第八十九話
「従者に追い出されるご主人様は、歴史上枚挙に暇がないけれど…」
「言わないで」
シンジの声がどこかくぐもって聞こえるのは、枕に顔を埋めているからだが、その背に乳房を乗せて潰れるままにしているのはアオイである。
シンジはアオイと暮らすべし、とその主張が通らなかったモミジは、強硬手段に訴える事にした。と言ってもその方法は単純で――シンジが家に帰ってきたら入れなかったのだ。完全に結界が張られており、入るには壊すしかないのは一目瞭然であった。
いきなりやってきたシンジに、アオイは一瞬驚いた表情を見せたが、
「おうち入れないの」
シンジの言葉にうっすらと笑って招き入れた。そもそも、モミジが自己主張する事自体が珍しい。シンジの手足たる事を誇りとしている娘が、言う事を聞かないからと言ってシンジを追い出すなど、余程考えての事だろう。
それに、今夜一晩だけなのは分かっているのだから。
二人揃って風呂に入り、今はベッドでごろごろしているところだ。
「使い魔に追い出される間抜けな主人なんて初めてだ。とっ捕まえて縛り首にしてくれる」
「縛り首じゃあまり意味がないと思うけど?」
「やる事に意味があるんだ」
シンジの身体が回転して上を向いた。二人の裸の胸が重なり、視線が絡み合う。
二人の唇が重なるまで、数秒と掛からなかった。
「んっ…」
唇の間をつなぐ透明な糸をアオイの細い指が絡め取る。
「ところでオリジナルはいつ頃出てくる?」
シンジの言葉に、一瞬前までの甘い空気は微塵もない。
「あと数日でしょうね。秘かに手を貸してると連絡が入ってるわ」
こちらも普段の口調に戻っているが、乳房はまだシンジの上で潰れたままだ。
「使い勝手と性能を考えればダミーの方が楽なんだけど」
「本人は戻ってきたいみたいよ。怪しい発明に勤しむ方が好きみたいね」
「創り主が作り方を間違えたな。ろくな事しないんだから」
ろくでもない事を口にしてから、アオイの胸に手を伸ばした。自分の胸の上で形を変えている乳房に指を当てた。少し力を入れると、今度は肩に触れる。
「ん〜」
少し首を傾げて、
「あと三日?」
「ううん、あと二日」
「それはちょっと大変」
口調からしてどう聞いても大変そうには聞こえないのだが、おそらく肩だろう。アオイの場合、生理が極めて軽い代わりに、シンジの手に余る大きさの胸の代償が肩へダイレクトに来る。
普通なら大して影響もなさそうな話だが、アオイの場合は技に、即ち気砲に影響が出るからそうもいかない。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
シンジの身長は平均とさしてかわらず、アオイとは三十センチ近く差がある。月光に照らし出されたシンジの横顔を優しい視線で見つめたアオイが、腕の中にシンジを抱き寄せた。
二人とも半裸だが、くっついて寝ていた場合、どんな季節でも風邪を引いた事が無いのは二人組の特徴の一つでもある。
しまった釣られた――。
マヤに手を握られ――掴まれていると言った方が正解か――ながら、リツコは自分がある意味罠に嵌った事を感じていた。
元より、妖鳥から受けたマヤの傷がほぼ完治しているのは分かっている。ぱっくりと開いた傷口も、リツコですら信じられぬほどの医療技術が施された結果、しばらくの安静が必要ながらもあっさりとヤマは超えていたし、そのくせにいつまでも退院を言い出さないのは自分に甘えているからだ。
ただ以前ほどの欲情は見せないものの、リツコとしては素直に喜べない。
「それだけ元気があるなら大丈夫ね」
と言われたくないだけの話であって、決してノーマルに戻った訳ではないのだ。
とはいえ、やっと秘薬も完成し、あとはいきなり人体実験で効果を試すのみと、妖しく笑ったリツコだが、これでにせリツコをさっさとお役ご免に出来る、と思わない辺りは今のリツコを表している。
自分のダミーに取って代わられた事よりも、やはり女として負けた事が悔しくてたまらないのだ。
元が赤木リツコなのに、にせリツコはゲンドウに全くと言っていいほど関心を示していない事が、悔しさを煽る反面安心して妙薬の開発に勤しめた原因でもあったのかもしれない。
とまれ、一応薬は出来た。ただこのままマヤを放置して帰るのはさすがに気が引けた為、早く退院するのよと一言だけ告げて帰ろうと思ったのだが、来た途端いきなり室内が真っ暗になった。
停電だとは分かったが、仮にも長門ユリの管理下にある病院が停電対策を取っていないとは思えない。病院における停電は、それこそ人命に直結するのだ。
(ん?)
