第六十六話
 
 
 
 
 
 使徒との緒戦、やって来たばかりの少年を搭乗させ、出撃させたはいいがろくな武器もなく痛打を浴びた。
 幸いパイロットの奮闘で殲滅には成功したものの、万一敗退でもした日には、開発部と作戦部は全員電気椅子送りになるのはほぼ確定だ。
 第二戦、おかしな好奇心が命よりも優先する闖入者達の飛び入りがあり、一度は撤退を命じられたもののパイロットはそれを無視、コアを断ち切ってこれを殲滅した。
 第三戦、少々不用心に出撃させた結果痛打を浴びる。要塞化したような使徒に対し、日本中の電力を結集して撃ち抜く作戦を立てると、初号機及び零号機のパイロットが揃って変貌し、自らの放った一撃を綺麗に跳ね返された使徒は、これも一撃で殲滅されて集めた電力はすべて無駄になった。
 アオイやシンジが言う通り、全人類が未経験の対使徒戦に於いて絶対のシナリオという物は存在しない。
 だが、それを差し引いても作戦部所属のミサトや、技術開発部に所属しているリツコの面子は丸潰れである。
 別にアオイやユリが潰した訳ではない。アオイが上京したのはつい先日の事だし、ユリだって戦闘時に勝手に指揮を執ってはいないのだ。
 そのリツコは、自分のダミーに完膚無きまでに撃ち破られたし、ミサトの方はどこにも属さず大佐となっているアオイの赴任で居場所を失ったような気がしている上に、先だってはアオイからその身体に消える事のない痕を付けられたのだが、それは本人が知る由もない。
 ただ、厳密に言えばミサトの頭がいかれていて、こんな女が指揮を執る事自体どうかしている、と言うわけではない。
 初戦でいきなりシンジを出したのは、機体がありながら操縦者がいないという異様な状況の中で、本人も納得しての事だし、使徒の襲来を二日前に知って一日前に機体を仕上げた、と言う事ではない。
 二戦目も似たようなものだ。
 パイロットと直接シンクロするエヴァに、関係ない赤の他人を乗せる事が許可される筈はなく、ましてそれが避難勧告を無視した上と来れば尚更だ。シンジが勝手に搭載した以上、一旦引かせるのは当然の選択である。
 そう、そこだけ見ればミサトの判断は別に間違ってはいない。
 あくまでも、そこだけを見た場合である。
 搭乗者が綾波レイだったら、さほど問題は無かったかも知れない。レイであれば、初号機に一般人を乗せたりはしなかっただろうし、敗退したとしてもあくまで命令遵守の上だから、敗戦を問われたりして関係が悪化する事はない。
 ミサトやリツコにとって不運だったのは、碇シンジが普通の少年ではなかった事にあったろう。
 武器や作戦の不備を勝手に補ってくれる操縦者でなければ、ここまで彼女達のアラが目立ちはしなかった筈だ――その代わりに人類が滅亡していた可能性も高いが。
 とまれ、自らのダミーに女まで賭して挑んだ勝負に敗れ、反対に手懐けられてしまったリツコとは違い、ミサトは現在自分の居場所に苦慮している最中だ。
 特に、ミサトにとっては文字通り針のむしろに近い。本部内にミサトを責める視線は無いし、当のアオイからして後方へ引っ込んでいろとは言わないのだが、それが逆にミサトにはきついのだ。
 これで罵倒されたり、後方で雑務整理でもしていろと言われれば、屈辱ではあってもまだ気楽なのだが、引き続いて指揮を執るように言われてしまった。
 無論、シンジとの意思疎通は未だに出来ていない。そもそも、裏稼業で命を賭した一線で繋がっているアオイ達に対し、ついこの間知り合ったばかりで、その上屡々ミスの見られるミサトでは比較する方が無理なのだが、そんな事を言ってもアオイは自分を後方に下げてはくれない。
 だから機体を見に行くと連れ出された時、思い切って頼んでみたのだ。
