第六十八話
 
 
 
 
 
「もう、シンジ様ったら…」
 碇シンジは、ドイツの帰りに寄ると言ったが寄らなかった。
 ただでさえ最近会ってないのに、土壇場でキャンセルされてしょんぼりと家に帰ったモミジだったが、その二日後彼女の元へ一通の封筒が届いた。
 中には、どう考えても封筒とは不釣り合いな大きさの便せんが入っており、
「アオイのせいで行けなかったの。多分仕事で呼ぶ事になると思うからその時はよろしく」
 あまりにもシンプルな一文だが、アオイのせいと言うのが、文字通りの邪魔を指していない事はモミジがよく知っている。
 もう一つ別の物も同梱されていた。
 手編みのマフラーだ。
 純白のそれが、店先で適当に買った物ではなく、シンジがちくちく編んだ物だなどとは言われずとも分かっている。
 マフラーを顔に押し当てていたモミジの目から、一筋の涙が落ちた。
 シンジはもし来れたら、自分にこれを手渡すつもりだったのだろう。約束を反故にしたから急遽編むような、そんな想い人ではない。
 用意しておいた料理とケーキは、無駄になってしまったけれど、心までは無駄にならなかった。
 泣き笑いのまま、止まらぬ涙がマフラーに染み込んでいく。
 その日一日、屋敷の者達は主の機嫌がどこにあるのか、さっぱり分からなかったらしい。
 
 
 
 
 
 リョウジが次に目を開けた時、最初に目に入ったのは見慣れた胸であった。
「ここは…」
「久しぶりね、加持。前から馬鹿だとは思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ。鮫の餌にならなかっただけ感謝しなさい」
「葛城か…久しぶりだな」
 第一声で馬鹿と言われるのは予想外であり、リョウジが苦笑しかけた途端その顔は歪んだ。
 体中を激痛が駆け抜けたのである。
「動かない方がいいわよ。あんた足の骨折れてるみたいだし、全身打撲だけでも全治一ヶ月ってところらしいわよ」
「…そうか…で、どうしてこうなったんだ?」
「覚えてないの?」
「長門ユリのところに行ったらえらい目に遭ったのは覚えてるが、その後が思い出せない。俺は確か部屋を出た筈なんだが…」
「多分、糸を巻かれたまま叩き付けられたのよ…」
「糸?」
 首を傾げる余裕はなく、目だけが動いてミサトを見た。
「そ、糸」
 頷いたミサトが、
「本当はもっと言いたい事もあったし、とっちめてやる予定だったんだけどね…」
 ため息を一つ吐いて、
「こんな状態じゃ、さすがにツッコミ入れる気になれないわ。ま、横須賀に着くまではあたしが付いててあげるから安心しなさいよ」
「葛城、折角だが俺に構ってる暇はないと思うぞ」
「なんで?」
「エヴァの指揮を執る事になるはずだ。早く戻った方がいい」
「ふーん」
 以前のミサトなら、何を知ってるのかと即座に問いつめて来たに違いない。
 だがその表情に変化はなく、
「やっぱりあんた、何か変な物持ってるのね。それとも、使徒の探す物がこの船にあるわけ?」
「か、葛城?」
「そうでなきゃ使徒なんて来るわけないじゃない。第一、碇司令が戦力の浮遊を許可なんてしないわよ――驚いた?」
「…太陽が西から昇ったかと思ったよ。お前、本物の葛城ミサトなんだろうな」
 失礼な台詞にも、ミサトはすんなりと頷いた。
「本物よ。ただ、ちょっとだけ勉強したのよ」
「勉強?」
「そう。自分がなんにも分かってないガキだったって事をね」
「……」
 自嘲気味に笑って、
「加持、今のあたしは作戦部所属の葛城一尉よ。でもってあたしのバックアップはネルフ本部所属の信濃アオイ大佐。大佐が一尉のバックアップに付く、この意味分かるでしょ」
(分からんよ…普通ならな)
 加持がシンジ達の事を知らなかったら、どう見ても無意味な行動の意味は解けなかったろう。
 だが信濃アオイと碇シンジが、裏の世界で何と呼ばれているのかを知っている加持には分かる。
 信濃アオイは、エヴァの指揮には興味が無いのだろう。無論、それに伴う権力にも。
 ただシンジだけはミサトに任せておけない、それだけでやって来たのに違いない。
(……)
 ミサトの人権を尊重して、と言えば聞こえはいいが実質は蛇の生殺しであり、大佐が一尉のバックアップになるなど、誰が聞いたって妙な話である。
 本部内でミサトの資質が問われている、と言う話は聞こえていないが、ミサトにとって相当つらい状況である事は間違いない。
 しばらく天井を見ていた加持が、
「葛城」
「え?」
「いい女になったな」
 セックスアピールの話ではなく、冷やかしでもない。
 リョウジの口調に、ミサトの目にみるみる涙がわき上がる。
 自分の胸で声を上げて泣くミサトの髪を撫でながら、その心はもう別の事を考えていた。
 すなわち、
(さて、どうやって脱出するかな)
 と。
 