少し離れた所で気配がした。どうやらそっちはついたらしいと気がついたが、この部屋は依然点く様子がない。
(しまった…)
軽傷患者の、と言うより殆ど治療を要さない患者は後回しにされるのだろう。リツコが冒頭の台詞を呟いたのはこの時である。
停電の原因は分からない。
一つ分かっている事は――今自分はマヤに力一杯しがみつかれ、まったく身動きが出来ない状況にあると言う事だ。
ユリの言う事を聞き流したのだが、シンジは別段後悔してはいなかった。
防衛網を張る為に、施設内部はほぼ把握したと、確かユリはそう言った。
ふうん、と頷いたのみで気にしていなかった結果、侵入口は分からない。
ただし、レイがいる。
レイの示した地点から少し離れた場所に車を置いて、三人はてくてく歩いてきた。無論巨大な物体の進行してくる音は聞こえないが、長良が自分に悪戯電話をしてくる筈はないとシンジはあっさりと信用している。
「お兄ちゃん、ここから入れるわ」
レイの指した先には、取っ手の付いたいかにも重そうな金属製の扉がある。
「了解」
頷いたシンジが、呪符に何やら書くと扉に向かって投げつけた。
数秒経っても何も起きない。
「ん、大丈夫みたい」
「どうかしたの?」
訊ねたアスカに、
「少女愛好家の院長が罠を張ってる可能性があったから」
「罠?」
「そ、罠。一歩足を踏み入れた途端に足が膝から上と下でお別れだ。あんまり好ましい結果じゃないでしょ」
「ぜ、絶対に嫌」
「だから確認したのさ。問題ないみたいだし、さて行きますよ」
金属製のハンドルに手を掛けると、錆び付いてはいないが結構重い。
手を放そうとしたところへそっと手が触れた。
「あの、私も手伝う」
「あたしも」
「うん」
二人の手助けに頷いたシンジだが、シンジを良く知る者が見れば、微妙な表情に気付いたかも知れない。
勢い余って転ばれても困る。
と言うよりも、呪符でさっさと爆破しようと企んでいたのだ。本来なら十秒ほどで済むところを五分近く掛かって何とか開けた。
(何かおかしい)
とシンジは朧気にしか感じていなかったのだが、他人が見れば気付いた筈だ――アスカとレイが足を引っ張っていると。
シンジの手に自分の手を重ねているが、微妙な所で手を抜いている。表情を見れば分かるのだが、シンジは気付かない。最初から疑っていないのだ。
結局シンジ一人が苦労して扉を開け、
「中に罠はない。待ちかまえてる奴もいないから、二人が先に行って。僕は最後尾から付いていく」
はい、とレイはすぐに頷いたのだが、
「ちょっと待って」
アスカが待ったを掛けた。
「何?」
「あ、ううんレイに話があるの。レイちょっと来て」
(いやその辺に使徒が寿司の折り詰めを持って来てるんだけど…)
数メートル離れた所にレイを連れ出し、何やらヒソヒソと話している二人を見ながら内心で呟いたシンジだ、まあいいかと軽く肩をすくめた。
(じゃ、今の内に)
耳朶のピアスへ触れかけたが止めた。アオイに連絡しようかと思ったのだが、放っておいても本部へ来るのは分かっている。
とりあえず自分が二人を連れて本部まで行く方が優先だ。
距離を取った以上、自分に聞かれたくはあるまい。だからちらりと一瞥を向けたのみだが、その表情が微妙に動いた。
(…紛糾してるし…)
口論までは行っていないが、アスカが何やら頼み込み、レイが断っている状況だ。
まったくもう、と内心で呟き、足音を忍ばせてこっそりと近づいた。こちらには背を向けているからシンジには気付かない。
