第七十二話
 
 
 
 
 
「変わったオブジェを作ったものね」
 リツコに書類を渡したにせリツコが、ベッドに放置されたマヤを見て一言感想を口にした。
 初だとは思ってないし、アナルだって処女ではない。
 しかし…だからと言って、まさか自分の乳首を吸う羽目になるとは思わなかった。
「こう言うの、なんていうプレイかしらね?」
 額には危険なマークを浮かばせ、声だけは喘ぎを含んだもので訊いたリツコに、
「えーと自分でだから…あ、そうだセルフぱい舐めとか」
 ぽんっと手を打った瞬間、マヤの運命は決まった。
 そのマヤはと言うと、現在両手をベッドの柱に縛られており、秘所と肛門にはそれぞれバイブとディルドーが突っ込まれ、動いているのは肛門へ半ば強引に突っ込まれたバイブの方だ。
 乳房はと言うと、無論リツコが只で済ませる筈が無く、搾乳用の機器が両の乳首に取り付けられている。
 乳など出ないのは当然だが、そんな事にはお構いなく、ひっきりなしに吸われ続けるという寸法である。
 おまけに、クリトリスには微動ながらローターがあてがわれており、どういう感覚に襲われているのかは、半開きになった口から滴る唾液と、既に焦点の合っていない目を見ればだいたい分かる。
「仲直りするんじゃなかったの」
「一人で授乳の体験をするとは思わなかったのよ。それも、まさか吸う方とはね」
「投薬の結果、自分の股間を舐められるようになった女もいるわよ。それも、男と女両方でね。あなたもやってみる?」
「え、遠慮するわ」
 取りあえず首を振ってから、
「男と女ってどういう事?」
「両方の身体という事よ。クリトリスを肥大化させればペニスになる。突起があれば舐めるのは簡単よ。それが出来たら、こんどは引っ込ませて膣口に舌を入れさせるの。これでもう、汚らわしい男など用済みね。行く所まで行き着いたレズカップルの末路よ。なかなか興味深いクランケだったけど、もう一度見てみたいのよ。あの子と組んで実験台になってみない?」
「や、やめてっ」
 思わず叫んだリツコだが、人格が卑屈化したという程ではない。
 確かに以前と比べると幾分トゲが取れたし、身体全体も艶を帯びては来たが、それはあくまでも些少な事である。
 一番大きいのは、やはり自分の知識の限界を目の当たりにした事にあったろう。
「そう?残念ね」
 ふふっと笑ったにせリツコが、
「冗談よ。あなたが気違いにでもなったりしたら、私の仕事が増えてしまうもの」
 人道的とかそう言う事ではなく、あくまでも自分の荷が増える事を嫌うらしい。
 とは言え、それを聞いた時リツコは心底ほっとしたのだ。
「それで機体の事だけど、シンジ様限定で機体の変換を行って。大至急よ」
「アスカとレイは?」
「私の言った事が聞こえなかったの?」
「ごめんなさい」
 シンジ一人、とにせリツコは言ったのだ。
「いい?私が滅ぼされない以上、あなたが役立たずと判断されれば私が引っ張り出されることになるのよ。それを忘れないで」
「わ、分かっているわ」
「今回、アスカが足を引っ張った事で、図らずも弐号機とシンジ様の相性データが得られたけれど、その逆には何の関係もないわ。むしろ、アスカやレイの機体を替えたところでいい結果が得られるとは思えない。取りあえず、あの二人の相性は悪そうだから」
「何かあったの?」
「別に。ただ、私の勘よ。さて、私はこれで帰るからごゆっくり」
「ごゆっくり?」
 首を傾げた途端、
「せんぱ〜い」
 皿を数えるお菊のような声がした途端、リツコの身体は束縛されていた。
「マ、マヤっ!?」
 ベッドへ厳重に縛りつけてあったのは間違いなく、一体何事かとぎょっとした時にはもう、マヤの手が股間へ滑り込んでいた。
「私だけ楽しませるなんて…悪い先輩なんだから」
(!?)
 事態がさっぱり掴めぬまま、ベッドへ引っ張られていったリツコだが、にせリツコが催淫剤に微量の幻覚剤を混ぜた物をマヤに注射し、その結果、マヤにはリツコが従順な性奴に見えている事などは知る由もなく、この後自分がどんな目に遭うのかすら、見当も付かないのだった。
 
