第九十一話
 
 
 
 
 
 赤木リツコ博士の所属は、ネルフ本部の技術開発部にある。
 分かり易く言えば、対使徒用のエヴァを改造――乃至は魔改造――したり、武器を開発するのが役割である。当然、使徒に対する興味と探求心は誰よりも高く、またそうでなければならない筈であった。
 敵を知らずして策など立てられようはずもない。
 そのリツコが、自分と会った途端一瞬躊躇ったように視線を逸らし、次の瞬間大股で歩み寄ってきた。
 がしっと腕を取られて歩き出した時点で、明らかに妙ではあるのだが、“もう一人のリツコ”の呪縛に遭ったゲンドウは、これが本物のリツコだと気付いた。
 普通なら、使徒に興味を全く示さない時点で偽者の香りが漂ってくる筈で、さっきの件が無ければゲンドウもそう思ったはずだ。
 裏を返せば、リツコがそれに気付かなかったと言う事になる。
 プライドを粉砕された事で情熱――と呼べるかどうかは怪しいが――が、イースト菌を混入された生地の如く、大きくふくらんだ事は間違いない。
「どこまで行く?」
 腕を取られてから、ゲンドウが初めて発した言葉であった。はっとなって手を放した時、リツコは研究室の前に来ているのに気が付いた。
「さっき、妙な金髪の女に会った」
「金髪?」
「君と同じ、だが私が学生時をよく知らぬ赤木リツコ博士だ」
 今度はリツコが立ち竦んだ。さっきと立場は入れ替わったが、そもそもリツコ自体が別人である。
「君を拉致して本部内の工作員として活躍していた様子はない。そんな事は、その気になればアオイやシンジが堂々としてのけるだろう。それに気付かぬほど呑気な総司令ではないつもりだ」
 にせリツコの入れ替わりに気付かなかったのは、別の話らしい。
「別段入れ替える事のメリットもなさそうだったが、強制的に拉致連行されたのか」
「い、いえ…」
 リツコが蚊の鳴くような声で首を振った。入れ替わっていた事が、既に発覚してしまったのだ。
「では、君の意志か」
 悪戯のつもりでインターネットに書き込み、見つかった小学生のようにリツコが小さく頷いた。
「エヴァ運用に役立つ事なら、堂々と帰ってくるだろう。そもそも、使徒の残骸に興味を示さぬ事などあり得ない――本物であれ偽物であれ、な。理由が使徒でない以上、おおよその見当は付く。どれだけ自分の身体を改造出来たのか、見せてもらおうか」
 不意に腕が取られる。
 研究室の中に押し込まれた時、リツコは想定外の形で希望が叶った事を知った。
 そして同時に思い出した。
 ゲンドウが何も言わなかった場合、どうやってこの状況に持って行くか、まったく考えていなかった事を。
 そして何よりも、自分が作ったそれはあくまでも自分用であって、ゲンドウがその気にさせる代物では無かったということを。
 何の真似だ?と冷ややかに言われた場合、自分の存在意義はその瞬間吹っ飛んでいたに違いないのだ。
(今日だけは…感謝するわ)
 本人に聞かれたら、今日だけなのね?とまた連行されて嬲られる事間違いない台詞を内心で呟いてから、リツコはポケットに忍ばせたカプセルをぎゅっと握りしめた。
 
 
 
 
 
 当初、シンジはマナに会う気は無かった。本来ならば、レイを連れて小旅行でも行こうかと思っていたのだ。
 無論、ご褒美とかそんな事ではない。マナの目的がかなり高い確率でアスカにある以上、自分とレイは邪魔者になる。
 その邪魔者がいない状況で、ぽつんと置かれた餌にどう反応するか見物予定だったのだ。
 が、予定が狂った。
「モミジさんを講師にして、詐欺師の甘言に惑わされない講義を受けてます」
 サツキから来た連絡がこれであった。
「はん?」
「じゃ、そう言う事で」
 意味不明な台詞を残して電話が切れた。この分だと、家に着いたら数分前までのリアルな生活痕を残して全員消息不明でもおかしくない。
 一度首を傾げてからモミジに電話を掛けた。
「僕だ」
「ご免なさいシンジ様、今調教中なんです」
(……)
 電話を切ったシンジが学校へやって来るまでに、四度の深呼吸を必要とした。
 今日でもう三日目になる。
 なお、アスカとレイが講義を受けているのは事実だが、無論詐欺だの甘言だのは関係ない。
 マナを前にして、シンジがつい尻尾を出してしまった訳ではないのだ。
 