そっとアスカの背後に回り込んだシンジの手が腰に伸びる。
「こらっ」
ワサワサとくすぐった途端、アスカが奇妙な声を上げてへたり込んだ。クリティカルヒットだったらしい。
「僕を差し置いて何を密談している?」
「な、何でもないわ、ね、ねえレイっ?」
「ええ、大したことじゃないの」
とりあえず連携は出来ている様子だが、あっさりと釈放する為に忍び寄って少女の身体をまさぐった訳ではない。
「そ。分かった」
あっさりと頷き、
「じゃ、君らはここで永久に議論していて。僕が一人で本部行ってくるから。じゃ」
くるりと背を向け、さっさと歩き出した背を慌てて二本の手が掴んだ。
「あ?今何と言った?」
「だ、第三新東京市と連絡が取れません」
報告した部下を一瞬険しい視線で睨んだが、すぐに緩めた。
別にこの部下が何かしでかした訳じゃないし、虚偽の報告をしたりもするまい。問題は、対使徒用に働くべき連中と連絡が付かないという事だ。
変な物体が旧熱海方面へ進行中の一報はとっくに入っている。無論、迎撃はロボット軍団の役目だから、形式通り保安シフトにした上でネルフへの連絡を命じた。ネルフによる使徒の迎撃は、時折危ない所もあるが総合的な目で見れば大苦戦の様子もないし、何より自分達に何かが出来る話でもない。
全面信用はしていないが、まあ大丈夫だろうと、何分で使徒が来るか賭けでもしようかと思っていた所へ、部下が思わぬ報告を持ってきたのだ。
「まったく使えない連中だ」
ぼやいたが、すぐに名案は浮かばない。政治の中心となっている第二東京だが、使徒進行中とネルフ孤立の報が同時に伝われば、さっさと逃げ出すのは分かり切っている。
元より政治家など当てにするものではない。
数秒腕を組んで考えた後、
「あと五分だけ待て。何とかネルフと通信出来るよう最大限努力しろ」
「はっ」
直立不動の姿勢で頷いてから、
「それで、もし繋がらなかった場合は如何なさいますか」
部下の問いにふっと笑った。
「使徒接近を知らなければ、住民への避難勧告も出せまい。飛ばす用意はしておけ。地声で街中に宣伝出来る位の奴を積んでな」
「了解しました」
「……」
置いて行かれるとあっては、二人に選択の余地はない。否応なしに白状させられた企みの内容をシンジは黙って聞いていた。
すぐに反応はない。
「お、お兄ちゃ…」
言いかけたレイの言葉は途中で塞がれた。
シンジが引き寄せて抱きしめたのだ。
(あ…)
アスカが反応する間もない程であり、離れるのもまた早かった。おそらく数秒もなかったろう。
あっさりした離し方だったが、レイには十分だったようで、ふやふやと赤くなっている。
「行って」
「は、はい…」
嬉しいとか言うよりも、まだ信じられないと言った表情のレイが、少しぎこちない足取りで歩き出す。
ただその顔色と首筋は心の動きを如実に物語っている。
そのレイを羨ましそうに見たアスカが、ちらっとシンジを見た。ほんの一瞬で、おそらく気付かれぬように見たつもりだったのだろう。
が、それに気付かぬシンジではない。
ピッと伸びた指の先は背後を指している。
「え…?」
アスカが後ろを向いた直後、肩口から伸びた腕が交差した。あっ、とアスカが小さな声を上げた時には、頬と頬が触れ合っていた。
(ちょ、ちょっともう、や、やだそんなっ…)
自分でも意味不明な声にならぬ叫びをあげたアスカだが、これまたレイの時と同様あっさりとシンジは離れた。
「アスカ」
「あ、う、うん」
「行って」
