妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
C−2:吸血姫の朝食
 
 
 
 
 
「兄上、お帰りなさ…え?」
 普段、身に付いた作法を決して崩すことの無い麗香だが、帰ってきた兄を見て言葉が途中で止まった。
 極めて珍しい事だが、夜香は咎めようとはしなかった。
 仕方のない、そう知っているのだ。
 すなわち、自分の荷物を見たならばやむを得ない、と。
「あの、碇様がどうして?」
「お手伝いが出来たので、少々強引に飲んで頂いたのさ。その代わり、回りが大変だったがね」
「何かありましたの?」
 かすかに首を傾げた仕種にうっすらと色香が漂ったが、ぞくりとする程妖しい。
 その美貌では、決して兄にも劣りはしない妹であり、この二人が並んで歩く姿はとある院長と妖狼の組み合わせに次いで、周囲の視線を引きつけると言われている。
「麗香、酔いと言う単語をお前はどう定義する?」
「効果でしたら泣いてみたり絡んでみたり、或いはそのまま寝込んでしまったりと幾つかあるようですが…まさか」
「碇さんが泣いたり大笑いされる――この身が無事ならお目にかかりたいが、そちらではなかったよ」
「では?」
「夜の空中散策にお供させて頂いたが、その前に盗人二人に会った時、少々運動されたのかも知れない」
 自分が腕に抱えて飛び上がり、そのまま落下したとは言わなかった。
「炎と水が暴走した――ただし無意識だったが」
「暴走、とは…」
 兄の背にいる青年が暴走する所など、彼女は一度も見たことが無く、不謹慎とは知りながら何故か羨望に近い物を感じた。
「弱者の遠吠えなどさしたる事はないが、碇さんのそれは…凡人が居合わせるべきものではないな」
 
 
 この街は多種多様の顔を持つ。
 昼には昼の、夜になれば夜に相応しい顔を。
 雨と晴れ、それだけでも表情は異なり、一体幾つの顔を持っているのか夜香にも分からない。
 そして今は夜であった。
 濃厚な香りを漂わせ、客に身体を巻き付けている娼婦がいる。
 ただし、男女問わず。
 機械仕掛けの身体から放つそれは、男女問わず虜にする効果を持っており、既に女も何人か引っ掛かっている。
 特にストレスの溜まりやすいOLなどは、いとも簡単に引っ掛かってくれるいいカモになる。
 もっとも、そのまま奴隷にして売り飛ばしはしないから、一晩経てばあられもない自分の姿態を思い出して一日赤面するだけで済む。
 そしてその大半はもう一度訪れるのだ。
 一度はまれば抜けられない、中毒性を持った快楽を彼らは与える。
 無論、縄張りを巡る娼婦同士の決闘もしばしば発生し、双方とも機械の身体なだけに派手な銃撃戦になる事も珍しくなく、巻き込まれるのを嫌った通行人から機関銃の斉射を浴びることも希ではない。
 生と死は常に隣り合わせ――それをもっとも具現していると言えるのがこの街なのだ。
 ただし、今夜はどの女達も豊漁らしく諍いは発生していない。
 更に視線を動かせば、胴服に身を包んだ男が路上を徘徊する双頭の野犬を退治していえる所だ。
 勿論、地獄の番犬として知られるケルベロスの出現ではなく、邪悪な霊に取り憑かれた野犬が突如として身体の構成に異変を来したものだ。
 従って退治中なのは魔道省所属の退魔師であり、或いはシンジの知り合いかも知れない。
 ふと夜香がシンジに訊いてみたくなった時、前方で物体の衝突音が聞こえ、続いて怒鳴り声が聞こえてきた。
 ぶつかったのは双方ともベンツだったが、降りてきたのはスーツに身を包んだ男達であった。
「白星会と蛇頭組――路上で銃撃戦が始まるか」
 呟いた夜香の眉が僅かに寄る。
 双方とも戦闘態勢でやる気十分な中、道路の端に幼子を連れた親子を発見したのだ。
 母親は二十代で子供は三歳前後、すくなくともやくざ同士の抗争に巻き込まれるべき親子ではあるまい。
 夜香の手が動きかけた時、いきなり派手な音が上がった。
 車が火を噴いたのだが、その原因を知るにはさすがの夜香も数秒を要した。
 すなわち…横でぼんやりしている青年からであった。
 二撃、三撃と繰り出される劫火は、銃を引き抜いた男達まで火達磨にしていく。
 このままでは、幼子の命は助かっても一生火がトラウマになりかねない。
「シンジさん、もうその辺り…で?」
 寝ていると気付いたのは、ふらりと寄り掛かってきてからだ。
 だとすると、この炎の演出は無意識だったと言う事になる。
 既にやくざ達の車は十台近く、文字通りこんがりと焼かれており、自慢のスーツがウェルダンになっているのはその倍近くいる。
 だが周囲の通行人にはまったく被害が及んでいないのを知り、美しき吸血鬼の顔に感嘆の色が浮かんだ。
「これが五精使いの泥酔とは…恐れ入りました」
 無論返答はなく、夜香はそのままシンジを抱きかかえると、翼を拡げて夜の空へと消えていった。
 
