第八十三話
 
 
 
 
 
「そうか、少し自信を取り戻したか」
「はい」
 レイは小さくだが、嬉しそうに頷いた。
 アスカは風呂に入っており、今は二人で飲んでいる。二人でも十分入れる風呂をアスカは気に入っており、一時間は出てこないだろう。
 だいぶ酒量は進んでいるが、ほんのりと頬を染めているレイに対し、サツキの方は微塵も変化がなく、酒を飲んでいるのか水を飲んでいるのか、傍目には分かるまい。
「私でも、お兄ちゃんの役に立てるのだと。私は少し…焦っていたと思うんです」
 アスカが来日してからは、別にクローンとして作られたわけでも、人間らしい生活を送れなかった訳でもないのにシンジがアスカを甘やかすから――レイにはそう見えていた――レイの居場所はますます狭くなっていた。
 ただ、よく考えてみれば、アスカがどんなにシンジから気に入られようと、所詮は普通の娘である。
 どう頑張っても、シンジを守ることは出来ないし、シンジの命を狙う者を直接排除する事は出来ないのだ。
 そう、例え妹と呼ばれる存在になったとしても、だ。
「シンジさんが、お前に同情された訳じゃない。最初からお前のことは、一人の人間として見ておられた。だから、いつまで経っても自分の存在ひとつ認識できないお前に呆れて、放り出されたんだ。お前はロボットじゃない。きっかけは与えられたにせよ、結論を出すのは自分自身なんだ」
「はい」
「お前は、完全な人間じゃないし、完全に使徒でもない、いわば中途半端な存在だ。おまけにATフィールドは使える。とはいえ、お前が自分の存在を気にし続けたのは、それが離れぬ悩みだからではなく、単なる甘えからだ。違うか?」
 視線を外してグラスを一気に呷ったのは、肯定の証拠なのか。
「それは別に、悪い事じゃない。甘えることも出来ない女など、あたしのようになるしかないからな。ただそれも、相手によるさ。相手がシンジさんでなければ、効果は倍加したかもしれないがな」
「お兄ちゃんは、そう言うのが嫌いですか?」
「お前が度を過ぎてるだけだ」
「は、はい」
「まあ、これでお前にも分かったはずだ。人間と使徒の中間のような存在で、一般人が知れば石持て追われる存在のお前であっても、何も出来ないわけじゃないって事だ。尤も、シンジさんの野望は叶いそうにないだろうがな」
「お兄ちゃんの野望?」
「シンジさんのお考えはただ一つ、お前とアスカラングレーがさっさとエヴァを使いこなせるようになって、実家へ帰ることだ。だが、お前達を五十人集めても、シンジさんには及ばない」
「絶対無理ですっ」
「嬉しそうに言うな。だいたい、その分シンジさんへの負担は増えるんだぞ、分かってるか?」
 サツキの言葉に、レイはちょこんと首を傾げた。
「何だ?」
「死海文書は、解読すれば使徒の全貌も分かると聞いた事があります。でも今の所は分かっていません。私は本当は、お兄ちゃんには後ろにいてもらいたいんです。戦力の逐次投入は良いことではないけれど、全機を投入して、私とアスカがお兄ちゃんの足を引っ張ったら大変で…いたっ!?」
 サツキが指を伸ばして、レイの額を弾いた。
 白く、そしてほっそりした指であった。
「お前達がさっさと役立つようになれば済む話だ」
「で、でもそうしたらお兄ちゃんは帰っちゃうし…あつっ」
 また弾かれた。
「そこまでのレベルに行くわけないだろうが。十年早い」
「す、すみません」
「まあいい、お前が少し居場所に気付いた日だ。今日は付き合ってやる」
「はい」
 赤木リツコとは無論違うし、ミサトに似てはいるが、あんなにずぼらではない。自分とアスカならともかく、サツキと飲んだ晩は、どれだけ飲んでも、翌日室内がちらかっていたり、サツキがだらしない格好で起きてきた事はないのだ。
 普通なら軽く聞き流す説教程度の話でも、そこには重みがある事を、直に聞いているレイが一番知っている。
 勿論、話に重みを持たせる為の術とは、そんな事ではない。
 ただそれは、凄絶な人生の上に、確固たる己を築いたサツキだからこそ、出来る事なのだ。
 
