第八十四話
 
 
 
 
 
「シンジ通運です、まいど」
「……」
 どう考えても無闇にだだっ広いこの司令室に於いて、ゲンドウが訪れた者の為に立っていってドアを開けた事など一度もない。
「五分の一の広さで十分だよね」
 辺りを見回してから、さも勿体ないという口調で言った。
「銃撃されても困るからな。防衛施設は整っている」
「今度侵入してみようか?」
「…何の用だ」
「そうそう、だから宅配便だってば。印鑑ちょうだい」
 新聞紙でくるんだそれを麻縄で縛ってあり、包装を解くと中から包帯に覆われた物体が出てきた。いくらシンジでも、ミイラや爆発物を持ち込んでは来ないだろう。
 覚悟完了したゲンドウが中身を見た時、サングラスの下の表情が激しく揺れた。
「レイッ!?」
 出てきたのは、下着姿に剥かれた綾波レイであった。無論、新たに水槽から出され、目下ゲンドウの性具となっている方である。
「妙な物は持ってないと思ったけど念のため」
「…会ったのか…」
「それはほら、会ってもいないのを拉致してくるのは難しいわけで」
 シンジがそう言った瞬間、ゲンドウの表情が硬直した。すっと動いたシンジが、レイの喉元にナイフを突きつけたのだ。
 おもちゃでない事は言うまでもない。制止どころか、動く時間すらなかった。
「経緯を考えれば、殺す権利は僕にあるし、殺してもどこからもクレームはこない」
「ま、待てシンジ」
「ここへ来る途中で襲われたよ。もう少しで殺される所だった」
 誰が聞いても危機感の欠片も感じられない声でシンジは言った。
「私はお前を襲うように命令など出していない。それはお前が分かっているはずだ」
「だとしたら、尚更始末しないとね。水槽から上がってきたクローンは自我を持ち合わせていない。にもかかわらず、僕を殺そうとした。さっさと廃棄処分にしないと、次は父さんかもしれないよ?」
「……」
 確かに殺せとは言っていない。しかし、このレイがゲンドウの思考を深読みしてシンジの抹殺に出た事は間違いない。
 ゲンドウが最終目的とする人類補完計画に於いて、アオイとシンジが邪魔になりそうな事は確定の事実なのだ。ただ問題は、シンジがその気になった場合、ゲンドウにレイを救う術がまったくない、と言う事にある。
 権力ならいざ知らず、武術の力量に於いては天と地ほどの差があり、拳銃を抜いたとしても、その手にナイフを突き刺してから、悠々とレイを始末するだろう。こんな事なら、防衛レベルを上げておくのだったと後悔したがもう遅い。
「前回も最初は敵意持ってた。綾波レイのクローンには、碇シンジ敵視遺伝子でも流れてるらしい。困ったもんだ」
 ナイフを肌に当てたまますっと引き下げたシンジだが、血は一滴も流れない。
「まあいいや、どうせこれ始末してもまた次出してくるんだし。でしょ?」
「無論だ」
 当然のように頷くのが精一杯であった。ただし、シンジの表情に変化はない。クローンの存在について、少し考えに変化があったのかも知れない。
 ナイフを収めてから、
「そう言えば別件で…あ、思い出した。A−17発令だってさ」
「何、A−17を?」
「そ。浅間山の火口に使徒っぽいのがいたからとっ捕まえに行くんだってさ。僕は気乗りしないけどね」
「お前は反対か」
「出撃の可否じゃなくて」
「何が反対なのだ」
「変な法令出す事さ。今のところは街中で石ぶつけられたりもしないけど、これ以上恨み買いたくはない。ターゲットからの反撃なら潰せば済むけど、余計な拘束かけて恨まれるのはご免だよ」
「お前の目にはそう映るか」
「違うの?」
 ゲンドウはふっと笑った。シンジ未だ我が手中にあり、と思ったのかも知れない。
「一般人だけが相手なら、出さずとも良かろう。文字通りの一般人ならば、な。だが実際にはそうもいかん。発令するには、余計な所の許可がいる。それに、使徒の存在が秘されている以上、こちらから出撃する時にどういう事態が起きるかは、見当もつかんのだ。とはいえ、使徒の存在が分かった以上、座して攻撃を待つより出でて活路を見いだす方が得策だ。私の方から手を回しておく。許可すると伝えておくがいい」
「分かった。あ、それから」
「何だ」
「次は四肢をばらばらにして、薫製で持ってくるからね」
「管理しておこう」
 シンジが出て行ってから、漸くゲンドウはレイに近づいた。シンジなら分解しかねないところだが、とりあえず外傷は見あたらぬ様子に、ゲンドウは安堵の息をついた。素手なのか、或いは武器を持ちだしたのかは不明だが、一撃で撃沈されたのだろう。
 レイにとっては幸せであったろう。
「お前には、二人目ほどの強い意識は植え付けていないのだ。私の忠実な道具であればそれでいい――余計な事はするな」
 そう言って抱き上げた手つきは、壊れ物を扱うようなそれであった。
 
