妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
 
 
C−1:吸血鬼に飲まされる夜
 
 
 
 
 
「もーやだ、もう駄目」
 どこかの我が儘娘みたいな事を言ってるのは、テーブルに突っ伏しているシンジである。
 そして、そのシンジにグラスを冷たく突きつけているのは――
「まだ一杯です。後二杯残っています」
 店内に入った途端周囲の視線を一身に受け、逸らそうとしながらも魅入られたように動かせない妖美な青年――夜香であった。
 シンジも決して平凡ではないが、これだけの美貌が隣にいるとどうしても霞む。
 もっとも、本人はそれを全く気にしてはいないだろうが。
 しかも質の悪い事に、シンジを伴った時その美貌はひときわ冴え渡るのであった。
 おまけに吸血鬼の当主は滅多に見せぬ表情を――そう、うっすらと微笑っているではないか。
 戸山町の住人はおろか、屋敷の者さえまず見られないこの表情を、ましてたまたま居合わせた一般人が見られるなど、まずありえない。
 そしてその先にはただ一つ…ぐったりしているシンジがいる。
「三杯は呑む、シンジさんはそう言った筈ですよ」
「そんな事言ってももう駄目」
「それは私の台詞です」
 美しい指がグラスを持ち上げ、すっとシンジの口許に運ぶ。
 どう見てもボトルを数本空けた後の光景だが、まだシンジは一杯しか飲んでいない。
 しかもカクテルを。
 この指に勧められたら、例え一升瓶でも一気に空けるかも知れない。
 そんな妄想を抱く娘は、店内に一人や二人ではなさそうに見えた。
 事実その光景に、頬を染めて見入っている女達は決して少なくなかったのだ。
 
 
 事の起こりは、その日の朝に遡る。
 金儲けにはもっとも縁がありながらもっとも興味がない、そのワースト1位にいるシンジは、雲南省から戻ってきて早速トラブルに出くわした。
「私が死んでもずっと一人でいてね」
 愛が深い、と言えば聞こえはいいが要するに我が儘度最大な、そんな遺言を残して死んだ女がいた。
 それだけなら個人間の問題だが、問題は夫が若すぎた事であった。
 二十代は、少なくとも妻を思ってずっと悶々とするには若すぎるのである。
 一年後、つまり一周忌に妻の墓を訪れた夫は女を伴っていた。
 すなわち――新しい妻を。
 女の執念は有名な単語だが、その次の日から彼らは凄まじい亡霊の被害に遭いだしたのだ。
 前妻の亡霊に悩まされる彼女がぶつかったのが、碇シンジだったのは幸いであったろう。
「いいよ」
 至極簡単に、シンジはあっさりと引き受けた。
 がしかし。
 相棒と夜遊びしていたシンジが、ほんの少し油断した瞬間集まっていた霊が暴発したのだ。
 ホテルの最上階から落下するシンジに、
「お困りですか?」
 涼しげな声が掛かった。
「いや、全然ちっとも大丈夫」
 強がりも、風を操る青年とあればそうでもない。
 しかし、
「下へ落ちられる前に、霊達が周囲に迷惑を掛けそうですが」
 刹那考えてから、
「じゃ、何とかしておいて」
「分かりました」
 落ちていく知り合いを見ながら、夜香は一つ頷いた。
 ここまでは良かったろう。
 だが問題は、
「お礼くらいするから」
 と口走った事であり、しかも相手の事を考えなかった事だろう。
「分かりました」
 むしろ冷たいと思えるような口調で夜香は首を縦に振った。
 そして次の瞬間、
「バーでお付き合いしてください」
「…え?」
「三杯だけ飲んでいただければ結構です」
 やっぱりいい、そう言おうとした時にはもう、地面が熱いキスを迫ってきており、反射的に風を繰り出して避ける。
 慌てて戻ろうとした時には既に、腕の一振りで片がついていた。
「あっちゃあ〜」
 悔やんだとき、上から何かが落下してくるのが見えた。
 落ちてきたそれは、シンジの目の前ですっと黒翼を左右に拡げて綺麗に降り立つ。
「片づきました」
 夜の貴公子は涼しげな声で言うと、
「今夜お迎えに上がります。それと――」
「え?」
「逃げるのは不可能ですので。では」
 内容と違い、あくまでも気品を崩さぬまま一礼すると、そのまま闇夜へとその姿を消していく夜香。
 昼が人間の時間なら、夜は常に吸血鬼の支配する時間なのだ。
「あー!」
 地団駄踏んだシンジだがもう遅く、シンジは墓穴に落ちた事を知った。
 