はい、と頷いた時、ぼうっと立ちつくしているレイの気持ちがよく分かった。普段はこんな事をしない、と言うよりまずしてくれない。
この間レイと共同作戦で使徒を倒した晩、左右から二人に手を握られたまま一夜を過ごしたがそれ以来である。
思考がまだ事態をよく把握していないが、一気に回転数の上がった心臓と熱を帯びたように火照った頬はこれが夢でない事を教えている。
「レイ」
「うん…」
顔を見合わせた数秒後に漸く歩き出した二人だが、殿にいる少年が何を考えているかなど知る由もない――数えていたのだ。
(五・四・三・二・一…)
カウントダウンから一秒のズレもなく、ふやふやと赤くなった娘二人は仲良く天井に頭をぶつけた。
シンジの口元に笑みが浮かんだが、嘲笑っているそれではない。
この辺りシンジの思考はよく分からない。
「やはりこの停電は人為的な物で間違いなさそうだな」
「切断された痕が三十カ所近く、プログラムによる隠蔽工作も二十件ほど見つかっています。これで過失から来た停電なら、出入りの業者は全員入れ替えですわ」
「そうだな…」
頷いた冬月だが、ゲンドウが微妙に視線を逸らしている事にはとっくに気が付いている。無論、自分にではなくリツコにだ。
やはり目の前にいる赤木リツコはどこが違うのだろうと思ったが、次の瞬間それは決定的になった。
既に館内の残った電源はMAGIシステムの維持に回し、人命よりも優先してある。人命は地球より重いなどと言う戯言がここで通じないのは無論だが、空調が一気に悪くなるのは避けられない。灯りが蝋燭だけになったのを良い事に、悪の総司令と副司令は二人して水の入ったバケツに足を突っ込んでいる。
それでも身体がじっとりと汗ばんでくるのは避けられない。
だが目の前にいるリツコの服は胸元までチャックが上がっており――何よりも汗一つかいていないではないか!?
何とか表情を変える事は防いだ冬月だが、同時にとある事に気付いた。
確かに目の前のリツコは偽者かも知れない。
しかし自分は何を持ってそう言っているのか?
もしも口に出したとしよう。無論、リツコがはい私は偽者ですという訳がない。何を証拠に言うのかと反駁された時、自分が何一つ材料を持っていない事に気付いたのだ。
この気温の中で平然としている事か?リツコの体機能など把握していない。
自分と接する時の違和感か?気のせいだと笑われるだけだろう。
それはつまり、首脳部に偽者がいても炙り出せないという事になる。勿論そんな事はゲンドウの方が分かっているはずだが、目の前にいる赤木リツコの姿をした女に対して警戒している節は全くない。
(気付いていないのか?いや、そんな事は無いはずだが…)
酔客に絡まれてあっさりと袋だたきにされ、冬月を身元引受人に指名して以来だから二人の付き合いはもう結構な長さになる。
斜め後ろにいる自分の懐刀が何を考えているのか位、分からぬゲンドウではない。
(分かっている問題に全て手を打てる訳ではあるまい…冬月)
思考がループしているらしい冬月は放っておいて、
「手は打ったな」
「外部との接触を最優先にしてMAGIを稼働させています。それと復旧ルート調査防止用にダミーを」
「分かった」
ゲンドウが頷いた時、不意に羽音がした。
「!?」
リツコの肩に舞い降りた妖鳥は、無論モミジの分身とも言うべき存在であり、つい先だってその一撃にマヤが重傷を負った事はこの場にいた者全てが知っている。