 
 
 
 
「レイ起きてる?」
「起きてる」
「何して…何やってんのよ」
 アスカが見たのは、着替えているレイであった。無論、それだけなら普通の事なのだが、来ているのはパジャマではなくシンジのワイシャツだ。
「ちょっと大きい…」
 きゅっと我が身を抱きしめてから、
「何か言った?」
「…なんでもない。あんた、そんなのどこに持ってたのよ?」
「鞄の中に入っていたの」
「もらったの?」
「開けたら入っていたのよ。きっと、どこかで紛れ込んだのね」
「レイのそう言うところだけは感心するわ。見つかったらまた怒られるわよ」
 そんな物が紛れ込む訳はない。こっそりと持ってきたのだ。
「お兄ちゃんは怒ったりしないわ。シャツの事くらいで怒るほど狭量じゃないもの。そんな事より、アスカは何考えているの」
「あたしが?何考えてるってどういう意味よ」
「弐号機の事よ。お兄ちゃんに弐号機に乗って欲しくないんじゃなくて、一緒に乗りたいんでしょう」
「なっ、何を根拠に言ってるのよっ。そ、そんな事ある訳無いじゃないのよ」
「そう?なら私の勘違いね」
 レイはあっさりと引き下がった。
「お兄ちゃんが弐号機に乗ると言った時、アスカが微妙な顔していたからそんな気がしたのだけど、気のせいだったみたいね。おやすみなさい」
(お兄ちゃんの匂いがする…)
 言うまでもなく、シンジは脱いだ物を放置するような事は嫌う。だから洗濯後のものであり、匂いなど無いのだが、レイにとっては十分だ。まだ少し頭は重いが、これならきっと良い夢が見られるに違いないと目を閉じた数分後、
「…なに?」
 アスカがベッドに潜り込んできた。
「さ、さっきのあれ…嘘。本当はその、あたしも一緒に…な、何か良い案ない?」
「……」
 折角良い夢を見る予定だったのに、と少し機嫌の針が下がったレイだが、見た目には分からない。
「別に…私が何かできる訳じゃないわ。赤木博士に頼めば何とかしてくれると思う」
 もう一人の方だけど、とは言わなかった。まだ、アスカのパニックを見て楽しむ時ではない。
「そっちの事じゃないわよ。そうじゃなくて…」
「お兄ちゃん?」
 アスカは小さく頷いた。
「駄目とは言わないわ。悪影響は出ないから大丈夫よ」
「ほんとにそう思う?」
「いいえ」
 レイは首を振った。
「え?」
「思う、じゃなくて間違いないわ。私が保証する」
「な、なんか随分強気だけど根拠あるの?」
 うっすらと笑ったレイが、アスカの頭を撫でた。
「アスカは私と違って問題児じゃないからよ。それに、お兄ちゃんの考えは私達に任せて帰る事だから、アスカを降ろす事は絶対にあり得ないわ」
「あたし達に任せて帰るってどういう事?」
「お兄ちゃんに聞いたでしょう。お兄ちゃんはエヴァなんて好きじゃない。本当はさっさと手を引きたいけど、私達が負けてサードインパクトが起きると困るから乗っているの。私とアスカを足してお兄ちゃん位の能力になればいいけれど、それは絶対無理。お兄ちゃんには最後まで一緒にいてもらうの」
「あれ、本気だったの?」
「…冗談だと思っていたの」
 機嫌の針が振れた事を知り、アスカは慌てて首を振った。
「べ、別に冗談だとは思ってないわよ。ただ、どうしてそこまで淡泊なのかなって」
「淡泊?」
「あたしみたいに自己顕示で乗るのもいるけど、普通は自分が守るからって思うものなんじゃないの?特に日本人の思想はそうだって、向こうにいた時習ったわよ」
「それは、第二次世界大戦までの話よ。今の日本人の大半は、そういう思想は持ち合わせていないわ。尤も、お兄ちゃんの場合には少し事情が違うけれど」
「何か知ってるの?」
「知らないわ。ただ、悟りとか虚無とか、そう言う事とは違うと思うの…妹としての勘よ」
 血は繋がっていないじゃない、と言おうかと思ったが止めた。どう考えても、レイとの関係を悪化させる以外に効果はなさそうだ。
「ふうん、じゃ、あたしの願いでもあんたの勘が当たる事祈ってるわ。おやすみ」
「おやすみ」
 十分も経たない内に寝息を立て始めた二人は、希望通りの夢を見ているらしい。特にレイの方は、口元が緩んでおり、掛け布団をぎゅっと抱きしめている。そんなレイは、無論シンジが三人目に襲われた事などは、文字通り夢にも知らなかった。
 
