第九十三話
 
 
 
 
 
「ん?」
 カエデの表情は変わらない。元より、自分には関係ない人間だし、芝居の可能性があるとは言え、自分を殺そうと考えた老人である。
 無機質な視線に見守られて威力が倍増した、と言う訳でもあるまい。
 だがカヲルの双眸が危険な色を帯びた直後――キールの右腕は地に落ちた。
 もぎ取られたのである。
(…暴走?)
 たまらず崩れ落ちたキールを見ながら、妖々とカヲルが起きあがった。元々、瞳の色は綾波レイと同じく赤いのだが、鮮血の色を帯びた眼を見るのはカエデも初めてだ。
「渚」
 カエデの手が伸びてカヲルの肩に触れた。
「なんだい?」
 カエデを見た視線は、確かにキールへ向けたそれとは異なっている。
 だが、カエデはシンジではない。
「少し寝ていろ」
 面倒だとばかりに目許に触れると、カヲルはあっさりと倒れ込んだ。この辺りは、まだまだモミジの及ぶところではない。
 吹き出した鮮血で服と地面を朱に染めているキールに近づき、
「飼い犬に…いや、創造物に腕を噛まれたというところですか」
 呪符を当てるとあっさりと血は止まった。無論、医療用の物ではない。
「血は止まりました。代替品なら造れますがどうしますか」
「…ぜだ…」
「え?」
「なぜ…私の手当をする?私は君を殺そうとしたのだぞ」
「あなたでは僕を殺せませんよ――あの方ならそう言われるでしょう。私の答えも同じです。所詮、科学は魔術に勝てない。ミスターキール、あなたに私は殺せない。手当てする義務はありませんが、死なれると渚カヲルが処分される事になる。ここを壊滅させて脱出するには、まだ力不足です」
 カヲルを処分させない為に、手当てしたというのだろうか。
「それに、ゼーレのトップが片手を喪った姿でうろついたりはしないでしょう。後はご自分で出来る事です」
「礼を…言わねばならんのだろうな…済まなかった」
 血の気が引いた表情でキールが口にした言葉は、或いはキール流の礼だったのかもしれない。
 左手で指を鳴らすと、黒服に身を包んだ女が三人入ってきた。
 いずれもサングラスを掛けている。室内を見れば、キールだけが重傷を負っている事は分かる。
 一瞬顔色を変えたもののすぐ平静に戻り、室内を片づけ始めた。キールとの関係は不明だが、かなり信頼が厚い事は間違いない。
 少なくとも、目にした事象を決して口外しないと思われている程度には。
 そうでなければ、この場へなど呼べない筈だ。目的の為には手段を選ばない男でも、機密を知った者全てを抹殺する訳にもいくまい。
 自分の腕を持ったキールが出て行く。
 縫合する気かは分からないが、付かないだろう。カエデが札を貼った場所は既に変形しており、ジグソーパズルのようには合わない筈だ。
(あれなら本当に手が貸せそうね)
 両側から支えられて出て行くキールを見送ったカエデは、内心で物騒なジョークを呟いた。
「さてと」
 ベッドの上に座ったカエデが、顔の上で指を鳴らすとカヲルは目を開けた。
「…君が僕を?」
 もうその瞳に血の色はなく、普段のそれに戻っている。
「放っておいても良かったけれど、死人の山を作るのも面倒だったし。もう戻ったみたいね」
 カエデはさらりと言った。言葉に誇張は感じられない。
「おかげさまでね」
 カヲルはにこりと笑った。透き通るような、と言うより透明すぎて色を喪ったかにも見える笑みであった。
「未だ完全体でない以上、どの程度力の差が出るのか分からない。何より肝心なのは、自分で制御できないことだ。傍迷惑な存在だな」
「だから、君が必要なのさ」
「十年早い」
 カエデは冷ややかに言った。
「お前ごときが私を口説けると思ったか?人の出来損ないに口説き落とされるほど、この土御門カエデは安くないぞ」
 さっさと背を向けて歩き出す。
 カエデの手がドアにかかった時、
「待って」
 背後からの声にカエデの足が止まったが、引き戻された風情では無い。内容次第では二度と戻るまい。
「その…」
 カヲルは脳をフル回転させた。元より、カエデの引き抜きは必須事項であって、女だからとかそんな事ではないのだ。
「インストール…」
「あ?」
「インストールされた性格に問題があったらしい。人間と接することなく済む仕事じゃないからね…悪いけど、修正を手伝ってくれないかな」
「この人間もどきは手間の掛かる」
 カエデが振り向いた時、カヲルは内心で安堵の息を吐いた。
(!?)
 驚愕したのは数秒後の事であった――自分にそんな動作などプログラムされていたのか!?
 
