第六十七話
 
 
 
 
 
「全チルドレンがサードチルドレンに全面服従?碇、それはどういう事だ」
「シンジの足を引っ張らせる」
「……セカンドチルドレンか」
「シンジの情報は秘してあるからな。あのプライドの高い娘が、自分がシンジの足下に及ばぬと知った時素直に聞くわけはあるまい。シンジの事だ、どうせこっちに興味など持たぬだろうが、罠は少しでも多い方がいい」
 成否は別として言ってる事は普通なのだが、その手つきは尋常ではない。
 手袋を外したその手が蛞蝓のように這っているのは、レイの背中であり、しかもレイは全裸なのだ。
 無論レイ本体ではなく、水槽から引き揚げてきた別物だ。
 新しいレイの出品にも、にせリツコは何も言わずに従った。自我は足りていない、と言うより当初のレイ以下になっている。
 言い換えれば、文字通りの人形なのだ。
 既にもう一人のレイはシンジに付いていってしまい、おまけに自我まで目覚めたと来た。これでシンジに洗脳されたならまだしも、手を付けたのがユリと判っては、もうゲンドウも張り合う愚を踏む気はなかった。
 長門ユリの手による者に手を出したらどうなるか――死の糸が向く先は、文字通り対象を問わないと伝説になっており、病院内へひっそりと姿を消した者は数知れないと専らの噂である。
 その点でゲンドウは正しい。
 また、シンジの扱いに於いても。
 補完計画の全貌が掴まれている事は別として、どのみちシンジは首を突っ込んでくるタイプではない。
 放っておいても即座に害は無いし、足を引っ張るカードは多ければ多いほどいい。
 がしかし。
 ゲンドウも、そして冬月も知らなかった。
 既に対アスカ用として、剛柔の仕掛けが用意されている事を。
 そして、剛を担当するのはシンジでもアオイでもないという事を。
 
 
 
 
 
「何をしに来られた?」
 するりと入り込んできた闖入者に、ユリはかすかに顔だけ動かした。
 その視線は依然としてカルテに置かれている。
「いやなに、ご挨拶ですよ。君がチルドレン達の担当医と聞いている。いくら優秀な医者であっても、患者の知識は十二分に必要だと思ってね」
「それで?」
 ゆっくりとユリの身体がこちらを向いた。
 今日のユリは全身を黒で彩っており、危険な美貌が一際さえ渡っている。
 あのアスカでさえ苦もなく陥落したのもさもありなん、
「アスカの事は俺が一番知っている。少しでも君の力になれれば、と思ったんだが」
「頼もしい話だ。が、女の事は女同士の方が良かろう。アスカ嬢とて、自分を子供扱いする男の事は良く分かっていよう」
「これはこれは」
 加持は軽く肩をすくめ、
「まともに取り合える年頃ではないでしょう。女同士と男女は違う。その位の事は十分ご承知と思ったが」
 ユリは、それに直接答える事はしなかった。
「彼女にシンジの事はなんと伝えた?いや、正確には何と言って煽ったのかね?」
 朱を帯びた唇が言葉を紡ぐ。
「ご冗談を」
「さて」
 不意にユリが笑った。
 美女の笑みだ。
 だが違う。
 その笑み一つで一国の主を傀儡と変え、嬉々として国を滅ぼす女の笑みだ。
 思わず加持が懐中に手を伸ばし掛けた瞬間、その手は宙で固定された。
(!?)
 文字通り骨まで食い込む激痛が走った刹那、残った力を振り絞って四方に視線を飛ばした。見えぬ糸の事は、まったく知らされていなかったのである。
「何をお捜しかしら?監視カメラの類を?それとも念波を放出して患者を固定する装置でも?」
 ユリの口許に妖しい微笑が形作られたが、既にそこへ惹きつけられる力は残っていなかった。
 骨まで沁みる、どころか骨が切り落とされそうな激痛が走り、その顔はもう人の顔色をしていない。
 死人の仲間入りを始めたような顔色と化した加持へ、
「自信過剰も重大な病の一つ、そうではなくて?」
 その美貌に変化はない。
「君が何を勘違いしようと自由だ。ついでに、幾重ものスパイをしていてもだ。だが、それはドイツだけにしておいてもらおう。ここは日本だ。女の一人も捕まえておけぬ男が大きな顔をして彷徨き回れる国ではない」
 ユリに動きはない。
 だがきっかり五秒後、加持の全身を苛んでいた激痛はすっと退去した。
「私の部屋へ侵入した事は、一度だけ見逃しておこう。だが次はない。次に来られる時は、左右の腕の付け替え依頼を持って来られるといい」
「…よく…覚えておこう」
 銃ぐらいは持っていると踏んでいたが、名手との情報はない。
 銃を抜くなら反撃は十分可能だし、だからこそあえて挑発するようにしてやって来たのだ。
 だが待っていたのは、完敗以上の惨敗であった。
 指の一本すら動かす事が出来ず、骨まで断たれるような痛みに束縛された。
 まだ痛む足を引きずって身を翻した途端、その身体はゆっくりと前のめりに倒れ込んだ。
 無様に伸びた加持を見下ろし、
「これはいかんな。まだ糸が二本巻き付いていたようだ。こんな調子では医療過誤も目前だ」
 冷ややかな口調で言うと、かすかに指を動かした。
 腰と首に巻き付いていた糸はまだ解かれない。
 ふわっとその身体が持ち上がると、入り口まで強制的に運ばれていく。
「室内で見たい体つきでもない。お引き取りを」
 鈍い音を立てて叩き付けられた加持の身体は、後ほどの検査で大腿部が三カ所折れている事が発見された。
 