 自分を後方に下げて欲しい、と。
「だめ」
 アオイの返答は即座で、あまりにもシンプルであった。
「この間言われた事が理由ですか」
 自分はシンジにしか興味がない、とアオイはそう言ったのだ。
 ただ、その後で何と言われたのか、よく覚えていない。漠然とだが、リョウジの名前を知っていたような気がする。
「私がなんて言ったか覚えてるかしら?」
「シンジ君にしか興味はないから、使徒殲滅に関わる気はない、と」
「大体その通りね。それで、どうして後方へ下がりたいなどと言うの?お父さんの事はもう忘れた?」
「…信濃大佐にお願いがあります」
「何?」
「父の事…教えて下さい。あれはセカンドインパクト前で、治安が大幅に悪化したりはしていませんでした。少なくとも、私を一人で置いていく事が大きな危険を伴ってはいなかった筈です」
「ミサトちゃん」
 不意にアオイの足が止まった。
「は、はいっ」
「浮気をどう思う」
 アオイの言葉はまったく予想外の物であった。
「ずっと自分一人だけを見てくれていると思ってたのに、実は他にも彼女がいたらどうする?三度までなら許してあげる?」
「射殺します…あ、いえそこまでは行かないけど…」
「笑って許すのは難しそうね」
「と、当然です。た、大佐は…気にされないのですか」
 言ってからとんでもない事を口にしたと気付いたが、アオイは気にした様子もなく、
「私は別に付き合っている相手もいないし、間違いなくこうするとは言えないわね」
「シンジ君は?」
「付き合っていないもの。深い所で結ばれていればそれでいいのよ」
 結ばれる、の単語に一瞬反応しそうになったが何とかおさえた。
「浮気を許すか許さないかは自由なんだけど、やはりお父さんの事は聞かない方が良さそうね」
「父が浮気を?」
「そう言う事じゃないわ。でも父を奪い、自分の身体に消えない傷を残した使徒を許せない、とそう思っているんでしょう」
「!?」
 それを聞いた途端、ミサトの表情が愕然とした物に変わった。
 どうして…どうして自分の傷まで知っているのか!?
「知らないと思っていたの」
 当然のような口調で言った。
「担当医だったり、一緒に身体を重ねた仲じゃないと知られない筈、と言うのは少し時代遅れよ。それにあって困る物でもないでしょう――ミサトちゃんに取っては」
「そ、それはどういう事ですか」
「臥薪嘗胆、よ。傷跡を見るたびに思い出すのでしょう。本来ならば順序は逆だけど、あなたにはそれでいいのかもしれないわね」
「……」
 ミサトの全身を覆っているのは怒りでも屈辱でもなく、困惑であった。
 アオイの言う事が分からないのだ。
「例えば、仮に使徒があと三体来たら終わり、そう言われたらどうするの?使徒を倒してあなたの復讐は終わった。それでその後はどうするつもり?」
「ど、どうするって…」
「どんな仇討ちでも、仇を討ったらそこで終わりなのよ。ミサトちゃんでも、使徒が永遠に来るとは思っていないでしょう?」
 アオイは薄く笑った。
「ちょうどいい、と言ったのはその事なのよ。自分が南極へ行った真相とか、使徒がいったい何者なのかを突き止めるより、取りあえず仇討ちだと燃えてる方があなたらしいわ。赤木博士みたいな人には決して出来ない生き方だし、かと言ってあなたに彼女のような生き方は出来ない。あなたには向いていると思うわよ」
「使徒は…父が発掘でもしたというの」
「違うわ。でも、その事は聞かないでおきなさい。真相が、自分の理念とまったく違う処にあった場合、今のあなたが受け入れるのは多分無理よ」
「で、でもっ、そんな事を言われたはいそうですかと、使徒殲滅に専念出来る訳がないでしょっ」
 ミサトが思わず叫んでいた時、
「そこまでにしておけよ」
