第八十五話
「UFOキャッチャーの原理?」
「セミ取りよ」
キョウコの反応が返ってきた時、シンジは少し安心した。弐号機は乗っていて落ち着くのだが、極めて残念な事に操縦性は初号機に遠く及ばない。
しかもマグマ内という、おそらくは一生に一度しか経験出来ない戦闘地域にいる。頼りは文字通り、キョウコだけなのだ。
キョウコが目覚めていなかったら、いかにシンジといえども弐号機に乗る事は選択しなかったろう。
シンジとて、決して神でも超人でもないのだ。
「さっき追突した羽化前の使徒が、対流にのってまた流れてくるわ。そこをキャッチャーで捕獲するの。せっぱ詰まってはいないけれど、余計な衝撃を与えて機嫌損ねても困るから、おそらく機会は一度だけよ」
「了解」
気温の上昇に伴い体温まで上がっているような気がするが、ケーブルは繋がっているしナイフもある。とりたてて心配する事はない。
「でも熱」
小さく口にしてから、シンジはゆっくりと深呼吸した。
「シンジ君、正面よ」
「ヘイ」
頷いて、シンジが目を閉じる。無論心眼でタイミングを取る気はない。
使徒ではなく弐号機の――キョウコに心を合わせるのだ。
シンジの眉が少しだけ寄った。
やはり分からない。
さっきもそうだった。何かが周囲にいる、と言う朧気な感覚は掴めるのだが、それ以上は掴めないのだ。
これが初号機であれば、話は違うかも知れない。
だがそんなのはご免だし、万が一目覚めた日には即日、コア諸共小型核で破壊する気でいるシンジだ。
やはり搭乗経験が浅いせいだろうと、諦めて待機モードに入る。
体内時間にずれはない。
ちょうど五十秒が経過したその刹那、
「今よ」
キョウコの声にシンジの目が見開かれ、その手が動くのと使徒が捕獲されるのとが同時であった。
「一匹上がり」
その瞬間、上の方では安堵の息が洩れた。
ぼちぼちやってみる、そう言ってゆらーりと出て行った少年は、きっちり結果を出して見せたのだ。
ただこの辺は、本人の性格云々という事よりも、セカンドインパクトを経験しているかどうかの違いだろう。百聞は一見にしかず――未体験の事はどうしても恐怖感が薄いものだ。
ボックスの中には現在繭状の物が収められている。無論、まだ“脱皮”していない使徒が内部で丸くなっている事は言うまでもあるまい。
「引き上げて」
シンジは一言だけ言うと、シートに身を沈めた。使徒などより、とにかく熱いのだ。
「アオイはちゃんと見つけてくれたかな」
呟いたシンジに、
「何を?」
「…思考読むのって趣味悪いと思う」
「口に出していたわ」
「……」
「彼女はあなたの想い人?」
「違う」
シンジは即座に否定した。
「僕なんだ」
ある意味で分かりやすい答えにキョウコが微笑った――ような気がした。
「そう」
「人の事を気にする前に自分の事を話すもんだ。どうして娘を一人きりにしたがる?」
「ちゃんと話さないと…ならないみたいね。本当は、許してくれないかもとかそんな事じゃないのよ…」
シンジの搭乗時限定ではあるか声を聞く限り、機械の音声は全く感じられない。完全ではないが、もう復活はしているのだろう。
「アスカがどんな子に育っているのか、今の私には分からないわ。けれど、決して道を踏み外すことなく成人する事はない、そうでしょう?」
「まあ、多かれ少なかれそう言う事はあると思うけど」
「そんな時に、私はあの子を導く自信がないのよ。身体に問題がなければ、女の子は普通母親になるわ。気が狂って我が子を殺そうとした女が、どの顔下げて自分の娘に子供を愛する事を教えられるの?道を誤って結局戻れなかった母親が、娘に人の道を説けると言うの?」
「……」
言うまでもない事だが、子供を片親で立派に育ててみせると公言する者は、男にしろ女にしろ――大抵は母親が多いが、知能に障害が出ている。
