第九十五話
 
 
 
 
 
 ん、と唇を突き出しているカエデを、シンジは眺めていた。
 討ち取るのは容易い。銃を抜くまでもなく、ナイフ一本で事足りる。
 わざわざ呪符を使うまでもない。
 だが、いきなり姿を見せた上、あまつさえキスしろなどと言い出す理由が分かっているだけに、シンジもやりにくいのだ。
 カエデがその気になっていれば、今頃はアスカもレイも屍と化していただろう。或いは、カエデの気分次第でゾンビと化していた可能性すらある。
「シンジ様はやくぅ」
 目を閉じたまま急かしてくるカエデに、シンジが仕方なく唇を重ねたその瞬間、いきなり頭がおさえられた。
(!?)
 逃げようにも体勢が不安定な上に、予想外の力で固定されて身動きできない。無論、この後どうなるかは分かり切っている。
 柔らかい舌が入り込んできた時、シンジはあっさり侵入を許した。この体勢で歯を噛み締めて拒んだ場合、城門から破壊される可能性があるからだ――すなわち、唇を噛まれる恐れがある。
 一方的にシンジの舌の感触を愉しんでから、カエデはゆっくりと顔を離した。唾液に彩られた口元を妖しい手つきで拭ってから、
「邪魔はしないで下さったのね。嬉しいわ」
 婉然と微笑んだ。モードを変えれば、不適格者として弾く事も出来たのだ。
「これで借りは返したぞ」
「小娘二人の命を?本人達に言いつけちゃおうかしら」
 確かに、アスカとレイ二人分にしては少々安いかも知れない。
「僕の唇が奪われた方が遙かに大問題だぞ。どっちが高いと思ってるんだ」
「自分の命より高いのは、相変わらずアオイさんだけ?一途なのねえ」
「それ以上言うと、モミジの使い魔にして使役させるぞ。それよりカエデ、お前今どこにいる?」
「別に、シンジ様の情報を私が知っても利用はしないわ。それ位分かってるでしょ?それとも、狙われる心当たりでもあるの?」
「掃いて捨てる位あるんで、一軒一軒聞き込みしなきゃならない位だよ。ま、どこで何の悪さを企んでるかは知らないが、余分に元気なのは間違いなさそうだね」
「ふーん」
 シンジの顔をじっと見たカエデが、
「やっぱり帰る。話してあげる程の価値もなさそうだし。じゃあね、シンジ様」
 さっさと歩き出したその身体が止まった。
 肩を掴まれたのだ。ひょいと抱き上げてそのまま歩き出す。防波堤に腰を下ろしたシンジは、膝の上にカエデを載せた。
「折角来たんだし、そんな早く帰る事ないでしょ?」
 耳元で吐息と共に囁き、
「それで?」
 と訊いた。要領がいいのか節操がないのかは、微妙なところだろう。
「……」
 呆れたようにシンジの顔を見たカエデだが、
「シンジ様、妙に世渡りが上手くなったのね。女の子に囲まれて成長した?」
「うるさい」
「まあいいわ、教えてあげる。ただし、ちゃんとお礼はしてもらうからね」
「はいはい」
 シンジの変貌乃至は成長はともかく、自分の今いる場所に不満は無いようで、シンジが手を離してもさっさと降りようとはしなかった。
 
 
 
 
 
