妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
C−4:誘い出し
 
 
 
 
 
「若様、ほら起きて下さい朝ですよ」
「むにゅる…」
 奇妙な寝言と共に、シンジはゆっくりと目を開けた。
「起こさないでいいって言っといたのに」
「シビウ様からお電話がありました」
「あいつが?なんて?」
「寝坊などしたらばらばらに改造してくれる、さっさと起こすようにとの事です」
「朝っぱらからよけーな事を」
 もにゃもにゃ言いながら起きあがったシンジだが、無論葉子はシビウ病院からの電話でメイドの一人が失神した事は告げなかった。
 美しさは美貌だけにあらず――ただし、今朝のそれはやや危険な物を含んでいたのである。
 無能な者など一人もいないこの屋敷であり、使用人達のレベルもまた、通常より遙かに高い。
 何よりも、そうでなければシンジと言う主を収容など出来なかったろう。にもかかわらず、やはりドクトルシビウのそれは美しく、そして危険なのであった。
 起き上がったシンジに、
「フェンリル様は今日は?」
「いない」
 シンジは首を振って、
「姉さんのとこに行ったらしいな。付き合えって言われなくて良かったよ」
「若様が行かれたら私は困ってしまいますから。さ、起きて下さいな」
「うん」
 起きあがったものの、ふらふらと倒れかかってきた。
「もう、ちゃんと立って下さい」
 そう言いながらも、軽々と支えてタンスの前まで連れて行く。
 実質190センチに近いシンジだが、簡単に支えるのは葉子しかいない。
 葉子自身も170は超える長身の部類だが、やはり付き合いの年月が断然違うのだ。
 タンスの前に座らせて、
「服は何にされますか?」
「何でもいいよ」
「いけません。今日はデートだとお聞きしています」
「でえと…あ、そうだった…いでっ」
 やっと思い出したようなシンジが、お尻をきゅっとつねられたのだ。
「葉ちゃん…何か恨みでも?」
「知りません!」
 実はこのシンジ、葉子に言われるまで、麗香のれの字すら綺麗さっぱり、ころっと忘れていたのである。
 枕兼起こし役のフェンリルがいないので、どうも調子が出ないのだ。
 だもので。
「まったくあの世の…じゃなかったメイドのぶんざ…ぶっ」
 他の者にはまず言わない台詞だが、ぶつぶつとぼやいた途端、見事にコントロールされた枕が飛来して、寝ぼけた顔の主に痛烈な一撃を与えた。
 しかし邸内では絶対に禁断な筈のこの行為も、唯一葉子だけは許可証を持ち合わせている。
 碇シンジと言う人間がいる限り、葉子がシンジを攻撃しても他者は口出しが許されないのだ。
 無論、普段は絶対忠実の立場を崩さない葉子なのだが、二人のことに口を出すならそれはそのまま、シンジを敵に回す事を意味している。
 お互いにそれは分かり切っているから、バタンと閉まったドアもまたすぐに開き、
「食事はもう出来てますから早く来て下さいね」
「はーい」
 傍目には奇妙なこの関係も、彼らにとっては至極普通の日常なのだ。
  
 
 
 
 
