。
 先ほどからもう、二十分以上歩いているのだが、目的地には未だに着かない。この時になってやっと、魔界へ行く場所の在処は聞いていない事を思い出した。
 なお、夜香と麗香は息を切らした様子も全くない。
「麗香、悪いけど手を引っ張ってくれない」
「私でよろしければ」
 麗香に手を任せた途端、シンジは目を閉じた。先導者にすべて任せたらしい。歩くのは嫌いではないが、延々続くのはあまり好みではない。
 また重い階段を下っていき、
「碇様、もうよろしいですわ」
 声を掛けられたのは、十分以上歩いてからであった。体内時計に、ほぼ狂いはない。
「やっと着い…ん?」
 何があっても、大抵の事では驚かない。相手は戸山町の若き後継者とその妹なのだ。
 だから、部屋の中央に置かれた棺を見ても、
「夜香と麗香の昼寝場所?」
 優雅な場所だと思った程度だが、
「ご覧になられますか」
「なる」
 頷いて棺に近づくと、ゆっくりと蓋が開いた。
「?」
 シンジが怪訝な表情になったのは、中の住人を見たからではない。若い男女が手を繋いで入っていても、この屋敷では大した事ではないのだ。
「…生きてるの?」
 シンジの言葉通り、中の男女(ふたり)は、むくっと起きあがってもおかしくない程に、顔の血色が良かったのだ。
 少なくとも、こんな棺桶に入っていていい状態には見えない。
「医学的には死んでいます」
「顔色いいぞ」
「思いから来るものですわ、碇様」
「愛し合ってたわけね。それで、なんでこんなモンを地下に保管してるの」
「その娘の方は、魔力の塊のようなものです。元は魔力であり、人の形を取ってはいませんでした。ある女から分離した、いわば分身のような存在です」
「モリガンてあれ?」
「ええ、そうです」
「昨日、そんな事言ってたよね」
「モリガン=アースランド。かつて、自らも持て余す程の力を持っていましたが、我が身をも滅ぼしかねない魔力の一部を分離し、娘の形を取らせたのです」
「…趣味悪いな」
「え?」
「魔力の分断なら、魂の一部を削れば良かろう。わざわざ、こんな娘を作る事もあるまい。それにその女、この娘に自我を持たせ――夜香?」
 不意に後ろに立った夜香が、シンジの後ろから囁いた。
「シンジさんの屋敷に仕える娘達が、命まで捧げて悔いないのはきっと、あなたのそんな性格に惹かれたからですよ」
 ぞくりとするような声だったが、吐息は伴っていない。
「……」
「ただ、この娘に関しては、少々事情は異なります。モリガンの魔力に人の形を取らせたのはジェダ=ドーマ。モリガンともう一人、デミトリ=マキシモフの三人で魔界を分割している男です」
「魔王か何か?」
「冥王だとか」
「ふうん。で、その連中人間界に興味なんか持ってないだろうな」
「今までは、そのような事はありませんでしたわ。魔界すら統一されていませんでしたし、何よりも人間界は魔力の供給場所としてはあまりに微々たる存在ですから」
「ならいいけど。こっちなんか顔出したら、プラスチックハンマーをお見舞いしてくれる」
 シンジの言葉に、夜香と麗香が揃って微笑した時、不意に空気が変わった。
 静謐な空気に、妙な物が混ざったのだ。そしてそれは、淫靡という名の物であった。
 何かが近づいてくる気配を感じ取り、
「ここのお手伝いさん?」
「いいえ」
「じゃ、敵だな」
 すっとシンジの手が、手刀の形を取った。力は抜いているが、必殺の体勢である。
「シンジさん、敵ではありません」
「違うの?」
 それにしては、二人の表情が微妙だと思ったその時、影が人の形をした物を吐きだした。
 まず脚が、そしてなだらかな曲線を描いた肢体が現れ、次いで豊かな黒髪が現れ、女の形を取った。