「惣流さんどう?」
「美味しいわよ」
 アスカはあっさりと褒めたが、
「何か曖昧に聞こえるんだけど気のせい?」
「気のせいじゃない」
 マナの問いにすぐ頷いたのも、アスカらしい。
「日本語的に言うとどんな感じ?」
「日本語?あんたってちょっとやな奴?」
 とは言いながらも、真面目に首を傾げた結果、
「一生懸命がんがった所は美味しいとおもう…って感じ?」
「だけど?」
「普段食べてる料理の方が美味しいわね」
「エースパイロットさんは家事もお得意ってわけね」
「そーゆー事」
 アスカは屈託無く笑った。マナもくすっと笑ったが、目の奥はまったく笑っていなかった。マナの調査が間違っていなければ、アスカはエヴァに乗る事に自分のすべてを賭けており、そんなアスカが自分より遙かに成績の良いシンジをこんな風に認められる訳はないのだ。
(洗脳は順調に行っているみたいね)
 マナは内心で冷ややかに呟いた。
 無論レイの時とは違い、アスカに洗脳は一切されていない。シンジに順応できているのは、あくまでもアスカ自身の資質の問題であり、サツキやレイの存在があるからだ。
 問答無用の能力差とエヴァを否定する少年、この組み合わせはアスカに取っては諸刃の剣であり、シンジに容量が、つまりアオイと会っていなければマナの望み通り、敵に回っていただろう。シンジとて、最初から恵まれた境遇になどはいなかったのだ。
 とまれアスカの洗脳は進んでいて隙がない――ようにマナには見えるが、それならそれで入れ替えるまでの話だ。自分の仕事は力尽くでアスカを連れて行くとか、そんな事にはないのだから。
 セールストークの基本でもあるが、客が今持っている物を批判したり、貶したりするのはタブーである。逆効果どころか、却って客をそちら側に固定しかねない。マナもそんな事は分かっているから、ここでシンジを批判する気はなかった。
「惣流さんは、料理とか習ったりしないの?」
「しないよ」
 ごくん、と卵のサンドイッチを飲み込んでアスカが首を振った。
「プロとかそういう感じじゃないんだけど、どれだけ練習してもあたしの方が上手くなるって気はしないのよ。だったら練習するより作ってもらった方がいいし、あたしはチョコレートだけうまく作れればそれでいいのよ」
「自分のおやつは自分で作るんだ?」
「…何言ってんのよあんた。もしかしてバレンタインとかずっと縁無しで来たの?」
「あ、ああそういう事ね。そ、そんな訳ないじゃない。ちゃんと前日までにはお店で買ってきて…あれ?」
「つまんない女」
「ごめんね、ちょっと世事には疎くてね」
(お世辞かな?)
 気にはなったが聞き返さなかった。シンジが相手だったら、すぐにばれて向こうから突っ込まれているところだ。
「ねえ、惣流さん」
「んー?」
「今度さ、私にも作り方教えてくれない?」
「やっぱりあんた、そういうのに縁が無かったわけね」
「まあね」
 マナは曖昧に笑った。菓子作りなど得意中の得意だが、アスカに教えるのとアスカに教わるのと、どちらがいいかなど考えるまでもない。
「あたしも別に上手くないんだけどね。あんたに教えるほど…!?」
 言いかけたアスカが不意に笑った。軍議の席で最上級の策を思いついた軍師、とそんな感じの笑みであった。
(?)
 突然の変貌にその意図を計りかねたマナだったが、少し冷静に考えれば分かったはずだ。マナに教えるほど得意ではない、と言う事は教えられるようになるだけの技術を会得する、と言う事であり、その対象にはシンジしか居ないのだという事を。
「いいわ、教えてあげる。せっかくその気になったんだしね。がんがって覚えるのよ」
「え?あ、ありがと…」
 礼は言ったものの、どこか釈然としない。どうして急に態度が変わったのか。
「あ、あのアスカさん」
「何?」
「あ、あのその…」
 どうして気が変わったのか、と訊こうとして、
「その…がんがるってどこかの方言なの?」
「え?」
 出てきたのは、まったく関係のない台詞であった。
「へ?」
 アスカの口が小さく開き、
「ほ、方言?……ってナニ?」
「標準じゃなくて、地方特有の言葉遣いよ。ふつうは頑張るって言うでしょ?あれ…アスカさん?」
 アスカの顔色が、青と赤の間を数度行き来し――最終的に赤で落ち着いた。
「なんで…何で誰も教えてくれないのよー!!」
 顔を真っ赤にして叫ぶアスカを、呆気にとられて見ていたマナだったが、やがてその口元に笑みが浮かんだ。
 これもまた、何やら考えついたらしかった。
 それに――惣流さんからアスカさんへ呼称を変えてみたのは、とりあえず成功したのだ。
 全てはこれからである。
 
 
 