 
 話は使徒戦の翌日に遡る。
 サツキはいつも、一日に一時間は二人と話す時間を取るようにしている。別に内容が決まっているわけではない。学校の事でも良しネルフの事でも良し、何でも構わない。
 とにかく思った事を口に出来る、と言うのが重要なのだ。
 ただここでサツキが普通と違うのは、話を聞いたからと言って一つ一つに反応はしないところだ。仮に十の話をした場合、三つ位には反応があるが、後はスルーされる。
 聞いていないのかと思った事もあったが、数日経ってから、全く聞いていないと思った事を、あの件だが調べておいたぞと持ってこられた経験があるから、二人とも気にしない事にしている。
 話を聞いてくれる、と言う事に加えて、それが外部に流出しない事も大きい。例え義務であっても、それがミサトの方に行くようでは、所詮監視者の域から出る事はない。
「じゃあ、私達朝までお兄ちゃんの脚を枕にして寝てたんですか?」
「そう言う事だ」
「でもまだ夜は寒いのに」
「あたしが毛布を担いでいった。行く義理もないが、あたしが行かなかったらシンジさんが風邪を引かれるからな」
「どうしてですか?」
「自分の脚を痺れさせたまま、全く起きようとしない小娘二人でも、冷えないように自分の上着を掛けるだろ。シンジさんは雪男じゃないぞ…聞いてるか」
「『は、はいっ』」
 慌てて返事はしたが、どう見ても聞いている顔ではない――完全に緩みきっていたのだ。
 にへら〜とまだ表情が元に戻らぬ二人に、
「まあいい。ところでお前ら、バレンタインはどうするんだ」
「『え?』」
 聞き返した二人の表情は、それぞれ微妙に異なっていた。レイのは文字通り未知へのそれだったが、アスカはどうして自分に関係が?と言う表情であった。
「アスカは興味なさそうだな。レイ、耳貸せ」
「はい」
「あ、ちょ、ちょっと待ってあたしも聞きたいです」
「今の反応は何だったんだ」
「何ってその…向こう(ドイツ)だと女は受け身のイベントだから」
「受け身?そうかお前はドイツ育ちか。男から女にだったな」
「日本は違うんですか?」
「違わないならお前達には関係ない話になる。日本は逆だ。つまり、一年の中で玉砕する女が最も多くなる話だ。レイは知っていたか?」
「いえ、知りません」
「日本のバレンタインイベントは、女が花やらチョコレートやらに邪悪な欲望を乗せて男に送る事になってる。これには義理と本命があって、二十世紀辺りまでは女子社員の負担になっていたが、近年は女が強くなったから本命だけ渡すようになった。もっとも何を勘違いしたのか、高いチョコを自分用に買う女も増えてきたがな」
「だってセントバレンタインでしょう。自分に買ってどうするんですか」
「だから勘違い女だと言っている。そんな事より、お前らどうする?」
 アスカとレイは顔を見合わせた。
「お兄ちゃんに…ですか?」
「別に強制などしておらん。興味がないならそれだけの話だ」
 立ち上がったサツキに、
「あ、あのっ、そうじゃなくて…」
「何だ?」
「買って渡しても良いのが見つかりそうにないし…」
「じゃ、作ればいいだろ」
「でも作った事ないですよ。それに上手に出来るか…」
 やれやれ、とサツキは内心で苦笑いした。これが他の事なら、さっさと積極性を見せて取りかかっているに違いないのに、シンジの事になると途端に弱気になる。
「知識がない事は教わるんだ、と習わなかったか?私からモミジさんに頼んでおいてやるから、作り方教わっておけ。二、三日もあれば覚えられるだろう」
「でも学校は…?」
「いい。私の仕事はお前達の管理だが、休まず学校に行く事は含まれてない。それに昨日の使徒は一応お前達が二人で倒したからな、それ位は良かろう。やるか?」
「あたしやります」
 アスカはさっと手を挙げた。
「分かった」
 レイは、とは訊かなかった。一見同じ“好き”でも、アスカとレイでは根本から違う部分があるのは知っているし、これを機会にモミジと仲良くなどと言うほどサツキは世話焼きではない。
「モミジさんに連絡するから待ってろ」
 電話機を手にしたサツキに、
「あの…わ、私も…お願いします」
 レイがそっと手を挙げた。
「そうか」
 かくしてチョコレート修行になったのだが、勿論内容は秘密であり、シンジが意味不明な登校拒否理由を聞かされる事になったのだ。
 