 
 シンジのくぐもった声は胸に押しつけられた結果であり、アスカの妙な声は胸への刺激が産んだ物だ。
 無論シンジが顔を突っ込んだのではなく、衝撃で揺れた瞬間に偶然を装ってシンジの首に手を回したのである。
 ついでに引き寄せてみたら、まんまと引っ掛かってきた。
 ただし、胸へのショックは五倍位に拡大してあるが。
 すぐに顔が離れたシンジに、
「もう、会って早々大胆なんだから。こっちまで感じちゃったじゃない」
「……」
「な、なによ」
「君が感じるのは結構だが、僕には無理だ。君の彼氏がどうだったか知らないが、僕はCカップなんかで燃える程飢えてない」
「なっ!?」
 忽ちアスカの顔が赤くなり、
「あっ、あたしの胸は普通よ普通っ!だいたい中学生でそんな大きいわけ…」
 大きい可能性がある娘の存在を思い出した。
「…レイ・アヤナミがそうなの?」
「レイちゃんはそんなもんでしょ」
(そんなもんって…)
 男に触れさせた事など無論一度もないが、自分ではなかなかいい形だと秘かに自信を持っていたのだ。
 が、あっさりと否定されてしまった。
「じゃ、じゃあミサトなのっ」
「ミサトさんが何か?」
「え?だ、だからその胸が大きいとか…」
「そう言う関係じゃないが何か。あ、そうそう君の指揮を執るのはミサトさんだから、ちゃんと言う事聞くんだよ」
(え…?)
 アスカが咄嗟に何も言えなかったのは、シンジの口調に妙な物を感じたからだ。チルドレンの指揮を執るのがミサト、と言う言い方なら分かる。だがどうしてアスカの指揮を、なのか。
「レイ・アヤナミは違うの?」
「レイちゃんも」
「はあ…」
 やっぱり良く分からない。
 ただ、ミサトにあまりいい印象を持っていないのは分かった。
 が、そうなると益々以て分からない。
 ミサトが役に立たないから自分専門の指揮官にした、と言うならまだ分かるのだがレイもだと言う。つまり、シンジ一人が外れる事になるのだ。
(何で?)
 シンジの言動が普通だったら、アスカもここまで振り回される事はなかったろう。彼氏など持った事はなかったが、同い年の少年などその頭脳で簡単に振り回したに違いない。
 しかし現状は逆で、振り回され、シンジのペースに乗せられているのはどうみても自分ではないか。
(彼氏は要らないから、下僕の一人くらい持っておけば良かったかな)
 ふっと浮かんだアスカ、思考の危険さではシンジと同クラスらしい。
 彼氏、の単語で気付いた。
「ちょっと!」
「何?」
「言っとくけどね、あたしは彼氏なんかいないんだからね。その辺の奴であたしに釣り合う筈がないでしょ」
「蓼食う虫も好き好き」
「え?」
「その顔だと意味は知らないね。次の使徒戦までに勉強しておいて」
「う、うん…」
(壁食う虫ってなんだろ…)
 アスカの日本語は使い物にはなるのだが、ことわざの類は知らないから発音が聞き取り辛いところがある。
 蓼が壁に聞こえ、はてと考え込んだもので折角気付いた機会を不意にする事になってしまった。
 考え込んだアスカに、
「あの、惣流さん?」
 呼んだ途端、
「アスカ!」
 きっと睨まれた。
「そうでした。で、アスカさっきの何?」
「さっきのって?」
「船が変に揺れて僕が君に引っ張りこまれたやつ」
「い、碇だってくっついたじゃない…ねえ、どうしても嫌なの」
「君が頑張ったら考えとく」
「がんがるって何を?」
「使徒退治」
(ちゃーんす)
 アスカは内心でにっと笑った。うっかりはしていたが、さっきの衝撃にシンジは気付いていないらしい。
 あれは間違いなく。
「ミスター碇、さっきのあれは水中衝撃波よ」
 アスカの表情が変わった。
 初対面の男に振り回されていた小娘から、天才パイロットのそれへと戻ったのだ。
「この辺に火山なんてあったかな?」
 のんびりと首を傾げるシンジに、
「使徒よ!」
「…何しに?」
「な、何しにって…」
「今までの使徒は全部ネルフ本部へ直行だった。何でこんな所にいるのさ」
「それは…ほら、通り道かもしれないじゃない」
「あ、なーるほど」
 シンジが妙な事に感心した次の瞬間、凄まじい爆発が起きるのとアスカが引き寄せられるのとが同時であった。
 咄嗟にシンジがアスカを腕に抱き込んだのだ。
(!?)
 少年の腕に抱かれ、赤くなるより先に浮かんだのは驚愕であった。どう見ても偶然に出た行動ではなく、動きには余裕があった。
 しかも両腕で抱いてはおらず、片手は空けてあるではないか。
(一体何者なの?)
 アスカが呆気に取られている間に、シンジはもうさっさと手を耳に当てていた。
 無論ブリッジでも、護衛艦の大胆な爆発ショーは気付いており、
「艦長、あの船は?」