「キール・ロレンツ?それが悪の親玉?」
「そ。この奇怪な老人さえいなくなれば、とりあえず密かに人類滅亡へ舵を取る事は無くなるわね。もっとも、残党が何をしでかすかは分からないけれど」
 そう言って、カエデはふっと笑った。
 ゼーレが何を企もうが、あまり関心はないと見える。 
「カクテルの飲み過ぎだな」
「カクテル?」
「カクテル」
 ちょっと首を傾げてから、
「…シンジ様、つまらない男になってませんか?」
「ほっといてくれ」
 白ワインをベースにしてカシスを放り込む、言わずと知れたキール・ロワイアルの事だが、ネタとしては不発だったらしい。
 殆ど話は聞いていないのだけれど、と前置きしていながら、カエデの話は詳細を究めていた。まるでキールに自白剤でも飲ませたかのようだが、そんな事はしていないと分かっている。
 符術にかけては、シンジは無論モミジよりも遙かに上なのだ。
「白人こそ世界を統べるべき、とか考えてる連中が、どうして自分達の駒とはいえかなり重要な駒のトップに日本人を据えたのか。それともう一つ気になるのは、内ゲバだ」
「内ゲバ?」
「そのキール老人とその取り巻きが、現時点でネルフの総司令に疑念を持ち始めているのなら、多分その勘は当たっているのだろう。つまり、人類合体計画も一つではないという事になる。その歪みが頂点に達した時にどうなるのやら…無人島で潰し合いでもしてくれないかな」
「その前に始末すれば済む話ではなくて?」
「やだ、面倒だ」
 シンジは海を見ながら呟いた。
「僕は正義の味方じゃないんだ。手のかかる妹と正体不明の物体を始末するだけで精一杯だ」
「……」
 正直に言えば、よく分からないという事もある。
 確かにセカンドインパクトが起きて、人類は大損害を被った。ただそれは、あくまでも災害の域を出ておらず、それが人類を滅亡に追い込んだとしても、その先にあるのは死という現象である。
 死者の魂が、彷徨うか安らかに眠るかの違いはあるが、それが融合するなどという事は有り得ない。生きた人間同士のそれならいざ知らず、欠けた所のある人類を補う為に一つにするなど、妄信・狂気の沙汰の域を出ていないと思うのが普通だろう。
「でもおそらく何らかの根拠は持っている――」
「分かってる。だから傍迷惑なんだ」
 いい年した誇大妄想狂の集まり、なら笑い話で済むのだが、万が一と言う事もある。だから、ゲンドウが企むそれを潰えさせる事にしたのだ。
 未だ、その全容が分からぬままに。
「使徒の襲来は予測されていた。だから人型兵器を作った。人類を守る物として、そして最終計画の要として」
「…もう一度」
「兵器は常に進化を続ける物でしょう。多分、いずれは補給無しで長時間の駆動も可能になる。そんな物を各国が持てばどうなるか。いえ、持てるのはおそらく一握りの国だけ。平和利用する能力など持っていないし、その先にあるのは間抜けな国同士の覇権争い。その結果世界戦争が起きて人類が滅亡するのを望むのでなければ、計画の鍵にでも使って、妄想を仕上げようとするでしょうね。使徒を始末してから平和利用する、とは思っておられなかったでしょう?」
「……」
 そんな事は思っていなかったが、 
「人は常に不完全な存在だから上を目指す。そして進歩する事に楽しみを見いだす。勝手に補われて完全にでもなった日には、待っているのは飽和と衰退さ。人は完全である事に慣れていない。ましてそんな――無理に与えられた完全さなどは、持て余すだけなのは目に見えてる。だいたい、完全な存在になってその後どうする気だ?」