 
 
 
 
「詐欺の甘言対策って…どういう事?」
 訊いたマナだが、さすがに表情は変えていない。
「知らない。そう聞いただけだし」
「ふうん…」
 と、その時はそれ以上言わなかったが、休み時間になると早速お呼び出しが来た。
「ちょっと付き合ってくれない」
 シンジが黙って立ち上がる。
 出て行く二人を心配そうに見ていたのはヒカリだが、無論心配しているのはマナの方だ。知り合いには見えなかったが、かつての自分を思い出したのだ。
 知り合いには見えない上に、あまり好意的な雰囲気でもなかった。
(大丈夫かしら…)
「転校生が来る事は知っていたの」
 振り向いて訊ねたマナの台詞は微妙なものであった。釣ろうとしているのは間違いないだろうが、どの程度の餌なのかは分からない。
「知っていたよ」
 シンジは軽く頷いた。
「どんな物好きが来るのかなってね」
「物好き?」
「第三新東京市はいわば戦時下だけど、日本が戦争状態にある訳じゃない。だとしたらさっさと疎開するのが賢明だ。今はさほど大被害は出ていないけれど、そんな所へノコノコやってくるのは余程の事情があるか――」
「工作員か、かな?」
「さあね」
 シンジとマナの視線が絡み合う。マナの探るような視線に対し、シンジの視線は風景を眺めているそれに近い。
 先に視線を逸らしたのはマナであった。
「で…先手を打って私を捕まえようっていうの」
 それには答えず、シンジはポケットからシガレットケースを取り出した。
 一本取ってくわえる。
 ポリポリと音がした。
(ん!?)
「自分が肺ガンになるのは勝手だけど、常識(ルール)は破りたくなるし周囲の人間を肺ガンで抹殺したくなる。煙は好きじゃない。要る?」
 差し出したのはタバコ型のチョコレートであった。無論煙は出ない。
「…要らないわよ」
「そ」
 あっさりと引っ込めた。どう見ても、勧めたかった風情ではない。
「一応気乗りもしないエヴァのパイロットをやってるけど、民間人に被害が絶対に出ない保証はない。まして、戦場になるのはジオフロントじゃなくて第三新東京市の市街地だ。いつ巻き込まれるか分からない殺伐とした街で、わざわざパイロットを誘惑しに来た物好きを捕まえるのは勿体ないから見物してるよ」
 ポリポリとシガレットタイプのチョコを囓りながら、シンジはさっさと背を向けた。
「チルドレンが全員物好きな訳じゃないから、他の二人に転校生の正体と目的は話していない。工作したければ好きにするがいい。もし止めるとしても僕じゃないしね。ただし」
 足が途中で止まり、シンジが振り向いた。
「あの子の身体に危害を加えるような事があれば、全身蜂の巣にして生首を親分の元に送りつけてくれる。忘れないでね」
 口調に変化はなかったが、視線を向けられた瞬間マナの全身が硬直した。
「ふ、ふんだ…何よかっこつけちゃって…お、覚えてなさいよ…」
 何とか呪詛の台詞を吐けるようになったのは、シンジの姿が消えてから数分後のことであった。
 
 
  
 
 