 
 
 
 
「逃げられました」
「そう」
 アオイの反応を聞いた時、ミサトはやはり、最初から期待などされていなかった事を知った。
 正直なところ、想っているかと言われれば少し困る。ただ、殺されるのを黙ってみているわけにはいかなかったのだ。
 邪魔になるなら片づける、とアオイが言った。
 リョウジが何を企んでいるのかは分からなかったが、アオイが邪魔だというなら、先にシンジが動く可能性が高い。
 シンジ一人ならまだしも、アオイとシンジを相手にして勝算があるとは思えない。
 だから、とりあえず張り付いていようと思ったのだが、あっさりと逃げられた。
「それで、好きだったの?」
 ハンドルを握ったまま、ミサトはわずかに首を傾げた。
 無論、以前のつきあいの事ではあるまい。接した結果、ミサトの心はどこにあったのか、と訊いているのだ。
 それは分かっている。
 ただ、自分のどこかで、冷静に見つめている自分がいると言うことが、妙に嫌だったのだ。
 どうしてなのかは、自分でも分からなかった。
「好きじゃ…なかったと思います」
「そう」
 アオイの反応は変わらない。
「とはいえ、八年前に別れた元彼女が、再会早々手厚い看護をしてくれる事を、ストレートに受けるほど単純ではない筈よ。単純ならば、別に心配も要らないわね。今はまだ歩くのがやっとでしょう」
「ええ」
「にもかかわらず、あなたの看護を断り、有料で看護人を雇ってまで独身生活を謳歌する方を選んだ。おかしな物でも食べさせたの?」
「そ、そんな事は…」
 ない、とは言い切れないが、多分違うはずだ…そう、希望的観測を多分に含んではいるが。
「命と引き替えに手に入れた真実など、二束三文の価値もない事が多いのよ。少なくとも、命に見合うだけの価値がある事はまずないわ。もっとも、知りたがりの趣味よりは副業の方が問題だけれど」
「副業?」
 アオイはそれには答えず、
「浅間山火口内に妙なデータがあるとの情報は、どこから入手を?」
 全然別のことを訊いた。
「正式には、浅間山の地震研究所からです。ただ、リツコから先に情報は聞いていました」
「あの研究所は、ネルフの直轄?」
「いいえ?」
 それが何か、と言う視線を向けたミサトに、
「今から見物に行って、もしも使徒だと分かればどうするの?」
「データはネルフへリアルタイムで送っています。使徒かどうかの判断はすぐ付きますから、その時は…あ」
 シンジからは、すっかりお邪魔虫扱いのミサトだが、能力的には非常に劣っているわけではない。
 人間的資質はともかく、能力面に置いて役に立たない女を前線の指揮官にするほど、人類は危険をもてあそぶ余裕はないのだ。
「先制攻撃も悪くはないと思うわ。ただ、直轄ではない研究所の所員全員を口止めできるかが問題ね。分かる人には――いわば、通には分かってしまう筈よ」
 うっすらと笑った所を見ると、別段危機意識はないらしい。
「問題は、出撃許可かしらね」
 アオイの脳裏にあったのは、勿論ゲンドウの事ではない。
 
 
 
 
 
