第九十話
 
 
 
 
 
「御前様、加持リョウジという男をご存じでおられますか」
「シンジの所に来た風来坊らしいの。膏薬か」
 はっ、と長良は頷いた。役職は総理付きのSPだが、その才はボディガードにのみ収まるものではない。シンジも掛け値なしに認める情報網を持っており、無論その中に加持リョウジの名前は引っかかっている。
「既に知っておられましたか」
「どちらが先やらは知らぬが、ゼーレとネルフの間で揺れ動いておるか」
「もう一つございます」
「三ツ股…となると日本政府か」
「内務省の手先として動いておりました。申し訳ございません」
 謝った長良に、ヤマトは軽く手を挙げた。
「よい」
 何を謝ったのかは、訊かずとも分かっていたらしい。
「元より、ネルフの調査は依頼しておらぬ。それに、目障りとあれば眺めているシンジが一番分かる。足手まといとなってなお放置するほどには、シンジの毛も抜けてはおるまい」
 そこへ、
「お言葉ながら、些か賛成しかねます」
 姿を見せたのはヒナギクであった。
 第三新東京市へ行ったシンジが妙に丸くなったと、最初はアスカやレイを良く思っていなかった。今でもさほど変わっていないだろう。
 ヤマト以上に、孫のアオイよりもシンジを可愛がっており、手元にいない孫への危険要素は最大限排除すべし、との意向なのだ。
「ヒナギクはさっさと排除せよ、とこう申しておる。これ以上シンジの周囲に要らぬ要素を置いてはならぬと」
「御前様は最近冷たくなられました。以前ならばいざ知らず、小娘二人のお守りに追われてシンジ殿もすっかり軟弱になってしまったというのにこのお言葉」
 長良が黙って聞いていたのは、ヒナギクが同意を求めてはいないと分かっている事もあるが、自分が来た本命の用件に直接絡む話だったからだ。
 ヒナギクが良人の最終決定に異を唱えた事など無いのは知っているし、また妻の意向を気にも掛けず決定するヤマトでもない。
 ここは黙って聞いておくのが良策である。
 ただし、ヒナギクの言葉にある意味で一理あるのが、違う意味で問題なのは間違いないところだ。現実を分析すればヒナギクの言葉の方が正しいのだろう。先日シンジに会った時、長良は一瞬シンジが別人になったのかと思った程だ。
 未だ自分を俺と呼ぶシンジに会った事は無いにもかかわらず、だ。雰囲気が丸くなったと言えば聞こえはいいが、シンジの裏家業を考えればあまり良い事とは思えない。どう考えても、シンジがこのままネルフにずっと残るとは思えないからだ。
「ヒナギクは、アオイには冷たいがシンジには甘すぎて困る。シンジの元へカードも着いたのに、我らが勝手に動いて嫌われてはそれこそ一大事じゃ」
「モミジさんが来られたとお聞きしました」
 ヤマトはうむ、と頷き、
「シンジの認識次第だが、モミジだけでも十分役に立つ。とはいえ、モミジをいつまでも起動させぬようでは、シンジ殿にも話はせねばならぬが。それより長良」
「はっ」
「わざわざ来たのは三ツ股膏薬の貼られ所のみではあるまい。膏薬が破壊工作でも始めたか」
「いえ、まだ確証は。ただ接触した内務省側には、現在の内閣に否定的な者が背後についております。総理はシンジさんのおられるところへ手を出す程、愚かではありませんが」
「内部工作位はしてのけるか」
「十分あり得るかと」
「分かった、シンジへの通達は任せよう」
「かしこまりました」
 最後まで説明を受けずとも分かっているヤマトであり、また言わずとも伝わる事は分かっている長良である。
 使徒に敗れる事は人類の滅亡を意味している。それが分からぬほど暗愚ではないと思うが、日本の場合、政治の中枢をロクデナシが占めるという風習が古来からある。
 その為天空よりの飛来を除けば、いかなる場所からの襲来でも二分以内へ長良へ連絡が入るように手配したのだ。
 報酬など求める気はない。
 シンジがストレートに長良を認めているのと同様、長良もまたシンジを認めていたのだ――人類最後の切り札として。
 