「人が叶わぬ事を夢に見るのも、そしてそれを叶えた後に空虚に包まれるのも歴史が証明するところ。例えそれが現実であったとしても、その後の事など考えても居ないでしょう。考えるには未知の要素が多すぎる。割り切れる物ではないわ」
 基本的に、人の欲求は際限がない。そして一番の問題は、望みが全て叶った時点で飽きが来る事だ。事実、望むままの栄華を手に入れたソロモン王でさえ、人生に満足したという話はとんと聞かない。
「完全になる、ではなくて進化の結果退廃するサイクルから逃れるだけ、だとしたら?食べて寝て子孫を作るだけで一生を終える未開の蛮族が、文明を知る事が幸福とは限らないでしょう」
「……」
「進化の道のりを閉ざし、現状に満足するだけの思考を人類全てが持てば、それはそれで幸せかも――シンジ様、少し惹かれてない?」
 シンジはゆっくりと首を振った。
「確かに、それも一つのあるべき姿かも知れない。でも、人類がおかしな好奇心と探求心を持っていなかったら、怪しげなシャーマンのご宣託で人が殺され、風雷に恐れ戦いて若い娘を生け贄にする時代から未だに抜け出せないでいるさ。僕はこれで良かったと思っている」
「ふうん」
「それに、進化の行き着く先がスライムでは、万物の霊長のプライドが傷つくというもの。僕はお断りで…なに?」
 カエデが、シンジの横顔をじっと見つめていた。
「ふふ、変わっていないのねシンジ様は。本当は心が弱いくせに意地っ張りで、他人の事なんて構う余裕は無いくせに人もどきに入れあげちゃって」
 さっと膝の上から退去したのは、無論シンジの攻撃を想定した動作だろうが、シンジは動かなかった。
 穏やかな海面を眺めながら、
「これだから――以前を知ってる知り合いは嫌なんだ」
 独り言みたいに呟いたのみであった。
「……」
 カエデの顔に僅かな悔恨の色が浮かび、
「ごめんなさいちょっと言い過ぎ…!?」
 そっとすり寄ったその喉元へ、ナイフが冷たく突きつけられていた。
「人もどき、と二度と呼ぶな」
 刹那カエデの双眸が閉じられ、それが開いた時、シンジの側から人の気配は消えていた。
「自分の事よりあんな人もどきを気に掛けるとは、やはりまだ甘い証拠。必ず我が物としてくれる」
 声は後ろから聞こえた。
 シンジは動かなかった。符術ならば、カエデに遠く及ばない事は分かっている。それに、ここはシンジにとっても地の利がある場所ではないのだ。
「……」
 暫く銀の刃を見つめていたが、やがてシンジは仰向けに横たわって空を見上げた。雲に遮られることなくご機嫌の太陽が、その陽光を気前よく浴びせてくる。
「僕はATフィールドを使えないけれど…人間と人間もどきの差はどこにある」
 普通の人間は超能力を使えない、というが使える人間が全て人外という事はない。或いは、いずれ超能力を使えない方が珍しい時代が来るかも知れない。
 ATフィールドもそうだ。人が誰しも持つ、とレイは言ったが具現化出来るのは、多分レイ位だろう。が、人が誰しも持つ物なら具現化出来る者が増えてもおかしくない。
 つまり、それが何ら珍しくない能力になる時が来るかも知れないのだ。そうなった場合、人間と人間もどきの立場は逆転するかも知れない。と、そこまで考えてシンジは、人間という生き物の定義がひどく不安定である事に気付いた。
「…僕は何をもって人間もどきではない、と?」
 目を閉じて呟いた声は、何とも言えない響きを帯びていた。周りをレイに囲まれ、ATフィールドで押し潰されそうになっている自分の姿でも、想像したのかも知れない。
 