「直接来たの?」
「来ました。なかなか根性のある工作員です」
「誘惑したい相手は訊いた?」
「僕じゃない事は確か――気になる?」
 ソファに並んで座り、映画を見ている二人だが、この場合の気になる?とは普通とは異なっている。
「レイちゃんだったら困るでしょ」
「それは困る。遭って一日目で抹殺しかねないから。そこまでは訊かなかったけど、多分大丈夫でしょ。僕は信じてる」
 端から聞けば、使徒退治をやってくれる、みたいな言い方だが相手は戦自の送り込んだ工作員である。
 アスカが聞いたら赫怒するに違いない。
 或いは呆れるか。
 二人が見ている映画は、安全を声高に喧伝した豪華客船が処女航海であっさり沈むという、コントみたいな実話を扱ったもので、甲板にいるヒロインが奇妙な姿勢でポーズを取っているシーンであった。
「あのさ」
「なに?」
「沈没が確定した場合、アオイならどうする?」
「シンジと一緒?別?」
「別」
「何としても戻るわ。三途の川を渡りながら見守るには、まだ手が掛かる子がいるでしょ?」
「僕の事?」
「もう私の手が掛からないなら話は別だけれど」
 語尾は微妙に歪んだ。
 シンジが顔を引っ張って膝の上に載せたのだ。
「うるさい」
 どっちの意味なのか微妙な台詞を口にして、アオイの髪に手を突っ込んでくしゃくしゃとかき回す。
 髪に手を入れられたアオイも抜き出そうとせず、しばらくその姿勢で画面を眺めていたが、豪華客船が海に沈んだところでふとアオイが起きあがった。
「忘れていたわ、ちょっと待ってて」
 二分ほどでアオイは戻ってきた。
 首筋で甘い匂いが漂った時、戻ってきたと知ったのだが、次の瞬間シンジの首が妙な音を立てた。
(痛!?)
 僅かに顔をしかめたシンジの口の中に、何かが入ってきた。口移しだ。
「モゴ…ん?」
 模様のような物が彫り込まれた物だとは分かったが、正体に気付くまでに少し掛かった。
「今年は銀の弾丸にしてみたのよ」
 箱の中には11個のチョコレートが並んでいる。12個作って、今のが12個目だったらしい。
「正体は?」
「アラザンをまぶそうかと思ったんだけど、味が少ししつこくなったから、食用銀粉にしたの。どうかな」
「イイ」
 頷いたシンジが少し首を傾げた時に気付いた。
「ごめんね、捻りすぎた?」
 数回首を左右に捻ってから、
「ダメージ大。自分で食べるの面倒になった。何とかして」
「うん」
 アオイがシンジに用意するチョコレートは、既製だった事は一度もない。そして形が同じだった事も。
 毎年色々な物を考案して作る。今年はそれが銃弾であった。
 無論単なる銃弾ではなく、表面を銀色に塗った銃弾型のチョコレートは、細かく紋様が刻まれていたのだ。冷えて固まった状態になってから、彫刻刀か何かで時間を掛けて仕上げたのだろう。
 えらく手間と暇の掛かった代物だが、シンジは食べるのが面倒だと言ったのだ。手で口元まで持って行っても食べるわけがない。
 半分までくわえた状態で唇を重ねると、つるりと吸い込む。
 恋人というよりは、親鳥とひな鳥の関係と言った方が適切だろう。巣で口を開けて待つ雛鳥に、親鳥が苦労して取ってきた餌をせっせと口移しで与えるあの図だ。
 とはいえ二人の性が異なっているのと、対象がバレンタインのチョコレートである事に変わりはなく、凍てついた海上で必死に助けを求める主人公達から呪詛を受けそうな時間を経て、チョコは全てシンジの食道へと姿を消した。
「ん、美味しかった」
「そう、良かった」
 シンジの口元に少しだけ付いたチョコレートを、アオイが舐め取った。
「二人からはお兄ちゃんに来るかしら」
「来ないね」
 回想シーンが終わり、突如老婆に戻ったヒロインを見ながら、シンジはあっさり否定した。
「レイの知識にそんな物が入ってるとは思えないし、アスカのいた所は男女入れ替わり型だから、そもそも発想に上らないでしょ」
「そうね」
 頷いたアオイは、モミジがアスカとレイに何を教えているのかは聞いていない。
 無論シンジも、言葉通りの内容が数日前に問題となった事など知らない。
 翌日、三日間の登校拒否が解けた二人が学校に行くというので、シンジは車で迎えに行ったのだが、その三十分以上前に二人は家を出ていた。