 
 
 
 
 標的が三人おり、さらってくるのはどれでも構わない。おまけに、一人は今も熟睡中の小娘と来ている。
 この状況下で、全身これ刃と化したような女を相手にするなど、危険どころか愚の骨頂であり、シンジであれば決してそんな事はしない。
 即ち、人数を迂回させてアスカを狙うだろう。そう、シンジの膝の上ですやすやと寝息を立てている娘を。
 だがこちらに向かってくる様子はない。
 吸い寄せられているのだ。
 磁石に引き寄せられる砂鉄のように。
 死が美女の形を取っている――今の状況を一言で言い表すなら、それが一番近いだろう。シンジが吸われる前なら、或いは男達にも幾分かの勝機はあったかもしれない。
 だが今の妖姫は、シンジの魔力を吸い取って完全体になっている。無意味に散乱した空薬莢は数知れず、既に十数名が首をもぎ取られ、その骸を晒している。
「実に楽しそうだし」
 小さく口にしたシンジの目には、長い袖をはためかせながら、まったく返り血を浴びていない妖姫の姿が映っている。
 今回は袖のついた純白の中国服だが、レイはそんな格好をしておらず、着替える暇など無かった事は言うまでもない。
 思念だけで作りだした代物だと知ったのは、この間の事だ。文字通り、触れただけで折れそうな手が撫でる度に生首が宙を舞い、或いは根元から引き抜かれて肉塊と化す。
 本来なら、返り血で全身が染まっているはずだが、純白のチャイナドレスには一点の染みもない――吸い込んでいるのだ。
 服が、いや服に見せている肌そのものが、男達の血を吸い込み、更にその姿を妖艶なものへと変えているのだろう。
 不意に白刃が煌めいた。銃撃を諦めて、近接戦闘に切り替えたのだ。サバイバルナイフというより山刀に近いそれが、四方から妖姫を襲う。
 ふむ、と妖姫は頷いた。
「銃を諦めた事は褒めてくれる。地獄の羅刹共に自慢するがよい。わらわに褒められたとな」
 確かに四本が襲った筈だった。
 だが左右のそれぞれ小指一本で押さえられたのは、二本である。
 男達の顔がゆっくりと下を向く。
 彼らが見たのは、山刀を持ったまま地に落ちている自分達の手であった。持ち主同様に落とされた方も理解していないのか、地面に落ちたそれはまだ動いている。
「自らの身体は管理せねばならぬ。よく覚えておくことじゃ」
 ぞくりと来るような妖しい声で囁いた次の瞬間、二本の刀はそれぞれ持ち主の首を刎ねていた。
 この分なら殲滅は時間の問題だし、暇だからアスカの髪でも梳いていようかと、髪に触れかけたシンジの手が止まった。
「…役立たず」
 シンジにしては珍しく毒突いたのは、かまってもらえなかった数名が、幽鬼のようにこちらを向いたのに気付いたからだ。普段とは違い、今のシンジは子持ちである。
 無論銃はあるが、サイレンサーは装備していない。いかに妖姫が眠らせたとはいえ、頭上で発砲してはアスカも目覚めるかも知れないのだ。
「困りましたね」
 全然困っていない口調で呟いたシンジの目が、ある種の光を帯びた。
 シンジの腕がすっと突き出される。