冬月のみならずゲンドウさえも一瞬顔色を変えたが、一人平然としているのはにせリツコである。根拠はない。ただ、この妖鳥がその気になれば、既に自分の首は根元からもぎ取られている事は分かっているのだ。
「あら?」
その足に紙が巻き付けられているのに気付いた。巻物状になっているそれを開いて中を読む。
書かれていたのは漢字五文字であった。
すなわち、
「使徒接近中」
と。
「碇司令」
「どうした」
「使徒が接近中のようです」
「良いタイミングだな」
ゲンドウは立ち上がり、
「冬月、後を頼む」
「何?」
「この鳥なら飼い主はアオイだ。使徒が接近中だから本部から退却しろと言ってくる娘ではない。私はエヴァの起動用意をしてくる」
ゲンドウの台詞には繋がりがない、と少なくとも冬月にはそう聞こえた。使徒接近が事実だとして、どうしてエヴァの起動用意になると言うのか。
確かにその通りだが、ゲンドウが妖鳥の空気を読んだのだ――パイロットが別ルートで急行中、と。
極めて低い確率で外れだとしても、接近中の使徒に対抗しうるのはエヴァしかない以上、用意するのは無駄にはなるまい。
「君も来たまえ」
なぜかにせリツコに声を掛けて身を翻したゲンドウの後ろ姿に、冬月が呟いた。
「しかし碇…パイロットがいないぞ」
端から見れば、至極普通の意見ではある。
「アオイ様、この方は?」
「日向マコト、本部所属のオペレーターよ」
「そのオペーレーターの方がどうしてこんな所で寝ておられるのでしょう」
「モミジ、これは気絶というのよ」
使徒接近の一報は、長良ではなく祖父のヤマトから直接入った。シンジと連絡を取ろうかと思ったアオイだが、耳に手を触れてから止めた。
シンジの事だから、放っておいても二人を連れて本部へやって来る。実はシンジも同じ事を考えていたが、勿論そんな事は知らない。
とりあえずネルフ本部へ行くべく、モミジを横に乗せて車を走らせる途中で横転した車を発見した。見ると選挙カーで、候補者の名前が書いてある。それだけなら普通の事故だが問題は中にあった。
日向マコトがぶっ倒れていたのである。
聞いてなかったのかしら、とアオイが呟いたのは無論その原因にある。先だって渚カヲルと名乗る少年とカエデが、アスカを人質にして悠然と退却していったのだが、その時ゲートを気前よく破壊した為、急遽補強される事になったのだ。
シンジの呪符一枚で簡単に破壊出来る代物だが、誰かの面子も掛かっている事だろうしと、アオイは特に口出しはしなかった。まだ完全な補強ではないそんな代物でも、普通の車を防ぐには十分だったようで、勢いよく突っ込んでそのまま撃沈されたと見える。
さっき、自衛隊機が住民避難を呼びかけているのが聞こえた。ネルフ本部に連絡が付かない為、仕方なく機体を飛ばしてのアナウンスをマコトが聞いたのだろう。
だから広報機能を持つ選挙カーを一時徴収して、ネルフ内へ知らせようとしたのに違いない。
脳震盪位は起こしていようが、特に重傷でもないようだ。
「日向、良くやった」
気絶しているマコトに声を掛けたアオイが立ち上がり、
「モミジ、ユリに連絡を。それから赤木博士に使徒来襲を知らせて。自衛隊機が出てきた以上、だいぶ近づいていると見た方が良さそうだから」
「はい」
頷いたモミジが紙に文字を記して妖鳥の足に結ぶ。
「本部の赤木博士へ」
一声鋭く鳴いた妖鳥が飛び立っていく。
「アオイ様、おそらくシンジ様は本部へ向かっておられると思います。救急車を待たれますか?」
「モミジ」
「はい」
「シンジ達三人がここにいたら、シンジはこう言うわ。来るまで時間掛かるし、アスカはコーヒーでも買ってきて、とね」