 
 
 
 
「もう…駄目…逝く…」
 夜道を二人連れが蹌踉と歩いていた。
 いや、正確には一人が千鳥になっているのをもう一人が支えているのだ。
 結局三杯飲まされ、きっちりノックアウトされたシンジに夜香が肩を貸しているのだが、その顔はやや危険域まで達している。
「逝かれた際は、私が墓標を刻んでおきます」
 冷たい台詞の夜香だが、ダウンしたシンジを連れ出す時、来店していた娘達から熱い視線が注がれたのには見向きもしなかったのだ。
 シンジの腕を肩に乗せたとき、その口許に笑みが浮かんだように見えたのは気のせいだったろうか。
「大体だな、俺が弱いのを…うるさいぞ」
 一歩よろめいた時、その耳にサイレンの音が聞こえてきた。
 それも十台以上の数をシンジの聴覚は捉えており、
「戸山町って、犯罪者とか匿ってる?」
「いえ」
 夜香は首を振った。
「ですが、今私が連れているのは極悪な犯罪者です。心当たりはおありですか?」
 妖しく笑った連れに、
「こんな品行方正なのを捕まえてなんて事を」
 よいしょ、とシンジが立ち上がった。
「もういい、助かったわ」
 シンジが離れた肩を一瞬だけ見たが、
「妙ですね」
 その顔がある方向を見た。
「何が?」
「収まる気配がありませんが。それにあの音は、一定区域を回っているように聞こえます」
「五重奏のサイレンで住民に嫌がらせしてるんだな。これだから総監は駄目なんだ」
 警視庁トップの顔が頭に浮かんだ時、
「飛んでみませんか?」
 不意に夜香が囁いた。
「風使う気分じゃないよ」
「私がお連れします」
 言うなりシンジの胴体に片手が回され、、シンジの足は地から離れていた。
 一気に高みまで飛翔した連れに、
「ちょっとはな…?」
 離せと言おうとしたのだが、夜香が自分を見てないのに気が付いた。
(ん?)
 視線の先をシンジが追う。
「スーパーボールって知ってる?」
「いいえ」
「小さい球なんだけど、これがよく弾むんだ。メイドに捕まった時は、それを弾ませて足を攻撃すると逃げられる」
「スカートの中、と言うことですか」
 言わなきゃ良かったかな、と一瞬後悔したような気もしたが、
「そうとも言う。で、あの飛び跳ねてるのは何?」
 そこには人影が二つ、文字通り跳ねるようにビル群の間を移動していた。
「女性です。おそらく、パトカーの目的はあの二人でしょう」
「何をしている?」
「直に訊いてみるとしましょう」
「え゛!?」
 嫌な予感がした途端、夜香はシンジを抱えたまま落下していった。
 身体が反転する感覚に、胃が猛烈な抗議を開始する。
 辛うじて逆流を防いだとき、不意に身体は元の位置に戻っていた。
「今晩は」
 巨大な黒翼を拡げたまま静かに、だがどこか冷ややかな口調で夜香は言った。
 突如現れた闖入者に、女達の脚が止まる。
 驚愕の表情を浮かべた顔を見て、シンジがにやっと笑った。
 こう言うのは好きなのだ。
「誰」
 低い声の誰何に、
「私の友人があなた達に興味を持ったようです。さ、シンジさん…?」
 自分の腕に抱かれている友人が、ある種の笑みを浮かべている事を知り、その眉が僅かに寄った。
「夜香」
「何です?」
「身内が警察のトップと知り合いだと、どう言うことがあるか知ってる」
「いえ」
「追ってる最重要物件の情報が漏れたりする」
「余計なお世話ですが――」
「ん?」
「それは機密漏洩と言うのでは」
「良く知ってるねそんな単語。その通り」
 シンジは頷き、
「レオタードとないすばでぃ」
 発音がやや妙なのは理由があった。
「ただしフェンリル以下だけど」
 それを聞いて夜香の口許に笑みが浮かぶ。
 本人が聞いたら相好を崩すに違いない。
「三人組の怪盗がいて、確かキャッツアイとか言った筈だ。最近有名らしいからな。でもこれ二人だし…違ったかな」
「どうされます?」
 どういう意味か、と訊かないのはそれぐらいは分かってるからだ。
 悪、すなわち断罪と見るような性格の持ち主なら、最初から付き合いなどすまい。
 シンジの見た所いずれも二十代――特徴の共通はおそらく姉妹であろう。
 無論彼女達も、現れた男達に度肝を抜かれていただけではない。
 一撃を与えて逃走しようとしたが、それをさせなかったのは黒翼を備えた青年であった。
 黒翼は作り物としても、その妖美とも言える美貌、そして何よりも口許に見えた乱杭歯はその正体をはっきりと教えており、警察を簡単に手玉に取ってきた彼女達をして、微動だにさせなかったのである。
 もう一人の方は、どこか半分酔っぱらいみたいに見えたが、この二人の関係が分からない。
 友人と言ったのは事実だろうが、それにしては回されている腕が幾分妖しい。
 関係が分からない以上、どうしても攻めあぐねていたのだ。
「収穫はどうした?」
 不意にシンジが訊いた。
「…何ですって」
「収穫はどうだったか、と訊いている。目当ての物は手に入ったのか」
「あなたには関係ないわ」
 それを聞いた時、すうっと夜香の雰囲気が変わった。
「面白いことを言う娘だ。では、関係あるようにしてくれる。その後で、ゆっくりとお話しするがいい」