 ドスの利いた声に、ミサトの全身は硬直していた。銃口が自分を狙っていると気付いたのだ。
「さっきからアオイ様に言いたい放題、元はと言えば貴様の――」
「サツキちゃん」
 アオイはちらりと一瞥しただけだ。それなのに、サツキが軽々と抱えている自動小銃は微動だにしなくなった。
 いや、出来なかったのだ。
「ミサトちゃんが言ってる事が間違ってる訳じゃないわ。下がって」
「し、失礼致します…」
 サツキの姿が消えてから、
「も、申し訳ありません…」
 我に返って頭を下げたミサトに、
「構わないわ。でもね、今のあなたは真実を知るにはまだ早いわ」
「じゃ、何時になったら…」
「一ついい事を教えてあげる。あなたが前に付き合っていた加持リョウジが、今セカンドチルドレンと一緒にこちらへ向かっているわ。彼はスパイなのよ」
「加持がスパイ!?」
「そう。私達とは世界が違うけれど、その筋ではそれなりに有名よ」
「加持が…」
 自分の記憶では、絶倫ではあったがそんなに有能ではなかった。少なくとも、アオイなどに有名と言われるような所は微塵もなかった筈だ。
 だがアオイがそう言う以上、間違いはあるまい。
「彼がネルフ本部へ来て、大人しくしている事はまずあり得ないわ。真実を知りたければ、まず彼を止めてご覧なさい。ただし、殺しちゃ駄目よ。始末するならユリが解体して移植用に引き取るから」
「は、はい…」
 人殺しをさせたくないから、ではなくその前に使い道があるからと来た。
「あなたの役目は彼に付けておく鈴――どれだけやるか見せてもらうわ。あなたに話すのは結果次第よ。いいわね」
「分かりました」
「それに、使徒はどのみち倒さないとならないのよ。現在、サードインパクトに向かって直進しているのは間違いないのだから」
 少しニュアンスは違うが、大体合っている。
 ミサトの受け止め方は、使徒が侵攻してくればサードインパクトが起きてしまう、であってアオイの方は、企まれている人類補完計画にサードインパクトが含まれている、と言う事なのだが、結果が同じなら構わないだろう。
「それと、前線の事は心配要らないわ。データさえあれば、シンジの方で考えて何とかするから。適当な指示であっても、シンジなら何とか出来る。レイちゃんが言う事聞くからまず大丈夫――例え、弐号機が使い物にならなかったとしても」
「アスカが?」
「あなたの元彼が、すんなり連れてくるとは思えないわ。アスカちゃんがシンジと上手く行っていれば、自分の方に目が向きやすいでしょう」
「で、でもシンジ君に敵対なんてしたら…」
「アスカちゃんが?」
「ええ」
「安心なさい。シンジは対等に張り合うほど子供ではないわ。それに、シンジは私よりよほど色々と知っているわ。勿論ミサトちゃんの傷の事もね」
「ど、どうしてっ?」
「何もしていないのに、家の中が綺麗になっていた事がなかったかしら?」
「そう言えばこの間…」
「玄関先であなたが倒れたから、家の中に担いでいって放り出そうとしたら、文字通り身の置き所がなかったから掃除したそうよ」
 アオイがくすっと笑い、ミサトがかーっと赤くなる。
 首筋まで染めて手を握りしめているミサトに、
「夢遊病で部屋を掃除する趣味はないんでしょう。それで、胸の傷の事はどこまで覚えているの?」
 アオイの言葉に、ミサトの顔から紅潮が消えていった。こんな時は、どうでもいいものだと思わせるに限る。
 無論、アオイにとってはどうでもいい事だ。
「父が私を救命ポッドに押し込んだ所までは覚えています。でもどこで傷付いたのかまでは…」
「消せるけど、どうする?」
 不意の言葉に、一瞬ミサトは付いていけなかった。
「い、今なんて?」
「ユリの所なら消せる、とそう言ったのよ。文字通り傷一つ無い肌に戻れるわ。どうする?」
 