 
 アスカを担いでやって来たシンジは、甲板に腰を下ろすと太股の上にアスカの頭を乗せた。
「質は悪くない。でも手入れが悪すぎ。もったいない」
 アスカの髪を軽く撫でたシンジは、手を頭に置いたまま洋上に目を向けた。
「さて…どうして僕たちをあっさり行かせた?レイちゃん一人で何とかなると思ってる訳じゃあるまいに」
 シンジとアオイ、それにミサトとユリが迎えに行くと言った時、ゲンドウは簡単に許可したのだ。
 アオイは目下ミサトの補佐という形を取っており、直接指揮を取る気はない。
 現場に於いてはシンジが自分で考えて動けるし、ミサトが余計な事を言わなければ放っておく気だ。それに、いざとなればその身体にある痕を発動させれば済む話である。
 とまれ、現場の指揮を執る者が揃って本部を空にするわけで、無論シンジもダミーを置いてくる気でいた。
 誰がどういう指揮を執るかはともかく、レイ一人で使徒の相手は無理だと分かり切っている。妲姫なれば簡単な話だが、レイがピンチになれば出てくる便利な存在ではないのだ。
「実体はともあれ僕たちを行かせた…何が待ってるのかしら?」
 ふむうと首を傾げた時、アスカの頭が動いた。
「ん…んう…」
「あ、起きた起き…!?」
 シンジが一瞬ぎょっとしたような顔になったのは、その目尻から流れ落ちる涙に気付いたのだ。
(嫌な予感がする)
 そっと手をどけた瞬間、アスカの目がぱちりと開いた。
「……」
「……」
 下ろしておけば良かったと思ったのだが。
「あんたがお迎えなの」
「え?」
「顔は普通だけど…で、どっちなのよ」
「…はい?」
「ここは天国?それとも地獄?あんた、アタシを迎えに来たんでしょうが。どっちなのかはっきりしなさいよ」
 どうやら、迎え違いだったらしい。
「真ん中」
 シンジの手がすっと伸びて青空を指した。
「まんなか?」
「天国でも地獄でもなく、君が乗ってきた戦艦の甲板上。おはよう、アスカ嬢」
「……!?あ、あたし死んだんじゃなかったの?」
「生きてますよ」
「で、でもさっき…じゃ、あんたがあたしを後ろから?」
「そうなの」
 あっさりと頷いたシンジに、みるみるアスカの顔が紅潮してくる。
 それが頂点に達する前に、
「後ろから撃つのはやっぱり良くない。ごめんね、それともう一つの事も」
「もう一つって何よ」
「さっき君が夢を見ながら泣いてた。僕のせいで悪夢を見たんでしょ」
 その途端、不意にアスカが起きあがった。
「あたしの顔見ないで…見たら殺すわよ」
「分かった」
 ぐいっと目をこすったアスカは、数分間動かなかった。
 アスカはまだ振り向かぬまま、
「あたしがしてやられたのは分かった。で、あんた誰よ」
 声だけ飛んできた。
「サードチルドレンの碇シンジってもっぱらの噂です」
「…あんたが本物って訳ね。何でこんな事をしたのよ」
「人を操るのは簡単じゃないけどね、疑ってる人を暗示に掛けるのは簡単なの。さっきのは僕が作った普通のタルトで何にも入っていなかった。でも、口に入れた瞬間アスカ嬢は疑った――何か入っているんじゃないか、とね」
「……」
「正確に言えば、僕の事を敵視してたみたいなんで、ファーストコンタクトは友人に替わってもらったの。武術の腕前も結構あるって聞いてたから」
 僕の下僕、と言おうかと思ったのだが止めた。
「敵視してたのはあんたでしょ。あたしが精一杯友好的にしてやったのに」
