第九十四話
 
 
 
 
 
「え?隠さなくても…イイッ…の…あぁっ」
「大丈夫よ。秘密にしていたって、いずればれるんだから」
 俯せの姿勢で、襞を擦られたマナがたまらず背を反らせる。普通の愛撫ではなく訓練であり、もう何年も弄られ続けているのに、未だに慣れない。
 他の女相手なら、こんなに一方的に感じる事は無いのに。
「今日はちょっと感じやすくなってるかしら?」
 おっとりした声には、淫靡な響きなど全くなく、全裸の少女を責めている風情は微塵もない。
 が、指の方はおっとりとは程遠く、空いている指をアヌスへと侵入させた。
「ひうっ!?お、お母さんお尻は許してぇっ」
「だーめ」
 表情と声は慈母の如しだが、その指は秘所と肛門内で妖しく蠢いており、もうマナは振り解く力もなく、柔らかな肢体をひくひくと痙攣させる事しかできない。
 愛液を思い切り吹き出してマナが達した後、抜き出した指をぺろりと舐める。マナが一方的に弄られて終わっているから、責めるだけで満足出来るタイプと見える。
「も、もう…お、お尻までぇ…」
 名目上は母だが、実質は自分の教育者と監視者を兼ねた存在である。それでも、自分と接する時はいつも母のようだったし、自分の監視データを家の中で見た事はない。
 何よりも、他人なんだからと言われた事は一度もないのだ。だからマナも実の母のように慕ってきた。
 尤も、今呼んでいるのは仮名であって、本名は知らないのだが、それはやむを得ない事だと思っている。最優先は教育者兼監視者なのだから。
 目許を赤く染めて、恨めしげな視線を向けるのは甘えている証拠だ。
 赤くなったそこへ軽く口づけして、
「あんまり感じてるから、ついお尻も弄りたくなっちゃったのよ。さ、シャワー浴びていらっしゃい」
「はい」
 マナが戻ってくると、もう母親は着替えていた。室内の空気すら変わったような気がするから不思議だ。
「今回の任務の事だけど、幾つか伝えておくわ。まず、自分の事はばらしちゃっても構わないから」
「いいの?」
「ええ。ただし、標的と二人きりの時にね。あの娘は所詮一般人で、暗殺者と相容れる訳がないのよ。羨望と絶望の間で揺れて、今はもう半分位楔が打たれている状況よ。あなたのやる事は、あくまで標的と親密になる事。ネルフの機密など聞き出す必要は無いの。分かったわね」
「はい」
「どんな暗示でも、対象が本心から嫌がる事はさせられない。あなたが凱旋してくる時は、身も心もあなたに囚われた標的と一緒よ」
「あ、あの」
「なに?」
「もしかしたらその…途中で家に遊びに来るとかあるかもしれないんだけど」
「そうね…」
 指を頬に当て、小首を傾げて考え込む。
(さっきまであたしの中に…)
 指に視線を奪われたマナの顔が赤くなる。
 母親に気付かれた。
「どうしたの?」
「う、ううん何でもない」
(思い出したのね)
 すぐに気付いたが、何も言わなかった。どうせ口にした所で、赤くなって縮こまるマナの姿が見れるだけだ。
「あなたにはマンションを用意しておくわ。転校生が生活感のある家を持ってるのもおかしな話だし。あり得ない事ではないけれど、疑念を頂かせる因子は少ないに越した事は無いわ」
「分かりました」
「手懐ける技術に自信がなくなったら、夜は帰ってきなさい。身体で思い出させてあげるから」
「は、はい…」
 しゅうしゅうと赤くなったマナの頭を、母親の手が軽く撫でた。
「あなたは今まで、一度も失敗した事は無かった。期待、と言うより頑張る必要もない位の相手だと思うけど、気をつけて」
「分かりました。お母さん、ありがとう」
 出会った瞬間に、いきなり昏倒させられた数日前の事である。
 
 
 
 
 