「申し訳ありません」
確かにゲートの補強を知らずに突っ込み、あまつさえ一般人を巻き込んだ事故になった事は決して褒められた事ではない。とはいえ、緊急事態を知らせるべく処置であって私利私欲の為ではない。
マコトもまた、ネルフの一員なのだから。
ミサトが本部にいるかどうかは分からないが、もし居るなら指揮は任せればいい。若干ながらシンジからの評価が上がっている事は知っているアオイだ。
仮に居なければ、にせリツコがなんとかするだろう。
乗っていた候補者とウグイス嬢も幸い大事には至らず、十五分後、ユリが手配した救急車で運ばれていった。
多少縁起が悪いかも知れないが、頭の良いブレーンが付いていればこの一件を有効に宣伝材料として使うはずだ。どんなマイナス要素でもプラスに転換して考える、それが切れる政治家の条件である。
「二人とも…大丈夫?」
「『だ、大丈夫』」
大丈夫とは言うが、表情と声がそれを裏切っている。狭い通路内で、蜘蛛の巣やネズミを退治しながら進んできた三人だが、シンジだけ頭の形が違う。
アスカとレイは四回以上頭を壁にぶつけたのだ。急に匍匐前進を強いられた事もあろうが、シンジにきゅっと抱かれた余韻の方が遙かに大きな原因だった事は間違いない。
内部など殆ど知らないアスカはいざ知らず、よく知っている筈のレイにとってはプライドが傷つく話だが、二人の表情はまだどこか緩んで見える。
分岐点に出た。
「ここはどっちに?」
「こっち」
レイが左に歩き出した。
後に続いたシンジだが、ふとその足が止まった。
「ちょっと待って」
「なに?」
「二人ともここで待ってて」
そう言うとシンジは反対方向へと歩き出した。
「あっちって何かあったっけ?」
「何もないと思うけど…」
シンジは一分も経たずに戻ってきた。
「蜘蛛でした」
「『え?』」
「ドアを開けたら蜘蛛がいた。コアを持ってATフィールドを張れるやつ」
ふうん、と聞き流してから気が付いた。
「そ、それって使徒じゃないの!?」
「そうとも言う。凶暴そうじゃなかったけど、特殊能力が分からない。ちょっと急いだ方がいいかな」
「『了解』」
元気の良い返事が返ってきた直後、左右の腕がぎゅっと絡め取られた。ご丁寧に二人の胸に押しつけられている。
「…何?」
「だってここなら襲撃とかないじゃん。別にいいでしょ?」「使徒が来ているんでしょう?早く早く」
「……」
両腕を取られたままシンジが歩き出した数分後、ケージでエヴァの出撃用意をしていたゲンドウ達のところへ、天上からシンジが降ってきた。
無論、他のチルドレン二人を横抱きにしていたのは言うまでもない。
「お待ちしてました」
「チルドレン二つ宅配に来ました」
はい、と微笑して頷いたにせリツコが、
「もう出撃用意は出来ています」
「え?」
「人力で」
ほら、と蒸すような空間で汗一つかいていないリツコが指した先には、こちらは人間らしく汗だくになって、作業員達とプラグのハッチを開けているゲンドウがいた。
シンジ達に気付いたゲンドウが、来たか、と小さく呟き、
「シンジ、状況は分かっているな」
「さっき会ってきた。今回は蜘蛛だった」
「そうか。赤木博士から進路を聞いておけ。出撃!」
総司令官から直接出撃の号令が出るのは、これが初めてになる。
プラグに向かっていった三人だが、アスカのやや気負った表情に気付いた者は誰もいなかった。その表情は、シンジと腕を組んで歩いていた時の者とは、明らかに異質の物であった。