「おまえが付いていて、一体どうゆうこと?」
「あ、すみません。何せ軟弱なのが二人揃ってまして」
 朝起きると、アオイは居なかった。
 頬にキスをしてから出かけたのは、何となく分かっている。食事を終えたシンジはサツキに呼び出され、家で見たのは熱を出して寝込んでいるアスカとレイであった。
 原因は異なっている。
「で、こっちがブラジャーだけで寝た結果で、こっちが湯あたりだって?」
「そんな感じです」
 パンティーだけの格好ならまだしも、ブラだけというある意味マニアックな姿で寝るのはいいが、今は真冬である。
 以前からその格好で眠ってはいたが、前にいたマンションは防寒に関してはしっかりしていた。
 しかも今回は酒が入っている。
 ある意味で当然の結果であり、一方アスカの方は、二時間近く経っても出てこないから、手首でも切ったかと見に行くと、湯船の中で熟睡していた。
 結果、この有様だ。
「まったく、何やってるんだから」
「『ごめんなさい…』」
 声をそろえて謝った二人に、シンジはひらひらと手を振った。
「ああ、違うの。悪いのは監督者だから」
「そう言う意見もありますな。それよりシンジさん、これから仕事なんです。すみませんが、後はお願いします」
 どう聞いても、済みませんと言う口調ではない。
 何よりも、シンジの反応も待たずにさっさと出て行ったではないか。
(今度、LCLに沈めてやる)
 内心で呟いてから、LCLじゃ意味がないと思い出したところへ、サツキが戻ってきた。
「あ、一つ言い忘れたんですが」
「…何」
「熱出してぶっ倒れてたんですが、面倒なのでそのままなんです」
「そのままって…着替えもさせてないの?」
「勿論」
 サツキは当然のように頷いた。
「あたしがやると、引っ剥がしてから強引に着せて終わりなんで、シンジさんの方がいいと思ったんです。すみませんが、そっちも頼みます」
「……」
 LCLじゃなくて、使徒の体液溜まりに沈めてやると決意してから振り向くと、顔を赤くしている二人がいた。
 が、熱からくる物か、それとも違う理由かは分からない。
「あの…いいの?」
 遠慮がちに訊いたレイに、
「大丈夫。やさしく着替えさせて身体中拭いてあげるから。勿論胸もお尻も」
 耳元で囁くと、
「ありがとう…」
 顔色に変化がないのを見て、どうやら本物らしいと知った。普段のレイなら、間違いなく反応して、墓穴を掘っているところだ。
「どうせろくな物食べてないだろうし、とりあえず梅粥でも作って食べさせるか」
 よいしょと立ち上がったシンジだが、その背後で、二人の少女が顔を見合わせた事には気づかなかった。
 しかも、その二人がくすっと笑い合った事などは。
 もし気づいていたら、出て行った監督者を捕まえて、相模湾に放り込んでいたに違いない。
 
 
 
 
 
「あと、どの位かしら」
 シートを倒したまま、目を閉じているアオイが訊いた。
「もう、十分位で着くはずです」
「じゃ、十四分ね」
「え?」
「三十秒走ったら、車を回頭させて。私の左が後方になるように」
 分かりました、と素直に頷いたのは、単にタイヤを摩耗させる為だけに、そんな事を命じたりはしないと分かっているからだ。
 脳裏できっかり三十数えてから、一気にギアを落としてブレーキを踏みつける。タイヤが派手な悲鳴を上げながら車体を回転させた時、ミサトはアオイが命じた理由を知った。
 後方から、黒塗りの車が付けてきていたのだ。
 全部で五台おり、上から見ても横から見ても怪しすぎる。反射的にミサトが銃に手を掛けた途端、車の窓から黒い筒が出てきた。
 サブマシンガンが火を噴くかに見えた瞬間、ミサトはとんでもない物を目にする事になった。
 必殺の気を帯びたそれは不意に横を――すなわち仲間の方を向いたのだ。向きに加えて引き金も止まらなかったと見えて、左側の車は忽ち蜂の巣と化した。
「あ…」
 無論、銃で応戦したとしても、一斉射は免れなかったろう。
 だいたい、銃口の先にはアオイがいるのだ。
 前に三台、後ろに二台いる。仲間割れを起こし、一台が蜂の巣となった直後、今度は反対側の車に異変が起きた。
 不意に窓ガラスが撓んだのだ。本来なら、決してあり得ない現象である。文字通り波立ってから数秒後、フロントガラスが木っ端微塵に吹っ飛んだ時、ミサトはアオイが銃を抜き出しているのに気が付いた。
 殆ど狙いは付けていなかったろう。
 エンジンルームに被弾した車が炎上し、仲間の思わぬ裏切りに狼狽えたのか、反撃に手間取った中央の車もすぐに後を追った。
 大破炎上する仲間の車を見て、ぼんやりしているほど間抜けではあるまい。ミサトの耳がタイヤの軋む音を聞き取った時、既にアオイの掌は正面に向けられていた。
 腕が僅かに揺れた直後、ひときわ大きな爆発音が上がり、全てを飲み込んだ炎が吹き上がった。
「出して」
 短く告げたアオイのしなやかな眉が、少し寄っている事に気付いた。
「あの、信濃大佐どこか銃弾でも?」
「十五秒オーバー。随分とぬるくなったものね」
「……」
「連中の正体は、調べるまでもないわ。昨日、チルドレン達がまとめて襲われたそうだから。付録も叩いておこうと思うのは当然ね」
 