 
 
 
 
「で、相性は良さそう?」
 シンジの肩に乳房を乗せたアオイが訊いた。委員会に諮るから、結論は明日になるとの事で一旦帰ってきたが、サツキの所には戻っていない。肺炎まではいかないだろうと放っておいたのだ。
 横になって足に電流を当てているシンジの上にアオイが乗っているのだが、二人の間にローションはない。ローションが塗られていれば、殆どの者がその手のプレイだと思うだろう。
「悪くない。ただ、まだアスカには会いたくないらしい。アスカの方は、文字通りいると分かればだいぶ変わってくると思うんだけどね」
「まだ無理よ。だいたい、覚醒したのがついこの前でしょう。自分が精神に異常を来して娘を殺そうとした事を覚えていれば、そう簡単にはうなずけない話よ」
「アスカが間違いなく喜ぶとしても?」
「私には分からないわ。ただ…多分それが母親なのよ。女として、ではなくて母親の部分で自分を許せないのだと…そんな気がするわ」
「ふーん」
 よく分からない風情で頷いたシンジが、肩に乗っている乳房に手を当てた。
 数秒間当ててから、軽く指で押した。柔らかく押し返される。
「ちょっと調子悪い?」
「微妙にね」
「困ったもんだ」
 身体の下から抜け出したシンジが、腰を下ろして肩に触れた。
「少し凝ってる」
 慣れた手つきで揉みながら、
「ところで、どうして三人目が襲ってきたと思う?」
「綾波レイ?」
「ん」
「司令が唆す事はあり得ない。シンジに始末させたいのなら別だけど。副司令が怪しいけど、まだ療養中でそこまで気が回る可能性は薄い。やっぱり遺伝じゃないの?」
「だからアオイは好き」
 満足そうに笑ったシンジが、耳朶を甘く噛むとアオイの肩がわずかに動いた。
 普通に考えれば、三人目のレイが唆されてシンジを襲う可能性はまず皆無なのだ。よほど無知でなければ、シンジを始末できるなどとは考えないはずだし、そもそもそんな事を吹き込める人間自体が限られてくる。
 うっすらと赤くなった肌を楽しげに眺めながら、ゆっくりと肩を揉んでいくシンジ。
 二人の夜が静かに更けていく。
 