「だって成長してもらわなきゃ困るんだもの」
「は?」
「エヴァを操る数値は幾つかあるんだけど、一番単純なのはシンクロ率だ。君のシンクロ率は現在50〜80以下の間だと聞いている。で、僕はと言うと頑張って下げて250パーセント位」
「!?」
 アスカの顔が愕然とした物へと変わった。
 25ではない、250だと言う。
 しかも今、頑張って下げたと言わなかったか!?
 思わず振り向いたアスカが、
「さ…下げたの?」
「下げた」
 シンジは事も無げに頷いた。
「気を抜くと300超えそうだったから、さっさと下げろって言われたの。高いとろくな事が無いのは知ってるでしょ?」
「どうしてよ。あんなのは高い方がいいに決まってるじゃない」
「良くないってば。痛いんだから」
「痛い?」
「料理はするの?」
 シンジは全然関係ない事を訊いた。
 一瞬アスカの顔に?マークが浮かんだが、まともに怒っては相手の術に嵌ると既に分かっている。
「少しならするわよ」
「じゃ、手を切った事があるでしょ。手袋した状態で切るのと、ストレートに切るのとどっちが痛い?」
「素手に決まってるじゃない」
「シンクロ率が高いってそう言う事なの。つまり一体化。現時点で僕と君がエヴァに乗って同じダメージを受けた場合、僕の方がえらい目に遭うんだから」
「…そうなの?」
「そうなの」
 頷いたシンジだが、ふっと浮かんだ笑みをかみ殺した。シンクロ率が高いと身体が直接受けるダメージも大きくなる。
 考えれば分かる事なのだが、実戦を経験していないと最初に浮かぶ台詞ではない。
 意外そうな顔で訊いたアスカの顔は、その一瞬だけ少女の物に戻ったのである。
「いい?つまり君はさっさとエヴァを使いこなさなきゃならない。然る後に僕は田舎へ帰るんだ」
「…は?」
「君に任せられれば、僕は田舎に帰れるでしょ」
「ちょっ、待ちなさいよっ」
「なあに?」
「なあにじゃない!田舎に帰るってどういうこ――」
 言いかけたアスカの言葉が途中で止まった。
 シンジの表情が動いたのだ。
 呑気に大海原を見上げる少年から、闇から闇に人の命を葬るアサシンへと、僅かながらその気配が変わったのを、アスカの本能が感知したのである。
「君が僕の事を全部知っていれば、驚きもしなかったはずだ。加持リョウジはそれを知っていながら教えなかったと見える。僕が第三新東京市へ、つまりエヴァと対面したのは使徒が襲来した日だ。呼ばれてそのままエヴァに乗せられ、ついでに使徒を倒す羽目になった」
(そ、そんな…)
 シンジの言葉に嘘の気配はない。
 だとしたら…だとしたら血のにじむような自分の訓練は、一体何だったというのか。
「僕は元々、エヴァに乗る気はなかった。人間何時かは死ぬんだし、別に今すぐか数十年後かの違いだけでね。ただ、他の適格者は少女だけだと聞かされた。そんな子に生命線を握られても困るし、だからやって来たのさ。当然、他の子に任せて問題なければさっさと帰るよ。僕の進退はともかく、君に何も教えなかった責任はやはり取ってもらう事にしよう」
「ちょ、ちょっと待って…」
「ん?」
「あ、あたしはエヴァに乗る事にプライドを持ってやって来たわ…あ、あなたはそれを否定するというの」
「無論」
 シンジの答えは早く、そして短かった。
「まず一つ目」
 指が一本上がった。