 消せる?
 着替えの、そして入浴やその他素肌を晒すたびに使徒を許さぬと、ある時は自分を焚き付け、ある時は自分を奮い立たせてきたこれが消えるのか?
 ミサトが素肌を晒したのは、実にリョウジと肌を重ねた時だけだったのだ。
 温泉などは完全貸し切り以外一切入ってないし、診断の類はすべて避けてきた。サイズを測る時はいつもキャミソールかスリップの上からにしてきた。
 それが消せるというのだ。
 
「か、簡単にっ?」
 思わず急き込んで訊いたミサトの声が、多少上擦って聞こえたのはやむを得まい。
「簡単よ。入院も要らないわ」
 十数秒考えてからミサトは首を振った。
「今は…いいです」
「要らない?」
「いえそうじゃなくて…」
 ミサトの口許に小さな笑みが浮かぶ。
 それはどこか哀しげな色であった。
「信濃大佐の評価が上がってからにします。父の真実すら知る事の出来ない今の私では…受ける資格がありませんから」
「そうね。その時になったら、また考えなさい」
「折角言って下さったのにすみません…」
「あなたの身体でしょう。自分で決める事よ」
「はい…」
「さて、と」
 アオイはエヴァに向き直った。
「シンジに嫌味言われても困るし、早いところ武器を考えておかないとね。あなたも考えるのよ」
「わ、私もですか?」
「当然でしょう。私はあくまでバックアップ、実際に指揮を執るのはあなたなんですからね」
「そ、そんな…」
 アオイの笑みを見た時、ミサトはまんまと嵌められた事を知った。
「じゃあ、止めておく?」
「や、やりますっ」
「頑張って」
 既に交換条件が出されている以上、ミサトは受けざるをえない。
 資料を持って歩き出したミサトの後ろ姿を見ながら、
「彼女はまだ加持リョウジを想っている。餌は十分ね――加持リョウジ、せいぜい真実に迫ってご覧なさい。元彼女はそんなに甘くないわよ」
 アオイの口許に冷たい笑みが浮かぶ。
 ミサトに対してさえ決して見せなかったその表情は、獲物を前にした時の物である。
 表向きはアスカの付き添い、その実スパイの身でやって来る加持リョウジは、既に標的として捉えられているのだろうか。
 
 
 
 
 