 勿論腕には何も装備していない。
 だが次の瞬間、確かにその影は変わったのだ。確かにそれは、鳥の形をしていた。
「アスカさんが起きても困ります。そこの人達だけ、始末してきて下さい」
 軽く振られたシンジの腕から飛び立ったのは、モミジの霊体から造られた妖鳥だ。
 だが大きさが違う。
 爪の形が違う。
 何よりも――飛翔する影はあるが、その本体が見えていないのだ。影があるから存在は分かるが、実体は目に映らない。
 ただ一人、シンジを除いては。
 そんなものに対抗出来る筈もなく、凶暴さまでもが増したかのような妖鳥の爪に、あるものは目を抉り出され、あるものは頭部に大きな穴を開けられた。
 忽ち、妖姫の手によるものに勝るとも劣らぬ凄惨な死体が出来上がった。シンジの言葉を理解していたようで、こちらへ向かおうとしていた者達を片づけると、そのまま妖鳥は戻ってきた。
「ごくろうさまでした」
 シンジの言葉に、妖鳥は初めて一声啼いた。
「ん…」
 アスカが目を開けた時、その頭はシンジの膝の上にあった。
「あの、ここは…」
「もう夜ですよ。よく寝てたね」
 シンジの言葉に、跳ね起きようとした頭が柔くおさえられた。
「もう終わるから、待ってて」
 アスカは知らないが、耳元で囁いた声はいつもの物に戻っている。
(もう終わる?)
 内心で首を傾げたアスカの視界に映ったのは――人形の腕を引き抜くかのように、重を持った腕をねじ切ったレイの姿であり、その手が頭に触れると熟れすぎたスイカのように頭部が弾けた。
「な!?」
 愕然と目を見開いた次の瞬間、アスカは飛び起きていた。既に夜になってはいたが、電光があるから光景は認識できる。
 凄まじい血の海と散らばった死体を、脳が認識できなかったのだ。強烈な嘔吐感に抗う術もなく、何とか隅へ這っていったアスカは胃の中の物をすべて吐き出していた。
 ある意味で、アスカは普通の娘であり、こんな光景など一度も見た事はない。実母が首を吊るという、なかなか出来ない体験はしたが、それにしたって従で頭を打ち抜いて脳漿が飛び散ったりしてはいなかったのだ。
 物はもうない筈なのに、吐き気は止まらない。
「い、一体何なのよあれは…」
 涙を流しながら胃液だけを吐き続けるアスカの背が軽くさすられた。
 シンジだ。
「レイの劣等感(コンプレックス)、というところかな」
「どういう…事なの」
 シンジにティッシュで口元を拭われても、アスカの顔色は変わらなかった。普段なら真っ赤になっている所だ。
「一度会ったと思うけど、あれはレイちゃんじゃない。生命自体が異なる異人格さ。かつて数多の国を滅ぼしてきた究極の女だ」
「で、でも…」
「なに?」
「この間見た時と姿が違うよ。あの時はレイと大して変わらなかったもん」
「ここ」
 そう言ってシンジが指したのは、自分の喉元であった。
「喉?」
「ちょっと吸われてね」
 言われて初めて、シンジの顔色が何となく悪いのに気が付いた。青ざめると言う程ではないが、血の気が幾分引いているように見える。
 と言っても、とアスカは内心で呟いた。
 