片親がどう足掻こうが、健全な二親が揃っている家庭には及ばない。片親だけで子供が立派に育つなら、そもそも人間は片方の性だけで子供が作れていよう。
劣っている、と言う訳ではない。ただ、立派と言っても限界があると言う事だ。
男の精を女が受け、女が産んで二人で育てる。男の悪い部分と女の良い部分、男の良い所と女の悪い所、その中から子供が良い所を受け継ぐように育てる事、これは決して変わる事のない自然の摂理であり、勘違いした者達がいかなる寝言を唱えようと覆される事はない。
そもそも、片親だけで育てられるなら線虫や蛙の一種同様、雌雄同体で受精から妊娠から出産まで、すべて一人でこなせていた筈だ。
がしかし。
「自分はできなかったから、と言う事もあるよ。薬物中毒は、中毒になって半ば廃人化してそこから復活した人の方が、真に迫っていたりするでしょ」
「…私は麻薬中毒患者?」
「そう言う意味じゃなくて…」
話題をあさっての方向にすり替えてまでも逃げようとする。シンジは無論女ではないし、その立場になれもしないのに気持ちが分かるなどと、気持ち悪い事を言う趣味はない。
ただシンジに言えるのは、アスカはまだ不安定だという事だ。確かに自分が一番でなければならない、と言う思いは前のようには持ってはいない。
が、それは思想の変化と言うより決して追い越せぬ壁が目の前にあるからで、人間性自体が変わった訳ではない。
それに、長い時間を掛けてゆっくりと変わったのではなく、急激に変化しただけに、ちょっとした事でどう変わるかも分からない。
コアから出て、と言っているのではない――そんな事など出来はしない――ただアスカが頼り、或いは泣ける存在でいてほしいのだ。
アオイもシンジも、アスカのすべてを受け止めて心をケア出来ると自惚れるほど、盆暗ではない。
「いいわ」
唐突な反応にも、ほんとうに?と返さなかったのは、心の中で刹那赤色灯が回ったせいだ。
「でも条件があるの」
やはりそう来た。
「何?」
あさっての方向を見ながら訊くと、
「アスカを妹にして欲しいのよ」
「…どこからそんな斜め上の発想が?」
「別に斜め上でもないわ。あなたの記憶を見せてもらっただけよ」
「……」
「ごめんなさい。でも、あなたがいる時しか私は目覚めないし、アスカの事を知る術は他にないもの。確かにあなたから見れば代替品に思えるかもしれない。だけどあの子に取って碇シンジという少年は、初めて認める事ができた、そして決して超えられない異性なのよ。しかもすでに恋人つき」
「…ふーん」
と、それ以上は言わなかった。アオイとは来世どころか八世まで誓った間柄などではないと、口にするだけ馬鹿馬鹿しい。
「シンジ君がアスカをレイちゃんと同じ扱いにしてくれるなら――その時は私も約束するわ。ちゃんとアスカに会う」
「ちょっとした逃げ道?」
「そう取ってもらって構わないわ」
(僕が構うっつーに)
平たく言えば、シンジに半分負担させようという事だ。
妹扱いする娘がもう一人増えるとどうなるか、というのは別に考えるとしても、負担分担だと最初から分かっているだけに少々重い。
ただし、キョウコに強いる事のできぬ立場である事もまた事実なのだ。
(どうしたもんかな)
内心で呟いた時、不意に警報が鳴り響いた。
「ん?」
既に使徒は捕まえているし、二匹目のドジョウならぬ使徒がいるとも思えない。
「シンジ君、気を付けて!」
叫びに近い声はミサトのものであった。
「何事?」
「使徒が羽化を始めたのよ。予定より遙かに早いわ」
「はあ」
と応じてから、
「じゃ、始末?」
「ええ、殲滅に切り替えて」
「了解」
頷いた。
数秒経ってから、
「で、どうすればいい?」
と訊いた。
ミサトは気付いていない――これが、おそらくはラストチャンスであろう事に。アオイの目に映るミサトと、シンジから見るミサトは、無論同一人物ながら全く別ものなのだ。