 
 
 
 
「一応、あげたものではあるんだけどさ」
 掴み合っていたアスカとレイだが、奇妙な事にレイの服は破れておらず、アスカが着ていたパジャマだけが裂けている。
 引っ張られたのは一目瞭然であった。
 しかし、パジャマの争奪という思考はシンジにはない。
 トレーナーを持ってきてアスカに渡し、
「取りあえずこれを着ておいて」
「う、うん…」
 アスカがもそもそと着替えてから、
「僕が帰ってきた時、この家にはアスカしかいない筈だった。君とレイちゃんが来ていて、アスカと喧嘩になっていたのはどうして?」
 アスカとレイの手がびしっと伸びた。その指す先は無論お互いである。
 この女が悪い、と無言で主張しているようだ。
「ん、だいたい分かった」
 シンジは別段怒りもせず、
「マユミ嬢」
「はい?」
「悪いけど、隣の部屋にバケツがある。四つ持ってきて、それに水入れてくれる」
「分かりました」
 マユミが立っていった後、
「君が来るという話は聞いていない。それに、呼んだ記憶もないよ」
 ちらりとレイを見た。
「だ、だってその…お、お兄ちゃんが心配で…」
「君に心配されるほど弱くはない」
「ご、ごめんなさい」
 俯いたレイから視線を移し、
「破らせる為にあげたわけじゃないんだけど」
「ひ、引っ張ったレイが悪いのよ。あたしじゃないもん」
「レイちゃんの服は破れてない。君が不器用な証拠だ」
「くっ…」
 腹の立つ言われようだが、事態がまだ把握されていない以上、自分から明かすのは絶対に不利である。
 どれもこれもアスカ(レイ)が悪いのだと、見えざる火花を秘かに飛ばし合ったところへ、マユミがバケツを担いで戻ってきた。
「碇さん、持ってきました」
 満タンにちかいのだが軽々と手にしており、少しも重そうには見えない。
 が、それがとんでもない誤りである事を、二人はすぐ知る事になった。
「日本の文化に於いて、喧嘩両成敗と立たされ坊主はいつもセットになってるんだ。二人共、このバケツ持って立ってなさい」
「『え…』」
「時間は僕がいいと言うまで。もし途中で落としたら、マユミ嬢にお仕置きしてもらうからね。方法は任せたよ」
 一番驚いたのはマユミだが、よく考えれば一番迷惑したのは自分である。ここは断る手はないと、大きく頷いた。
「じゃ、決まりだ。水の量は微妙に違う。好きな方を持って立ってる」
 意志が固いらしい事を知った二人が、同時にバケツへ手を伸ばす。取りあえず、一番少ないバケツは、誰が見てもはっきりしていた。
「……」
「……」
 一瞬無言で引っ張り合ったが、先に手を離したのはレイであった。
 譲ったと言うより、これ以上シンジに怒られたくなかったのだ。
「『お、重い…』」
 はからずも同時に漏らした二人が、蹌踉めきながら出ていく。
 二人が部屋を出てから、
「どれ位?」
 とシンジが訊いた。
「十リットルくらいだから、大した事はありません」
「一つで十リットル?」
「ええ、軽いでしょう?」
 一応頷いたシンジの脳裏には、合計四十キロ近い重量のバケツを軽々と担ぐマユミの姿が浮かんでいた。
「それより碇さんあの…」
「なに?」
「原因は訊かないんですか?」
「喧嘩の原因?」
「ええ」
「二つの理由で訊かない。一つは僕が二人の保護者じゃない事、そしてもう一つは絶対に下らない理由に決まっているからだ。違う?」
「絶対にって…」
 確かにそうだ。少なくとも、じゃあ仕方がないねとシンジが許す理由ではない。それに、原因を知っているマユミとしては、片方を許したりすると却って悪化する気もした為それ以上は言わなかった。
「レイちゃんは予想外だけど、アスカは大掃除を手伝わせようと思ってたんだ。十人の自分とやるのも色気無いし、悪いけど手伝ってくれる?」
「分かりました」
 マユミはすぐに頷いた。
(碇さんが来る前に止められなかった私にも責任がありますから)
 立ち上がった二人は、もう部屋の外で立たされている娘達の事など忘れたかのように掃除を始め、たちまち家の中は掃除の物音でいっぱいになった。
 一方、立たされた二人の空気は、これ以上に無いほど険悪であり、口も利かずに横目で睨み合っていたのだが、最初に口を開いたのはアスカであった。
「言っとくけど、あたし謝らないからね。あたしがもらった服破きやがって、絶対に許さないわよ」
「それは私の言う事だわ。私はあなたなんか絶対に認めない。あなたなんかドイツに送り返してやるわ」
「ふん、出来るもんならやってみなさいよ。あたしはね、前線にはいなかったのよ。あんたなんか、前線にいたくせに一度も使徒を倒して無いじゃないのよ。そんな分際で何が妹よ、ふん、笑わせないでよね」
「なんですって」
「何よっ」
 今にもバケツを放り出して、また掴み合いを再開しそうになった時、二人の頭に何かがぶつかった。
「『氷?』」
 ぶつけた主は、すぐに引っ込んだ。
 一瞬そっちを睨んだ二人だが、次は止めないからねと言っていた表情で、レッドゾーン近くまで跳ね上がっていた怒りの針が、強引に引き戻された。
「『ふんっ』」
 二人がそっぽを向いたのを背に聞いてから、マユミは戻っていった。
「もう、テーブル一人で持つのって大変なんだからね」
「あ、すみませんっ」
 慌てて駆け寄ったマユミがテーブルを持ち上げると、バランスは一気に崩れた。
「……」
「…ご、ごめんなさい」
「いいけど、力仕事は得意なの?」
「ある程度の訓練は受けていましたし、家中の掃除は私が一人でしていますから、家具を持つ位は出来るんです」
「そうなんだ」
 頷いたシンジだが、事態を腕力ではなく代替品でカバーしてきたシンジに取って、少しばかりプライドが傷付いたのは事実であった。
 