 すっと手が上がる――そこから放たれるは必殺の魔気功。
 だが、にゅっと伸びた無粋な手がそれを止めた。
「誰も拷問係には任じてないって」
 シンジがそっと触れると、寸前でぴくっと止まった。
「別に捕まえる気はない。でも、折角遭ったのも何かの縁だし、成果くらいは教えてもらいたいんだけど」
「人に物を訊く前には、まず自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」
 肢体から成熟した色香を漂わせている女が言った。
 おそらく姉だろう。
 二人は胸元を大きく空けており、それだけでも女には無縁の守衛辺りは、簡単に陥落しかねない。
 この二人の青年もそうであったろう。
 ただし――普通の若者であれば、の話だが。
 一人は吸血鬼の若き当主であり、そしてもう一人は五精使いであった。
 豊かな肢体など、腐肉の詰まった汚塊程度にしか見ぬ若者と、美の極致をしょっちゅう眺めている青年と。
 その気が無かったにせよ、相手が悪かったとしか言い様がない。
「無様に出している胸を潰されてから答えるか?女など、自らの肢体が一番美しいと思っている生き物だ。その後でもその口が利けるか、試してみたいものだ」
 月下に凍てついたような言葉が響く。
 ただし、シンジはその横顔をちらりと見てから首を捻った。
 紅の瞳がいつも通りなのだ。
 無論放っている雰囲気は冷然としたものだが、赤光を放てばそれだけで事は決まるのに、そこは光を放っていない。
 吸血鬼当主の赤光に、女ごときがどうして抗えよう。
 と、次の瞬間シンジの肩がぴくっと動いた。
(あなたにお任せします)
 唇の僅かな動き――声にならないそれがシンジに伝わったのだ。
(…また頭の中につっこんできた)
 口にはせず、
「どうしてもインタビューには応じてもらえない?」
 言い方は穏やかだが、そこには笑みがある。
 遊ばれていると知り、女達の表情がすっと変わった。硬直しているそこに、殺気が加わったのである。
 ぶん、と何かが空を切って飛来した。
 シンジを抱えている夜香は微動だにせず、シンジはほんの少しだけ上体を揺らした。
 妙な動きだが、すぐに原因は明らかとなった。
 飛んできたのは二枚のカードだが、その一枚が発煙の役目を果たしたのである。
 ぴん、とシンジが指の間で受け止めるのと、もう一枚が煙を吐くのとが殆ど同時であった。
 が、飛んできたのは同じ物だったのに、どうやって見分けたのかは分からない。
 もうもうと黒煙を吐くそれから、シンジの身体はすうっと引き戻された。
 翼の一振りで圏外に逃れたシンジが軽く手を振ると、あっさりと煙は四散した。
 当然の事として放った方は逃走を図っており、目をぱちくりさせてからシンジが見ると、二つの影がビルの上を疾駆していく所であった。
「猫マーク…絵心が足りないぞ」
「そんな所です。あれはどうされますか」
 逃走していく先に視線を向けた夜香には、真昼のようにすべて見えている。
「お返しはする。それより放して」
 気付いたように夜香が自分の腕を見ると、シンジはまだその中にいる。
「おや、これは失礼を」
 腕から抜けると、これもすっと地に居るように空中に静止した。
 こんな言い方でも気障にならないのは、ひとえに本人の特質だ。
 シンジは宙に浮いたまま、
「さっきのは黒煙だった。煙と来れば火、と言うわけでウェルダンをプレゼントしよう」
 何か呟いてからカードをなぞる。
「GO」
 無造作に投擲されたそれは、やはり動作としては夜香の方が美しいが、やや奇妙な軌跡を描いて真っ直ぐにある方向を目指した。
 そしてきっちり十秒後。
 ドーン、と言う音と共に派手な炎が上がる。
 普通の人間が巻き込まれれば、間違いなく致命的なダメージを受けるそれを、シンジは数秒とかからずにカードに組み込んだらしい。
 もうもうと上がる煙を見ながら、
「結婚指輪は給料の三ヶ月分」
 奇怪な事を言いだした。
「え?」
「一生のご奉仕なら割に合うね」
「いい利率ですね」
 頷いたのは、シンジの言葉の意味が分かったらしい。
「42.195…の十倍の利回り。銀行が倒産するな」
「まったくです。それで片づきましたか?」
 物騒な事をあっさりと口にした吸血鬼の連れに、
「片足位吹っ飛んだ筈だけど…どうかな」
 こっちも危険な台詞で応じたが、わずかに首を捻ったのに夜香が気付いた。
「外したのですか?」
「感触がいまひとつだった。外さない所だったんだけど」
「となると、酔いが足りませんね。もう一度飲み直しです」
「もういい、一滴も飲まないぞ」
 ぶるぶると、激しく首を振ってから、
「まあいいさ。もし今度見つけたらとっ捕まえてやる。さて、気分直しに夜間飛行と行くか」
「ご一緒してよろしいですか?」
「あ、はいはい」
 有翼族と無翼人が揃って夜空を飛行していく。
 片方はその大きな翼を使い、そしてもう片方は能力(ちから)の一つである風を利用して。
 女達が逃げたのとは、反対方向に飛んでいった二人だったが、シンジは一瞬だけその方向に視線を向けた。
 