 
 
 
 
「蜘蛛か…糸は嫌だな」
 シンジが緊張感の欠片もない声で平和な事を呟いた時、通信窓が開いた。
 レイからだ。
「何?」
「今回は私とアスカに任せて欲しいの。私が先に行くから。お願い」
 シンジは頷いた。
「任せる。どうせ地上には射出出来ないんだし、中の迷路は君任せだ」
「はい」
(……)
 完全に稼働していない以上、地上へは確かに射出されないが、エヴァがうろうろする道までレイは知っているのだろうか。
 主?とシンジが口にした直後、零号機が先頭に立って動き出した。無論さっきより余程広いが、格好だけは変わらずに三機が進む――匍匐前進だ。シンジの視界には、四つん這いでずりずりと進む弐号機が映っている。
 洋上で使徒に襲撃された時、アスカは弐号機用にマントを用意していた。本人は失神していたから知らないが、マントをひらひらさせながら艦上を移動していた時とはえらい違いがある。
 と、先頭の零号機が止まった。
 行く手を巨大なドアが塞いでいる。
 手で押す前に蹴り飛ばす事を選んだ。ドカドカと蹴飛ばしている零号機を見ながら、シンジはさっきの事を思い出した。シンジ達が通ってきたのは、いわば裏通路みたいなものだから所々塞がっており、中にはドアが開かない場所もあった。
「アスカそれ取って。二本ね」
 アスカに鉄パイプを持ってこさせ、何をするのかと見ていたら鉄パイプでボカスカと叩き始めたのだ。アスカも加わっての破壊作業は、実に楽しそうなものであった。
 見ていたシンジが笑ったのは、その光景にと言うより二人の動きにあった――彼女達の動きは掛け声もないのにぴたりと息の合ったものであった。先だっての影響がまだ識域下に残っているらしい。
 匍匐前進を続ける内に光が見えてきた。
「縦穴に出るわ」
 出た先は、両側の幅は広いが梯子など無く、三機は手足を使ってもぞもぞと上っていく。
 普段のレイなら、数秒早く気付いただろう。だが今レイが気にしているのは、迫っているであろう使徒の脅威よりも後ろにいるアスカの事であった。
 異変に気付いた時、上から滴り落ちてくる液体は既に銃身の先端を溶かしていた。
「いけない、避けて!」
「え?」
 伏せてとか、左右のどちらかに跳んでとか。
 テレパシーで意思伝達が出来る間柄でない以上、具体的な指示は必要であったろう。
 ただし現状は、銃を背負って手足をフルに使いながらよじ上っている格好であり、縦しんば意図を理解し得たとしても、仰向けに倒れ込みながら機体をブリッジの格好にして左右のいずれかに少し捻るのが精一杯である。
 そして当然ながら、アスカとレイはテレパシーで通じ合う仲ではない。
 使徒に集中しきれていなかった事もあり、叫んだ次の瞬間に手が滑った。バランスを崩した零号機がまず落下を始め、
「ちょ、ちょっとレイ避けてって言ったって…あーっ!」
 続いてアスカが落ちてきた。
「…なんか落ちてきた」
 この状況で呑気に呟いたシンジは、二機と少し離れて登っていた。別に考えがあった訳ではない。
 気負い込んでいるアスカの弐号機が真ん中にいる以上、どうしても先頭のレイは急かされるような格好になるし、自然と二機との距離は開く事になる。
 勢いを付けて機体を倒し、文字通り橋のような姿勢を取ったところへ二機が勢いよく落ちてきた。
 痛、と僅かに顔をしかめた時、三機の銃が勢いよく下へ落下していく。初号機の銃も衝撃で外れてしまったらしい。
 無論初号機はマットではないから柔らかく受け止められる筈もなく、二機を受け止めた部分だけが下に撓んだ格好でずるずると落ちていく。生身なら骨まで抉れるに違いないと思えるほどの摩擦熱に、機体の手足から火花が散る。
 何とか機体を停止させる事に成功し、カサカサと横穴に逃げ込んだ。
「あの、お兄ちゃん大丈夫?」「ごめん、あたしも油断してて…」
 数秒後に返ってきた返事は、
「二人とも一ヶ月間おやつ禁止」
「え?」
「重かった。ダイエットしてもらう」
「『えー!?』」
 