 
 
 結局シンジが戻ったのは、もう授業が終わる頃であった。校門の前に車を停めるやいなや、校舎からレイが飛ぶように出てきた。携帯に掛かってきた形跡はないから、授業が終わるまでの辛抱だと、何とか堪えていたのだろう。
「お、お兄ちゃんっ」
 乗り込んだレイは、開口一番急き込むように呼ぶと身を乗り出してきた。
「なに?」
「そっ、その…だ、大丈夫?」
「僕は大丈夫だよ、心配要らないから。ところでアスカは帰ってきた?」
「いいえ、まだ帰ってないわ」
「そう」
 シンジよりもアスカの方が問題だと思うが、レイにとっての優先順位はそうなのだろう。それに、どこからもまだ連絡は入っていない。とは言え、明らかにスパイと分かっている相手に一日中連れ回されているのは、少々気になるところだ。
「一応探すかな」
 携帯に手を伸ばした時、携帯が鳴った。
「あたしだけど、今家に着いたから。マナに送ってもらったのよ」
 分かった、と切ってから、
「無事らしいね」
 と、小さく肩をすくめた。
「本当に大丈夫?」
「え?」
「お兄ちゃんが声を聞いて、おかしいとか無かった?」
「無いよ。操られている感じもなかったし、至極元気そうだった」
「じゃ、じゃあ…」
「?」
「少し位、私の帰るのが遅くなっても大丈夫でしょ。その、行きたいところがあるの」
 余程アスカを気に掛けているのだと思ったら、微妙に違ったらしい。
「いいよ、送っていってあげる。どこかで買い物を?」
 違うの、とレイは首を振った。
「あのね…」
 後部座席からシンジの耳元に口を寄せ、
「お兄ちゃんと喫茶店でパフェが食べたい」
「……」
 数秒考えてから、シンジは頷いた。おそらく、半日位はその光景を思い描いていたに違いない。アスカもシンジも何処かに消えてしまい、それでも電話を掛ける事もなくずっと我慢していたのだ。
 それ位は付き合っても罰は当たるまい。
「いいよ。じゃ、行こうか」
「うんっ」
 喫茶店でご機嫌なレイの顔を眺めながら、シンジはカエデの言葉を思い出していた。
 既に予測されていた使徒の襲来と、事前に用意されていた人型兵器エヴァ――現存兵器で対抗できない使徒を倒す為の兵器だが、その素材はどこから来たのか?
 人の心を融合させる、等という傍迷惑でおぞましい発想が、未知の物質を手に入れた所に端を発しているとなれば、少々厄介かも知れない。現に、使徒という人智を凌駕した生き物が攻め込んできているのだ。
「常識の再構築が必要かな」
 呟きが聞こえたのか、一心に取り組んでいたパフェからレイが顔を上げた。
「何か言った?」
「ついてる」
「え?」
「頬にクリームが付いてる、と言ったんだ」
 シンジの指がレイの顔に伸び、頬についたクリームをすくい取る。そのまま口に入れたのを見て、レイがぽうっと赤くなった。
「お、お兄ちゃん…」
 照れ隠しみたいにぱくぱくとアイスを口に入れる少女を、電線の上からじっと見ていた鴉が三羽、一際大きな声で啼いて飛び立った。
 
 
 
「お菓子の作り方を?」
「うん、どうしてもって言うから」
「そう…」
 レイを送ってきたシンジが見たのは、服にあちこち染みを作ったアスカであり、しかもそれが赤く見えたからシンジさえも一瞬顔色を変えたのだが、苺とチョコレートよとアスカはころころと笑った。
 聞けば、マナの家でさっそくお菓子を作ってきたのだという。
「結構いいやつだったわよ。お母さんも優しかったし」
「……」
 どう突っ込んで良いのかと、迷っているシンジにアスカが気付いた。
「…ねえ、あたしがんがったんだけど」
「あ、うん…痛!?」
 いきなり頬が両側に引っ張られる。避ける間もない。
「がんがるって、間違った日本語じゃないのよ!何で誰も教えてくれないの!」
「……」
 アスカの手をそっと離し、
「日本語ってのは定型がある訳じゃない。標準的な言葉遣いはあるけど、教える人によって色々特徴が出たりする事はある。誰に習ったのか知らないけど、君がそれを良しとしてると思ってたんだけど」
「だ、だけど…!」
「それとも、読み書き無しで日本語マスターしちゃって、辞書を引いた事は一度もないの?」
「そっ、そうよ、あたしが辞書なんて引く必要あるはず無いじゃない」
「ふうん」
 シンジがうっすらと笑ったのを見た時、アスカは罠にはまったのを知った。いかなる方法で日本語を覚えたにせよ、アスカのやり方か乃至は教え手に問題があった事に変わりはない。読み書きせずに覚えたのなら、聴覚だけに頼る方が悪いのだ。
 切り返す言葉が見つからず、微妙にプライドを崩された悔しさで震えているアスカの肩に、シンジが手を置いた。
「アスカの日本語があちこち不自由なのは分かってる。今度からちゃんと突っ込んであげるから」
「あ、ありがと…」
「あの、お兄ちゃん私は?」
「君は日本語じゃなくて人間が不自由なので諦めて」
「お兄ちゃんひどいそういうのって良くないと思う」
「却下」
 もうっ、と頬をふくらませながらも、あまり不満そうな様子はない。喫茶店の一件で機嫌のバロメーターはだいぶ上がっているのだろう。
 が、シンジを送って出てきたその顔は、一転して真剣そのものであった。
「お兄ちゃん…」
 レイの顔をじっと見たシンジは、緩く首を振った。
「分かってる。でも今はいいんだ。初日からああまでアスカを引き込むとは思わなかったけど、アスカに行くなとも言えないしね」
「私の言いたい事が分かってたの?」
「顔に書いてあった」
 と言うよりそれしかないでしょ、とは言わなかった。
 レイは頷いた。
 満足した。
「アスカには、僕や君よりも近い人間なのかも知れない。制止は却って逆効果にもなりかねないから、とりあえず様子を見ておいて」
「分かった」
「じゃ、僕はこれで。おやすみ」
 レイの反応はなかったが、そのまま歩き出そうとした所へいきなり抱き付かれた。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
 熱い吐息と共に甘く囁いてくる。ちょっと考えてから、シンジはその手の甲を軽く弾いた。
「おやすみ」
 