「すべて任せるわ」
「アップした」
奇妙な返答に、ミサトが首を傾げて振り向いた。勿論アオイはいない。
「評価が上がったのよ」
「そう…」
にせリツコの言葉に、ミサトは微妙な表情で頷いた。
「さて、ここでいいかしら。過激なダイエットしてこないといいけれど」
辺りを見回してから、アオイは一人ごちた。
海の見える温泉を探してきて、シンジがアオイに頼んだのはそれであった。どうせ火口内だし、しかも搭乗するのは弐号機だから、上で眺めているのはミサトで十分だ。
アオイがいる程の事でもないし、そんな事よりも中で茹だってくるから温泉をと、半ば無理矢理行かされたのである。
初号機だったら断ったろうが、何せ弐号機だから今回は自分よりも役に立つのだ。微妙に引っかかるものがないでもないが、そんな事は口にしない。
湯に触れた時、ふとアオイの表情が動いた。
僅かに感じた違和感は、自分に迫るものではない。
シンジの危機であり…今までに外れた事は一度もなかった。
その肩で妖鷲が羽ばたく。
「そうね、できるなら行ってお手伝いしてきて。多分…大丈夫だと思うけれど」
「あ、逃げた」
網から蝉が逃げた少年のような反応だが、脱走したのは急激に成長した使徒である。
「なんで羽化始めたのかな」
「聞きたい?」
「いや、別にいいや」
返ってくる答えは一つしかあるまい。
追突だ。
別にシンジが悪い訳ではないが、おそらくは衝突の衝撃が何らかの影響を及ぼしたのだろう。それが一番可能性は高い。
「ところで逃げ出した時――」
「ATフィールド張っていたわ。順応性も高いみたい」
「こっちは二回目でしかも向こうの地元と来てる。どう考えても不利だ」
そもそも視界からして不良である。
が、交代出来るメンバーはいないし、地上に出られるとは思えないが、火口内で大暴れして噴火でも誘引されたらことだ。
ナイフを手に威嚇しながら捕獲はしてないから、まだ残ってる。耐熱仕様になってる事を念じて、ナイフを取り出した。
構えたのはいいが、吊されている状態なので、非常に格好悪い。アスカを乗せなくて正解だったと、改めてシンジが思ったその時、
「下に回ったわ」
「下?」
「こっちを敵と認識したのよ」
「大成功だ」
狭いプラグ内でファイティングポーズを取った瞬間、不意にその身体が上に突き上げられた。
「…大成功?」
「勿論」
ちょっと痛む頭をおさえたシンジだが、表情には余裕がある。所詮は羽化を始めたばかりの代物だし、何ほどの事やあらんと思っているのだ。
「今度はちゃんと見ててね」
「分かってるわ」
静謐なプラグ内だが、溶岩の熱気で噎せ返るような空気が充満している。
既にシンジの全身はじっとりと汗ばんでいるが、その視線は見えざる使徒へと移っている。少しやる気になったらしい。
ワイヤーは巻き上げられているから、体制的には不利な事この上ないのだが、ある意味では二対一である。何よりも、相性がいい。
二度目の衝突から三分後、不意に機体が反応した。
「正面から来るわ」
「了解」
その直後、あまり良くない視界の中から早くも体格を変えつつある使徒が姿を見せた時、既にナイフを持った腕は水平に構えられていた。
来ると思っていた所に構えていたのだから、当然痛打を与えると思われたが、一瞬ながら顔色が変わったのはシンジの方であった。
(通用してない)
高温、と言うより水中みたいなものだからどうしても動きは制限される。それでも常人を超える速度で攻撃はしたのだが、ダメージを与えられなかったと気付いたのだ。
「武器が悪い?」
「違うわ」
その後が続かないのは、放置プレイの一種ではあるまい。
「来る」
反応したのはシンジである。弐号機のキョウコよりも先に、中で茹でられているシンジの勘が反応したのだ。
横から迫ってくるそいつを察知した時、瞬間的にシンジはナイフを引っ込めた。