 
 
 
 
 暑けりゃ服ぐらい脱いだらどうだ、と言った男はとっくにシャツは脱いでいる。
 余計なお世話よバカ、と一蹴したミサトだが、多量の発汗の大半は温度とは関係なかったのだ――トイレが限界に近づいていたのである。
「そ、それよりアンタ、さっさと何とかしなさいよっ。熱中症でも起こしたらどうするつもりよ」
「そこまでの気温じゃないだろうが…そもそも手を打つと言っても俺しか無理だぞ」
「どういう事よ」
「扉を爆破すれば開くだろうが、俺もお前も無事じゃ済まない。葛城の銃で天井をぶち抜けば、俺は出られるが葛城は無理だ」
「その根拠はどこから来てるのよ」
「根拠?ああ」
 至極普通の口調で、
「運動能力とウェイトだな」
 言い終わらぬうちに、その顔面をミサトの踵が襲った。靴を投げたのではなく、綺麗な回し蹴りが炸裂したのだ。
 あれ?と首を傾げているのは撃沈されたリョウジではなく、ミサトの方だ。
(あたしにこんな戦闘能力あったかしら?)
 意識下に刻まれた印が能力にまで影響を及ぼしている事など、無論ミサトは知らないが、一瞬スカートの前をおさえてから慌ててぶっ倒れたリョウジを起こしにかかった。
 過剰な運動が沈静しかけていた一揆を再び呼び起こしたのだ――前にも増して尿意がぶり返してきたのである。
 
 
 
 
 
「本部初の被害が使徒ではなく、人間によるものだとはな」
「そうでしょうか」
 背後からの声に、ゲンドウは歩みを止めた。
「君の意見は別かね――私が一度しか知らぬ赤木リツコ君」
 直接は答えず、とにせリツコは婉然と笑った。
「ドリルを担いだ使徒が本部直上からせっせと穴を掘りました。あれも十分被害だと思いますが」
「そうだったかね」
「ええ」
 ゲンドウが振り向いた。
「私が、娘の頃から知っている赤木リツコ君なら何という?」
「同じ意見でしょうね」
「だった、ではないのか」
 言った途端ゲンドウの足が硬直した。にせリツコの瞳がある種の光を帯びたのだ。
 それは、男が決して眼にしてはならない女の目であった。
「あなた如きが私を相手に出来るなどと思わないことね。あなた程度の男には、自分をレイプした男を今でも想っている変人がお似合いよ」
 激烈な言葉ではなかった。
 凄まじい殺気を帯びてもいない。
 だが動けなかった。得体の知れぬ凄まじい気に打たれ、ゲンドウは立ちつくした。
「二度目は無いわ、忘れない事ね」
 冷ややかに言い捨てたにせリツコが、ゲンドウの事など忘れたかのように歩き出す。
 漸く呪縛が解けたのは、それから数分も経ってからの事であった。
 
 
 
 
 