 何としても良い物を、と頼む我が儘な素人娘達の依頼により、モミジの教え方はかなり厳しい物であった。
 これなら一応大丈夫です、と言われたのは最終日の明け方であり、しかも、
「シンジ様の好みに合うレベルにはまだまだです」
 と付け加えられている。
 そんな二人だが、夜勤明けで帰ってきたサツキが一つ食べて、まあまあだと書いたメモを残した事もあり、一応自信はある。何よりも、最初に作った時より遙かに上達しているのは自分達が分かっているのだ。
 新人研修ならぬチョコ研修で、学校まで休んでいる二人に、
「シンジ様は何をしているのかご存じありません」
 とモミジがはっきり言い切った。
 つまり、期待も望みもされていない可能性が高く、シンジの驚く顔が見たいとテンションも上がっている二人である。
 無論、二人が風習を知ったからとて、シンジが彼女達に何やら期待したり望んだりする可能性からは目を背ける事など、言うまでもない。
「『行ってきます』」
「行ってらっしゃい」
 嬉々として二人が出かけていった直後、サツキが起きてきた。
「モミジさん済みません、あいつらのお守りに付き合わせちゃって」
「いいんです」
 モミジはうっすらと笑った。
「レイさんは別として、アスカは今大きな物を抱えていますから、あまり底辺まで落ち込んじゃうと回復に時間が掛かる可能性があります。こればかりは、アスカが自分で納得しないといけないし、アドバイス出来るのはサツキさんだけですから、わたくしは違う所でお手伝いを」
「私ですか?」
「はい。わたくしやシンジ様では、どうしても力を持つが故にアスカとは立場が異なりますから」
「私でも、別に何が出来るって訳じゃないんで…まあアスカなら自分で何とか出来ると思ってますがね」
 まだ散らかっているテーブルの上を見て、
「モミジさんは、どうされるんです?」
「わたくしは、今年は見物だけしていようかなって思ってます」
「駄目ですよ」
 ぽん、とモミジの肩を叩き、
「ご自分の位置を間違えちゃいけませんよ」
「べ、別にわたくしはそんな事は…」
 確かにアスカとレイの重要度は高いし、モミジが二人を優先するのは分かる。
 ただし、シンジからの評価はまた別である。
 なによりも最後の局面で身体を張って――命を賭ける必要なく――シンジを守れるのはモミジ一人しかいないのだから。
「ああ、そうだ」
 手を打って、
「小さなリボン型はどうです?」
「リボン型?」
「紐に付けておくんですよ」
 こう言われても分からない。ちょこんと首を傾げたモミジに、サツキは年長者らしく怪しく笑った。
「首にそれを付けた格好でシンジさんを待ってるんです。勿論服を着る必要はありませんよ」
 やっと分かったらしい。
「サ、サツキさん…わたくしはそんな…」
 瞬時に首筋まで染めたモミジだが、よく見ると完全否定の表情ではない。
 もしかしたら…満更でもないのかもしれない。
 一方家を出た二人は、勿論大事そうにチョコレートの包みを抱えている。気持ちが入っている、どころか文字通り魂の籠もった一品であり、二人の思いはこれがどう受け取られるかの一点に掛かっている。
 裏返せば、それ以外は全く眼中にないと言う事だ。
 とそこへ、
「おはよう」
「…あ?」
 姿を見せたのはマナであったが、アスカもレイもマナの事は知らない。
「誰よあんた」
「霧島マナです。第一中学校に転校してきました。惣流・アスカ・ラングレーさんですよね」
(…レイ)
(分かってる)
「そ、アスカよ。肩書きは現在非常に多忙中」
「え?」
 奇妙な返答にマナが眼をぱちくりさせるのと、すっとレイが前に出るのとが同時であった。マナの腹部にレイの手が当てられた瞬間、マナの身体は前に頽れた。
「死んでるの?」
「殺すわけないでしょう、眠らせただけよ。殺したと思ったの?」
「そこまで思わないけどさ、でもレイなら有りそうじゃない?」
 別に深い意味があった訳ではない。如いて言えば、徹夜明けのハイテンションでジョークがやや黒になったと言うところであろう。
 問題は、それはレイも同じということであった。