「本当は歩いてこようと思ったんだけど、二回も痛い目に遭いたくないし」
 マナはちらりとレイを見た。確かにレイが悪いのだが、何となくムッと来てレイは横を向いた。
「行きましょ?」
「……」
 数秒経ってからアスカは頷いた。いきなり車で乗り付けるのは怪しいが、マナの言う通りいきなり気絶させてしまったのは自分達だし、マナを調べても怪しい物は何も出てこなかったのだ。
「レイ、あたしこの子と一緒に行くからさ。碇君にはそう言っといて」
「分かった」
 アスカを乗せた車が走り去った後、急にレイは自責の念に駆られた。確かに昨日は不審な点はなかった。だからと言って、正体が分かった訳ではないのだ。
 手を引いてでも行かせない方が良かったのではないか。もしもアスカの身に何かあったら――。
 不安になったレイは携帯を取りだした。少し迷ってから、選んだ先はアオイの番号であった。
 何となく、レイにとってアオイは苦手なのだ。髪型一つ見ても、シンジとよく似ており、思考もかなり類似している。おまけにシンジとの相性も、自分より余程良い。
 容姿とか能力とかそんな事ではなく、根本的な部分でどうしても超えられないと言う思いがある。尤もそれは、レイが自覚していないだけで、端から見ているアスカですら分かっている部分の話なのだが。
 相手はすぐに出た。
「アオイです」
「あの、レイです…。アスカが、昨日来た人の車に乗って行っちゃって…」
「アスカちゃんが?強制的に?」
「いえ、自分からです」
「そう」
 数秒考えていたアオイが、
「シンジにはもう連絡したの?」
「い、いいえ未だ…」
「じゃ、シンジにはレイちゃんから話しておいて」
「え…」
 本来ならば真っ先にシンジだが、レイはそうしなかった。レイが一緒にいながらと言われるのを怖れなかった、と言えば嘘になるだろう。
 私から連絡するから、とアオイが言うのを待っていたのだ。
 だが反応は違っていた。
 一瞬口ごもったレイに、
「大丈夫よ、シンジは怒ったりしないから。アスカちゃんが自分で行ったのなら、レイちゃんの責任じゃないわ。それに」
「それに?」
「あの子の身に何かあれば、この街から生きて出られない事位分かってる筈よ。全身を肉片に変えて棺に収まりたくはないでしょう。シンジの妹に手を出すというのは、そう言う事よ」
「信濃大佐…」
 ほんの少し、アオイとの距離が縮まったような気がしたレイだが、すぐにある事に気が付いた。
 シンジの妹に手を出せばただでは済まない、とアオイは言った。
 そこまではいい。
 だが今行方不明になっているのはアスカではないか!?
 レイにとっては一大事だが、もう一度電話を掛けて聞く勇気はなかった。
「妹は…私だけだもん…」
 レイが呟いた時、車が滑り込んできた。今度は間違いなくシンジだ。
「さ、行くよ。あれもう一人は?」
「あ、あのねお兄ちゃん…」
 
 
 
「一つ訊いていい?」
「ん?」
「あんた何者なの?何でそんなあたしに興味を持つのよ」
「知りたい?」
 ふふっと笑ったマナに、
「一般的な思考をしてればそうなると思うんだけど。それとも日本人は特別なの?」
「一般的だと思うよ」
 後部座席には小さなクーラーボックスが積んである。そこからコーヒーを一本取り出して渡した。
「私の名前は霧島マナ。戦略自衛隊――通称戦自の工作員よ」
「…ふーん」
 アスカが別段反応を見せなかったのは、先日の事が未だ脳裏にあったからだ。
 即ち死屍累々の光景が。
 見方を変えれば、自分に手出ししようとすれば皆ああなるのだと、つまりシンジが必ず守ってくれるという事にもなる。シンジがこの場にいないにもかかわらず、アスカは妙に落ち着いている自分を感じ取っていた。
「あれ?あんまり驚いてないみたいだね」
「最近色々と強くなったのよ。で、その工作員があたしを拉致でもしようっての」
「まさか」
 マナは首をすくめ、
「エヴァのパイロットと一緒よ」
 初めてアスカが反応した。機密に近づく気だと知ったのだ。
 だが次の言葉は、アスカの予想とはまったく異なっていた。
「パイロットは三人居るけど、皆同じじゃないでしょ。それに自分を賭けてる人とか、どうして乗ってるのかよく分からない人とか――」
 マナが横を向き、その視線がアスカを捉えた。
「やる気がないのに能力だけ持ってて適当に乗ってる人とかね」
 それぞれ誰の事を指しているのかは、聞かずとも分かる。
「アスカさんの事を知って、気が変わったのよ。少し話…できるかな?」
 もう学校は見えている。アスカが嫌だと言えば、おそらくこのまま入るだろう。どこぞに拉致したりはするまい。
「いいよ」
 アスカは頷いた。力尽くで来ないだろうという気はしている。現に、先日来た時は見に何も持っていなかったのだ。それに見たところ、武道に励んでいる訳でもなさそうだし、素手ならアスカ一人でも何とかなるという思いもある。
 何よりも、転校してまで乗り込んできた以上、断ってもあれこれ手は打ってくるだろうし、それなら逆に相手の事を掴んでおいた方が得策というものだ。
「じゃ、決まりね。行きましょ」
 一瞬車の雰囲気が変わったような気がした。
 気のせいかと思ったが、違ったらしい。
「ベルト締め付けておいてね」
 すうっとアクセルを踏み込んだ瞬間、さっきまでのエンジン音が嘘のように静かになり、その数秒後、車は矢のような加速を始めたのだ。
 さっきとは文字通り別の車になっている。
 