 
「そんな事が…さすがは碇様」
 声がどこかうっとりしているように聞こえるのは、やはりその出自故だろう。
「見たかったか?」
 不意に夜香が訊いた時、その表情が一瞬ながら檄しく揺れた。
「わ、私はそんな事は」
 答えが顔に書いてある妹をそれ以上追求しようとはせず、
「もう少し表情の訓練をする事だな。それより碇さんに床の用意を」
「はい、ただいま」
 家に送る、と言う事は二人の念頭に全くない。
 ただし、彼らにとってはあくまでも碇シンジとの付き合いであり、それを家族にまで拡げる気はないのだ。
 だとすれば、送るという選択肢が影も形もないのも当然であったろう。
「あの兄上、フェンリル様は?」
 何時もいる連れ合いの姿がない事に、やっと麗香は気付いた。
「フェンリル殿ならおられない。マスターを任せる、そう言い置いてどこかに行かれたよ」
 おかしな事は考えるなよ、そう付け加えた事は無論言わなかった。
 奥へ急ぐ麗香を見ながら、
「布団などしばらくぶりですが、ご容赦いただきましょう」
 ちらりと肩の住人を見て呟いた。
 
 
 
 
 
「姉さん達の具合はっ?」
 入室禁止を言い渡され、医師団だけが室内で泪と瞳の手当にあたった。
 出てきた医師に愛が飛びつくように訊いたのだが、初老の医師は軽く頷いたのを見てその肩からがっくりと力が抜けた。
「足場が崩れて落下した、との事でしたが、それが無かったら致命傷になっていましたよ。これは、ほぼ間違いなく効果を織り込んでの一撃です」
「ど、どう言うこと?」
「言いにくいのですが…」
「いいから言って。姉さんは助かったんだし、何を聞いても驚かないから」
 愛の言葉に、
「では申し上げましょう。あの攻撃は、お二人の足を吹っ飛ばす事を狙ってのものです。瞳さんからお聞きして、さっき届いた地図と照らし合わせたのですが、間違いないと言い切って問題ないはずです」
 それを聞いた瞬間、愛の顔から表情が消えた。
「そう、足を吹っ飛ばして…」
 ぽつりと呟いた時、すっとその顔が下を向いたがその表情は見えなかった。
 それが上がった時にはもう、単なる無表情と化したままで、
「そんな怖いヒトがいるなら、夜歩きは控えなきゃね」
「それがいいでしょう」
 医者は頷いて、
「本来なら傷害事件ですが、お二人と永石さんの意向で届け出はしないでおきます。ただ、以後は少し気を付けられた方が良いでしょう」
 これは無論、裏稼業中の事とは知らないせいだ。
 知っていれば、今頃は機動隊が家の回りを取り囲んでいるに違いない。
 ありがとうございました、と頭を下げて医者を送り出した愛が部屋に入ると、そこには永石がいた。
「永石さんどうしたの?」
「瞳お嬢様が、さっきの者にお心当たりがあると言われたので、資料を探していたのです」
「で、分かったの?」
「ええ、これよ愛」
 瞳が差し出したそれには、シンジの写真とそのデータが記されていた。
「…碇シンジってあの、碇財閥の次期後継って言うボンボン?」
「あなた知ってるの?」
「知ってるよ。その筋では結構知ってる子も多かったし。確かすっごい美人が一緒に居るって聞いた事が…いた?」
「女なんていなかったわよ」
「人違いかなあ。旅行好きでしょっちゅう海外に行ってるって聞いたんだけど…日本に帰ってたんだ」
 一緒にいたのは吸血鬼だった、とも妙に詳しいのねとも瞳は言わなかった。
 変な所で情報網が広い妹だし、人間ならともかく吸血鬼が相手だったなどとは言わない方がいいと思ったのだ。
 暫し、シンジの顔写真を眺めていた愛が、不意に静かな声で訊いた。
「それで姉さん、これをどうするの」
「どうするってそれは…」
 妙な事を考えるな、とは言ったものの既に愛が思い詰めているのは表情で分かる。
 姉二人が怪我を、しかも片方が重傷と来れば愛の性格では抑えられないのは目に見えている。
「私だって、このまま終わらせる気はないわ。諦めるなら、それはお父様の事を諦める事になるのだから。でもね愛、私達はいつも一緒よ。だからお願い、早まった事だけはしないで」
 自分の手を取り、必死の面持ちで頼み込む瞳に、愛は首を振ることは出来なかった。
「分かった…姉さんがそう言うならそうするよ」
 激情をどうにか抑えている風情で愛が出て行った後、
「永石さん、愛は私達の様子は見なかったの?」
「私がお見せしなかったのです」
 永石は首を振った。
「瞳お嬢様、もう一人の方ですが…」
「あの翼のあった?」
「ええ、あれはおそらく…吸血鬼です」
「そんな事は私だって分かっているわ…痛」
 右上に激痛が走り、瞳は腕を押さえて顔をしかめた。
「仄聞ですが、以前に聞いたことがあるのです…戸山町の吸血鬼の事を」
「都下でも、吸血鬼が生きられるのはあそこしかないものね」
「そうです。そして、吸血鬼一族の当主には当主のみが持ちうる巨大な翼がある、と言う事でした。ですがそれにしても――」
「何?」
「刑吏気取りなら、お二人を逃がす訳はありません。それよりも、必ず捕らえようとしたはずです。なのに何故逃がしたのでしょう」
「私が悪かったの」
 瞳は僅かに眉根を寄せた。
「碇シンジって言ったかしら、あの子が収穫はどうしたって言ったのよ。今思えば多分、最初から捕まえる気など無かったのかも知れないわ…」
 あの子、と呼ばれたとシンジが知ったらどんな顔をするだろうか。
「変わった青年ですな」
「そこにある資料で十分に分かるわ。少しでも野望があれば、いずれ祖母から受け継ぐ地位と資産の拡大に着手してもおかしくないのに、本人にその気は全くなし。そんな孫を持った祖母も大変だろうけれどそれだけに――」
「思考の読めない敵、これだけは厄介な相手ですな」
「ええ…後は姉さんの指示を仰ぐ事になるけれど…永石さん、くれぐれも愛の暴発だけは食い止めて。あの子が一人でどうなるものでも――いえそれどころか、間違いなく死への扉を開ける事になるもの」
「分かっております、瞳お嬢様。愛様は、私が責任を持って側に付いております。さあ、少しおやすみ下さい。起きておられては傷に障ります」
「そうね…そうするわ」
 大きく息を吐き出した瞳は、数十秒としない内に眠りについた。
 その寝顔を見ながら、
「おそらく、決して手出ししてはならない者達を相手にしてしまいました。ですが…私の命に替えても、お嬢様達だけはお守りして見せます」
 かつての傭兵であり歴戦の猛者である永石だが、その勘が告げていたのだ。
 すなわち、汝けっして触れる事なかれ、と。
 