「安心したまえ、無人操縦だ。海軍は最近、あまり流行っていなくてね。船の乗り手も少ないんだよ。もっとも、その方が無人化出来て事故の際にも被害が少なくて済む」
「それなら構いませんけれど」
 カップを置かない二人を見ていると、どう見ても事態を認識しているようには見えないのだが、
「ところで艦長、あの船には爆薬でも?」
「いや、そんな物はない。アオイ、お客さんかね?」
「その可能性が高いですわね。襲われたのは太平洋艦隊、運んでいるのは弐号機とそのパイロット――条件が揃い過ぎてますわ。それで、どうしてそんなに落ち着いておられるの?」
「それは私の台詞だ。私の方はそうだな」
 カップを空にしてから、
「焦る理由が見つからんのだ」
「私もですわ」
 アオイがくすっと笑った時、耳朶のピアスが微量な動きを察知した。
「私よ」
「自爆テロがあったらしいんだけど、そっちから何か見えてる?」
「私にはシャチがウロウロしてるような気がするわ。ほら、あんな所に変な尾びれが」
 そう言った途端、もう一隻が派手な爆音と水音を立てた。
「お姫様が言うには、使徒が通り道で寄ったらしいんだけど」
「可能性はあるわね。お姫様はガラスの靴を?」
「ううん、僕の腕の中」
「…色々と自白させる事が多そうね。後はシンジに任せるわ。最小限の労働で最大限の成果を」
 通信を切られたピアスから指を離したシンジに、
「あの、もしかしてお姫様ってあたしの事?」
「うん。後で拷問に掛けられそうだ」
「ふ、ふーん」
 アスカに声は聞こえていない。
 だが胸が遠く及ばぬと言われた相手が、その通信相手だとアスカの勘が告げていた。
 アスカの、と言うより女の勘と言った方が正解かもしれない。
「あのさ、賭けしない?」
 赤らみはすっと消え、アスカは身軽に立ち上がった。
「賭け、とは?」
「あたしが弐号機であの使徒始末してくるわ。この艦隊はどうせ、殆どが無人艦だから半分位沈んでも大丈夫よ。怪我人はしょうがないと思うけど、死人を出さずに使徒を始末出来たらあたしの勝ち」
「アスカが勝つとどうなるの?」
 二回大きく深呼吸したアスカが、えっへんと威張って腰に手を当てた。
「も、もちろん…妹一名追加よっ」
 その声は、姿勢(ポーズ)と比してあまりにも弱々しく、か細いものであった。姿勢はアスカの精一杯の虚勢でもあったろうか。
「いいよ」
 シンジは頷いた。
 妹云々は、別に大した事ではない。
 と言うよりも、アスカが勝つ事はまず無いという確信があったからだ。
 単純な話で、現存するエヴァの中に水陸両用の機体は存在しない。護衛艦とは言え、戦艦を吹っ飛ばした使徒の大きさが護衛艦より小さいとは思えない。少なくとも、今までの使徒のサイズを考えればそれと大差はないと見ていいだろう。
 同等サイズの使徒を相手では、いかにアスカの駆る弐号機と言えども一撃で終わる可能性は極めて低い。
(でも負けられると…困るんだけど)
 万が一にでも一撃で終わったら、レイとすげ替えると結果が見えているので義妹にでもして…いやいやその前に一人位死人に出てもらってと、ろくでもない事を考えていたシンジの腕が不意に引っ張られた。
「何事?」
「一緒に来てよ」
「別にいいけど」
 艦橋へ向かうのかと思ったら、エンジン付きの小型ボートに乗せられた。
「ここには無いんだっけ」
「無いわ。くっついてるタンカー船に積んであるの。ボートの操縦は?」
 シンジは首を振った。小型のクルーザークラスまでなら操れるが、アスカの台詞が読めているのに邪魔をする事もない。
 果たして、
「じゃ、いいわあたしが運転するから」
「出来るの?」
「勿論よ。“にー様”にはあたしが一番役に立つ妹だって、ちゃんと知っておいてもらわないとね」
 何となく嫌な予感がしたのだが、それが的中するのはもう少し後の事になる。
 言うだけあって操縦にも問題はなく、あっという間にタンカー船に着いた。
「これがあたしの弐号機よ」
 仰向けになっている弐号機のカラーリングは深紅であり、
「プラグスーツも赤?」
「そ、深紅。あたしに相応しい色よねえ」
「ごもっともで」
 頷きながら、以前消防車を見た時アスカの事が浮かんだのを思い出したのだ。
(予感の蟲は元気らしい)
 内心で呟いたシンジに、何かが押しつけられた。
「…何これ」
「プラグスーツ。ベビードールに見えた?」
「ピカソかゴッホの絵をプリントした水着の方がましだと思う。それで、僕にこれをどうしろと?」
「着替えて」
 即答で返ってきた。
「あの、もしもし?」
「綾波レイが倒した使徒っているの」
 何故か真剣な表情で訊いてきたアスカに、シンジは首を振った。
「ないよ」