 
 
 
 
 赤木リツコはまだ出てこない。存在意義を見失ってぐれてるのかと思ったら、燃えているという。
 研究に励んでいると言うが、何を作ろうとしているのかは大方見当が付く。尤も、クローンの研究に突き進まれるよりは、その方がましだ。
 翌日出てきたシンジを待っていたのは、エヴァを火口内に放り込み、使徒を殲滅するという荒っぽい作戦であった。出がけに寄ったらまだ完治していなかったから、気乗りしないが初号機で出るかと思ったところで気が付いた。
 初戦に始まり、とかく装備不足がつきまとってきた使徒戦であり、まして火口に入る装備などあるはずがない。
「そう言えば、この当てにならない機体でそのまま入るの?」
「いいえ」
「装備があるの?」
「いいえ」
「…つまりこのまま行けって事だな」
「…用意してありますが、初号機では使用できません。弐号機になります」
「なんだあるならあると最初から」
「言ってます」
「ちっ…今なんて?」
「弐号機での出撃、と言ったんです。弐号機パイロットを起こして頂けますか。使えない状態ではないのでしょう?」
「ちょっと待って、アスカは病人だぞ。まして火口内なんてそんな局地に放り込むのに適した体調じゃない」
「と、言う事ですがどうしますか?」
 にせリツコがアオイを見た。
 コントみたいなやりとりを眺めていたアオイが、
「シンジの言うとおりではあるけれど、その時点の体調に左右されるから、ダミーは使えないわ。どうするの?」
「要らん。僕一人で十分だ」
「『え?』」
「僕が弐号機で出る」
(…はん?)
 シンジの台詞に、発令所の面々が振り向いた。いくらシンジでも、実戦経験のない弐号機で出撃するなど無謀きわまる、と言うより自棄になったか自惚れているとしか思えない。
「科学より母の執念、もとい情念の方が頼りになる。手配して」
「……」
 シンジがやると言った時、傍目にはろくでもない事であっても、失敗した事は現時点までない――そう、今までは。
 だが、今回はケースが違う。一歩間違えれば即人類の滅びに直結し、何よりも使う機体は初号機ではないのだ。
 さすがにこれだけは看過できぬと、ミサトが止めようとした時、
「構わん、やれ」
「碇司令!?」
 上段から口を出したのはゲンドウであった。無論、単にシンジの肩を持った訳ではない。委員会へ出てきたのだが、レイをどう保護したものかとそればかり考えていたせいで、頭の固い連中を説き伏せるのにえらく苦労したのだ。シンジが自分から言い出した以上、何らかの勝算はあろう。
 だとすれば、今なお寝込んでいるアスカよりも、ここはシンジを使ってみようと決めたのだ。体調を崩したアスカと、ピンピンしているが不慣れなシンジを天秤に掛けて、シンジの方が重かったという話だ。
「赤木博士から報告は受けている。火口内での捕獲、若しくは殲滅が絶対要件だ。忘れるな」
「…え?」
「どうした」
「捕まえるの?」
「可能な限り、な。出来なければ殲滅に移行しろ」
 始末ならまだしも、捕獲が優先とは話が違う。やっぱりアスカ起こそうかな、と内心で呟いたが、無論口にはしない。ただし、アオイにはきっちりばれている。
「ま、ぼちぼちやってみる」
 その言葉に、背筋を冷たい物が流れたのは、一人や二人ではない。正確に言えば九割九分がそう思ったのだが、何せ総司令が決断しそれを受けたのはその息子である。温いながらも軍隊方式を採っているこの組織に於いて、下っ端が口を出せる所ではない。
 かくしてシンジが弐号機で出る事が決まり、
「装備はこれになります」
 火口内でダイエットでもしてくるかと見に来たシンジだが、その足が止まった。何となく嫌な予感がしたのだ。
 気のせいかと思ったが、この手の予感は外れた事がない。
「本来はアスカ用ですが、着脱は可能なのでスーツは変えられます」
「分かった」
 もぞもぞと着替えてくると別段異常はない。
 内蔵型かとほっとしたシンジに、
「手首にスイッチが付いてます」
「ん…!?」
 押した途端、シンジの表情が硬直した――スーツはみるみるふくらみ、まるでだるまのような形状と化したのだ。
「…何これ」
「着脱可能な耐熱使用のツールですが」
「…そういう形而上の答えを欲している訳じゃなくてだな…」
「降りても構わないわ。別にシンジが出なくてはならない理由はないんだから」
「アオイ…」
 入ってきたアオイの顔を見たシンジは、その表情からすぐに思考を読んだ。
「出るよ」
 軽く手を挙げてから、
「機体はノーマルだと期待し…」
 ちょっとだけ申し訳なさそうに、にせリツコが見せた端末の画面に映っていたのは、まぎれもなく弐号機であった。
 どうみても宇宙服にしか見えない奇怪な白い物体に包まれており、明らかに着膨れしている。
「これって未来予想図?」
「ええ…」
「まあいい、僕の勘が外れなかっただけでも良しとしよう。こんなの見せたら乗りたがるまいよ。ちょっと騎手の乗り代わりを連絡してくるわ」
 アオイの顔を引き寄せて、軽く頬をくっつけてから出て行った。
 