 
 
 翌日から、マナのアスカへの攻撃(アタック)はかなり大胆なものになった。文字通りべたべた、と言う表現が似つかわしい位にくっついており、殆ど離れない。初日の感触で、手応えを得たせいだろう。
 ただ要所では控えている為か、或いはマナの口調の為なのか、アスカに嫌がっている節はない。それにしたって二人とも転校生だし、転校元は全然違う。傍から見れば奇妙な光景である事に代わりはない筈だが、このクラスの生徒達は似たような光景に慣れていた。
 そう、シンジにまとわりつくレイを見て慣れているからだ。ヒカリだけは気になるのか、ちらちらとシンジを見ていたが、気にした様子もなさそうなシンジを見て、何も訊いては来なかった。
 モミジの転入は少し遅れる事となり、マナがアスカを占有している状況下で、一番特をしているのはレイだ。いわば空いている状況なのを良い事に、マナまでは行かないがこれもシンジにくっついてくる。
「霧島マナがあの子にアタックするのは勝手だけど、何で君が僕にくっついてくる?」
「あのね」
 ふふっと笑って、
「使徒に乗っ取られたのかも」
「……」
 
 マナの家に泊まるから、とシンジが連絡を受けたのは、レイが簀巻きにされて放り出されてから数日後の事であった。 
 
 
 
 
 
――数ヶ月後――
 結局、使徒が地球を制圧する事は叶わなかった。たった三人の、それも人間の子供達が、使徒から造った兵器でその前に立ち塞がり、彼らを倒す事が出来なかったのだ。
 ただ、地球を守った形になった子供達も、それぞれの精神状態はだいぶ異なっていた。戦自工作員の影響で一度は堕とされながら、弐号機の内部で覚醒した母に会い、精神的には最も強かった惣流・アスカ・ラングレー。
 クローンとして造られながら、自我を持ったと見るや三人目が造られてしまい、もう一人との自分に襲われて死闘を繰り広げながらも、兄と慕う碇シンジや元は極道であった看護婦の支えもあり、アスカ程に昂揚はしなかったが、それなりに安定していた綾波レイ。
 二人の少女を精神的に支える立場にありながら、自らは使徒を倒す為とは言え、最も忌み嫌う相手に服従を強いられ、或いは近い所にいた者を喪い、その心を復讐で染め上げた碇シンジ。
 全てが終わった時、シンジは初号機のコアから母の魂を取り出させ、肉体を造って母親を“創造”した。
 そしてもう一度父との結婚式を挙げさせ――その前日、二人を殺したのだ。精神を破壊し、次いで原形を留めぬ程に肉体を破壊し、その後悠々と都市を離れた。
 襲われるのを感じ取った碇ユイは、討たれる寸前これもコアから人化に成功していたアスカの母を盾とし、アスカの母親は重傷を負った。
 シンジが唯一心を許した女性と第三新東京市を離れ、そしてレイがその後を追ったのは、式から数日後の事であった。
 
 
 
 
 
(完)