 
 
「アスカが霧島マナの車に乗り込んで?」
「うん…あの、ご免なさい」
「え?」
「え?あ、あの…?」
「何で君が謝るの」
「だ、だって私が一緒にいたのに…あう」
 レイの頭を軽く撫でて、
「アスカは人形じゃないよ。強制されたのでなければ、何か思うところがあったんでしょ。それに、この街でアスカを攫っていけると思うほど、その霧島マナも単純じゃないと思うよ」
 アスカに危害を加えたら五体バラバラ、と言ってあるからねとは言わなかった。
「お、怒ってないの?」
「大丈夫ですよ」
 シンジはうっすらと笑った。
「護衛は頼んだけど、保護者に任じた訳じゃない。無理矢理引き留めて、アスカと喧嘩にでもなったら後味悪いでしょ」
「う、うん…」
 ほっと安堵したレイだが、同時にシンジが全く気にしていない様子なのを見て、どうしてそんな平然としていられるのかと、不思議な気がした。
「だってほら、アスカは別に重要機密を知ってる訳じゃないし」
「え!?」
 口には出していなかった筈だ。
「まあ使い道はあるけど、死人の山を三度築きたいとは思わないんじゃないかな」
「あ、あの…」
「何も言ってなかったのにって?」
 こくこくとレイが頷いた。
「出さなくてもそれ位は分かる――妹の事だしね」
「はい…」
 横顔を見れば思考位分かるのだが、シンジの言葉にレイはほんのり顔を赤くして頷いた。
「さ、学校に行きますよ。ネルフの用事で一名お休みだからって、先生に言わないとならないしね」
「うん」
 レイがこの時、シンジの言葉にさして留意していなかったなら、或いは気付いたかも知れない。だが、ふやふやと緩んだ顔でシンジの横顔を眺めていたせいで、分からなかったのだ。
 走行中、シンジの表情が一瞬変わった事に。
 そして障害物も信号も何もない場所で、シンジが刹那ブレーキを踏み掛けたこともまた、分からなかったのだった。
 学校に着いたが、止まったのは正門前であった。
「お兄ちゃん?」
「ちょっと用事が出来た。悪いけど、先生には君から伝えておいて。学校が終わるまでには来れると思うから、終わったら電話して」
「は、はい」
 さっきはそんな事を言っていなかったから、おそらく途中で思い出したのだろう、忘れるなんてシンジにしては珍しいと、レイは内心でくすっと笑った。
「じゃ、お兄ちゃん行ってきます」
「うん」
 手を振ったレイの姿が消えると、シンジはアクセルを踏み込んだ姿勢からフルブレーキングで車体を百八十度回転させた。フル加速に持って行ったその表情は、戦闘時の物に変わっており、手を挙げてレイを見送った時の物は微塵もない。
 さっきの場所まで来たが、シンジが見た人影はない。一瞬シンジの視界に写ったのは女であり、それは間違いなくカエデだったのだ。
「気のせい…じゃないな」
 確かに外見だけでは見間違いもあるかも知れない。だが優れた技倆を持つ術師だけが放つ気は、決して間違える物ではない。
 第一、カエデが観光になどやって来る筈はないのだ。
「……」
 一旦戻ろうとブレーキに足を掛けた次の瞬間、不意に車体がスピンした。シンジが操作を誤ったのだ。
 何気なく見たルームミラーに映っていたのは――宙に浮遊するカエデの姿であった。
 コントロールを失う寸前で何とか車体を立て直す。停止した車の横に、ゆっくりとカエデが降りてきた。
「おはよう、シンジ様」
「こんな所で何をしている?」
「シンジ様に、1日デートのお申し込みに来たのだけど、面白い物が見られましたわ。助手席は空いているかしら」
 無論、アスカやレイを未だ助手席には乗せないと知っての科白である。
「……」
 シンジは黙って助手席のドアを開けた。
 文字通り、警戒心ゼロで乗り込んだカエデが、
「気付かないかと思ってたけれど、わざわざ降ろしてきたのは私に殺させない為?」
「私を、だ」
 シンジの言葉にカエデの表情が僅かに動いた。
「レイじゃお前には遠く及ばないけれど、中の女には手も足も出ない。この車ごと破壊されても困るから置いてきた」
 ふん、と鼻を鳴らしてカエデがそっぽを向く。この間妲姫から、文字通り赤子のようにあしらわれた事を思い出したらしい。
「まあいい。うちの二人を狩りに来たのなら首にして返しはしない。この間の件もある事だ。尤も、一般人の娘は現在ナンパされてる最中だけどね」
「ナンパ?誰に?」
「戦自の工作員」
「戦自の男に?冷たい兄様の妹になったものね」
「女だが」
「…何ですって?」
「女だと言ってる。アスカが陥ちるかどうか、現在見物中だ。で、アスカの近況を訊きに来た訳じゃあるまい」
「連れてって」
「どこへ」
「静かなところならどこでもいいわ。シンジ様にお任せします。着いたら起こしてね」
 言うなら、カエデはシートを倒してさっさと寝息を立てていた。まったくの無防備状態で、シンジがその気になれば目を閉じてでも殺せよう。
 まったく、と口の中で呟いてから、シンジは軽くアクセルを踏み込んだ。
 どうやらレイを迎えに行くのは微妙になりそうな情勢だ。
 