肘での一撃を選択肢し…シンジの表情が固まる。これは弐号機だが弐号機ではない――目下は特殊装備なのだ。
不格好に突き出された腕は、使徒が攻撃するポイントにはちょうどいい形だが、使徒はあえてそこを狙わなかった。
「あれ?」
首を捻った直後、左足を強い衝撃が襲った。頭突きでも尾びれの一撃でもなく、囓られたのだと気付いた時、シンジの反応はまず首を傾げる事であり、次いで、
「なんで?」
と呟いた。
一瞬状況が理解出来なかったのだ。ここは地上でも空中でも海中でもなく――凄まじい高温のマグマ内である。
先に弐号機が反応した。
「シンジ君、左足損傷!」
「あ、はいはい。えーと?」
アスカが乗っていれば、いやアスカならずともパニックに陥りそうなシンジの反応である。
「切り離して」
「ん」
相変わらず危機感の足りない声だが、動作自体は早い。瞬時にボタンへ手が伸び、爆砕された左足が切り離されて耐熱シャッターが切断面を塞ぐ。
「さて?」
「…え?」
聞き返した理由は単純だ。キョウコはアオイではない。
シンジの思考についていく事はできても、それを読むのには限界がある。
「あ、いやどうしてこの熱いのに囓ったりするのかなと思って」
「おそらく、そういう体質なのよ」
「ふうん」
音声は完全に遮断してあるから、キョウコの声を聞かれる事もシンジが独り言を言っていると思われる事もない。
「一方通行?」
「……」
即座に反応は返ってこなかった。単語を分析しているらしい。
そうよ、と来たのは十五秒ほど経ってからであり、なぜかそれを聞いた時、アオイに会いたいと不意に思った。
どうしてかは自分でも分からない。
「何か武器(ブツ)あったっけ?」
「機体は冷やしながらの運行だから、冷却液が使えるわ。悪いけれど…」
「いいよ。圧勝は頭にないし」
「そう」
海水浴場に現れて人を襲うジョーズよろしく、使徒は左足を食いちぎったようなものだ。しかも溶岩内は敵の土俵である。
海中で鮫に対抗するのが無駄この上ないのと同義で、溶岩内でナイフを、それもよたよたと振り回しても勝ち目はない。
あるとすればただ一つ、
「機体に沿って冷却液を流す循環パイプがあるのよ。それを使徒の口に突っ込んで冷却するの」
「はあ」
反応が曖昧なのは、よく分かっていないせいだ。確かに冷却液は効果があるかもしれないが、必殺の一撃になるとは思えない。
そもそも、使徒はコアを壊さなければ死なないのではなかったか。
「あの、もう少し」
「効果が心配?」
「うん」
あっさり言ったシンジに、キョウコが苦笑したような気がした。
「この使徒は、コアが口の中にあるのよ。だから、体内深くパイプを突っ込む必要もないし、灼熱の温度に零度以下の循環液を浴びせればあっさり倒せるわ。コアの位置はさっき確認済みよ。使徒を倒せるのは使徒だけ――エヴァは同じ存在だと知っていたでしょう?」
「そう言えば聞いた事がある。じゃ、左手の方がいいかな」
「そうね」
悪いけれど、とキョウコが言ったのはこの事だったのだ。
左足を失った上に、手足のいずれかをも失う事になる。そうでなければ、使徒の口にパイプを突っ込むのは不可能なのだから。
「開始」
役に立たないと知り、本当は火口内に放り投げようかとも一瞬思ったのだが、捨てないで良かったと安堵した。いくら何でも、手でねじ切るのはちょっとみっともないし、大体難易度がかなり高い。
よっこらしょと切り落とそうとした時、待ったが掛かった。
「何?」
「今切っちゃうのは駄目よ。接近するぎりぎりまで待って」
(大丈夫かな)
声にしなかったのは、キョウコに聞かれるとまずいと思ったからだ。いくらシンジでもそんな事は口にしない。
が。
読まれていたらしい。
「今度は大丈夫よ。余計な心配しないの」
「…ヘイ」
左足を無くした奴など怖くない、と思ったかどうかは不明だが、使徒が正面に姿を見せたのはそれから数分後の事であった。