 
「碇、計画は失敗したぞ。どうする気だ」
「さて…どうしたものかな」
「何?」
 満身創痍のリョウジが、文字通り命を賭けて届けたアタッシュケースの中身を取り出して、掌に載せて眺めているゲンドウは、冬月の言葉など聞いていないのは明らかである。
「あの娘なら少しは使える、そう言ったのはお前だぞ。結果、この有様だ」
 写真には、十年来の幼馴染み乃至は恋人の如く、シンジに寄り添うアスカが映っており、何をどう見ても敵対の二文字はない。
 だが、冬月がなおも度肝を抜かれたのは、
「そうだな、私の選択ミスだったかもしれん。シンジは女の扱いが上手いからな」
 と言う、ゲンドウの言葉を聞いた時であった。
「碇…?」
 脳内にカビでも生えたかと疑ったが、その真意はすぐ明らかになった。
「確かにアスカは使えるかと思ったが、元よりプライドが高すぎる。シンジが真っ向から張り合わなければ、ある程度予想出来ていた結果だろう」
 そう言うと、ゲンドウはすっと席を立った。
「何処へ行く」
「水槽から取り出したばかりの検体は不安定でな。長時間目を離す訳にはいくまい」
 元々、ゲンドウがレイに手を出さなかったのはモラルがどうこうより、シンジに知られた場合の事を考えてである。亡き妻のクローンだが、姿形は同年代の小娘であり、それに手を出したと知った場合、アオイやシンジの反応は目に見えている。
 蔑まれるならまだしも、全身蜂の巣はご免である。
 保身の方が強かったのだが、もうあのレイは諦めた。新しく引き揚げたレイには、何の遠慮もする事はない。
(碇、またレイを抱きに行く気か)
 ゲンドウが既に三人目のレイに手を出し、従順な性奴として開発中なのは冬月も知っている。
 それに口を出す気はなかったが、そんな事よりそっちに気を奪われて、シンジ達の牽制が疎かになる方がよほど大問題であった。
「碇は役に立たん。こうなれば、私一人でも手は薨じてみせる」
 地獄の亡者のような声で呟いたが、不意に首筋へ吐息を感じたような気がして振り向いた。
 だが冬月は知らなかった。
 それが気のせいではないことを。
 ただ、死神という一般人の目には見えない存在だっただけだ。
 鎌を研ぎ始めた死神が、獲物の首筋にはふっと息を吹きかけたのである。
 
