妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
C−3:夜間飛行と作戦会議
 
 
 
 
 
「麗香様、麗香様」
 シンジが帰っていった後、麗香の部屋の扉を叩いた部下達は、そこに奇妙な彫像を発見した。
 そう…頬をうっすらと染めたまま、固まっている吸血姫の彫像を。
 極めて、と言うより自分達の生涯に於いてすら、一度見れるかどうかの光景に、刹那顔を見合わせたもののすぐに退出した。
 無論、彼らの脳裏にとある青年が浮かんでいたのは言う迄もなく、原因はともあれささやかな一時を邪魔してはならぬと自らに命じたのだ。
 原因は当然のように、彼らが想像した人物にあった。
 食べ終えた後、
「ご馳走様でした」
 すっと箸を置いたシンジに、
「あ、あの…いかがでしたか」
 不安を隠しきれない麗香に、
「美味」
 一言だけ言ってシンジは急須を傾けた。
 その口許がふっと緩んだのは、急須を置いてからであった。
「これなら主婦も務まるね、うん」
 勝手に頷いたシンジだが、ふと奇妙な表情になった。
 麗香の口が小さく開いたのだ。
(ん?)
 小さく口許の開いた表情が、ゆっくりと変化するには数秒を要した。
 ふわり、そう表現するのが一番ふさわしいのだろう。
 徐々にその表情が変わっていったのだ。
 彫刻の美に冷ややかさが同居する美貌に、笑みと言う一輪の華が咲いた。
 誰もが引き込まれそうな微笑みだったが、
「…ありがとう…ございます…」
 頬に差した紅がその勢力を拡げていくのを見て、
「あらっ?」
 シンジの方が少し慌てて、
「あ、あの麗香?」
「…はい、何でしょうか」
「い、いや何でもないけど…」
 間もなく屋敷を辞したシンジだったが、その後の光景はほぼ予想していた。
 そう…出る前から動作が急激に鈍化し、固まる兆候を見せていた麗香に。
 シンジが夜香に囁いたのは、この一言だったのだ。
 すなわち、
「固まっちゃってるから無理だ。いい主婦になるって言ったのが原因だな」
 と。
 囁くことの要はともかく、女医や従魔の前では決して公言出来る内容ではなかったろう。
 
 
 
 
 
「今噂の連中のほらあれ」
「ほら?あれ?私は超能力者ではないと知らないのかね」
「じゃ、成って下さい」
 警視総監の額に危険なマークが浮かぶのを見ながら、シンジはにこっと笑った。
 にやっと笑う事が多いシンジにしては、この笑みは珍しい。
 どちらかと言えば女性向けのような表情だが、警視総監に取っては眉間の皺を作る要因にしかならない。
 例えそれが…女性には、十のうち十を落とす魔力を持っている物であっても。
 ただし、秘書に取っては十分強力だったようで、紅茶のカップを取り落として退出を命じられたのだが。
「確か、キャッツアイと言ったはずですが。美術品狙いの三人組ですよ」
「知っているのかね?」
 別に嫌味ではない。
 警察を嘲笑うようなそれも、ここ最近になって出現した連中であり、目の前の青年はつい先だって雲南から帰国した筈なのだ。
 知り合いの老婆が、
「あやつめ、やっと帰ってきおったわ」
 と妙に嬉しそうに話していたのは、二日前の事なのだから。
 ただし。
「これがパールバティ。でそっちがシヴァ。それでこれがガネーシャね」
 木彫りの像を土産に持ってこられて、
「これをどうせよと言うのじゃ」
 そう言いながらも、飾っておくように命じた顔が緩んでいた事までは知らない。
「風聞でしたが、昨日遭いました」
 無論、情報ダダ洩れとは決して言わない。
「…今、なんと言ったのかね」
「夜に会ったんですよ。攻撃されたので、無論お礼は少ししておきましたが」
 勿論、警視総監としては会ったと言う部分を、最重要事項とすべきなのだが、お礼をしたと言うそちらにむしろ興味を惹かれたのは、やはりシンジを知っていればこそであろう。
「それで、どうしろというのかね」
 訊ねた声は、半ば答えを予想しての物であった。
「任せてくれません?」
 そして、その答えもまた。
「何故?」
 凄まじい力を持つ従魔の存在を知りつつ、何故か言葉は平静であった。
「警察は今のところ手が出ないみたいだし、それに私が会ったのは二人です。三人組ならもう一人足りない。が、実際の所は――」
「と、ところは?」
「仲間をやられて黙っているタイプ、では無いと思うわけであり、つまりお礼参りに来ることはほぼ間違いない、と」
 妙に持って回った言い方をするシンジだが、要するに残った一人が仕返しにくるのを待つ気らしいと気付いた。
「だがね、シンジ君」
「何です?」
「今までに連中は、人に危害を加えた事はないのだよ。来るとしたら、予告状ではないのかね」
「つまり、素人の出番じゃないと?」
「い、いやそこまでは言ってないが…」
 プロ集団の自分達が手も足も出ない相手、そうと知りつつ何故か冬月は背中に寒い物を感じた。
「いいじゃありませんか。プロが手に負えない事でも、素人目で何かを感づく事もあります。固定概念にとらわれないのは、操作の基本でしょう?」
「……良かろう」
 数秒考えてから冬月は頷いた。
 シンジが何をする気かは知らないが、少なくともその辺の素人よりはましだと踏んだのである。
「ああそれと、予告があったら警戒だけして、追っ手は出さないで下さい」
「どう言うことだね」
「価値の高い代物でしょう?本当は侵入する前にとっ捕まえられればいいんですが、そうでないとブツに万一の事があっても困りますし」
「……」
 要するに、侵入した時点でも逃走中にも捕まえられていない訳であり、少し冬月の眉が寄った。
 が、シンジがすぐに気付いて、
「そう言う意味じゃありませんよ」
 からからと笑った。
「とにかく、素人としては逃走中に捕まえる方が楽なんです。警備とかそっちは専門じゃありませんから」
 と、シンジの言葉を聞きながらふと、捕まえてどうするのかと妙な興味が湧いた。
「それで、捕まえてどうするのかね」
「使い道は二つあります。一つは内緒ですがもう一つは」
 シンジの指が一本上がった。
「あれだけの運動能力を誇る身体なら、さぞシビウも研究しがいがあるでしょう。肢体のどんな部分も、決して無駄にしない医者です」
「ド、ドクトルシビウか…」
 手玉に取られて来た冬月に取っては、キャッツアイを名乗る怪盗は決して義賊ではない。
 だがシンジの言葉とその危険な笑みを見た時、冬月は憐憫を禁じ得なかった。
 シビウの手に引き渡される――それならば碇邸にあるピラニアの池に放り込まれる方を選ぶに違いない。
 いかなる時でも、本人がそこにいようといまいとその呼称は変わらない。
 いや…変えたくないのだ。
 もう長いこと知っている目の前の青年は、ただ一人その女医を名前で呼ぶ――それも妙に偉そうに。
 ただしそれは一人でいい。
 少なくとも冬月は、それに続こうとする程の物好きでもなければ、愚かでもなかったのだ。
 