「用意して」
言われるまま、ナイフを左腕に当てる。少し機嫌を損ねたらしく、声も幾分尖って聞こえた。
使徒が口を大きく開けたが、シンジには何も見えない。
十数メートルの距離まで迫った時、
「落として」
瞬時に反応し、左腕下部を半分だけ切って冷却パイプを露出させた所へ使徒が迫ってきた。
「はいおやつ」
右手にはナイフがあるから、これでは使徒を捕まえられないと気づき、咄嗟に切断部分を減らしたのは正解であった。
少し腕を揺らしただけで、使徒はぶらぶらしている手首にすぐ噛み付いてきた。
「あ、ほんとだ」
やっとコアを確認したシンジが、呑気な声で言ってからナイフを放り出し、冷却パイプを掴んで使徒の口へと突っ込む。
「そう言えば回さないと」
言うまでもないが、冷却液は左腕だけに流れている訳ではない。均等に流れているから集中させないとならないのだが、通信ボタンへ手が伸びた途端、
「余計な事はしないの」
また叱られた。
「…あ」
そう、キョウコはエヴァその物なのだ。
忽ち凄まじい勢いの冷却液がパイプを通してコアに浴びせかけられ、思わぬ反撃に使徒がマグマ内で必死に暴れる。
「動くなってば」
がしっと捕まえたはいいが、やはり片手だから微動だに、とまではいかない。
下半身はややぶれたが、それでも上半身はしっかりと捕縛されている。
一分…二分…遂に使徒の動きが止まった。
「破壊?」
「破壊」
「了解」
生け簀に入れて見物したかったが仕方ないなと、シンジがシートにもたれかかった瞬間、機体が僅かに揺れた。
「あれ…あ」
吊り上げは順調で、使徒に襲われながらも止まっていない。後はかりかりと巻き上げられ、温泉を見つけてある筈のアオイの元へ直行する予定だった。
だが、シンジの視界は逆――落下している機体に気付いた。
「切れたか」
溶岩内でビチビチと暴れた使徒は、どうやら成仏する寸前にケーブルを皮一枚まで切ったらしい。
それが巻き上げられた衝撃で切れてしまったのだ。
打つ手など存在しない事は分かっている。アスカやレイを同乗させなかったのは、せめてもの幸いであったろう。
やれやれ、と肩をすくめた直後、不意にその首はがくんと折れた。
「悪いけれど、暫く眠っていて。あなたは…必ず地上に生きて返すから」
確かにシンジは優秀である。おそらく、いや間違いなくアスカより上だろう。
だが、どんなに優秀でもキョウコと一つになる事はできないのだ――あるとしたら、それはコアとの融合であり、二度と帰らぬ事を意味している。
シンジ自身に思い入れはない。
しかし――娘を任せると母親が決めた少年なのだ。例え自分の自我が二度と目覚めぬ限界まで力を使っても、シンジだけは無傷で返す気でいた。
それはシンジの為ではなく娘の――アスカの為なのだ。
幸いな事に、使徒はまだぶら下がっているし、沈んでいく動きもさほど速くはない。何よりも、使徒に突っ込まれたせいで位置は岩壁に近いのだ。
弐号機の四つの眼に光が点り、同時にぶら下がっていた使徒を掴んで左手に当てる。
左腕は瞬時に再生した。
使徒を取り込んだのである。
使い道はそれだけに留まらなかった。左腕を覆っていた防護服が瞬時に吹っ飛び、腕が一気に伸びたのだ。
この状態でリツコが見たらこう言ったに違いない――左右の腕の長さが違う、と。
復元どころか長さの増えた腕は垂れ下がっている。壁に突き刺してピッケル代わりにするつもりだ。
無論、上の方でさっさと吊り上げを停止してくれなければ、いかにキョウコと言えども万事休すになるのは言うまでもない。
その機会は意外と早く訪れた。
十メートルも行かないう内に岩壁へ寄せられたのだ。間髪入れず、深々と腕が打ち込まれ、とりあえず機体は停止した。
が、こういう時危機は次々に訪れると相場が決まっている。
(足りない!?)