 
「正直な所、別に喧嘩するなとか仲良くしなきゃ駄目とか、そんな事を言う気はないんだよね」
「『はい…』」
 殊勝気に頷いた二人だが、実はそれどころではない。
 結局、一時間以上バケツを持って立たされ、アオイが来なかったらまだそのままだったのだ。マユミが帰る時も、バケツが下ろされる事はなかった。
 腕はもう、何とも言えない感覚に覆われており、シンジの言葉もろくに耳へは入っていない。
「仲良くして、とは言わない。でも、あまり喧嘩はしないで」
 妙な言葉に、レイの顔が上がった。
「お兄ちゃん?」
「してもいいけどね、止めるのは多分僕の役目になる。が、アオイと喧嘩した事がないもんだから、止め方が分からないの」
「『え…』」
 喧嘩したらお仕置き、とか言われた方がまだ良かったかも知れない。
 よりによって、アオイと喧嘩した事がないから止め方が分からないと来た。
「あ、あのお兄ちゃん」
「なに?」
「ほ、本当にその…一回もないの?」
「あんな事言われてるけど」
 そのまま振ったシンジにうっすらと笑って、
「した事はないわ。と言うよりも、作戦に邪魔だから機体から下ろす、と言った方が分かり易いかしら」
「し、信濃大佐っ」
「アスカ何か?」
 今度はシンジが引き取った。
「お、下ろすって…あたしはもう要らないって事なの?誰かもう代わりがいるの?」
「そう言う次元の話じゃない。アオイが何を言ってるか、レイちゃんには分かっているね」
「は、はい…」
 これがゲンドウならクローンだが、シンジならダミーだ。
 クローンは所詮クローンであり、自分自身ではないのだが、ダミーは違う。文字通りもう一人の自分自身なのだ。
 しかも自分が死んだ後に作る物ではないから、ダミーを使われる方が数倍つらい。
「ちょ、ちょっとあんた何の事か説明しなさいよ」
「あなたには言っても分からないわ」
「…どういう事よ」
「それじゃ、また振り出しに戻ってしまうわ」
 やんわりとアオイが宥めた。
「アスカちゃん」
「は、はい」
「レイちゃんはあなたを馬鹿にしている訳ではないの。ただここは、あなたが今まで暮らしてきた所とは、文字通り世界が違うと言ってもいいわ。口で聞いて、こういう事だと納得出来る話ではないのよ。でもね」
「君がもう少し成長したら教える」
 引き取った語尾の方が荒っぽくなった。
「な、何よそれ…あたしじゃ駄目なの」
「気が触れる可能性がある」
「気が触れる?」
「気違いになるってことだ」
 シンジは事も無げに言った。
「君とレイちゃんでは、存在自体からして根本的に異なる。いわば、使徒の事などまっったく知らない世界の人間に、エヴァの必要性を説いて乗らせるようなもんだ」
 少し違うけどね、とアオイは言わなかった。
「人には、今すぐ知らない方がいい知識の部分もあるのよ。シンジ、悪いけど私の車から荷物を持ってきてくれる。夕食の材料を積んだままなのよ」
「分かった」
 シンジが出ていった後、
「原因はパジャマね」
 アオイは静かな口調で言った。
 レイの服が破れておらずアスカの着ていたパジャマだけが破れ、それがシンジにもらったものだとなれば原因はすぐ読める。
「レイちゃん、気持ちは分かるけれど、アスカちゃんがシンジの部屋を勝手にあさって持ち出したりはしないでしょう」
「で、でもどうして私なんかが妹なんだって言ったのはアスカです」