 
 
 
 
「口開けて」
「うん…」
 完全な健康体の二人が、シンジをだませたわけではない。二人とも、三十八度近い熱があるのは事実だ。
 ただ、目下の時間は、二人に取って風邪という災いから一転して、福となっていた。
 災い転じて福となすとは、多分こういう事を言うのだろう。
 俯せの姿勢で首から背中にかけて拭いてもらってから――胸もお尻もと言ったのに、と抗議したが却下された――今は梅の入ったお粥を食べさせてもらっている所だ。
 作りたてだから、当然熱い。
「熱…」
 一口食べて、思わず口元をおさえたレイに、
「はいはい」
 ふっと息をかけてから口に入れると、今度は嚥下した。
(何かこいつ…贅沢過ぎ)
 アスカの方も、食べさせてはもらったが、レイを見た素直な感想がそれであった。
 母であったキョウコが死んで以来、アスカの辞書から甘えという文字は消えた。ドイツで会ったミサトもまた、アスカの心を溶かす事は出来なかった。
 無論、アスカはレイほどシンジにべったりとくっついている訳ではない。
 船上で会った時、シンクロ率の高さはそのままダメージに繋がるのだと、非常にわかりやすくシンジは否定した。
 アスカの方が、エヴァに関して数値が上であったら、負け犬の戯言だと、アスカは即否定していただろう。
 しかし、自分のシンクロ率を元にしているシンジの前には、現実を認めざるを得なかったのだ。
 常に肩肘張っていたアスカから、少し力が抜けてきたのは事実だし、幾分心を開いててもきた。
 とはいえ、そう簡単に人間が変われるものではない。アスカとて、しばらく時間は掛かるだろう。
 何よりもアスカは、シンジとレイについて殆ど知らないのだ。そのアスカにしてみれば、すっかりシンジに甘えきっているレイを見ると、こんなに甘えられる状況にいながら、余計な事を口走って同居を解消され、あまつさえシンジはアスカに甘いなどとは、贅沢もいいところだ。
 そう考えるとムカムカしてきたが、また馬鹿らしいから止めた。
 普段ならともかく、これ以上熱が上がるのはご免だ。
 レイが最後の一口を、喉を鳴らして飲み込んでから、シンジは立ち上がった。
「さてと、僕は出かけるから、二人とも安静にしていて。それと、玄関は絶対に開けないようにね。いきなり開けたら、ドカンといく設定にしておくから」
「あの、お兄ちゃん」
「何?」
「出来るだけ早く…帰ってきてね」
「そうはいかん」
「え?」
「今のお粥には薬が入ってたの。暖かくしてちゃんと寝ていれば、二時間位で熱は引くはずだよ。それからアスカ、ちょっと借りるからね」
「何を?」
「弐号機」
「え!?」
 思わず起きあがったアスカに、
「僕でも弐号機は起動することが分かったのと、初号機は嫌いなんだ。乗ってると気分が悪くなってくる」
「うん…別に良いけど」
「試運転したりする訳じゃないから。じゃ、僕は出かけるから」
 シンジがエヴァを好まないのは知っているし、乗ったからと言って壊す事などあり得ないのは分かっている。
 何よりも、もし戦闘中に初号機が壊れたりした場合、同じ弐号機でも、優秀な操縦者が乗った方が良いに決まっている。
 分かってはいるのだが、シンジが乗った時は二人乗りだったから、単独というのは少し引っかかる。
(二人だったらいいんだけど…)
 呟いてから気が付いた。
(そっか、あたし本当は…)
 