聖書ではないが、エヴァはコアのみで活動するにあらず――やはりパイロットが意識不明だと全力が出せないのだ。
弐号機の異常は、無論上の方でも察知していた。
パターン青、即ち使徒の反応が途絶えた直後の警報に、とっさに反応したのはにせリツコであった。
「引き上げ中止!」
「え?」
赤木リツコよりも優れているのは、論理的な部分よりも第六感を――女の勘と言ってもいいかもしれない――強化されている部分にある。
一瞬マヤが反応出来なかったのだが、次の瞬間その口を割ったのは絶叫であった。
飛び込んできた妖鳥の一撃が手の甲に穴を開けたのだ。鮮血が水柱のように吹き出した手を引っ込めるのとほぼ同時に、妖鳥が爪でボタンを押す。
時間差で言えば、数秒もなかったろう。巻き上げの速度を考えれば数メートルの差もつかなかった筈だ。
それでも必殺の一撃を浴びせんと舞い上がった妖鳥の前へ、
「待って!」
両手を拡げて立ちふさがったのは、無論にせリツコである。ミサトであれば、とりあえず鋭い爪に掴まれて、どこぞへ運ばれていたろう。
「ご主人様の事が大切なのは分かるわ。でもこの子を失う訳にはいかないの。お願い」
青葉も日向も、銃を抜く間も無かったが、今銃に手を伸ばせばそれが命取りになるのは分かっていた。
視線だけで気死させられそうな眼光だが、数秒後、妖鳥は身を翻して飛び立っていった。
安堵の息が洩れたのも刹那、マヤの右手は肘まで鮮血で染まっている。
「すぐに救命車の手配を。青葉君、止血を」
「は、はいっ」
左右を見回したが何もない。咄嗟に自分のシャツを切り裂き、とりあえず腕を縛る。
出血は止まったが、ミサトを始め青葉も日向も顔色を失った。既にマヤの顔色は蒼白になっており、意識も失っていたのだが、手の甲にはぽっかりと穴が開いていたのである。
「え!?」
不意に力が満ちた。
左右の手は長さが違うし、おまけに左足は失った状態だが、ぎこちなく、それでもしっかりと登っていく。
プラグから力が注がれた、と気付いた次の瞬間キョウコは愕然となった。
これはシンジではない!
「俺と会うのは初めてだな」
シンジの、だが雰囲気は全く異なる顔がゆっくりと上がった。
「…誰」
「使徒に乗っ取られた、と思うか?余計な事は考えずとも良い。俺の力をエネルギーとするがいい」
「……」
敵ではない、と本能が告げる。
しかし、もう一人のシンジに会うのはこれが初めてであり、無論その性格など知る由もない。
とはいえ、その力を借りなければ弐号機が持つ本来の力は出ない。
静かなる不協和音を抱えながらもゆっくりと弐号機は上昇し、とうとうケーブルがぶら下がっている場所までたどり着いた。
「あ…」
シンジが目を開けた時、最初に視界に映ったのはアオイと行かせた筈の妖鳥の姿であった。
「シンジ様、ご無事で何よりでした」
「…うん」
にせリツコに頷いてから、
「弐号機の破損状況は?」
と訊くと怪訝な表情で、
「いいえ。防護服は破損していますが機体にはどこも異常ありません」
「そう」
それを聞いたシンジの表情が僅かに歪む。
「悪いけど、少し一人にしてくれる」
「分かりました」
真っ暗なプラグ内で、シンジは静かに目を閉じた。
(キョウコさん…聞こえる?)
三十秒ほど経ってから反応があった。
「聞こえているわ」
「無事かい?」
「もう…先に自分の事を心配なさいな。体力は殆ど残っていない筈よ」
「アオイと一晩寝れば治る。それより、あなたに消えられたら僕のプランが一大事だ。とりあえず、無事で良かった」
シンジの目がゆっくりと開き、
「アスカの事はあなたに任せる。その気になったら言って」
「…感謝するわ」
声も、弱くなっているのがはっきりと分かる。
もう一つの案件は口にしなかった。言った途端、安堵されてそれきり消滅されても困るからだ。
プラグから出たシンジは、機体を見回した。確かに、破損している箇所は見あたらない。無論修復などされてはいまい。
確かにキョウコは弐号機の中にある存在だが、所詮は精神としての存在であって、自由にエヴァを操れる訳ではない。
エヴァ自体が単体で動く代物ではないのだ。
意識を失ってからの記憶はないが、ケーブルが切れたのは間違いない以上、引き上げられる状態へ持って行く事すら並大抵ではなかった筈だ。
(ありがとう…)
シンジは万感の思いをこめて呟いた。
「ちょっと…疲れた」
ゆっくりと倒れ込んできたシンジを、アオイは柔らかく受け止めた。