 
  
 
 
「麗香はどうした?」
 ふわふわと夜空を飛びながらシンジが訊いた。
「やはり固まっていました。よほど嬉しかったのでしょう」
「ちゃんと情操教育してるか?」
 普段から褒められてるのか、と言う事だが、
「相手に寄るのです。少なくとも、その辺の者に褒められるような教育など、我が家では施しておりません」
 変わらぬ表情にも、そこには連綿と伝わる何かをさせる夜香の言葉であった。
「それは安心だな」
「ええ」
 頷いた夜香に、シンジはほんの少しだけ羨望を感じた。
 何故かは自分でも分からない。
 両親は失っているシンジだが、性格を別にすれば姉のミサトも決して平凡ではない。
 いやむしろ、同年代の娘からすれば遙かに非凡であろう――その肢体も能力も。
 贅肉にしかならぬアルコールも、ミサトに入れば胸と能力に変わる。
 実弟誘惑用及び普段は影を潜めている能力と、使い道が間違っているような所はあるものの、人に語れぬ姉妹ではない。
 一瞬下界を見たシンジに、すぐ連れが気付いた。
「誰のことを考えておられたのです?」
「考えに突っ込むなっての」
「表情から出ていましたが」
「嘘」
 頬に触れたシンジに、
「一滴程ですが」
「……手術が必要だな」
「私以外では分かりません、ご安心を」
「ますます不安だ」
 ちらっとシンジを見てから、何かを考えるような仕種を見せた。
「何?」
「つれなさに問題があると、ドクターに言われませんでしたか?」
「ううん、ちっとも全然そんなことは」
「本当に?」
 美貌が妖しく覗き込んでくるのからすっと逃げると、
「ほらあれ」
 方向を逸らすように下を見た。
「…何です?」
「いや何でもない」
 刹那赤光が双眸に灯ったように見えた夜香だったが、シンジが真顔なのに気付いた。
「どうかされましたか」
「吸血鬼は人を襲わない――少なくとも戸山町に限っては。どうして?」
「この街との共存を選んだからです。昼夜が完全に我々の物でない以上、どうしても本来の生態は制限されざるを得ません」
 当然の事だが、嫌そうな顔も見せず夜香は答えた。
「その通りだね。じゃ、なんで連中は絵を運んでいく?」
「……」
「その習性を崩してまで人に合わせる夜の一族と、人なのにかかわらず窃盗を繰り返す連中と。人が昼と夜を支配出来ないのも道理だな」
「碇さん、あなたはどうなのです?」
「俺?」
「その気になれば、この街どころか世界すら手中に出来るでしょう。微力ながらこの私も、そしてドクトルシビウも碇さんの側に付きます。でもそうしようとはされないのはどうしてです?」
「連中に何か、目的があるって事?」
「私の知った事ではありません」
 夜香の言葉は、夜の一族に相応しく冷ややかそのものであった。
 が、
「例えどんな事情があろうと、私の感知する所ではありません。ただ、シンジさんが捕らえると言われるなら、必ずや捕らえてご覧に入れます」
 不意に向いた視線から、慌ててシンジは顔を逸らした。
 コンマ一秒遅かったら、危なかったに違いない。
「別にやってる事は大した事じゃないよ。それこそ、俺にしてもどうでもいい事さ。ただし、刃を向けた以上責任は取ってもらう――と言うより、刑吏と勘違いした報いだ」
「それでこそです」
「何が?」
「法の番人に成り下がっていない孤高は、神話の妖狼が自らを任せただけの事はあります」
「何か引っ掛かるぞ」
 そう言いながらも、シンジの顔はどこか笑っている。
「でもあれだ」
「何でしょう」
「警察も無能じゃないのに、どうして捕まえられない?侵入はともかく、逃走時は完全な力量の問題なのに」
「その辺は」
 下界を見やってから、
「お近づきになってからお伺いするとしましょう――ゆっくりと」
 氷の刃を含んだ言葉は、その前とは完全に逆転しており、自分が標的では無いと知りながらも、敵に回さずに良かったとシンジは内心安堵していた。
 その後数時間街の空を飛行した二人だが、それとおぼしき人物には会えなかった。
 無論常に予告状と共に動く怪盗だから、それが無い以上現場には会えまい。
 それでも下見なり何なりと、動きを起こすかと見てはいたのだが。
 