「エヴァに乗って云々というのは、自己満足にしかならないからだ。存在自体が機密扱いだし、おまけに整備・運行にとんでもない費用がかかる。セオリーが通用しない未知の使徒相手の戦いなのに、万が一機体が半壊でもした日には、一体幾らかかってるって言われると思う?腕一本でも、発展途上国の国家予算数年分が軽く吹っ飛ぶんだ。どう考えても割に合わない。僕は君ほど優しくないって事だな」
(優しい?)
「二つ目」
 もう一本指が上がり、
「今も言ったけど、これは機密扱いだ。で、使徒はいつまで来るの?」
「えっ?」
「だから使徒だよ。永遠にくるなんて思ってないでしょ。いつまで来るのさ」
「し、知らないわよそんな事」
「僕も知らない。でも永遠じゃないのは間違いない。つまり、こんな誰にも話せない物にプライドを賭けてると、使徒がいらっしゃらなくなった途端に人生が終わっちゃう。それとも、プライドの対象ってほいほい変わるもんなの?」
「あ、あたしはそんな安くないわよっ」
「じゃ、エヴァの搭乗任務が終わったらどうするの?」
「そ、それは…」
 アスカが唇を噛んだ。
 こんな形で切り込まれるとは、想像もしていなかったのだろう。
「ま、いいや。僕が嫌なだけで君の生き方が悪い訳じゃないんだ」
 シンジは口調を緩めて、
「この間、変わった夫婦に会ったよ。娘が一人居るんだけどね、奥さんに取っては義理の娘らしいんだ」
「え?」
「ついでにその子の母親、つまり本当の母親が入院してる最中に、今の旦那と不倫関係になって、本妻が死んだのをいい事に再婚した。父親の方がこれまた人格者でね、娘の貞操を頂こうと画策していたらしいよ」
「あ、会ったのっ!?」
「誰に?」
「だ、誰にってあたしの両親よ」
「やっぱりアスカ嬢は優しいと見える。僕には到底無理だ」
「どういう意味よ」
「自分の母親が入院中に不倫した上その女と結婚したんだ。これを親と呼ぶスキルは僕にない。年端も行かない娘が枕の下にナイフを隠して寝るんだ――それも実の父親の魔の手から逃れる為に。僕ならとっくに精神破綻してるよ」
「そ、そこまで調べたの…」
 顔色を喪ったアスカに、シンジは首を振った。
「調べて分かる事じゃない」
「?」
「話してくれたのさ――君の両親が。聞きもしない事まで色々と話してくれたよ。でももう、夜に脅える必要もないし女の顔を見て不愉快になる必要もない」
 不意にシンジに見つめられ、アスカは訳もなく狼狽えた。
「な、なによ」
「ここには、君に形だけの優等生と言う姿を求める者は誰も居ない。アスカ嬢、ネルフ本部へよく来られた。あんな連中のせいで消費した時間を、少しでも取り戻されるといい。ここにはもう、君を襲う者も忌み嫌う者もいないのだから。ネルフ本部は君を歓迎します」
 シンジがすっと手を出したが、アスカは動かない。
 十秒…二十秒、四十秒が経過した時、シンジの手に熱い物が落ちた。
「何よ…馬鹿…あたしの事なんて何も分かってないのに…勝手に否定して…馬鹿馬鹿馬鹿っ」
 馬鹿を三連呼されたのも初めてだが、いきなり首を絞められるとは思わなかった。
 抱き付かれた姿勢で何とか踏みとどまったシンジの胸に顔を埋め、
「あ、あたし泣いてなんかいないんだからねっ。泣いてたなんて言ったら魚の餌にするわよっ」
「あ、はいはい…あう」
「返事は一回でいいのよっ」
 きゅっと首を絞められ、シンジの首がにゅっと伸びた。
 