 倒す準備をした使徒はいるが、前回の使徒はシンジ共々出番がなかった。シンジに至っては熱い光線を浴びただけに終わったのである。
「あたしも初陣なのよ」
「はあ」
 エヴァに異物を乗せるとどうなるか、実際にやってみたシンジが一番知っている。シンクロ率が急激に低下し、動きに支障を来すのだ。
 高すぎて困る、と言うある意味贅沢な悩みを持つシンジならまだしも、アスカはまだ三桁にも達していない。
 普通に考えれば、シンジを入れようなどとは言わないはずだ。
「エントリープラグに異物を入れたらどうなるか、知ってるでしょ」
「起動出来るんでしょ」
 アスカからは思いも寄らない答えが返ってきた。
「あたしの家に行ったって事はドイツ語出来るんでしょ。初号機は自力で起動してる筈だし、日常的なドイツ語が出来るなら起動時の言語もだいたい分かるでしょ。八割分かれば、あとはあたしがカバーしたげるから」
(…何でそうなるのさ)
 レイと付き合ってきて、非常識とか超自然現象には慣れた。耐性も結構増えた。
 が、アスカの場合はまた別格なのだ。
 例えてみれば、MCが解析不能を打ち出すようなものである。アスカが優秀なのは分かっているだけに尚更だ。
 馬鹿と天才は紙一重、とはよく言ったものだがアスカは天才ではない。素材は良かったにせよ、少なくとも天賦の才でエヴァに乗ってきた娘ではないのだ。
 しかし顔を見ると真面目であり、冗談を言ってるようには見えない。
(やっぱり天才なのかな)
 そうなのだろうと自分に言い聞かせ、
「分かった一緒に乗ってあげる。でもこれは止めて。女装の趣味はないんだ」
 言うまでもなく、それぞれ個人用に作られているからアスカ用のプラグスーツはブラジャーに当たる物がちゃんとついているのだ。プラグスーツ自体が好きではないのに、こんな胸当て付きを着るなど絶対にお断りだ。
 押してくるかと思ったが、
「ん、分かった。じゃ、着替えるから待ってて」
 くるりと背を向け…そのまま止まった。
「どうしたの?」
「背中のファスナー下ろしてくれる?」
 明らかに誘っているような甘い声に、シンジがつかつかと前に出た。
 アスカの首筋に顔を近づけ、はふうっと息を吹きかける。
「ひゃっ!?」
 びくびくっと身体を震わせた所へ、背中に指を当ててつうっとなぞる。
「だ、駄目ぇ…」
 ふにゃふにゃと座り込んだアスカに、
「のんびりしてるとそれだけ君が不利になる。さっさと着替えておいで」
「わ、分かったわよもう…あ」
 目論見は失敗に終わり、立ち上がろうとしたのだが、足が言う事を聞いてくれないのに気付いた。
 それを見たシンジが黙って引っ張り上げ、
「ごめん…」
 小さな声で謝ると、アスカは駆け出していった。
「スイッチが切り替わったか」
 それを見送ったシンジは、呟いて弐号機を見上げた。
「悪くはない。素材もいい物だし」
 シンジは一人ごちた。
 レイならば、シンジに向かってファスナーを下ろしてなどとは、絶対に頼まないだろう。頼むなら、何かのご褒美とかそんな事位だ。
 とは言え、アスカにも別に誘惑だとはそんな思考はない。強いて言えば試行錯誤、と言う辺りになろうか。
 一応、自分の事を気に入ったらしいのは分かった。
 が、ドイツ時代のアスカは異性との付き合いが殆ど無く、唯一あったのは加持リョウジくらいの物だが、リョウジの方にそもそもまともに取り合う気はない。
 何よりも、同い年の少年などアスカから見れば子供に見えて仕方がなかったろう。
「振り回しは上手く行ったみたい」
 ふふんと笑ったシンジの言葉通り、アスカという娘は二つに一つなのだろう。つまり自分の理解範疇を超えた相手に会った場合、敵と見るか味方と見るか。
 シンジの場合は後者として認識されたらしい。
 ただ、今までに経験した事がないケースにぶち当たった為、どう振る舞っていいか分からないようにも見える。
「僕の何処がいいのかは不明だけどね」
 上手く付き合っていけばおそらく、いや間違いなくレイとは比較にならない程の伸びを見せるだろう。根本的な素材では圧倒的にアスカの方が上なのだ。
 と言っても別に煽てる訳ではない。ただ、気分良く走らせればそれでいいのだ。
「でも女物のプラグスーツは不許可」
 シンジが呟いた時、
「お待たせ」
 アスカが帰ってきた。
「どう?」
 くるっと回って見せたアスカに、
「良くお似合い」
「ほんとに?」
「勿論」
 シンジは自信たっぷりに頷いた。
「僕が着るよりよほど似合ってる」
「わ、悪かったってば。女物なんて着たくないわよね。で、これ似合ってる?」
「それなりに」
 ぴくっとアスカの眉が上がった瞬間、シンジの首はきゅっと絞められていた。
 