 
 今のあたし程じゃないだろうけどね。
 吐く物がなくなっても吐き気が止まらないなんて、生まれて初めてよ。
 
 
 深呼吸してから、
「で…何がレイのコンプレックスなの?」
「ATフィールドを具現化して使えるのは、誰でも出来る事じゃない。もしかしたら、地上では綾波レイ一人かもしれない。でも、レイちゃんにあんな強さはない」
「だ、だけどあたしはあんなの使えないのよ。それって贅沢じゃない」
「君もね」
「…は?」
「浪人というのは、大学に入れず藻掻いてる人の事を指す。三浪、四浪してる人から見れば、君の才能なんてそれこそ怨嗟の対象さ」
(塩素?)
 怨嗟という単語は、アスカの日本語帳にはないが、聞き返すのもちょっとしゃくなのでそのまま聞き流した。
 が、
「怨嗟って知ってる?」
 向こうからやってきた。
「し、知ってるわよ。元素記号が17…」
 言いかけた唇がそっとおさえられた。
「それは塩素だ。僕が言ったのは怨嗟。前から言おうと思ってたんですが、アスカさんの日本語は色々と間違ってます」
「し、しようがないじゃん日本語詳しくないんだから。ちゃんと教えてよね」
「うん」
 シンジが頷いた時、
「またお兄ちゃんを占領してる」
 拗ねたような、ちょっと尖った声がした。
「う、うるさいわねいいじゃな…」
 言いかけたアスカの口がぽかんと開いた。
「レ…レイ?」
 レイの姿は来る前に着替えた私服であった。
 だが、さっき見た時は中国服ではなかったか!?
「…何」
 格好が違う、と言いかけたのだが止めた。どう考えても学力などより、自分の身を守れるかどうかの方が重要だと思ったが、今まで当然と思っていた常識の崩壊は既に経験しており、姿が変わった事もレイにとっては気にしているかもしれないと思ったのだ。
 来た頃に比べれば、格段の進歩といえる。
「何でもない。別に占領はしてないわ。ほら、あんたも来なさいよ」
 アスカが手招きした時、
「こら」
 地主からクレームが付いた。
「勝手に土地のやりとりをしないでもらおう。僕の土地だぞ」
「いいじゃんそれ位。それにあたし…まだ気分悪いんだからね」
 確かに、アスカは顔を背けているがその背後には凄惨な光景が広がっており、平然としているのはシンジとレイだけだ。しかも軽口を叩いてはいるが、よく見ればアスカの顔色はまだ戻っていない。
 レイといた時間の方が長かった為、自分とレイを基準にして考えてしまったらしい。
 アスカは――普通の少女なのだ。
「分かった。場所変えよう」
 すっと立ち上がったが、アスカは立たない。立たないのではなく、立てないらしいとシンジは気付いたが、レイに任せる事にした。
「ちょっと掃除屋さんに電話してくる」
 視線を向けられたレイが、目で頷いた。
「アスカ、行こう」
 差し伸べた手が一瞬固まる。確かに――アスカは歯を噛み鳴らしたのだ。口の中にあった何かを噛んだのとは明らかに違う。
 ただそれが、自分自身に対する物なのか、或いはシンジやレイに対するものなのかは分からなかった。
 俯いていた顔が上がった時、もういつもの物に戻っていたのだから。
(アスカ…)
 この時レイが感じた針の先ほどの違和感――微々たるものながらはっきりと感じたそれは、やがて現実の物となるのだが、無論レイがそれを知る由はなかった。
 レイに任せたシンジは、少し離れた場所で携帯を取りだした。
「長良です」
 電話は一度で出た。
「掃除頼める?移植用の材料には向かないんだ」
「了解しました。御前様からお聞きしております。今どこにおられますか?」
 ヤマトが長良に、シンジへの協力を要請した一番の原因はミサトにある。話には聞いていたが、直接目にして決定したのだ。
 総合的に判断して、シンジが信頼するに足る者ではないと見たのである。