(あれ?女じゃない?)
 店に入る前に、シンジは既に店内に女の姿がないのに気付いていた。
 そこにいたのはいかつい男――永石だったが、シンジは永石を知らない。
 一方永石はシンジを知っていたが、これも顔色を変えるほど単純ではない。
「いらっしゃい」
 フランケンシュタインみたいな声が出迎えて、
「禁煙席、そっちにしよう」
「はい」
 奥の席に陣取ると、永石が水とメニューを運んできた。
「お決まりになりましたらご注文を」
「分かった」
 シンジが頷くと永石はカウンターへ戻っていったが、既にシンジの感覚はある種の物を捉えていた――すなわち、違和感を。
 一見すると普通のマスターだし、服装も別におかしくはない。
 それに、コップとメニューを置いた手つきも手慣れた物であった。
 だが違う。
 何かが違うと、シンジの感覚がそう告げていたのだ。
 がしかし。
 シンジが違和感を感じる原因はもっと身近、つまりシンジの目の前にあった。
 当主の妹の顔をシンジはじっと見つめた。
 無論理由は分かっている、瞳だ。
 特徴とも言える赤瞳は、何故か漆黒の色をしていた。
「あ、あの碇さ…」
 様と言いかけて寸前で口許を押さえた麗香に、
「赤はどうした?」
 とシンジが訊いた。
「え…あ、これはその兄が目立ってはならぬと言って…」
「ただのカラーコンタクト?」
 面白い事を考えると思ったら、
「も、申し訳ありません」
 俯いた麗香を見て、それが力の発動も抑える物だと知った。
 でなければ、わざわざ夜香がそんな物を着けさせはすまい。
「いや、黒も悪くない。今の麗香なら、その辺の娘とまったく変わらないよ」
 人間同様、と言うのは誇り高き吸血鬼にとっては屈辱だが、麗香は目の前の青年が褒めているのだと知った。
 少し嬉しそうに顔を上げた麗香に、
「目はいいとして、その服はどうした?」
「何か、問題がありましたでしょうか」
 麗香の服装は黒地に花をあしらった中国服だったが、それは腕の先まですっぽりと覆われている代物であった。
「あるね」
 偉そうに頷いて、
「チャイナドレスは真っ白な腕が全部見えてるのがセオリーだ。まして腕が隠れてるなんてのは邪道だよ」
「そう…なのですか?」
 一瞬怪訝な顔をして自分の服を見た麗香に、
「碇シンジ流としては」
「夜の刻(とき)には、どこでもお望みの場所をお見せいたしますわ」
 にこりと笑った麗香だったが、その笑みはシンジでもやや不可解な物であった。
「それは楽しみ…ん?闇の中だと見えないぞ」
「はい」
 笑みが更に深くなった。
 が、さすがに脳天気な事を口にしないだけの物は持っているらしい。
 夜の一族であり、そして一族を束ねる当主の妹なのだ。
「それで、何にする?」
「お任せしますわ」
 ふむ、とブラックを二つシンジは頼んだ。
 数分して運ばれて来た時、
「美人の娘さんがいるって聞いたんだけど、今日は留守かい?」
「今日はちょっと出ておられますが、明後日には戻られます」
 顔色一つ変えぬ永石を、刹那麗香がちらっと見た。
「この子は俺の知り合いで、是非美人オーナーにお会いしたいと言っていたんだが…研修を?」
「…似たようなものです。ではこれで」
 永石が戻っていった後、
「あの、ミルクはどうされますか?」
「適当に入れといて」
「分かりました」
 麗香がミルクを注ぐ手つきを見ながら、
「どう思う?」
「はい?」
「この店、違和感は感じないかい?」
「監視カメラの類も特に無いようです。盗聴器の類も気は発していませんが」
「気を発する?」
「一般的な店舗であれば、犯罪などの監視にそういった類の物を設置すると聞いております。ですがこのような店には不要の物――良からぬ事を企んで設置された物は、それ自体が気を、いわば思念に近い物を微量ながら発しているのです」
「そうなんだ」
 ふんふんと頷きながら、目の前の娘の正体を改めて思い出していた。
「あの」
「ん?」
 麗香がすっと顔を近づけて、
「何か感じられたのでしょうか」
「うん」
「え!?」
 すっとその表情が変わりかけたが、一瞬で元に戻したのは意志の力であった。
「もしやあの男、女の変装とか?」
「違う違う」
 ふにゅっと笑って、
「吸血鬼に噛まれると即席の吸血鬼が出来上がるだろ」
「はい」
「でもそれは、本来の吸血鬼にはその妖気も能力も及ばない。例え赤瞳を備えて乱杭歯が出来上がったとしても、吸血鬼の本質とは異なっている。麗香の場合もそうだ」
「私が?」
「陽の下、と言う条件では絶対に人間の娘と同じようには出来ないし、そこには厳然たる壁がある。それを別にしても、今度は雰囲気ではどうしても柔らかさは足りない。つまり、模倣というのは本物に対して本質的に及ばない所は覆いきれないんだな」
「ではあの男も?」
「おそらくね。この業務も付け焼き刃ではないが、それでもどこか違う。言ってみれば、夜香の屋敷に俺が主として座ったようなものだ」
「…そうなのですか?」
「そうなんです…あ、ちょっと」
 分かりましたと、すっと麗香が立ち上がったのを見て慌てて袖を引いた。
「どうする気さ」
「身体に訊けば済む事です。わざわざお手を患わす事も…え?」
「トイレは後回しにして」
 やや大きな声で言った時、違う台詞にすれば良かったかなと少しだけ後悔した。
 ぐいと麗香の手を引いて座らせると、
「本命に逃げられたらどうする気さ。いい、ここに来たのは素顔を見せない三人組が出て来たくなるようにするためなんだから。関係からしておそらく仕える立場――自分を犠牲にしても絶対に前には出さないはずだ」
「それでしたら、操りましょうか」
「駄目だ、俺がつまらない」
 ろくでもない理由であっさりと却下したシンジだったが、不意にその顔に笑みが浮かんだ――とてもいいことがあったかのように。
「いかがなさいましたか」
「来た」
「はい?」
 麗香が僅かに首を傾げるのと、扉が勢いよく開くのとが同時であった。
「姉さん達が心配で帰って来ちゃった」
 小さく舌を出した愛だったが、シンジ達に気付かなかったのはその位置取りのせいであった。
 窓際近くにいれば、愛も入る前に気が付いたであろう。
 しかも時間が時間だけに、永石にとっても計算外であった。午後の時間であれば、間違いなく店に直行などさせていない。
 激情を抑え込んでいる愛を、わざわざシンジに会わせる程永石も愚かではないのだ。