「別に有りそうじゃないわ。それに、そんな事をすぐに連想するアスカの方が誇大妄想狂だと思う。アスカって怖い子ね」
「…誇大妄想狂?何よそれ」
「妄想が日常化して、現実と妄想の区別が付かなくなった人を言うのよ。アスカみたいにね」
「『……』」
 二人の手から鞄が地に落ち、相手の頬を左右にぎゅっと引っ張り合ったのは同時であった。
 他人から見れば正直どうでもいい話に違いないが、当人達はカリカリ来てるようで、相手の頬を八方向へ縦横無尽に引っ張っている。
 頬が赤くなる位まで引っ張り合った二人だが、先にアスカが離した。
「朝から喧嘩してると気分悪くなる。もういいわよ」
 どちらかと言えば、煽ったのはアスカの方だ。ちょっとムッときたレイだが、これも続いて離した。
 二人とも暫くそっぽを向いていたが、いつまでも続けていられる状況ではない。
 ふう、と小さく深呼吸したアスカが、
「あたしが悪かったわよ。で、これどうするのよ」
 これとは無論転がっているマナの事だ。
「……」
「レイ?」
 未だ怒ってるのかと見たら、何やら考え込んでいる。
「どうしたのよ」
「さっき何て言ってた?」
「こいつ?」
「うん」
「転校してきたって言ってたじゃない」
「どうしてその転校生がアスカの所に来るの」
「え?」
「確かにアスカは有名だけど、人気があるのは男子生徒からでしょ。転校してきた女生徒がわざわざやって来るなんて変だわ」
 レイの台詞を理解したアスカの顔色が変わった。
「まさか爆弾持って突っ込んできたとかっ!?」
「大丈夫、それはないわ。でも…」
 マナのブラウスの袖をまくり上げ、
「この筋肉の付き方は、普通の女の子じゃないわ。単に変わった転校生でない事は確かね」
「って事はなに?あたしを誘拐でもしようとしてたって訳?」
「そうね…」
 身体をあちこちペタペタとまさぐり、
「それも違うみたい。武器も携帯も持っていないもの。いくら単細胞でも、いきなり来てアスカを誘拐出来るとは思わないでしょ」
「じゃあ、こいつは何なのよ」
「私に分かると思う?とりあえず、中に運びましょう。後はサツキさんにお願いした方がいいと思う」
 そう言うと、レイは弛緩したマナの身体を軽々と担ぎ上げた。体型差はさほど無い上に、気絶している人間の方が普通より重いのはアスカも知っている。
 何より、レイが身体を鍛えている所など見た事がない。
(レイって一体…)
 とまれ、初日からいきなり躓いたマナは、いきなり敵地へ担ぎ込まれるという大失態を犯した。アスカはともかく、レイの存在を軽視していたのが原因である。
 運ばれてきたマナを見て、刹那顔を見合わせたサツキとモミジだが、無論顔色を変えたりはしなかった。襲ってきたのではないと聞き、後は何とかしておくからともう一度送り出す。
「…三枚におろしますか?」
「おろすのも大変ですし、このまま学校へ送っておきましょう。それに、何を考えたのか、ある程度想像はつきますから」
「読めたんですか?」
「はい。おそらくですけれど」
 モミジが婉然と笑った頃、マンションを出たアスカとレイの前にシンジの車が滑り込んできた。
「もう登校拒否症は治ったの?」
「『え?』」
 シンジの言葉に、二人は一瞬顔を見合わせた。登校拒否症になどなった記憶はない。
 すぐに気がついた。
 サツキもモミジも、シンジには内緒にしてくれていたのだ。
 顔を見合わせて笑った二人が、鞄から大事そうに何やら取り出す。
「お兄ちゃん」「はいこれ」
「これ…誕生日?」
 シンジの認識に、バレンタインという単語はない。最初から想定外なのだ。
「もう、お兄ちゃんそうじゃなくて…今日は2月の14日だからお兄ちゃんに…」
 ここまで言われて漸く気付いた。
「もしかしてバレンタイン?」
「もしかしなくてもそれしかいないでしょ。い、一応…ホンサイなんだから」
(それはホンサイじゃなくて本命…)
 レイが声に出さずに突っ込んだ次の瞬間、車がスピンした。
 敵の襲撃が原因ではない。
 
 
 
 
 
(続く)

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