 ただ、アオイの考えは少し違う。確かにネルフは超法規組織であり、仕組みは軍隊のそれに似ているが、明らかに軍隊ではない。
 あくまでも軍隊もどきであり、そもそも規律に於いて軍隊のそれを模すなら、シンジはとっくに営倉に放り込まれた上、除隊処分になっているだろう。
 だがなっていない。そうならないのがネルフであり、また出来ないのが現状なのだ。アスカとレイを足しても、戦力としてはシンジの足下にも及ばないのは事実だし、二人に最も戦果を挙げさせられるのは、今のところシンジである。
 確かにミサトはルーズな所があるが、独身で子供の手本になる必要もないとあれば、多かれ少なかれ独身女性にはある話だ。
 ただアオイやユリがそう言うタイプではなく、そしてシンジの一番近くにいたのがアオイだった為、シンジが生理的に受け付けないのだ。
 ヤマトも同様であり、その意味ではミサトにとっていい迷惑だったとも言える。
 尤も、中学生の少年を同居させていい相手かと言えば、アオイといえども首は振るのだが。
 とまれ、ヤマトが長良というカードを切る気になったのは、ミサトのせいでシンジに累が及んではならぬという考えであり、死体処理もその中には含まれていよう。その位の事は、一々言われずともシンジには伝わっている。
 長良に場所を伝えてから、シンジは電話を切った。
 屍の山に目を向けると、改めて凄まじい光景が目に飛び込んでくる。猟奇殺人の愛好家達なら、見た瞬間達しそうな光景であり、そもそもまともな死体が一つもないのだ。
 機関銃を至近距離からぶっ放されでもすれば、或いはこんな死体が出来上がるのかもしれない。
 そして普通の死体と一番異なる点は――どの顔にも恍惚(エクスタシー)の色が浮かんでいる事であった。
 妖姫に男根を弄ばれた形跡はないが、何れも快感の中で四肢を千切られ、死んでいったのだろう。
 死人の山が出来た事には、何の感慨もない。ただ、彼らは兵士ではないのだ。
 先だって、デパートで水着を買っている最中に襲撃された。あの時は殺す気満々だったが、レイの手によって全滅させられている。今死体となっている者達の中には、知り合いや友人がいたかも知れない。
 最初は捕らえようとしていたから、復讐に燃えてやってきた訳ではなさそうだが、少なくとも対象には碇シンジが含まれている。所詮兵士は駒であるとはいえ、少々駒の無駄遣いが過ぎる。
 先回はレイが、今回は妖姫が処分した。
 だが最後に待つのは黒衣の死天使――時に嬉々として殺戮に勤しむ少年なのだ。付けられた異名は、黒服を着て銃を撃ちまくる事で付けられたものではない。殺人という事に対し、憎悪して止まぬ者が暗殺業など出来はしないのだ。
 妖姫と妙に合うのも、或いはその辺にも理由があるのだろう。殺しに来ようが捕らえに来ようが殲滅するだけの話だが、目的がエヴァにあると分かっているだけに、シンジには理解しがたいのだ。
 シンジから見れば、使徒さえ来なければエヴァなど無用の長物だし、そんな物騒な玩具を持って何が楽しいのかさっぱり理解出来ない。核兵器とは違い、お互いが持てば相互牽制で一応落ち着く代物ではないのだ。
 そんな物の為に、既に百名近くが骸と化している。
「これが本当の駒使いだな」
 言ってから首をすくめた。
 自分でも、今ひとつだったらしい。
 シンジが戻ってきた時も、アスカに表情の変化は見られなかった。早く行こ、と珍しく自分からシンジに腕を絡めてきた位である。
 ちらりとレイを見るとアスカを眺めている。
 シンジの視線に気付くと軽く頷いた。思考は不明だが、張り合う気は無いらしい。
「ところでアスカさん」
「何?」
「やっぱり食事したら帰りますよ。もう夜になっちゃったし」
「えー!?」
 不満げに口を尖らせたアスカが、絡めている腕に普段より力を入れている事にレイは気が付いた。
 腕を組んでいると言うよりも、