 
 
 
 
 シンジが達磨と化す我が身の運命について考えている頃、アスカもレイも既に起きていた。二人とも、もう回復に向かってはいたし、レイの方は精神力で起動している所が大い。
「ダミーは配置しないから、万が一の時は猫に任せて」
 少しだけ寄って朝食を作ったシンジは、そう言い置いて出て行ったのだ。
 猫とは無論、レイの中にあるもう一つの人格である妲姫を指している。
 そんな事を言われてはいと頷いたのでは、綾波レイのプライドにかかわるというものだ。とりあえず洗濯物を洗濯機に放り込み、部屋の掃除に掛かったところで電話が鳴った。
「はい…お兄ちゃん?」
 レイの顔に笑みが浮かんだが、想った相手の要件はレイではなかった。
「お兄ちゃんから電話」
 ぶっきらぼうに電話機を突き出され、目をこすりながら起きあがったアスカを待っていたのは、仰天するような台詞であった。
「メール見ろって?ちょっと待って…」
 下着姿のまま部屋に行き、プログラムを起動して画像を見たアスカの目が点になる。
「なっ、何これっ」
「弐号機の現在進行形の図。アスカよく聞いて」
「…聞いてる」
「結局、火口内に行って使徒取りゲームする事になったの。どういう訳か知らないけれど、耐熱耐圧耐核の三点セットが揃ったスーツは弐号機用にしかなかったんだ。とりあえず司令の許可は出た。君はまだ万全じゃない事だし、今回は僕が行って捕まえてくるから」
「ちょ、ちょっと待って、弐号機で出撃した事はないでしょ?」
「ああ、それは心配ない。全くもって大丈夫だから」
「…ほんとに?」
「大丈夫、心配しないで。それに、アスカはこんな格好で出たくないでしょ」
「そ、そんな事はないけど…」
 どう考えても、アスカの戦闘ポリシーにそぐわないのは明白だが、それはさすがに言えなかった。例え見抜かれているとしても、だ。
「まだある」
「え?」
 自動的にネルフ本部と接続され、ある映像が映った瞬間、アスカは一口飲んだ水を吐き出した――白い達磨は本来アスカのそれだとすぐに分かったのだ。
「気乗りする?」
「ごめん、今回は出てくれる?あたしがそんな格好になったら弐号機で大暴れしそうだから」
「ん、分かった」
「それからその…」
「なに?」
「必ず…帰ってきてね」
「了解」
 死体でもいいのかな、と思ったが言わなかった。弐号機がこんな格好でなければアスカは間違いなく――這ってでも出てきたであろう事は、口調から何となく分かったからだ。
「僕の望みは叶ってないしね。じゃ、安静にしてるんだよ」
「うん…」
 電話を切ったシンジは、大きくのびをした。
「さて、行きますか」
 