 一言で言えば肉感的である。瞳達のレオタードより、数倍扇情的な服を身につけた身体は熟れきった匂いを周囲に振りまいており、何もしなくともレイプ未遂犯を大量生産出来る筈だ。
「久しぶりね、麗香」
「そうね、モリガン」
 応じた麗香の顔には、決して歓迎的とは言えない色が浮かんでいる。シンジには目もくれずに麗香の前へつかつかと歩いていくと、くいっとその顔に手を掛けた。
「やっぱり、同じ血の流れる一族の方がいいわ。魔界の娘じゃ駄目、つまらないもの」
「私にその気はないと、何度も言っている筈よ」
「私はその気だと、何度も言っているでしょう?」
「モリガン、何の用で来た」
「何の用って事はないでしょう、夜香。私の分身を見物と、それから麗香の身体を頂きに来たのよ。女同士の方がよほどいい、あなたもそうは思わなくて?」
 次の瞬間、モリガンは後ろに飛び退いていた。その居た場所を四方から一斉に風が襲ったのは秒と経たぬ内であり、
「夜香の悪いところは冷たいとこだ」
 シンジは横から断言した。
「私が?」
 わずかに首を傾げた夜香に、
「妹の処女が変態女に奪われかけてるのに、見捨てようとはどういう了見だ」
「別にそういう事ではありません。ただ――」
 夜香が何か言いかけたそこへ、
「結構やるじゃない。人間のお兄ちゃんなのにね。夜香の真似事かしら」
 前後、或いは左右からならはね除けて終わったろう。
 だがそれが四方から叩き付けられたのを知った時、モリガンは飛び退いたのだ。人間相手に飛び退くなど、今までに初めての経験である。
「盗用とか盗作する趣味はない。そもそも、麗香の処女は俺がもらうと、とっくに商談が成立してるんだ」
「…何ですって」
 モリガンの眉が上がる。
 ライバル、と認識したらしい。
「私の麗香を取る気なら容赦はしないわよ」
 処女をもらうとシンジが言った時、麗香が真っ赤になったのに気づき、モリガンの自尊心は痛く傷ついたのだ。
 しかし、さっと手が上がりかけた途端、今度もモリガンは飛び退く事になった。
「その必要はない」
 シンジは腕組みしたまま立っているだけの筈なのに、足下から炎の槍がモリガンを襲ったのだ。
「ただのお子様じゃないみたいね。夜香、遊んであげてもいいのかしら?」
「止めておけ。お前の敵う相手ではない」
「夜香、本気で言っているの」
 モリガンの全身から漂う気が変わった。淫靡なそれは消え、みるみる内に鋭利な殺気と取って代わる。
 だがそれが爆発する事は、遂に無かった。
「吸血鬼にしてはいい事を言う」
 モリガンを遙かに凌ぐ凄絶な気が、シンジから漂いだしたのだ。ただし、発生源はシンジではなく、言葉もシンジの口から出たものではなかった。
「フェンリルの手に掛かったと、冥界では触れて回るがいい」
 不意に現れた美女が、ぴたりとシンジに寄り添う。
「……」
 夜香と麗香は、さすがに手出しはするまいが、味方はおそらくするまい。二対一という数の差に加え、力量は未知数である。それを承知で挑む程、モリガンは無鉄砲ではなかった。
「この礼は必ずするわよ」
 次の瞬間、モリガンの居た場所を真っ黒な風が覆い、それが消えた時にはもう、その姿は何処にもなかった。
「こら、誰も呼んでないぞ」
 シンジの第一声はこれだったが、
「マスターの急に、冥界で昼寝する程呑気ではない。それより夜香、あの女は何者だ」
「…私の従妹です」
「親戚にも色々あるんだよ。大した事じゃない」
 そう言ってから、
「それより麗香」
「はい」
「あの変態サッキュバスに貞操狙われちゃってるの?」
「は、はい…」
 麗香は首筋まで赤くなって小さく頷いた。
(つづく)


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