「使徒の武器は強力な溶解液ね。あれで通路を作ってから悠々と侵入するつもりだわ」
「どうするの」
「殲滅するに決まっているでしょう。おやつ抜きなんて絶対に嫌」
(……)
 目的はともかく、理由が違う方向に行ってる気もしたがアスカは黙っていた。本当は自分一人で倒すつもりだったのだが、目下は倒す以前に手が出ない状況だ。
 回線はアスカとレイの間だけで開いている。
 おやつ抜きダイエットを言い渡された二人が、これは一大事と密談を開始したのだ。
「レイ、多分今回の奴は銃撃で倒せるはずよ。変な液吐くような奴が接近戦に強いはずがないし。あたしが盾になってるから、レイは降りて銃を拾って奴を攻撃して。いいわね?」
「却下」
「あの…レイ?」
「作戦はいいわ。でも銃を取りに行って撃つのはアスカの役目よ。今なら普通だし」
「普通?」
「そう。弐号機に土御門さんと一緒に乗れば数字が上がるのは聞いたわ」
 土御門、とレイが言った時言葉がわずかに籠もった。
 まだ完全に打ち解けてはいないのをアスカは知った。ただ、出会いと付き合いを考えれば、まだやむを得ないのかもしれない。
「でも今はアスカ一人だし、数字も平時と変わらない。私でもアスカでも受けるダメージにはさして違いがないわ。それなら、操縦能力の高い方が取りに行くべきよ。その方が時間は短縮出来る。痛いのが気持ちいい訳じゃないでしょう?」
「コンクリ詰めにしてLCLに放り込むわよアンタ」
 コンクリ詰めの単語は、この間過去の新聞記事を検索していて覚えた。外国人が日本語を覚える場合、どちらかと言えば悪の方の単語を先に覚えるのは常識である。
「なら決まりね」
 レイがにこりと笑う。
「分かったわよ」
 アスカは頷いた。丸め込まれたような気もするが、無論痛いのが良いと言うわけではない。ただ、危険な役目にあえて身を挺したいと気持ちが働いた事は事実だ。
 そしてそれが、勇敢とか使命とか言う単語とはやや異種の物から来ていた事も。
 レイがシンジとの回線を開いた。
「お兄ちゃん、私とアスカで使徒を倒すわ。作戦はこんな――でいい?」
「銃撃だけで片づくの?」
「うーん…多分」
 あまり頼りない。
 そこへ脳裏へモミジの声が響いた。
(今どこにおられますか)
(機体の中。蜘蛛は見た?)
(はい。さっきから溶解液を)
(だけ?)
 奇怪な問いで伝わらなければ盾はつとまらない。
(それ以外の能力はないと思われます。綾波さんとアスカで大丈夫でしょう)
 モミジの言葉に、シンジはうっすらと笑った。思考は読まれていない。
(分かった)
(お気を付けて)
 電波交信を終えたシンジが目を開いた。
「レイ」
「は、はい」
「任せた」
「了解」
 透き通るような笑みを見せたレイが通信を切る。
「アスカ行くわ」
「オッケー」
 