 
 
 
 
「なかなか、愉快な格好だな」
「たまにはミイラの気分を味わうのも悪くないさ」
 ユリの一撃は、未だに日常生活から自由を奪っている。別段隠そうともしない包帯姿だが、隠せるほどの余裕はないのだ。とはいえ、雇用主は待ってくれる訳ではない。
「A−17が発令された。現資産の凍結も可能になったな」
 リョウジは黙って外の景色を眺めている。目の前にいるのは、一見すると普通の主婦だがその目つきは到底主婦の物ではない。
「なぜ止めなかった」
「困る人を見たかったのでね」
「ほう」
 女の声に危険な物が混ざった。一応銃は持っているが、今の身体では使いこなすどころか、半分も役に立ってはくれまい。
「今の俺は、生憎と完動体じゃなくてね。邪魔するほどの能力は発揮できない。それに――」
 言葉を切ってからタバコをくわえる。火を付けると、たちまち室内に煙が充満する――今二人がいるのは、ロープウェイの中であった。
 健康な正常者がいれば、眉をしかめるに違いない。
「A−17の発動を要請したのは、司令じゃない。理知じゃなくて、突撃隊長の方だ」
「信濃アオイとか言う小娘か」
 違う、と首を振ってから内心で苦笑した。実力を聞いてはいたが、正直アオイもユリも、リョウジの中では大した評価ではなかったのだ。要するに、この女と同じである。
 結果、この有様だ。与えられた報いとしては、重いと嘆くべきか軽かったと感謝するべきなのか。
「お前の元カノか」
「そう言う表現もあるか。とにかく、命令は正式な物だし、留め立てしようとするなら生半可な事では出来ないさ」
「あの命令の及ぶ範囲を分かった上で、そう言っているのか?」
 女の揶揄するような口調にも、リョウジは反応しない。
「サードインパクトよりはましでしょう」
 会話は終わった。
 
 
 
 
 