 
 
 
 
「きゃあっ」
 いきなり下から銃撃され、足場が狂ったのはまさにカードが爆発する寸前であった。
 銃撃されていなかったら二人とも間違いなく、身体が吹っ飛んでいただろう。
 こらえきれずに落下していったが、受け止めたのは強烈なクッションであった。
「姉さんっ!」
 悲鳴のような声と共に、
「申し訳ありませんお嬢様」
 低い声が急げと命じると、男達がわらわらと寄ってきて、二人を担架に乗せて車に運び込んだ。
「永石さん…どうしてここが?」
「望遠鏡で見ていたのですが、お嬢様達が足を止められたのが見えたのですよ。車を三台先回りさせておいて正解でした。瞳お嬢様、お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫だけど姉さんが…」
 瞳と呼ばれた女が横を見ると、その先には無惨に裂けた足があった。
「それはいけません、すぐに手当を」
 ブレーキを踏み掛けた所へ、
「わ、私は大丈夫だから…」
 やや苦しげに女が制した。
「しかし泪お嬢様、早急に手当をしないと何が含まれているか――」
「へ、平気よ。それより愛…え、絵は無事?」
「絵は無事…無事だから、それより姉さんもう話しては駄目。永石さん、お願い急いでっ」
 愛と呼ばれたのはまだ十代の少女だったが、これもレオタードに全身を包んでいる。
「分かっております、愛お嬢様」
 ん、と僅かに瞳が呻き、そっちを見た愛が顔色を変えた。
 瞳の腕が、これも泪ほどではないが縦にざっくりと裂けていたのだ。
「よくも姉さん達を…」
 噛みしめた歯がぎりりとなったが、自分達を正義と思っているのかは分からない。
 が、妹の形相に気付いて瞳が止めた。
「愛、駄目よ…」
「え?」
「あれは決して…決して遭ってはならない類の二人だったわ。お願いだからおかしな事は考えないで」
「…姉さん…」
 警察の裏をかき、常に一枚上手を行ってきた自分達だったが、今晩は完敗であった。
 それも、無関係に乱入した二人に手も足も出なかったのだ。
(あの二人は一体…)
 激痛の走る腕を抑えながら、瞳は片方がどこかで見た事が有るような気がしていた。
 すなわち、翼を持っていない方を。
 考え込んだのは、腕の痛みから気を逸らそうと身体が反応したのかも知れない。
 だがそれも空しく、数十秒としないうちにその意識は遠のいていった。
 その二秒前に泪が気を失い、姉二人の失神に気付いた愛が血相を変えて、
「姉さん、姉さんっ!」
 身体を揺すりだしたのに気づき、
「愛お嬢様いけませんっ!」
 慌てて永石が止めた。
 
 
 
 
 
(つづく)


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