(しがみついているのね…)
 レイは内心で呟いた。
 正解だったろう。
「だってさっき場所変えて膝枕してくれるって言ったじゃない。女との約束を破る男ってもてないわよ」
 需要無いし、とシンジが言いかけた時、
「お兄ちゃん」
 レイが後ろから呼んだ。
「なに?」
「今日はその…泊まって行かない?」
「…はん?」
「お、お金は私が出すから…痛っ」
 雷が落ちてきた。
 小型である。
「そこまで困窮した記憶はないんだけど」
「ご、ご免なさいそう言う意味じゃなくてアスカが…」
「あたし?あたしがどうしたの」
「そ、その…」
 ストレートに言えば精神状態が不安定みたいだから、となるのだが間違っても言える事ではない――少なくともこの場では。
「こ、このまま帰ったらアスカの機嫌が悪くなりそうだから、と思って…」
 ちょっと苦しかったかな、と思ったが、それを聞いたアスカがにこっと笑った。
「ほら、レイもああ言ってるし泊まりにしよ。いいでしょ?」
「分かった」
 少し経ってからシンジは頷いた。
「気乗りしないけど…撒くには良いかも知れない。ちょっと待ってて」
 捕獲に来た連中は全滅させた。これ以上第二波が来るとは考えづらいが、万一という事もある。自宅に戻った所を狙われでもしたら面倒だ。
 車に戻り、本を見ながらあれこれと宿定めをしている間、アスカはちらちらとシンジを見ており、レイの視線はアスカに向けられていた。
(気のせい…かな)
 普段よりも二倍位の濃度でシンジにくっついている以外は、特に変わったところもない。二倍の濃度の理由がはっきりしないだけに、レイも少々気にはなったが、敵視や異端視されるよりいいかと、シンジを独占させておいたのだ。
 最初から泊まりを想定していた訳ではないし、シンジにとってはあくまでついでに過ぎない。素泊まり以外ならどこでもいいと、本屋で買った旅行本を渡して宿選びは二人に任せた。
 十五分後、二人が揃って指したのはラブホテルであり、瞬時に撃退された二人が三十分掛かって選んだのは、和風の宿であった。
 ホテルの使い方は知らなかったようだ。
 向かう道中、
「あ、そうだ言い忘れたけど」
「ん?」
「歯磨き付きだからね」
「はん?」
 奇妙な事を言い出したアスカに、シンジは畑の真ん中に寝ていて軍隊アリに襲われた酔っぱらいでも見るような視線を向けた。
「ドイツはどうか知らないけど、日本の歯科衛生観念は発達してるんだ。歯を磨く道具のない旅館なんて、素泊まり専門の所くらいのもんだけど」
「そ、そうじゃなくてさ…」
 無論、うっすら赤くなったアスカの顔を見るまでもなく、レイには分かっている。それでも助け船を出さなかったのは、シンジがどういう反応をするか見たかったからだ。
 これが自分だったら、六割近い確率で簀巻きにされているだろう。
「ま、前してくれたでしょ」
「……」
 シンジの表情を見る限り、呆れている訳ではなく、単に忘れているのだ。
「磨いてくれたじゃないよっ」
 とうとう大きな声を出したアスカに、やっとシンジはぽむっと手を打った。
「そう言えばそんな事も。で、それを?」
 アスカがこくこくと頷く。
「なんだ、それならそうと最初から…ひて」
 レイには、プチッと言う音がアスカの中から聞こえたような気がした。
 気のせいだったかも知れない。
 とまれ、アスカがシンジの頬を左右に引っ張るのを見たのは初めてであり、おそらくこれが最後だろう。
 うっすらと笑ったレイが、
(やっぱりお兄ちゃんアスカには甘いんだから)
 妲姫に直訴して何とかして貰おうと決意していた事など、無論二人は知らない。
 園を出る時、シンジは軽く片手を上げた。
 アスカもレイも気付かなかったが、その背後では死体の処理に取りかかっていた長良が、敬礼して見送っていたのだった。
(シンジさん、お気を付けて)
 