 
 
 車を降りたアスカは、ふふんと笑った。
「まあ、なかなかの腕をしている事は認めてあげる。でもね、思い切りチューニングされたベンツで振り回されているあたしの目を回すには、ちょっと役不足ね」
「いいもん、最初からそんな事思ってないし」
 二人は熱海に来ていた。かつてこの辺りの夜景は10万ドルとか100万ドルとか言われたが、ホテル街の軒並み廃業やセカンドインパクトの後遺症で見る影もなくなっている。
 昨夜の睡眠は足りていた筈だが、なぜか急激な眠気に襲われて、アスカが目覚めたのはここへ着く直前であった。マナが何かしたのかとも思ったが、渡された缶コーヒーのプルタブは空いていなかったし、空調に細工があったのならマナもそうなる筈だ。
「よく眠ってたけど、昨夜はあまり寝てないの?」
「ちゃんと寝たわよ。あんた何かしたんじゃないでしょうね」
「何かって、全く手を付けていない缶に超能力で薬を混入するとか?」
「…何でもないわよ。それで?戦自の工作員があたしに何の用なの」
「別に無いわ――今回の任務はお休み。正確に言えばサボりね」
「あたしが信じると思ってるの」
「信じるかどうかは自由よ。でも何かしようと思ったら、寝てる時に自白剤打ち込む事も出来るし、何よりもここまで着いてきてくれた事で、少しは信じてると思っていいのかな?逆探知、でもいいけどね」
「分かったわよ」
 アスカは軽く肩をすくめた。自分の思考は読まれていたらしい。
「勿論工作員と言っても、色々なタイプがあるわ。まるで機械人形のように言われた事を忠実にこなすタイプや、自分で気を利かせて突撃していくタイプまでね」
「あんたはどうなのよ」
「惣流さんと一緒」
「…あたしと?」
「そ。変な能力とかは持って無くて、ゼロから努力して這い上がってきたのよ――待って」
 何か言いかけたアスカを制し、
「今回任務が決まった時、勿論エヴァンゲリオンの操縦者三名の事は、可能な限り調べたわ。惣流さんのデータを見た時、深い位置に隠されている面白い事が分かったの。エヴァンゲリオン弐号機の天才パイロットが、実はすごい努力家だってことがね。一緒って言ったのはその事よ。尤も、同じなのは努力したという事だけで、その前は違うけどね」
「前って何よ」
「持ってる能力。同じ努力でも、惣流さんのは玉を磨いて宝玉にしたようなものよ」
「あんたのは?」
「うーん…瓦に色を付けて玉に見せてるって感じかな」
「本物と偽物じゃん」
 からからと笑ったアスカだが、口調に嫌味の色は無かった。
「ま、この前あんたが来た時気絶させちゃったしね。あれは悪かったと思ってる。別に何も持ってなかったしさ。でもさ、あんたが今回任務をサボるとして、それがあたしに近づく事とど――!?」
 咄嗟にアスカは後ろに飛び退いた。つつっと間合いを詰めたマナに反応したのだが、それは戦闘態勢のそれではなく、女の本能が危険を告げたのだ。
「逃げられちゃった」
 ふふ、と笑ったマナの指は、妖しく唇に触れている。
「あ、ああ、あんたっ、い、今何しようとしたのよっ!」
「惣流さん」
 マナの表情が変わった。妖しい笑みが消え、全てを見透かすような視線をアスカに向けたのである。
「な、何よ」
「女の子とキス、したことあるでしょ」
「なっ!?」