「あたしはどうしてって訊いただけじゃない。そしたら答えもせずに、どうしてお兄ちゃんの服を勝手に着てるのって言ったのはあんたでしょ」
 要約すると、シンジとアスカの事が気になったレイが見たのは、パンティーを穿いただけの格好にシンジのパジャマを着たアスカであり、アスカが見たのは最初から敵意を見せていたレイだったという事になる。
「話を聞いて大体想像はついたわ。でも、私もシンジと同意見よ。喧嘩されると止め方か分からないから、出来れば喧嘩はしないで」
「『し、信濃大佐…』」
「仲良くして、とは言わないけれど、遠因でも直接でもシンジは絡まない方がいいと思うわ。特にレイちゃんの場合は」
「ど、どうしてですか」
「最近、綾波株が下がっているでしょう」
「あ、綾波株ですか?」
「レイちゃんの評価の事よ。これ以上株価が下がると、この家に戻るのは不可能になるわよ」
「そ、それは嫌ですっ」
 思わず叫んだレイだが、
「あなたも笑っている場合じゃないわ。レイちゃんが妹で無くなった日にはそうね…」
 にやっと笑ったアスカに釘を刺してから数秒考えて、
「あなたの場合には、半径十メートルへ接近禁止でしょうね」
 すうっとアスカの顔から血の気が引いた。
「世界を救うとか、シンジがそんな事に興味が無いのは聞いたでしょう?」
 二人が揃って頷く。
「シンジは今でも、あなた達に任せてさっさと帰りたいと思っているのよ。ただ、まだそこまでの状況ではないからそうしないだけ。それが、もうどうでもいいから帰るって言いだしたら困るでしょう。シンクロ率が上がらないとか、エヴァを上手く操れないとか、そんな事では絶対に見捨てたりしないわ。それは私が約束する」
「ほ、本当に?」
 訊ねたレイの目には涙がある。
 脳裏には既に、シンジに捨てられた自分の姿があるのかもしれない。そしてそれは、現時点で既に家を出されてしまっただけに尚更であった。
 そのレイに頷いてから、
「あなた達がお互いを気に入らないのなら、それは私が干渉する事ではないわ。ただ、使徒を倒す間はどうしたって三人になるのだし、シンジも一緒よ。だから、その間だけは抑えておきなさい。生理的に合わない相手もいるのだし、シンジだってそれ位は分かっているわ。仲良くしなさい、とはシンジも言わなかったでしょう」
 アオイの言葉を聞きながら、二人の表情は微妙なものであった。
 確かに、アオイやシンジの言う事は分かるし、仲良くしろと命令されるよりはいい。
 ただ、あまりにも物わかり良く納得されすぎるのだ。自分達とはレベルが違うと分かってはいても、これでは自分達が道化のように見えてしまうではないか。
「食事の用意をするから手伝ってくれる?」
「『はい』」
 アオイが立った後、
(少しだけ…少しだけ譲ってあげるわよ仕方ないわね。あたしが悪かったわよ。でも少しだけだからね!)
 どう聞いても謝る台詞ではないのだが、
(私も悪かったわ――ほんのちょっとだけ。それとお兄ちゃんは渡さない)
 こっちも似たようなものであり、ちょうどいいのかもしれない。
(別に要らないわよ。あたしは実力で妹って呼んでもらうんだから。綾波レイ、次の使徒戦で勝負よ)
(いいわ。お兄ちゃんの妹には、私だけが相応しいって思い知らせてあげる)
 こんな娘二人に人類の命運は握られているわけだが、片方が乗る機体にある母親の魂は、無論そんな事は知る由もない。
 