 
 標的はさっき一瞬姿を見せた――自らと同じ、だが今は敵である者達が。
 液体攻撃に退散したが、それきり出てこない。
 溶解液でそこら中を溶かしてからゆっくり侵入する気だ、とレイは言ったが、現在溶解工作は止まっている。
 或いは、自分と同じ存在を認めて待っていたのかも知れない。
 最初にアスカが飛び出した。最大加速に移り、一気に下っていく。間髪入れずにレイが飛び出し、さっきシンジが二人を受け止めたのと同様の姿勢を取った。
(あうっ)
 待っていたように溶解液が降ってきた。これが起動指数ギリギリなら、まだ痛みは軽かったかも知れない。
 が、レイの数値は平常時と変わらない――正確に言えば変わらなかったのだ。
 つまり今は変わっている。
 使徒退治、と言う点では使命感など無いし、アスカと違って誇りたい訳でも何かを賭している訳でもない。
 ただ現時点では違う物が懸かっている――すなわちおやつ禁止令の解除が。
 どの辺まで禁止なのかは分からないが、シンジが作ってくれない事はほぼ確定だし、何としてもスマートに使徒を退治して解除してもらうのだと、余計な気合いが入ってしまっており、それはそのままエヴァとのシンクロが進む事を意味している。
 僅かに眉根を寄せたレイが、ハンドルをぎゅっと掴んで懸命に堪える。ここで万が一自分が落ちたりでもしたら、何の意味もなくなってしまうのだ。
 五秒、十秒と時間が経つ間にも背中は焼けるような感覚に覆われていく。
 レイの口から遂に悲鳴が漏れかけたその瞬間、
「レイどいてっ!」
 叫んでからアスカは気が付いた――レイが退くのは、銃口の或いは溶解液の的になる事を意味しているのだと。
 この状態で一体どこに避けるというのか。
 刹那顔から血の気が引いたアスカだが、次の瞬間ぎょっと目を見張った。
 レイが躊躇うことなく手を放したのだ。
「なっ!?」
 思わず声を出しかけたが、そのまま固まった――にゅっと伸びた手が零号機の足を掴んで引っ張りあげたのだ。
 その時アスカは本能的に感じ取った。
 おそらくレイは、最初からシンジに引っ張ってもらうつもりだったのだと。或いは、最初からシンジに引っ張ってもらえる地点として、盾の訳を選んだ可能性すらある。
(ちゃっかりした妹じゃん)
 ほっと安堵しながら内心で呟いた時、当然のように溶解液が降ってきた。
 防ぐ物がなくなった以上当然であり、
「熱ちっ!こいつー!!」
 溶けるまでには行かなかったが、アスカに点火するには十分であった。
 ライフルが猛然と反撃し、劣化ウラン弾が火柱のように吹き上げる。忽ち使徒の身体は穴だらけになり、間もなく蜘蛛型の使徒はその動きを完全に停止した。
 なおコンクリ詰めの殺人事件に関する記事までで、アスカは検索を止めたのだが、次項の記事の見出しは『劣化ウラン弾』であった。
 かつて、矮小な欲望から劣化ウラン弾に興味を持ち、愚劣極まる騒動を引き起こした若者の記事があったのだが、使徒退治にそれを用いているアスカが読んだら何と言ったろうか。
 
 
 