 
「洗脳!?」
 ぎょっとして思わずレイの口をおさえたマユミだが、
「絶対洗脳しないんだから」
 ぱくっとシュークリームを口に放り込んだレイは、どう見ても機嫌が悪い。
「セカンドチルドレンが協力しなかったら洗脳するって言ったけど、お兄ちゃんは優しいから絶対にしないもの」
「どうなるの?」
 訊いた途端後悔した。
 赤い瞳がマユミを射抜いたのである。
「あの子が邪魔になるに決まってるでしょっ」
「…どうして?」
「そんな事も分からないの」
「事情は良く分からないけど、レイちゃんは妹でしょ。そのドイツから来る人がどうなったって、妹にはなったりしないでしょう。それに碇さんには信濃大佐や…それに…」
 マユミの顔がぽうっと赤くなり、
「ユ、ユリさんもいるんだから…」
 マユミが自分のライバルにはならない、レイがそれを確信したのはこの瞬間である。
(やっぱりマユミも…でも気持ちよかった)
 妙な事を思い出し、何となく奇妙な雰囲気が二人の間に漂ったのだが、先に戻ってきたのはマユミであった。
「要するに恋人ってこと」
「え?」
「碇さんがその子を恋人にするような事は絶対に無いと思うわ。そうでしょう」
「それはそうだけど…」
「何が心配なの?」
「マユミも知ってる通り、私は作られたクローンだから妹になったの。でも普通に考えれば、お兄ちゃんの妹のクローンじゃないわ。でもお兄ちゃんは妹でいいって」
「それはレイちゃんが話してくれたでしょう」
「うん。だから今回ももしかしたら…」
「それはないわ」
 マユミは即座に否定した。
「ど、どうして分かるの」
「レイちゃんて、時々碇さんに怒られるでしょ」
「と、時々は…」
「多分、手を焼く事もあると思うわ。でもそれだって、一応血のつながりがあるから妹にしたのでしょう。関係なかったら最初からしていないし、第一これ以上手が掛かる事を選ばないとおも…!?」
(しまった)
 俯いたレイの全身から妙な気が漂いだしていたのだ。
 手を焼くとか、手を掛かるの部分に反応したらしい。
 そっと椅子をずらし、飛び出す用意をした瞬間レイの顔が上がった。
「マユミの言う通りね。お兄ちゃんがそんな事するわけないもの」
 さっきの気は、この嬉々とした表情へ変貌する前触れだったらしい。
 ほっと安堵の息を吐いたマユミに、メニューが押しやられた。
「え?」
「今日は私がおごるから、好きな物頼んで構わないわ。入るならメニュー全部でも大丈夫よ」
「あの、お金は?」
「このお店を買い取る位はあるから大丈夫」
「そ、そう…」
 やはり心配はもう一人の妹(ライバル)誕生にあったらしい。
 とまれ、取りあえず危機は脱したようだしと、マユミの心はもうずらっと並んだメニューに移っていた。
 