 言い掛かりだ侮辱だと言おうとしたのだが、口をぱくぱくさせるだけで言葉が出てこない。しかも明らかに単なる怒りとは違う色の赤面になっているときては、説得力は半減する。
「やっぱりね。避け方からして多分そうだと思ったんだ。どうして分かるかって?」
 辛うじて頷いたアスカの顔は、やっと怒りの割合の方が多くなってきた。
「簡単よ。だって私、攻撃する気無かったもん。惣流さんの本能が反応したのよ」
「あ、あたしの本能?」
「そう。同じような状況でやっぱり唇を奪われた経験があるから、フラッシュバックで無意識に思い出して反応したのよ。きっと嫌な思い出だったのね」
 私が癒してあげるから、とマナの表情はそう言っており、近づいてくるマナからアスカは思わず後じさった。
 まるで不倫相手の妻が包丁を手に乗り込んできたような状況だが、違うのは、追いつめる方の表情に笑みがある事だ。それも実に楽しそうである。
 本来なら夫にかます所を、相手の女に向けてしまった妻にその余裕はあるまい。
 一歩二歩と下がっていく。
 だが四歩下がったところでマナの足が止まった。
「冗談よ」
「え?」
「ちょっと悪のりが過ぎたかな。惣流さんが可愛いからつい、ね」
 ぺろっと舌を出したマナに、アスカの怒りが一気に増幅する。
 が、それが爆発する事は遂に無かった。
「友達になってみたいって思ったの。正確に言えば…がんばってる子って好きなのよ。自分の能力にふんぞり返ってるような人は大嫌いだけど」
(う…)
 加持の事はもう諦めた。レイに脅迫されたからでもないが、加持の事を知った上での想いではなかったと気付いたからだ。
 かと言って、シンジを好きになった訳ではない。確かに会って間もない弐号機内で共に絶体絶命の危地を脱したり、キスしたりもしたが、その後徐々に分かってきたのだ――シンジは自分を嫌ってはいないが、根本的に存在の異なる相手なのだと。
 そもそも、アスカが純粋にシンジを想えていたら、今頃こんな所にいないだろう。
 とまれ、直球というものに全く免疫のないアスカにとって、同性からとはいえ投げ込まれた直球は効いた。自分が普通の人間である事に、やり切れない思いを抱いている時というのも大きかったろう。
「いいよ」
 少し硬い表情だったが、それを聞いたマナの表情にぱっと笑みが浮かんだ。
「良かった〜駄目って言われたらどうしようかと思ってたのよ」
「でも、その前に訊きたい事があるのよ」
「何でも訊いて」
「今回任務サボるって言うけど、どうしてそんな事が許されるの」
「そう言う仕事だもん」
「え?」
「惣流の下着を取ってくるとか、そう言う事なら失敗は許されないかも知れないけど、力業で出来る事じゃないし、惣流さんの心の問題でしょ」
 題材が怪しい上に、マナの視線はアスカの胸元に注がれている。勿論制服姿で、ノーブラにしている訳でもない。
「ちょ、ちょっとあんたどうしてあたしの下着なのよ。そ、それにどうしてあたしの胸見てるのよっ」
「例えよ例え。それに心って言ったでしょ。ハートのある場所はそこなんだから」
「なーんか怪しいのよね〜」
「大丈夫よ。ここで押し倒したりしないから」
「あ、あったりまえよっ」
「話戻して、そう言う内容だと成功率って高くないのよ。惣流さんも知ってるでしょ?催眠術とかでも、本人が心底嫌がってる事はさせられないって」