 
 そしてその五日後。
「予告状も出ていないし、このままだと出会いはきついかな」
「恐れをなしたのかもしれませんが」
「…楽しんでない?」
「気のせいですよ」
 シンジの視線をさらりと受け流したが、妙にシツコイ視線に気付き、
「偶然か故意かは分かりませんが」
「?」
「同じ名前の喫茶店を見つけました。三人姉妹が経営しているそうです」
「も一回」
「怪盗のそれと、同じ名前の喫茶店があるようです。従業員の数も合っているようですが」
「警察は何をしていた?」
「接点は見付からないようです――警察の手では。もっとも例外はあると思いますが」
「例外?」
「担当を碇さんに変更する必要がありますが」
「そう言えば顔は見ていたんだっけ」
「あの時の二人が負傷休業、下の娘が店に出ている可能性は高いです。そうなると面通しは出来ませんが」
「復讐心にメラメラ燃えてるって訳ね」
「そうなります」
 
 
 で、次の日。
「あの碇様…本当に私でよろしかったのでしょうか」
「じゃ何?喫茶店に一人で入れと?」
「い、いえそうではなくて…」
「フェンリルはどうせいないからね。細かいことは気にしないの…あ、そうだ」
「はい?」
「店の中では、絶対に様なんて呼ぶんじゃないよ」
「そっ、それは…!」
 これは無理だ、と一秒と経たない内にシンジは知った。
 麗香の美貌から、みるみる血の気が引いていったのである。
 無理にさせれば全身の血が消えてしまいそうな麗香を見て、
「分かった分かった。じゃ、黙って付いてきて」
「は、はいそれでしたら」
 無言のままどこか嬉しそうな…しかし傍目には妙な組み合わせの二人が店のドアを押したのは午前九時を回った頃であった。
 
 
「良かったの?夜香」
 カルテからシビウが顔を上げた。
「碇さんのお供など早過ぎる妹ですが、碇さんのご指名とあってはやむを得ません」
「その辺の娘など足元にも及ばない、それは間違いなわ」
「ドクターが言われるなら」
「問題が無いとは言ってないわ。先走りは身を滅ぼす一端よ」
 声がどこか冷たく聞こえたのは気のせいだったろうか。
「呼称は無理かと思われますが」
 夜香もそれは分かっているらしい。
「もう一つよ、夜香」
 類い希な美貌の口許に笑みが浮かんだ。
「何でしょうか」
「二人は落ちたがもう一人は残った。床の姉に変わった妹がシンジを見て平静でいられるか――何よりも、シンジに向けられるそれに麗香が無反応かしら」
「…碇さんに期待しましょう」
 自分に告げたような台詞だったが、そこに針の先ほどの不安がある事を、無論シビウは見逃してはいなかった。
 
 
 
 
 
(つづく)


TOP><NEXT