 
「ちょっと加持あんた、本当にいいの?」
「大丈夫だ。葛城、お前も電話は聞いただろ?」
「聞いたけど…」
 横になっていたリョウジだが、護衛艦の爆発と同時にどこかへ電話を掛けた。相手が碇ゲンドウだと知ったのは、爆発音で聞こえなかったせいか、大きな声が聞こえてきてからだ。
「兵隊と指揮官はいるだろう。最悪の場合は君一人で脱出したまえ。以上だ!」
 その部分しか聞き取れなかったのだが、電話を切ったリョウジはミサトに、飛行機の所まで連れて行くように頼んだのである。
 その真剣な表情に押されて連れては来たものの、どうも折れている感のある足を引きずって歩く男を、垂直離陸が可能な戦闘機に乗せる気にはなれなかった。通常よりも掛かる負担は大きいのだ。
「葛城、もういいありがとう」
 足を引きずっている加持の顔は青く、脂汗さえ浮いているのだが、これを無理矢理行かせぬ術をミサトは持たなかった。
 元彼、であって今彼ではない。
 それに、作戦の邪魔をしようとしているわけではないのだ。
 リョウジを乗せた飛行機が彼方に消えた時、不意に巨大な音がした。
「あれは弐号機!?」
 ミサトが見ると、ちょうど弐号機がその巨躯を見せた所であった。
「ま、“兵隊”はいるからね…それと役立つ指揮官と役に立たない指揮官がそれぞれ一名ずつ」
 ため息を吐いてから、
「でもあの弐号機…なんでマントなんて羽織ってるの?」
 