 結局、夜になっても電源は完全復旧はしなかった。
 ミサトとリョウジは揃って姿を見せたが、二人揃ってエレベーターに閉じこめられていたという。
 ミサトの顔が不自然に赤らんでいたのだが、そんな事を詮索する余裕のある者は誰もいなかった。皆、後始末に追われていたのである。
 それよりも、珍しい事に赤木リツコ博士が使徒の残骸に全く目もくれようとせずに、ゲンドウに伴われて何処へ――リツコが連れ去ったように見えたとの証言もある――姿を消したのだが、上層部の秘密主義はいつもの事だしと、敢えて詮索しようとする者はいなかった。
 ただし、その目的と場所を知れば誰もが仰天したに違いない。
 何よりも、数時間前まで自分達が見ていた赤木リツコとは別人である事を知れば、間違いなく度肝を抜かれたに違いないのだ。
 職員達が後始末と復旧に追われている頃――。
 チルドレン三人組は小高い丘の上にいた。
 ここからは、まだ電気の復旧していない街並みがよく見える。
 空を見上げれば満天の星空がある。
「あんなに沢山あるんだし、一つ位僕のところに落ちてこないかな。いや、どうせなら景気よく一ダース位」
 そんな物が勢いよく落ちてきたら災害にすらなりかねない。
 シンジがろくでもない事を口にしたところへ、
「そんな事をお願いすると、隕石が降ってきますわ」
「中にエイリアンの卵付きで頼む。エイリアンのサッカーチームを作るんだ」
「妹軍団、の間違いじゃありませんか」
 どことなく棘があるように聞こえたのは気のせいだったろうか。
「蹴球だよ」
 シンジが視線を向けた先にモミジが腰を下ろす。
「よく寝ておられますね」
「あまり野宿はしたくないんだけど、どうせこのまま連れ帰っても真っ暗闇の中だから危ないし。傍迷惑な話だ」
 ぶつくさ言う割に、二人の髪を撫でる手つきにそんな風情はない。無論、シンジの脚を枕に寝息を立てているのはアスカとレイである。
 アスカは無傷だし、余分な意気込みのせいでダメージが増えたレイも、既に回復はしている。
 交渉の結果おやつ停止期間は三日に短縮されたが、運転免許であれば三十日からの短縮は一日になる。やはり暴君であろう。
 しかし二人にはそれで十分だったようで、気が緩んだのかぐっすり眠っており、目覚める気配は全くない。
「工作員の正体は?」
「確実な線はまだ分かっておりません。ただ工作自体は、熟練した者が行ってはいないとアオイ様が言っておられました。それと本部内で妙な物が見つかっております。職員が十名ほど、縛られて状態で発見されました。幸い命に別状はありませんでした」
「家に制服があるとは限らない。とりあえず入り口付近で拉致してから、カードを奪って堂々と押し入ったって事かな。だとすると、単純な破壊工作じゃなさそうだ」
「他にも目的が?」
「電気工事まで全部自給自足出来る組織じゃないでしょ。そっちは専門業者がいるさ。職員の制服姿で配電盤の辺りなんかウロウロしていたら、逆に怪しまれる。停電工作だけを狙うなら、業者に化けた方が早いし安全だ。それをしなかったのは、それ以外に何か知りたい事があったって話だ」
「そう思わせる手もありますわ」
「思わせる?」
「内部に手引きをする者がいれば、必要な情報はその者がいつでも提供出来るから破壊工作だけでいい――とシンジ様のような事は、少し気が利けば考えつきますわ。手引きする者がいないから職員のカードを奪い、時間がない中無理矢理工作したように見せれば、内通者にとっては好都合でしょうね」
「そこまで考えるかな」
「単純なスパイであれば考えないかも知れませんけれど」
 声は違うところから聞こえた。
「あれ、マユミ嬢?」
「病院の面会時間が終わったのでモミジさんにくっついてきました」
 マユミは寝息を立てている二人の顔を覗き込み、
「二人とも、幸せそうな顔をしておられますね」
「ほっといてくれ。何時から人相判断するようになったのさ」
「モミジさんに教わりました」
「最近僕の環境は悪化する一方だな」
 ぼやいてから、
「さっき妙な事言ってなかった?」
「ネルフの地位とその重要性を考えれば、ある一方からだけスパイとして送られている可能性は低いと思います」
「どうして」
「どの辺りに根拠があるのかは分かりませんが、一応有能の評価がされていました。あまり当てにはならないと思いますけど」
「それはどうかな」
 アスカとレイの髪を指で梳いたシンジが、途中で手を止めた。引っかかったらしい。
「確かに、もう少しでユリに八つ裂きにされるところだったし、アスカを嗾けようとしてたのも愚策だ。けど、ユリの糸は一度体験した者じゃないと分からない所がある。科学で分析出来るものじゃないからね」
「アスカさんの事は?」
「どこまで見切っていたかは知らない。但し、僕がアスカを殺したりはしないと最初から踏んでいた筈だ。実戦に投入可能なパイロットは現在三人しかいない。例え気に入らなくともその一人を殺したりはしないだろうと――」