 
 
 
 
「むにゃ…もにゃ…」
 ゆっくりと目を開けたシンジは、布団から新品の匂いがするのに気が付いた。
「うー、頭痛い」
 たった三杯で倒れるなど男の風上にも置けないが、
「碇様、お目覚めになられましたか」
 柔らかい錦糸を紡いだような声がした。
「あれ麗香?この布団は?」
「床のご用意が出来ず、急遽用意致しましたが…お体に合わなかったでしょうか…」
(あっそーだ)
 棺にこもるここの住人達に取って、布団など普段から用意する物ではあるまい。
「布団はなかったの?」
「いえそれがあの…一度も使用していない物がございましたが、随分と前に買い求めた物ですので碇様には」
「酔っぱらいを押し込めるのなんてなんでも良かったのに」
 言ってから、いつ買った物がふと訊いてみたい衝動にシンジは駆られた。
 が、何となく訊かない方がいいような気がして、
「夜香は?」
「先ほどシビウ医師(せんせい)からお電話があって、病院の方へ行っております。もう戻ると思いますが、朝食はいかがなさいますか?」
「朝食って…鮮血を?」
「と、とんでもございません。碇様にそのような物をお出ししたとあっては、兄に五体を裂かれて封じられてしまいます」
「ふーん。じゃ何?」
「わ、私がお作りしても…よ、よろしいでしょうか」
 何故か赤くなった麗香を見て、シンジは彼女が既に材料は用意していると見抜いた。
「材料は今から買いに?」
 わざわざ訊くと、
「す、少しだけなら材料もありますので…」
「用意のいいことだね」
 かあっと赤くなった麗香だが、ここまで赤くなった姿は祖父も兄も見たことがない。
 つまり、シンジが初めての男なのだ。
 いや、人間と言うべきかも知れない。
 真っ赤になって下を向いている麗香を見て、
「食べたらシビウの所行って来るから、作っちゃってくれる?」
「は、はいっ」
 救われたように奥へ急ぐ麗香を見てシンジは、調理用具はどうしたのかとわずかに首を傾げた。
  