「あ、お客さ…!?」
 顔立ちは可愛い部類の愛だが、見る見るその表情が変わった。
 すうとつり上がった眉は、明らかに怒りを通り越して殺意まで発展している。
 唇を真一文字に結び、きっとシンジを睨んだまま一直線にこっちに向かって歩いてくる。
 と、その途中で声にならない呻きが洩れた。
 シンジが麗香の足を踏んだのだ、それも思い切り。
 無論嫌がらせではなく、その右手がある形を取って立ち上がろうとしたせいだ。
(黙って座っていろ、そう言った筈だ)
(…申し訳ありません)
 だが愛に向けた瞳は極地の冬夜を思わせる物があったが、愛はまったく気付かない。
 そのままシンジ達のテーブルの横に立つと、
「いらっしゃい…碇シンジさん」
 男よりも低い声で言ったが、その表情はにこりともしていない。
 一方、
「いらっしゃってます」
 くすっと笑ったシンジは無邪気そのものに見える。
「この間は、姉さん達が随分とお世話になったみたいね」
「三人まとめて、とも思ったが一人足りなかったな」
「…なんですって」
「成果は、と聞いただけだがいきなり攻撃された。手っ取り早いのは盗品にだけではないのかな」
「…っ!」
 歯をぎりりと噛み鳴らした音が聞こえたが、寸前で抑え込んだらしい。
「それで…何しに来たのよ」
「別に…強いて言えば戦果の確認かな。手応えが妙だったのでね」
 まさにその瞬間、少女の顔は夜叉と化した。
 文字通り激情が肢体を支配し、振り上げられた手は、真っ直ぐにシンジの眉間を狙っていた。
 だが、まばたき一つ程の時間でその表情が苦悶へと変わった。
 シンジしか見えてない愛――その胸元に向かい側に座っていた娘の手から、小さな何かが飛んだのだ。
「気功で人体に穴を穿つのは兄の伎――そしてこれが私の得物」
 低い声だが、まさに夜の一族に相応しいだけの物を備えていた。
「か…はっ」
 ぐらりと倒れる寸前、なんとか足を踏みならして愛は体勢を戻した。
 乾いた音がして、床に何かが落ちる。
 落ちたそれは、シンジに取って初めて目にする代物であった――すなわち小さな桜貝のそれは。
「来るか?」
 何となく間延びして聞こえたのは、口調よりもその表情だったに違いない。
 その視線の先には永石がいた。
 実際十秒と経たぬ内の出来事――愛が危険域に踏み出したと思ったら、全身を苦痛が撃ち抜いたのだ。
 それも、後ろ姿だけでもはっきりと分かるほどに。
 肩で大きく息をしながら、それでも憎悪の色は衰えぬ視線を麗香に向けた愛。
 その視線を、麗香の黒瞳が真っ向から迎え撃った。
 だがその目に覆いが施されていなければ、たちまち赤光が愛を射抜いていた事は間違いない。
 それを見ながらシンジは何となく、夜香はこれを見越していたような気がした。
 まったく視線を逸らすことなく睨み合っている二人を見ながら、シンジが床に落ちた貝を拾い上げた。
 見た目はなんの変哲もない貝だが、これのどこにあんな力があるのだろうか。
 しかも、シンジの見たところ間違いなく麗香は手加減していたのだ。
 その本来の力は言葉通り、人体など容易く穴を作り出すに違いない。
「ふむ」
 何やら考えついたらしいシンジが、
「姉たちは泪と瞳と言ったな、傷はまだ癒えていまい。ついでに、末妹一人で俺の連れを相手にするのは死出の切符を買いに行くようなものだ」
「…だから何よ」
「賭けをするとしよう。次に何を狙うか知らんが、あれで稼業を諦めた訳でもなかろう。そこでだ、もしも万が一逃げ切れたならば見逃してやる。警視総監に、以後一切の警備・手配は無用にさせよう」
「随分と誇大妄想が好きらしいね」
「私の資料を知らない訳でもあるまい」
 視線で麗香を制し、シンジは静かな声で言った。
「あり得ぬ事を対象とするのは少し気乗りしないが、もし出来るならばやってみるがいい。狙った物は必ず手に入れる――キャッツアイの名に賭けて」
「…それだけ自信があるって訳ね」
「さて」
「……」
 麗香が何か言いたげな視線を向けたが、シンジはそちらを見ようとはしなかった。
「とは言え、完璧な逃走は既に一度敗れている。大人しく諦めて、姉妹揃って塀の中で過ごしてみるか?」
 一度敗れた、その言葉に愛の表情が変わった。
 正確には、顔から表情が消えたのだ。
 能面と化した愛が、その唇から何かを紡ぎだそうとした時、
「いいわ、お受けします」
 美しいが、やや苦しげな声がした。
「ひ、瞳お嬢様っ」「姉さんっ!」
 いけません、と永石が制そうとするのを逆に押さえて、
「座して死を待つのは私達の性に合わないわ。ただし、約束は守ってもらうわよ」
「そっちの力を使うのは好きじゃないが、俺の名に於いて賭けよう。もっとも、片腕をもがれた猫がどこまで抗えるか、結果は目に見えているがな。麗香、行くぞ」
「はい」
 テーブルに札をすっと置くと、そのまま無人の部屋を出るように歩き出し、麗香が後に続いた。
 その後ろ姿を火のような視線で睨んでいた愛だが、二人が出て行った途端瞳に駆け寄った。
「姉さんどうしてっ?」
「あなたを死なせるわけには行かないからよ、愛」
「姉さん…」
「困りましたな」
 永石の声に、二人の顔がそっちを見た。
「瞳お嬢様、受けてはならぬ話ですぞ」
「仕方ないのよ」
 自分で言った事を否定したのは瞳も分かっているらしく、軽く肩をすくめて、
「祖母の碇フユノは、現警視総監とはもう十年来の付き合い――おそらく、私達に手出しをさせないと言うのも嘘ではないと思うわ。でもその代わり、受けなかったらどうするかもほぼ目に見えてる…受けざるを得なかったのよ」
「やむを得ませんか」
 ややあってから、永石が一人ごちるように呟いた。
「愛お嬢様のお帰りを読めなかった私の責任でもあります。なによりも、このまま放っておくような相手でもありますまい。ですが受ける以上は勝たなくてはなりません」
「ええ、その通りよ」
 頷いた瞳だが、その声は決して明るくない。
 泪は無論、自分も未だ治癒している訳ではないのだ。
 事実、医者からは自分が全治三週間、泪の方は完治には二ヶ月と告げられている。
 期日は聞いていなかったが、いざとなれば泪抜きも考えねばならず、見事に勝利できるかは実際の所自信は無かった。
 愛も瞳の表情には気付いていたが、その裏で瞳が凄絶な決意を固めていた事は知らない。
 すなわち、例え命に替えても妹は守ると決心していた事は。
 