 
「本当はね…嫌な予感がしていたのよ」
「嫌な予感?」
 十分ほど押しつけていた顔が上がった時、もう涙はなかった。
 枕代わりに貸して、とは言わなかったが無言で頭が乗せられ、アスカが起きる前と同じ状態になっている。
「レイ・アヤナミの事は知っていたのよ。でもあなたの事は知らなかった。前からって事よ。普通に考えれば、使徒を倒してきたのはレイ・アヤナミでしょ。でもそんな話は聞いてなかった。あの子が使徒を倒して来てれば、あたしの耳に入ってるもの。入ってなかったって事は、どうせあたしが変な対抗心燃やすとか考えて言わなかったにきまってるのよ」
「僕も君の話は聞いてなかったんだけどね。どうも守秘義務と隠匿を勘違いしてるのが多くて困ったもんだ」
「で、どうよ」
「え?」
「だ、だからその…あ、あたしの第一印象はどうだったかって訊いてるの」
「顔写真はドイツで見たからね。ただ、ちょっと不用心かなって」
「不用心?」
「風が吹いてワンピースがめくれてパンツ見られたでしょ。中に何もなかったから」
「し、下着穿いてたわよっ」
 かーっと赤くなったアスカに、
「そう言う事じゃなくて」
 シンジが抜き出したのはサバイバルナイフであった。
 すっとそれを横に置いて、
「太股の周りにナイフ位は持ってるかなって思ってたの」
「な、何よこれ…」
「お仕事がそっちなもんで。一応持ってないと困ったりするの。それに、価値あるチルドレンなら、自分の身位は自分で守れないとならないでしょ。要る?」
「あ、あたしだって普段はちゃんと護身道具はもってるんだからねっ…で、でも一応もらっておいてあげるわよ」
「うん」
 受け取ったアスカだがそれはずっしりと重く、軽々と扱ってみせる目論見は容易く潰えた。
 確認だけしたふりをしてから、
「向こうについてからもらうわ」
「そう?」
「それまではちゃんと護衛しててよね。か弱い女がチルドレンやってるんだから!」
 さっきの台詞を覚えていたらしい。
「ぼちぼちやってみます」
「うん。それで話戻すけど、サードはとんでもない奴じゃないかって、そんな予感はしてたのよ。実戦経験はどうしたって差が付いちゃってるしさ。それに、本部からサードチルドレンの現場に於ける全権委任なんて言われちゃったらもう…」
 ぼんやりと海を見ていたシンジが不意に反応した。
「今なんて言った?」
「だからサードチルドレンが戦場では全権を持ってるから、他のチルドレンは従えって命令が出てたのよ」
「僕はそんな話知らないぞ」
「え?」
「だいたい、君がライバル心持ってる可能性が高いのに、どうしてわざわざ煽らなきゃならないんだ。僕にそんな趣味はない」
「で、でも…」
「ちょっと待って」
 アスカを制してシンジが髪をかき上げた時、初めてピアスをしているのに気付いた。
(ピアスなんてしてるんだ。結構いいじゃない)
 が、それが驚愕に変わったのはシンジがそれに触れた時であった。
「僕だけど、アオイ聞こえる?」
(通信機!?)
 初めて見る信じられない物に気を取られて、シンジが何を言ったかなどまったく聞いていなかった。
 アスカが我に返ったのは、
「一部の妨害工作みたい」
 と言うシンジの言葉を聞いた時であった。
「妨害工作?じゃあ、あれって無効なの?」
「あたりま――待って」
 言いかけてから途中で止めた。
「アスカ嬢はそれでいいと思ってたの?」
「良くないわよ。ただ…どんな相手でも逆らうとは思ってなかったけど、取りあえず一発かましておかないと、舐められっぱなしじゃない」
「はあ」
「でもなんか、あのすごい綺麗な人に見つめられたらそんなのも消えちゃって…」
「だから変態医者は嫌なんだ」
「なに?」
「ううん、何でもない、まあ、そう言う便利な物があるなら使わない手はないな」
「……」
 妙に嬉しそうな顔で考え込んだシンジを、木星人でも見るような視線で見たアスカだが、出てきた言葉は思いも寄らないものであった。
「じゃ、二つだけ言う事聞いてくれる」
「二つ?」
「そう。一つ目はさっさと退却する事だ。僕達のやる事は使徒退治であって、常に華麗な勝利を収める事じゃない」
「二つ同時に出来ればいいじゃない」
「多分無理。僕がさっき言った事覚えてる?深追いして機体が半壊でもした日には、幾ら掛かるか分かったもんじゃないの。お金の問題でもないしね」