 
 
 
 
「今どの辺り?」
「深度1000を超えました。でも反応はまだ…」
「そう」
 壊れる前に停止と言われるかと思ったが、その気配はない。
 ミサトがほっとした時、
「深度1200。耐圧隔壁に亀裂発生」
「信濃大佐、もうこれ以上は限界です」
「今日の私は葛城一尉の付き添いよ。全権は彼女にあるわ」
 あっさりと逃げたアオイの興味は、画面いっぱいに映し出されている火口内部の様子には無かった。
 既に六つ、この室内で、盗聴装置を見つけていたのだ。
(溶岩の動きの盗聴なんて、随分マニアックな)
 警視総監の個室ならともかく、火山状況を盗聴して意味があるとは思えない。とりあえず、見つけた分は全て破壊してから、ポケットからスティック状の物を取り出した。
 スイッチを入れると、即座に反応する。
(まだあるの)
 盗聴器をすべて始末するのと、溶岩内を潜っていた観測機が壊れるのとが同時であった。
 破片をポケットにしまってから、
「見つかった?」
 のんびりした声で訊いたアオイに、
「圧壊寸前で、データを拾ってきました。間違いなく使徒です」
「やっぱり、両生よね」
「両生、ですか?」
「溶岩の中でしか生きられなければ、攻めてくる事はないでしょう」
「それはそうですけど…」
「この間の使徒も一応両生類だったし、今度もそのタイプね。ミサトちゃん、これくわえて」
 リップスティックに似たそれが、呼吸器だと知り、ミサトが慌てて口にした直後、アオイが取り出した何かを床に投げた。
 忽ち室内が白煙に包まれ、右も左も分からなくなる。三分後、煙の引いた室内で、立っているのはアオイとミサトの二人しかいなかった。
「信濃大佐、これは一体…」
「この部屋に盗聴器があったのよ。それも、至極簡単な場所にね。こんな部屋に盗聴器を、それも八つも仕掛ける物好きは一体誰かしらね」
「でも私達がこの場所に来る事が決まったのは昨日です。取り付ける時間があるとはとても思えません」
「壁に穴を開けなくても、簡単に見つかる場所ばかりよ。その気になれば、三十分も掛からずに取り付けられる。ただ、ここには女の子が三人いるから、ストーカーの可能性も皆無ではないわ。でも、今は確かめている時間がないのよ」
 携帯を取り出したアオイが掛けた先は、ユリの所であった。
 とりあえず搬送要員を手配してから、
「使徒は見つかった。この後はどうするの?」
「それはまあ、折角見つけたんですから、とっ捕まえに行かないと。とりあえず、A−17を司令の権限で発動してもらいます」
「A−17?」
「迎撃ではなく、使徒の捕獲時に使うコードです。使徒の捕獲を最優先とし、日本国内にある全資産の凍結も含んでいます」
「ふうん」
 何となく、ミサトは嫌な予感がした。
 あえて言うなら、女の勘である。
「妙な所で反感買いそうだけどいいの?電力収集の時にも、日本全国停電は内密で行ったでしょう。ただでさえ、権力が大きいんだから、反感はおさえた方がいいと思うけれど、どうしても出したい?」
「それは…」
 使徒を捕まえに行くのは分かる。座して待つより、捕獲に行く方が手っ取り早いし、余計な被害も少ないはずだ。
 だが、それを最優先にするにしても、市民の財産凍結がどう絡んでくるのか分からない。出すにしても、少なくとも最終決戦とかそう言った場合でないと、権力の乱発は権威の低下を招くだけだ。
「まあいいわ。そのコードを碇司令に要請すればいいのね」
「え、ええ」
「分かった。私からシンジに伝えておくわ」
「え?あの、シンジ君は知ってるんですか?」
「コードは司令が分かっているでしょう。それで十分よ。私とシンジの直通は少し変わっていて、あっさりと傍受はされないようになっているのよ。途中で電波が拾われたら困るのではなくて?」
 