 
 
 
 
「碇様、なぜあのような条件を?」
「分からない?」
「申し訳ありません」
「俺は法の番人じゃない。そんな事よりも、こっちに帰ってきたんだから面白くないとね。おそらく長姉は出て来れないが、一番下は危機感が足りない。さっきの真ん中は死を覚悟して出てくるはずだ」
 茶飲み話みたいな口調だが、瞳の心中は既に見抜いていたシンジであった。
「分かりました。あの、それで期限は何時までになさいますか」
「え?」
「ですから、先ほどは期間を決めておられなかったような気がしましたが」
「あー!忘れてた!」
 表情からして、きれいに忘れていたらしい。
 地団駄踏んだシンジに、一瞬驚いたような表情を見せた麗香だが、その口許にうっすらと笑みが浮かんだ。 
「碇様らしいですわ」
「…どういう意味さ」
「普通なら、あの場に警官隊でも配備して終わりです。あくまでも余興にされるのは碇様らしいですわ。そして、時々大事な所が消えてしまわれる事も」
「今度日向に干してやる」
「碇様にでしたら是非」
「……」
 何か言いかけたが止めた。
 代わりに、
「さっきの貝みたいなのは?」
「文字通りの貝ですわ。お目に掛けるのは確か初めてかと」
「初めて見たな。帰ったら原理を教えてもらおう」
「かしこまりました」
 一つ恭しく頷いて、遙かに年下の青年の後を楚々と歩いていく麗香。
 種族の差を考えれば当然なのだが、どこか似合いの二人にも見えた。
 
 
 
 
 
(つづく)


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