 
 アスカの言う通り弐号機に二人して乗り込んだのだが、
「え?き、起動した事ないの?」
「ないよ」
 シンジは初号機以外に乗った事はなく、当然零号機も弐号機も知らないのだが、このエントリープラグは初号機よりも明らかに小さい。要するにパイロットの体躯に合わせてあると思われ、当然の結果として二人の身体は妙にくっついている。アスカの声が妙なのはそこから来ているのだが、自前で起動をこなすのはまだ未体験なのだ。
「し、仕方ないわね。じゃ、あたしが起動するから言語合わせてよ」
「いや、いい」
「え?」
「異物混入は僕もやった事があってね。多分ノイズになると思うの」
「じゃ、どうするの」
 今のアスカは、手の位置は普段と変わらないものの、その下肢は文字通りシンジの足の間にいる格好になっているのだ。
「ドイツ育ちで米国籍だったよね」
 シンジが言い出したのは、全然関係ない台詞であった。
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「じゃ、キスはとっくに済んでるな」
「あ、当たり前じゃない。頬でも濃厚なのでも何でも結構よ」
「それは良かった」
「え…むうっ!?んんーっ!?」
 言うが早いか、いきなりシンジの手がアスカの顔を捉えたのである。急に唇を重ねられ、何が起きたのか分からぬ所へ舌まで入り込んできた。
「ん…んくぅ…んっ」
 舌を差し込んですぐ、シンジはアスカがこの手の事に未体験なのを知った。
 それだったら、最初に言えばいいのにと思ったがもう遅い。
 ふわっと顔を離されたアスカは、
「も、もう…ああん…」
 妙な事を呟いたかと思うと、そのままシンジの胸の中へ倒れ込んできたのである。
「大嘘つき。なーにが何でも結構よ、だ。何にも知らないじゃないか」
 ぶつぶつぼやいてから、
「でも思考は読めた。さて行くか」
 シンジがドイツ語を解せるからと言って、知りもしない起動時の呪文ではどうしたって遅れが出る。だから直接思考にアクセスしたのだが、どうやら刺激が強すぎたと見える。
 くてっと失神しているアスカの事など忘れたかのように、レバーに手を掛けたシンジが意識を集中させていく。
 プラグ内にLCLが満ちていく感じは、何度体験しても嫌なものだ。
 それでも何とか我慢して、
「L.C.LFulling.Anfang der Bewegung.Anfang des Nerven anschlusses…」
(何だっけ)
「Ausloses von links-Kleidung.Sinkio-start!」
 シンジの目が見開かれたのは、後を引き取ったのがアスカだったからだ。
 だが唇が動いて言葉を紡ぎながらも、その意識がないのは分かっている。
(あなたが起こしたのよ…)
(!?)
 声は直接脳内に響いてきた。
 女の声、それも明らかな日本語だ。
 ただ、どこかまだノイズの混ざっている感がある。
(惣流・キョウコ・ツェッペリン?)
 一緒にいるのはレイじゃないし、妲姫の筈はない。だとしたら、この場で思いつく名前は一つしかない。
「ええ…そうです。お久しぶりね、碇シンジ君」
 どうやら本物らしい。どうしてコアが反応するのかとシンジの眉が一瞬寄ったが、ここは取りあえず使徒退治である。
「まあいい、使徒退治が先だ。協力してくれる」
「勿論です」
 それは良かったと機体を起こしたシンジの目に、マントみたいな物が引っかけてあるのが映った。
 機体を覆ってあったものではなく、明らかにそっちの類の物なのだ。
「編み笠と日本刀と楊枝が無いけど…多分これ着る気だったな。よし行こう」
 シンジの想定は、明らかに万事を『あっしに関係ござんせん』で切り抜ける木枯らし男のものだったが、似たような物だろうと全身を覆い、よいしょと甲板へ出た。
 ミサトが見たのはその時の姿である。
 
 
「艦長、オセローより入電です。エヴァ弐号機が起動しました!」
 報告にもサムは軽く頷いただけであった。
「オセローに損害は?」
「甲板上部に若干の損傷が出ましたが、大きな被害はありません」
「そうか」
 アオイを見やって、
「ミスターシンジで間違いなさそうかね?」
「確実かどうかは分かりませんわ。でも」
 口許に手を当てたアオイが、
「一緒にいるのは多分間違いなそうですわね」
 頷いた視界の先には、大型艦ばかり選んで飛び移っている弐号機の姿があった。
「こちら弐号機。弐号機より旗艦へ、聞こえますか?」
 シンジから通信が入ったのはその直後の事であった。
 
 
 
 
 
(続く)

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