「違うの?」
「違う。第三新東京市は一応避難シェルターがあるけど、手間取ればそれだけ一般人にも被害が出るでしょ。エヴァの事が秘されているけど、市民が全然知らないわけじゃないんだ。千人が喜んだとしても、家族を巻き添えで失った一人が呪詛を向ける事だってある。そうでしょ」
「あ…」
 実を言えば、レイもこの辺は認識が薄く、それは相田ケンスケと鈴原トウジを見た時の反応でも分かる。
 レイの場合は特に、今まで他人との関わり合いが希薄だった為、その辺も関係しているのかもしれない。
 しかし、この街で生活していく以上、それは避けて通れない問題なのだ。
「華麗な勝利じゃなくていい。むしろ、それは求められてないんだ。だから、僕が退却してと言ったら退却して」
「分かった。出した人間の意図はともかく、サードチルドレンが役立たずだったら出さなかったんだろうしね。いいわよ、聞いてあげるわ。もう一つは何」
「君はエヴァのパイロットだが、道具じゃないしもちろん記号でもない。だから僕やレイちゃんも君をセカンドとは呼ばない。君も数字では呼ばないで」
「オッケー」
「え?」
 今度もあっさりと頷いた。
 否、むしろ乗り気気味にすら見える。
「そう…それなら助かるけど」
「シンジ、でいいんでしょ?あたしもアスカでいいから。向こうでは名前で呼ばれるのが普通だったしね」
 これは嘘だ。
 名前が普通の呼称ではあったが、アスカがそれで呼ばせた事など無い。
 彼女は常にセカンドチルドレンであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
「あ、それはパス」
「え?」
「名前は慣れてないから碇にしておいて。君の方は合わせるから」
「ちょっと、あんた待ちなさいよ。記号は駄目って言うから協力するって言ったんじゃないの。世の中ギブアンドテイクでしょうが」
「そう言われてもねえ」
 困ったもんだという表情を見せたシンジに、アスカの眉が上がりかけたが寸前で抑えた。
「じゃ、あの子はなんて呼んでるのよ」
「あの子?」
「レイ・アヤナミよ。今日本にいるんでしょ」
「いるよ」
「あの子にはなんて呼ばれてるのよ」
「お兄ちゃん」
「……」
 数秒の空白があった後、むくっとアスカが起きあがった。
「私には碇であの子はお兄ちゃんって訳なの?」
「諸般の事情があったもんで」
「何よそれっ!あたしに言う事聞けって言っておいてそう言う態度に出るわけ?あっそうもういいわよ、勝手にすればいいじゃない。馬鹿っ!」
 怒気を孕んで立ち上がったアスカだが、裾は横になっている時点で少々乱れていた。
 立ち上がった瞬間に吹き付けた風が、さっき以上にまくり上げる。
「…ッ!」
 顔を真っ赤にして歩き出そうとしたアスカに、
「いやまだふらつくと思うから」
 声を掛けるのと、その身体が蹌踉めくのとが同時であった。
「あ、お帰り」
「は、離しなさいよっ」
「また倒れる可能性が高いと思う。もう少し待ってからがいい」
「ふんっ!」
 ぷいっとそっぽを向いたアスカに、
「どうして碇じゃ嫌なの?」
「そっ、それはその…い、違和感よ違和感」
「違和感?」
「名前で呼び合うのが普通だったって言ったでしょ。それ位は知ってんでしょ?」
「うん」
「だったらあたしが嫌がるのも分かるでしょ。あたしは普通の事言ってるだけなんだからさ」
(困ったね)
 こうくるとは思わなかったのだ。
 しかしシンジもまた、名前で呼ばせた事が無いのは事実なのだ。
 前の学校では碇だし、今の学校でも変わらない。
 とは言え、思考は不明だがアスカが協力すると言っている以上、あまり駄々をこねると精神年齢が疑われる。
 仕方ないかと諦めかけた時、
「ねえ」
「え?」
「妹って一人じゃなくてもいいんでしょ?」
「は!?」
 台詞を解するのに数秒を要し、断固要らないと言おうとしたまさにその瞬間、船体が激しく揺れた。
「んむっ!?」
「あんっ」
 くぐもったような声と、艶っぽい声が聞こえるのがほぼ同時であった。
 
 
 
 
 
(続く)

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