 
 
 浴衣に身を包んだ二人が、揃って歯を磨いてもらい、シンジの左右で満足して眠りに就いた頃、ベランダに出たシンジはモミジに電話を掛けていた。
「お変わりはございませんか?」
「大丈夫」
 モミジの口調からは、心配していた様子が伝わってきた。
 無論責めるような娘ではないが、この時間になるまで一度も連絡していないのだ。
「それで、お二人は?」
「僕の隣で眠ってる。少し呑んだから朝まで起きないと思う」
 モミジにはこれで通じる。二人を腕枕したシンジが、重たい腕を動かして電話しているなどとは思わない筈だ。
「多少は想定していたけれど、捕獲部隊が襲ってきた」
「……」
 はい、と返ってくるまでに十秒ほどかかった。
「僕の出番は無かったんだけど、普通の子にはショックの上塗りだったみたいでね…アスカが寝ながら泣いてた」
「アスカが…」
「うん。ママあたしなにもできないよって、泣きながら言ってた。眠ってるのは確認したから間違いない。素振りには見せてなかったけど、結構重症だ」
 各人の能力はそれぞれだし、何を重視するかも又千差万別なのだが、こればかりは何とか出来るものではない。
 アスカ自身が納得するしかないのだ。
 例えそれが、どういう方向の物であっても。
 考えられるのは弐号機に乗せる事位だが、弐号機の中の人――キョウコが受け止められる可能性は低い。今のアスカに必要なのは、おそらく力を何も持たぬ者であり、アオイを始めシンジやレイではどうしても視点が異なってくる。
 使えるのはサツキ位だが、立場としてはシンジ達に一番近い。アスカがストレートに見られるかどうか。
「今日は客もないだろうし、明日の朝一番で戻るよ。アオイちゃんいる?」
「先ほどから御前様とお電話中です。こちらからお電話を――」
「いや、いい。モミジの居場所が気になったから」
「大丈夫ですわ」
 モミジはくすっと笑った。
「シンジ様がおられないと、一人で寝るのは寂しいですから」
 シンジが家にいても、アオイと寝るべきだと主張して、別のベッドで寝ていたのはモミジである。
「多分そうだと思った。おやすみ」
「おやすみなさい」
 電話を切ったシンジは庭へ出た。いつの間にか、月が隠れてその姿を消している。
 夜空を見上げたシンジは、しばらく動かなかった。
「力無き正義など悪――それは俺が刀を佩いていた時までの話だ。そうは思わぬか?」
 呟いたその身からは漂う気は、普段のシンジには決してないものだ。
 自らを俺と呼ぶシンジは、虚空に向かって呟いたのか?
 違う。
「さあ、ね」
 甘い声と共に、にゅうと伸びた腕がその首に巻き付いたのだ。妲姫だが、捕獲者を相手に殺戮を繰り広げた時とは違い、一介の女に戻っている。
「弱き者が力に憧れるのは何時の世も同じ事。ましてあんな物に乗る事でしか自尊心を保てなかった小娘には、強烈な劣等感。所詮無駄な事よ、大将軍」
「人類を守る為、と称してはいるが、人間も又使徒の同類に過ぎん。詰まるところは生存競争だ。異種の力など、今しか役には立たぬ。余計な力が身を滅ぼすのは、歴史が常に証明している」
 人類が使徒の同類であるとの結論は、まだ出ていないはずだ。リツコからもそんな話は聞かされていない。
「それが分からないから小娘なのよ。放っておけば、あやつらの目論見通り誑かされるわね。私が防いであげてもいいけれど?」
 姿形は変わらず、ただ中身が違う。その相手に対して、接し方が文字通り百八十度違う妲姫だが、作っている風情はない。
 女の持つ本能から来るものなのだろうか。
「余計な事だ。大人しく寝ているかと思えば、そんな事を言いに出てきたのか」
「いつもながらつれないのね。でも――そんな所が好きよ」
 こんな物言いをレイが聞いたら仰天するかも知れない。
「迷惑な話だ」
 突き放すような言い方だが、その後しばらく影は動かなかった。
 
 
 
 翌日、朝一番でシンジ達は帰ってきた。二人を降ろし、また迎えに来るからと着替えに戻る。
 二人とも睡眠時間は足りているから、すぐに着替えて出てきた。
 いつもより少し早い。
 間もなく聞こえてきた車の音に、二人の顔がそちらを見たが、滑り込んできた車はシンジの物ではなかった。
 赤い軽自動車で、中にはぬいぐるみがいくつか積んである。
「アスカさん、迎えに来たわ。一緒に行きましょ」
 顔を出した少女がにこっと笑う。
 運転していたのは、霧島マナであった。
 
 
 
 
 
(続く)

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