「それ位は知ってるわよ」
「つまり成功率は決して高くない仕事だし、それにほら、仲良くしてる方が仕事してるように見えるでしょ」
「とか言って、本当に仕事する気じゃないでしょ…何よ」
 不意にマナが真顔になった。
 両肩を掴まれて思わず身構えたアスカに、
「惣流さん一つ約束するわ。惣流さんに、エヴァンゲリオンの事を訊く事は絶対にないから。上層部(うえ)が諦めればまた転校すると思うけど、もしかしたら強硬手段に出るかも知れない。でも、私がこの学校にいる間は絶対に手出しはさせないわ――私の身に代えてもよ」
「……」
 シンジならば、余計なお世話だと一笑に付したろう。そもそも、自分には必要ないから他を当たってくれと、受け付けないに違いない。
 ただアスカは、物事の裏を見る事に慣れていない。同い年とはいえ、文字通り誑かす事に長けた少女を相手にするには、アスカは純粋すぎた。不確定要素は微々たる物でも排除する、と言う認識を要求するのは酷というものだろう。
 仕上げは、マナのこの言葉であった。
「そうそう、あたしの事は隠さないから。まだ下っ端だから全部は知らないけど、訊きたい事があったら何でも訊いて。分かる範囲なら教えるから」
「…分かったわよ」
 肩に置かれた手に軽く触れた。
「信用する事にするわ。それに、今のところ疑う要素はないしね。でも…裏切ったりするのは無しだからね」
「勿論よ。じゃ、誓いの証に」
 ぐっと顔が近づいてくる。
「そ、そんな事許すなんて言ってないわよ。は、放しなさいよっー!」
 一頻りジタバタと暴れてから、何とか逃れたアスカだが、マナがふっと力を抜いたのは分かっていた。
「冗談だってばもー。惣流さんってば固いんだから」
「女にキスされかけたら普通は逃げるわよっ」
「でも経験あるんでしょ」
「…あんた今度言ったらエヴァで踏むわよ」
「あーあ、残念」
 思い切り引いているアスカに、悪戯っぽく笑った見せたマナが、ふと時計を見た。
「あれもうこんな時間だ。少し早いけどお昼にする?」
「いいよまだ。そんなにお腹空いていないし、食べにいくほどじゃないから」
 まあまあ、と車に戻ったマナがバスケットを抱えて戻ってきた。
「何それ?」
 訊いたアスカにえへんと胸を張り、
「わたくし霧島マナは、本日朝六時に早起きして惣流さんの為に、お弁当を作ってきました!」
 
 
 
「そこで寝込んでる奴、さっさと起きろ」
 シンジの声に、カエデはうっすらと目を開けた。
「第二東京辺りかしら?」
「下田だ」
「下田?」
 それを聞いた途端すっと起きあがり、
「秘宝館?もう、シンジ様ったら私の事をちゃんと…痛っ」
「暖房の効いた車内で一人留守番してもらっても構わないけど」
 冷たいのね、と頭をさすりながらカエデが出てきた。
「さてと、改めて訊くけど何しに来た」
「デートのお誘いと言ったでしょう。それとその前に」
 カエデがシンジの前に立つ。距離は十五センチ位しかない。
「キスして下さいません?」
 ん〜と、小さく唇を突き出した。
「……」
 
 
   
 
 
(続く)

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