ぎゅっと抱きしめてから、お疲れ様、と一言だけ囁いた。
「お風呂に?それとも寝る?」
「アオイにする」
シンジの言葉に、アオイがうっすらと笑う。まだ余裕は残っているらしい。
軽々と抱き上げてベッドまで運んでいく。
膝の上に頭を乗せたシンジが、
「さっきあの子が来たけど、血の匂いがしたぞ。何したの?」
「マヤちゃんが襲撃されたのよ。ケーブルが切れた時、反応が遅れたと聞いてるわ」
「そう…で?」
「ダミーが忙しいから、赤木博士を看護に付けたそうよ。回復には暫く時間が掛かるけど、本人は満足みたいね」
さもありなん、とシンジは頷いた。
マヤが真性なのは分かっている。最初はただの憧憬かと思っていたが、全然違うのは立証済みだ。
「少し寝る。起きたら風呂入るから、帰っちゃ駄目だよ」
「分かってるわ」
アオイの膝を枕に、シンジは三十秒と経たず寝息を立てていた。
(ん…)
目覚めたシンジが最初に感じたのは、アオイの膝ではないと言う事であった。まだ目は開いていない。
目を開けようとした時、頬に温かい物を感じた。
涙だと気づき、跳ね起きようとしたシンジだが、不意に抱きしめられた。こんな事をするのは、シンジの知る限り一人しかいない。
「いつこっちへ?」
シンジの第一声に、土御門モミジは泣き笑いの表情を作った。
「昨夜の最終便で来日しました。ご無事で良かった…もうお目覚めにならないかと」
「は?」
怪訝な表情になってから、ある事に気がついた。
「僕は何時間寝てたの?」
「十三時間ですわ。ひたすら眠っておられました」
「道理で寝過ぎた夢を見たと思った。十三時間も寝てたんだ…」
こんなに寝たのは、実に数年ぶりである。体内時計も動作していなかったから、おそらく全体力を使い果たしたのだろう。
無論、アオイの膝枕が多分に影響していた事は言うまでもない。
「ま、それはそれとしてモミジ」
「は、はい」
何時からアオイの代わりになったかと、叱られるのを覚悟したが、
「良く来てくれたね」
言葉は意外なものであった。
「シンジ様…」
目に涙を浮かべたモミジがぎゅっと抱き付く。
と、そこへ人の気配が二つ近づいてきた。
シンジの手が一瞬枕の下に伸びかけて止まる。
銃があるのは分かっている。ただそれは、シンジがよく知るものであった。姿を見せたのはアスカとレイだったが、二人の足がぴくっと止まった。
シンジが絶対安静中なのは分かっている、だから飛んできたのだ。
だが二人の目に映っているのは、シンジと抱き合っている見知らぬ少女であり、そしてレイにとって、それは単にシンジを取られたというだけには留まらなかった。
その少女は、レイに決して忘れる事のできぬ屈辱を植え付けた娘と瓜二つであり、しかもその娘は、自分とシンジとの縮められぬ距離を見せつけたのだ。
屈辱の記憶がついさっきの事のように甦った時、レイはアオイの言葉を完全に忘れていた。
土御門カエデの双子の妹には、決して手を出してはならない、とアオイはそう言ったのだ。
レイの双眸に危険な光が宿るのと、その右手がオレンジ色の光を帯びるのがほぼ同時であった。
(え?)
多角形ではないが、それが何を意味するのか分からぬアスカではない。
「レイ!?」
半ば茫然として叫んだアスカを尻目に、レイが一気に距離を詰める。それを見たモミジが最初に取った行動は、シンジの手をおさえる事であった――その手は躊躇うことなく銃に伸びたのである。
大丈夫、と囁いた甘い声には、さっきまで泣きながら抱き付いていた風情など微塵も感じられない。
必殺の一撃を繰り出すべく振り上げられた手は、遂に下ろされる事はなかった。
やんわりと、だが完全に極められた右腕は、微動だにしなかったのだ。
「私にATフィールドは無効です」
モミジは穏やかな声で言った。
「でも、シンジ様の気分を害した報いは受けて頂きます」
次の瞬間、レイの身体はくるりと回転していた。受け身など絶対取れぬ姿勢で、肩口から叩きつけられる。
ドイツにいた頃、護身術を叩き込まれたアスカには、それがどれほどの技かよく分かる。
が、並はずれた技量の持ち主は、意識を失ったレイなど興味を失ったように立ち上がり、
「もしかしたらいきなり襲われるかも知れないと、アオイ様に伺っていましたから」
アスカの方へ向き直り、
「惣流・アスカ・ラングレーさんですね。土御門モミジと申します。よろしく」
あどけない少女の顔で、にこりと笑いかけた。