「或いは二股のスパイかも知れない軽薄な人を、随分と買っておられるんですね」
 マユミの中で加持リョウジの評価が最低ランクなのは、ある意味仕方のない事なのかもしれない。
「そうじゃなくて僕の評価」
「『え?』」
「少なくとも気に入らないチルドレンを抹殺しない、という程度の評価はされてたって事。高いか低いか分からないけど」
「『……』」
 マユミとモミジが顔を見合わせた。加持リョウジを気に入らない一味に、もう一人追加されたらしい。
「積極的に邪魔したりしなければ、詮索する気はないよ。するのも面倒だし」
「でも何か企んでいて今回のような事を引き起こしたら…」
「困る。ただ問題は」
「『問題は?』」
「工作員を範囲限定にして検索出来るほど、ネルフの好感度は高くないって事。今度、時間があったら二人で工作員のデータベースでも作っておいて。怪しい奴がいたらその中から検索するから」
「はい」
 頷いたモミジが、
「霧島マナという娘はどうされますか?」
「欄外参照で」
「かしこまりました」
 最初から問題視はしていないらしい。
 三人がぼんやり街並みを眺めていると、次々に灯りがつき始めた。ほぼ復旧したようだ。
「碇さん、私達はお先に失礼します」
「うん…私達?」
「今日はマユミさんのお家に泊まる事になりましたから」
「一人で寝るのが怖いので、モミジさんをお借りしますね」
「それって僕は今日一人で寝るって事?」
「碇さんは私と違って大人ですから、独り寝も大丈夫でしょう。じゃ、お休みなさい」
「シンジ様、おやすみなさい」
 モミジを連れてマユミはさっさと帰ってしまった。
「まったくモミジのやつ…僕ももう家に帰る」
 とりあえず二人の頭を降ろそうとしたシンジだが、その手が途中で止まった。
 脚が痺れて動かないのだ。脚を伸ばした状態で、そこに娘二人の頭が載っているからかつて無いほど血液の流れは強制停止させられている。
 こんな痺れ体験など、生まれて初めてだ。
「一つ覚えた」
 状況を打開すべく、再度移動作業に入ったシンジの感覚が、後方から接近する気配を捉えた。この状態で襲われた場合、抵抗など出来よう筈がない。
 三人揃って仲良く捕まった挙げ句、人質にされてネルフ本部の日本撤退など要求されたら一大事である。
 戦自のように、潰せないと分かってはいるがネルフを目障りに思っている所は少なくはないのだから。
 シンジの手が懐中に伸びたが、何も抜き出される事は無かった。アンテナが、知り合いだと判断したのである。
 姿を見せたのは、機関銃と毛布を持ったサツキであった。
「シンジさん、ここにおられましたか」
「星空を眺めてると果てを想像したくなるのは悪い癖だよね」
「あれは想像しちゃいけません。ところでこの二人、起こしますか」
「いや、いいよ」
 サツキが毛布持ってきたのに?とは言わなかった。言えば、間違いなくこれにくるんで持って帰る為だと言うし、また実行するだろう。サツキはそういう女である。
「多分朝まで起きないから、気温対策をどうしようかと思ってたところだ。その毛布貸してくれる」
「分かりました」
 ちゃんと最初から三枚ある。二人のテイクアウト用だけでは数が合わない。
 シンジの横に腰を下ろしたサツキは、肩に軽機関銃を掛けており、身体には弾帯を巻き付けている。これならシンジが全く動けずとも、危険が迫る事は皆無に違いない。
「アオイ様からご伝言が」
「アオイから?」
「痺れると動けないからサツキに任せて寝てなさい、との事でした」
「さては暗視用の監視カメラで見張ってたな。人権侵害だ」
 内容と比して、口調はどこか嬉しそうにも聞こえる。
「この二人は使い物になってますか?」
 少しの間二人の寝顔を眺めていたシンジが、
「エヴァの操縦技術なんてのは些細な問題で、肝心なのはメンタル部分にある。そこは僕が触れる部分じゃないし、どうこう出来る所でもない。サツキには感謝してるよ」
「…そうですか」
 よく分からない答えだったが、サツキは否定も肯定もせず、バッグからビールを二本取り出し、一本をシンジに渡した。
 缶の触れ合う小さな音が、夜空に吸い込まれていく。
 
 
 
  
 
 数日後、第三新東京市にある中学校は、一人の転校生を迎えた。
 珍しくも何ともない出来事だが、この時期に於いては別だ――第三新東京市は、いわば戦時中なのだ。
「霧島マナです。よろしくおねが――い?」
 今日訓練の類がない事は分かっている。その証拠に、チルドレンの中心たる少年は自席で居眠りしているではないか。
 だが――マナの目指す少女は無論、もう一人の姿も席にはない。
「どうかしましたか?」
「い、いえあの…そ、惣流・アスカ・ラングレーさんは?」
「アスカならレイ共々休み。詐欺の甘言に惑わされない修行らしい」
 声の主は、居眠りしているように見えた少年からであった。
 
 
 
 
 
(続く)

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