 
 
 
 
「大体、120パーセント前後で安定しています」
「うん――」
 髪を拭きながら上がってきたシンジが、にせリツコの報告に、
「この際だし、アスカと機体を取り替えてもらおうかな。こっちの方が乗りやすいし」
 ろくでもない事を言い出した。
 初号機に乗った時よりは低いが、これでもアスカよりはずっと高いし、シンジの方が安定している。
 にせリツコが、
「アスカでは、初号機の起動は無理です。レイでも、おそらく動かないでしょう」
「困ったもんだ」
 弐号機に乗り込んだら、あっさりと起動したが、さっそく出現したキョウコに、アスカに余計な事を言っていないでしょうねと、妙に低い声で念を押された。
 首を振った直後、脳裏に僅かな痛みが流れた時、シンジは自分が嘘発見器に掛けられた事を知った。
 どうやら、直接調べられたらしい。
「今度調べたら、アスカに全部ばらして乗せますよ」
 とりあえず脅迫してから出てきたが、初号機に乗っている時のような不快感はない。
 相性はいいが、コアにユイがいると分かっており、乗っているだけで気分が悪くなってくる。
「我が儘なママだ」
 口にした時、携帯が鳴った。
「僕だ…え?うん…じゃ、それを伝えればいいのね。了解」
 電話を切ってから、にせリツコを連れ出した。
「A−17って知ってる?B−29の仲間らしいんだけど」
「爆撃機、ですか?」
「うん」
「…シンジ様、それ使徒捕獲最優先時のコードじゃなくて?」
「そうとも言うかも知れない」
「……」
 めっと睨まれたが、本体は決して見せぬ表情なだけに、ぞくりとくるほど色っぽい。
「簡単に言えば、障害となる行動を全て事前に規制する内容です。第三新東京市内における交通網の規制は勿論、国内における資産凍結も含まれています」
「はん?」
 シンジは奇妙な反応をみせた。
「はい?」
「だから、どうして資産なんか凍結する?これ以上恨まれてどうすんのさ」
 中身など聞いてはいないが、アオイとシンジの反応はうり二つであった。
「そう思うのが素人の浅はかさ」
「…お前も一回凍結してやる」
「冗談ですわ。ネルフは、特務機関ではありますが、予算が有り余っている組織ではありません。迎撃は一定の予算を組んでいますが、出撃して捕獲となると、完全に未知数です。凍結というのは建前で、いざとなれば押収も可能という事です」
「でも、その割には絶対権威じゃない。使徒の秘密を全面公開して、強制的に協力させてるわけでもないし」
「公開することは可能です。でもその場合、九割近い可能性で、世界中から暴動の火の手が上がります。セカンドインパクトの後遺症から、徐々に立ち直りかけてはいるけれど、まだまだ癒えていません。先進国の日本でさえ、この有様です」
「ふーん。で、そゆ事は公開しないで、最後にはさっさとサードインパクトを起こそうとか考えてるわけだな」
「その通りですわ」
 