 吸血鬼。
 人外にして異端のものと認識される種族ではあるが、翼と乱杭歯を別にすればその外見にさして人との差異は見られない。
 そしてその理由は、一つには増殖性にある。
 つまり、吸血鬼に噛まれた人間もまた吸血鬼に成りうるのだ。
 当然の事として、噛まれる前は普通の人間とまったく変わらず、噛まれてもそれがすぐに変貌しないことは、シンジも実体験で知っている。
 習性などは急激に変化するが、みるみる乱杭歯が伸びてくる訳では無かったのだ。
 更に食習慣に関しても、決して受け付けない物を別とすれば普通に食事もするし、この屋敷だけが特別なのである。
「吸血鬼の手料理――初物」
 奇妙な単語を呟いてから、カーテンを開けて外を眺めた。
 厚い雲が太陽を幽閉している天界を見ながら、
「麗香…何作るんだろ」
 原住民の食事もあっさり受け入れるシンジだが、そこにはほんの少しの不安が含まれているように聞こえた。
 
 
 
 
 
「マスターに怪我はなかったの?」
 俯せの裸身がゆっくりと面を上げた。
 院長手ずからの健康診断は、主の絶対命令によるものだ。
 声は妙に柔らかいが、この場合に限っては意味する所は一つである。
「夜香、血圧測定中におかしな情報は迷惑よ」
「これは失礼致しました」
 優雅に一礼して、
「診断の結果はいかがでしたか」
 辺りに艶を放っているような肌から、わずかに視線を逸らして訊いた。
「健康だよ、マスター」
 おかしな物言いの先はすぐに知れた。
「朝食ご馳走様、夜香」
 これも奇妙な台詞と一緒に、シンジが扉から姿を見せたのだ。
「料理はいつマスターしたの?」
「昨夜です」
 とんでもないことを、あっさりと夜香は言ってのけた。
「ふにっ?」
「碇さんをお泊めすると言ったのですが、その後で何やらしていたようです」
 魚の塩焼きに納豆を。
 そして生卵に白飯。
 至極普通のおかずだったが、シンジの舌をもってしても合格ラインであった。
「本当に?」
「そう言う事にしておいて頂ければ幸いです」
 うっすら笑った夜香に、
「じゃ、そうしておこう。ドクター、診断の方はどう?」
「まったく問題ないわ。ただし一点だけ問題が」
「何?」
「碇シンジ病――ややいちゃつき過ぎる症状があるわ。もう少し控えるべきね」
「間違った診断を下すのを藪と言う――知っているか」
 室内に刹那危険な空気が漂った時、
「まあ、それはそれとして」
 シンジが壁に掛かっていたガウンを取ってフェンリルの肢体を覆った。
 やや見せるように前を合わせるフェンリルと、それを黙って見ているシンジ。
 シビウは冷たく視線を逸らし、
「あの子達の事は分かったの」
 死者でさえも、ぎょっと目を見開きそうな口調で言った。
「ええ。ただし、碇さんがお出でになるようなものではありません。妹を行かせれば片のつくことです」
「あー、それは無理だ」
「何故です?」
「ちょっと」
 フェンリルから離れて、シンジは手招きした。側に来た夜香の耳元に口を付けて、シンジが何やら囁く。
 妖美が漂う夜香だが、シンジも決して平凡の域ではない。
 タイプとランクは違うがいずれも美青年なだけに、耳元で囁いている姿はやや妖しいものがある。
 何やら囁かれた夜香は、
「それなら仕方ありませんね。ですが、妹にはやや過分では」
「そんな事はないよ。それで、昨日のデータは?」
「ここにあります」
 受け取った資料に数秒で目を通し、
「美術品狙い、ね。んー、どうしようか」
「もう一度出向かれますか?」
 とそこへ、
「マスター」
「はい?」
「昨晩のこと、後で聞かせてもらうよ」
「…え?」
「やはり飲み倒れか――夜香」
「なんでしょう」
「マスターの醜態は後で聞くとして、しばらく夜は付いていろ。ただし、これ以上飲ませるなよ」
「分かりました」
 妖々と一礼してから、
「当分はご一緒する事になりそうですね」
 にっと笑った口許に、乱杭歯が妖しくきらめいた。
「あの…俺抜きで話が進んでる?」
「酔っぱらいに人格権は与えられないわ」
「あー!」
 地団駄踏んでから、
「フェンリル、お前は何処へ?」
「しばらく冥界に行っている。我が君――いずれまた」
 すっとその姿を消した従魔の跡を見て、
「あ、振られた」
 ふうと溜息をついたシンジに、
「私で良ければいつでも慰めて差し上げるわ」
「ううん、それは間に合ってる」
「では、私の屋敷に来られますか?」
「やだやだ、ぜったいに遠慮するぞ」
 蜘蛛の巣に捕まった蛾状態…追いつめられた獲物のようにシンジはぶるぶると首を振った。
 
 
 
 
 
(つづく)


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