 
「アオイちゃん」
「なあに?」
「取りあえず僕としては、荷物を取りに行ってる間に、君が何をどう煽ったのかとても気になるんだけど」
「別に、大した事じゃないわ」
 アオイは婉然と笑って、
「妹は一人でいいって言ったのよ」
「…もう一度」
「冗談よ」
 笑みは崩れぬまま、口移しでシンジの口にワインを注ぎ込んだ。こくん、と音を立てて嚥下したシンジだが、愉しむと言うより動けないから飲ませてもらったと言った方が正解かもしれない。
 その膝で寝息を立てているのは、左側がアスカであり右がレイであった。
 午後からはまた掃除の続きであり、腕が棒になった二人もたっぷり酷使され、夕食時にはもう二人の周りでマンボを踊る睡魔が見える程で、グラス三杯のワインでそのまま眠り込んだのだが、片手はぎゅっとシンジの服を掴んでいた。
「伸びるんだけどな」
 ぼんやりと呟いたシンジを見て笑ったアオイを見た途端、シンジの第六感はこいつが理由を知っていると囁いたのだ。
「仲良くしなくてもいいから、いがみ合うなら日常生活だけで、と言ったのよ」
「で、どうしてこうなってるのさ」
「それは知らないわ」
 不意に真顔になり、
「それよりシンジ」
「ん?」
「妹をもう一人増やせば納得する、と言ったらそうする?」
「それが原因なの?」
 シンジの口調に奇妙な物が加わった。アオイがうんと言えば、レイを妹から外すと言いだした可能性が高い。
 シンジとは、そう言う少年なのだ。
「そうじゃないわ。ただ、アスカちゃんはシンジを認めたけれど、レイちゃんを認めたわけじゃない。使徒すら倒した事のない子がどうして、と言う思いはあるわ」
「?」
 首を傾げたシンジに、
「シンジと彼女に血縁上の繋がりが無い事は知っている。それなのに妹と呼んで親しくしているというのは、それだけ認めているという事でしょう」
「アスカは実力優先主義だからね」
 すやすや眠っているアスカの頬を弾くと、唇から小さな声が漏れて寝返りを打った。
 アオイは無論、原因がそれだと言う事は分かっている。一番手っ取り早いのは、アスカもレイと同じにしてしまう事だ。
 その上でどっちが上かなどと、そこまで競うほど二人も愚かではあるまい。
 問題は、どちらかと言えば自爆で株を下げたレイが先駆者であり、シンジ自身が要らないかと思い始めている事だ。
 どう考えても、もう一人増やすとは思えない。
 二人にはああ言ったが、アオイはアスカとレイが生理的に合わないタイプだとは思っていない。ただ、シンジを名前で呼ぶ事を断られた時点で、アスカが目を付ける部分は必然的に決まってくるし、そうなるともうレイとの衝突は目に見えていたのだ。
 アオイはむしろ、レイがATフィールドでも使わなかっただけましと考えていたのである。
「シンジ、アスカちゃんにはいつ話すつもり?」
「ママ?それともクローン?」
「両方」
「まだ決めてない。それに片方からは口止めされてるんだ。現状で話すのはさすがに失礼でしょ」
「レイちゃんの方は?」
「取りあえず、もう少し仲良くなってから」
「どのくらい?」
「当社比で170%ぐらい」
「微妙な数字ね」
 頷いてから、
「お風呂沸いてるでしょう。ちょっと借りるわね」
「待った、僕も行く」
 すとん、と落ちてやや衝撃があったのだが、二人は起きなかった。
 アオイに言われたシンジがやむなく、二人の枕を自分の背にしたのだが、翌朝先に起きたのは二人の方であった。
 シンジはと言うと、土佐犬に乗られた夢に魘されていたのだ。
 むくっと起きあがった二人の視線がぶつかり合ったが、昨夜と比べると幾分尖り具合は大人しくなっていた。
 揺り起こされて悪夢から解放されたシンジを、競い合うようにして起こそうとしたのはいいが、寝ぼけたシンジに引っ張られて仲良く床に頭をぶつけたのは五分後の事であり、二人が使徒退治で勝負だと待ちかまえる第三新東京市へ、使徒が姿を見せたのは元旦の朝であった。
 
 
 
 
 
 
(続く)

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