 
 それは建前だ、とシンジは見ていた。
 勿論、セカンドインパクトの爪痕は、今なお世界各地に色濃く残っているし、人々がそれに過剰反応を起こすことも十分あり得る。
 しかし、理由を一切明かさず、次々と無茶な命令を出して通るのは、ここが日本だからだ。
『お上の言うことは』と言う、刀と侍が流行していた頃からの、悪癖が残っている証拠である。
 政治は腐敗し、政治家など国の為ではなく、自分と自分の地元の利権しか興味を持っていない。
 そんなことは、セカンドインパクト前からはっきりしているのに、今なお権力に弱い気質が、ネルフにとっては有効に働いている。独裁者の国ならともかく、民主主義の国に於いて、理由もなく全国が停電になったり、訳も聞かされずに財産を差し押さえられたりすれば、それこそ内乱になろう。
 では、どうして大々的に公開せず、秘密主義を通しているのか――ある程度は明らかになっているのに、と言う事は別として。
「勇者がラスボスを倒してゲームクリアしたら、バッドエンドが待ってるからだ」
 ゼーレがあり、その下に委員会が存在し、そのまた下にネルフがある。つまり、子分のそのまた子分だが、一番上の親玉と、最下層の組織のボスが違うことを考えているのが現状だ。
 腐敗した人類を溶かして一つにする、と言うのが人類補完計画だが、ゼーレの連中が揃いも揃って、喪った妻や愛人の為と考えているわけではあるまい。
 確固たる証拠はないが、根本的な所では相容れないだろうとシンジは思っている。
「だから鈴を送ってきた――鳴る前に、木っ端微塵にされかけた鈴だが…ん?」
 ふと、シンジの足が止まる。
 立っていたのは、綾波レイであった。
「レイ、じゃないな。いや、綾波レイか。父さんのペットだな」
 表情を喪った能面のような顔は、久しく忘れていたものであった。
「何の用?」
「あなたは私が連れて行ってあげる――死体にしてから」
「……ほほう」
 シンジには別段驚いた風情もない。
 今、シンジの妹に収まっているレイでさえ、最初はシンジの差し出した手をはねのけたのだ。
 目の前に立っている綾波レイが、どうして自分に殺意を抱くのかは知らないし、どうでも良いことだ。
 ただ、一つ分かっているのは、
「父さんは、死ぬと分かっていて僕に差し向けるような事はしない。或いは――もう用済みと言われたかい?」
「……」
 無言で地を蹴ったその手は、既にオレンジ色の光を帯びている。憤怒の色を押し隠したレイが、驚愕に目を見開いたのは、拳を叩きつけた瞬間であった。
 静かなる一撃は、ゲンドウの邪魔となる少年を、一瞬で粉砕する筈だった――シンジは、簡単に受け止めたのである。
「お前はレイじゃない。所詮は、碇ユイのクローンだ」
 ATフィールドは、心霊兵器としても使えるが、本来は防御に回った時に絶大な力を発揮するものであり、レイが自在に操れるのは、数千年の時を経た妖姫の多大な影響を受けたからこそだ。
 水槽から掬い上げられ、ゲンドウのオモチャとなって日が浅い三人目では、使いこなすには至っていない。
「面白くもない話だが、覚えておくといい。本来の僕には必要ないけれど、契約した娘がいる。僕が初めての、そして僕にも初めてだった女の子だ。猫のやつは、とりあえず僕の魔力がないと中暴れもできない。だから時々吸われるんだが、魔力ってのは吸った方の意識も少しは知ることが出来る。たとえば――こんな風にも」
 その言葉が終わると同時に、レイの身体が宙でくるりと舞った。受け身など、知りもしないレイが肩口から叩きつけられ、苦痛に顔を歪める。
「以前の僕になら通じたのにね。残念でした」
 ぐいと胸元を掴んで立たせ、脇腹に一撃を打ち込むとレイはそのまま昏倒した。
 家でアスカ共々眠っているレイにお粥を食べさせていた少年と、同一人物とは到底思えない姿だ。
 担ぎ上げる姿にも、丁寧さはまったくない。
 肩に担いで歩き出してから、
「待てよ…このまま隠しておく、と言う手もあるな。以下エンドレスで、二十人位増えたりして」
 くすっと、邪悪に笑った。
 どうやら、ゲンドウがまた次のレイを掬い上げてくると読んだらしい。
 
 
 
 
 
(続く)

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