「と言う訳でよろしくね」
「どういう訳なの?」
「アスカが元気な姿で帰ってきてねって言ってた。つまり、怪我しちゃ駄目って事」
「善処するわ」
「よろしく」
 シンジの能力、と言うよりは魔力に反応してキョウコは覚醒するから、そこに意志は存在しない。相性について言えば、能力値はともかく初号機より遙かにいいのは間違いない。
 意識からして全然違うのだ。
 キョウコの意志で覚醒する訳ではないから、アスカが乗っても反応しないし、気まずいコアと一緒に戦う必要もなくなる。
「ふと思ったんだけど」
「何?」
「とても熱そうに見えるのは僕だけ?」
 吊されているシンジの眼下には待ちかまえるマグマがある。生身の人間が入れば、数秒と掛からずきれいに溶けて無くなるだろう。
「私は弐号機が壊れても痛みを感じる事はないから分からないけれど…ただ、熱そうだと言うのには同意するわ。でも、意識は集中していてね。最後はシンジ君なんだから」
「僕?どういう事?」
「あなたの力が強すぎて、私が操作までは干渉できないのよ。アスカが操縦するなら操れるんだけど」
 アスカが気を失っていないのに、超人的な動きで使徒を攻撃する弐号機の図がふっと脳裏に浮かんだ次の瞬間、
「あちちち」
 シンジの周囲は一気に熱を伝えてきた。マグマ内に入ったのだ。
「ダイエットするほどおなか出てないぞ」
 口にした時、
「シンジ君聞こえる」
「はいはい」
 声はミサトの物であった。
 アオイは今指揮を執っていない。シンジの頼みで捜し物に出かけているのだ。
「安全深度の範囲内で見つかればいいけど、もしかしたらそれ以上潜ってもらう事になるかも知れないわ。大丈夫?」
「安全深度は?」
「1000よ」
「んー」
 数秒考えてから、
「何とかなる」
 と答えた。
 既にモニターは切り替えているが、それでも殆ど見えておらず、文字通りの手探りである。キョウコの覚醒がなかったら、間違っても乗る事など選択しなかったろう。
 深度300まで潜ってから気が付いた。
(使徒の予想潜伏深度ってどの辺なんだ?)
 500、600と深度を下げていくと、さすがにシンジの身体も汗ばむようになってきた。耐熱使用のスーツと機体に包まれてはいても、完全に遮断できる訳ではない。
 深度は1000を超えた。
 依然としてミサトからの声はない。既に、キョウコには自分に気を遣わぬように言ってある。汗でおぼれようと、キョウコの役目は使徒を事前に探知する事であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 深度が1200を超えた時、目を閉じているシンジの耳が僅かな音を捉えた。機体のどこかに異常が発生したらしい。
(行ける?)
(まだ大丈夫よ)
(OK)
 1300に達した時、漸く声が掛かったが、ミサトからの物ではなかった。
「シンジ君、何か見える?」
「いや、何も」
 既に身体を覆う汗は不快を通り越して苦痛に変わりかけていたが、シンジはうっすらと笑った。にせリツコが無理して言葉を出しているのがよく分かったのだ。
 無論、リツコと同じようにシンジと接するプログラムなど全く与えられていない。にせリツコの声に、シンジはどうやらこの辺が潜伏先の予定地らしいと気が付いた。さっきミサトは安全深度が1000で、その範囲で見つかればとか何とか言っていたような気がするが、さっさと考えるのを止めた。
 これ以上思考に能力を費やすと集中力の維持に支障が出る。いかにシンジとは言え、この状況で全神経を研ぎ澄ますのは並大抵の事ではないのだ。
「あとどれくらい要る?」
 要るか、とは勿論深度の事だ。
「260です」
「設計上の限界は?」
「プラス200」
 にせリツコの言葉に、シンジは軽く目を閉じたまま頷いた。
「200も260も五十歩百歩だ。行こう」
 能力値に関しては、完全にリツコを凌駕しているにせリツコだから、再計算は任せておけばいい。何よりも、自分がここで何も持たずに浮上すれば、アスカの負担が増えるのだから。
 シンジのゴーサインは出た。にせリツコの指がキーを叩き、全力を挙げて再計算に挑む。居並ぶ面々に出来るのは、ただ見守る事のみだ。
 1400を超えた頃、不意に脳内で声が響いた。
(シンジ君気を付けて、何かいるわ)
 シンジの方は、画面は無論の事、本能にも違和感は感じていないが、キョウコがそう言っているのだ。間違えるはずもないだろう。
(分かった)
 頷いた数秒後、シンジの目が開いた。
(何かいる)
 見えたのではなく、感じたのだ――使徒とよく似た存在のエヴァに乗っているからこそ、感じたのかも知れない。が、依然としてモニターに反応はない。
(居るのは分かったけど、どこ?)
(待って)
 キョウコの方も、完全に掴みきれてはいないらしいが、その間にも何かが近づいてくる感覚はますます強くなってくる。
 それが頂点に達したその瞬間、
(後ろ!)
 叫びに似た反応にもシンジは動かなかった。動けなかった、と言った方が正解かもしれない。吊されている身に加え、何よりも生身ではないのだ。
 シンジがわずかに肩をすくめた直後、激しい衝撃が後頭部を襲った。頭が前に曲がるほどの衝撃だったが、殴られたりしたのではないと、シンジは直感で感じ取っていた。
「追突されたらしい」
(…そうね)
 にせリツコの計算ではまだ潜行する筈だ。つまり計算が狂ったという事になる。大方使徒の方でマグマ内を漂流していたのだろう。
 文句を言っても始まらないし、やる事は最初から決まっている。
「弐号機、捕獲作業に入る」
 通信スイッチを切ってから、シンジはボタンに手を伸ばした。
 
 
 
 
 
(続く)

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