「ほう、するとお前らか。シンジさんを呼び出したガキ共ってのは?」
 アスカを迎えに行く当日、乗り物は輸送ヘリUH−60が使用された。
 以前は主に輸送ヘリとして使用されたが、軍備に回す金が否応なく大幅に削られた現在では、依然として現役の所が多い。
 操縦はアオイとユリだが、後ろに乗り込んでいるのはサツキなのだ。
 出生が極道だから、空威張りなど無くともガキ共など文字通り視殺が可能な迫力を持っている。
 その視線に遭って生きた心地もしないトウジとヒカリだったが、
「サツキ、もういいってば。ツッコミ役で連れてきた訳じゃないよ」
「シンジさんがそう言われるのでしたら」
 シンジの助け船にホッとしたものの、そのシンジはと言うと何やら銃器をせっせと改造している最中であり、こっちはこっちで十分物騒だ。
 だいたいこのヘリからして、機銃と対戦車ミサイルを装備しておりただの輸送とは程遠い。
「サツキちょっと」
「はい?」
「これちょっと直しておいて。ピントがちょっとずれてるんだ」
「分かりました」
 銃身を受け取ってから、
「…あの、シンジさん?」
「何」
「これを…何に使われるんですか」
「アスカ嬢の捕縛」
 ニヤッと笑って危険な事を口にしたシンジは、後をサツキに任せてかさかさと移動してきた。
「こんな事頼んで悪かったね」
「う、ううんいいの。こんな事で良ければ幾らでも」
「せ、せや。お安いご用やで。けど、どうしてワシらをチルドレンにしたん?」
「セカンドチルドレンに、アスカって娘がいてこれから会いに行くんだけど、強いらしいんだ」
「優秀なの?」
「優秀。おまけに強い」
 これを聞いてもトウジはピンと来なかったようだが、ヒカリの中でどこかに立っているアンテナが動いた。
 俗に言う、第六感のアンテナである。
「ちょ、ちょっと待って碇君」
「なに?」
「もしかしてその人…ほ、他のチルドレンをとてもライバル視してたりするの?」
「どうして分かったの?」
「す、鈴原っ」
 それを聞いた途端、ヒカリは反射的に叫んでいた。
「何や?」
 が、想い人はまったく気付いた様子はない。
(やっぱりそう言う事だったのね…)
 シンジが銃を持っているのはいざとなれば撃つために違いない。
 軽率に引き受けた我が身を呪ったが、
「ヒカリ嬢、言っとくけど」
「え?」
 ヒカリの耳に口を寄せて、
「あそこで怖いお姉さんがいじってるあれは、実弾使用じゃないよ」
「ち、違うの?」
「盾にしようとしてるとか思ってたでしょ。彼氏は気付いてないみたいだったけど」
「だ、だって碇君があんな事言うから」
 シンジは眼下に広がる海を見下ろしながら、
「未知数ではあるけどね。人外じゃないんだから多分、分かり合えると思う」
「出来なかったら?」
「洗脳・改造する」
「洗脳って…」
「人類には時間がないんだ。役に立たない切り札を持ってる訳にはいかない」
 シンジの口調は珍しく強い物であった。
 ただし、その裏でシンジの脳裏には既に改造光景が浮かんでいる事など、ヒカリも気付く由は無かった。
 
 
 既に学校は休みになっているのだが、家にいれば良かったと後悔しているのはマユミであった。
 街を歩いていたらレイに捕まってしまったのだ。
 最初は普通に声を掛けられたのだが、すぐに相当機嫌が悪いと気付いた。
 訊いた方が良さそうだと思って一応訊いたら、案の定シンジが置いてきぼりにしたのだという。
 これは正確ではない。留守番してるようにとシンジから言い渡されており、何も言わず置いて行かれたわけではないのだ。
 とは言え、ドイツから来るアスカにお兄ちゃんを取られたらと、穏やかでない心境はマユミにも理解出来ないことはない。
 が、ここまで既に十数名に絡まれている。
 レイには黒服を付けていない上に、全身から妙な殺気を放っているせいで、その手の連中を誘き寄せるらしい。
 そう、文字通り誘き寄せると言う単語がぴったり当てはまるほど、悉くレイの憂さ晴らしの犠牲になっていった。
 レイが通り過ぎた後、満足に立てる者は一人もいなかったのである。
「で、でもレイちゃん」
「何」
「碇さんと知り合いじゃないんでしょう。レイちゃんは初めて会った時、最初から碇さんを好きだったの?」
「さ、最初は…」
 レイの顔が急に赤くなり、
「か、勘違いしていたから…で、でも今は違うもの」
「碇さんはそう思ってくれてないみたいだけどね」
「マ、マユミっ!」
 真っ赤になって手を振り上げたレイからすっと避けて、
「だから多分大丈夫だと思うわ」
「…どうして分かるの」
「碇さんがレイちゃんを置いていったのは、多分違う理由だと思うの。その、ドイツから来る人が最初レイちゃんがしたみたいな反応したらどうする?」
「許さないわ…ゆ、許さない事はないけど…いや」
 自分もそうだったのに?と言う視線で見つめられ、レイの殺気が萎える。
「で、でももし違ったら…」
「大丈夫よ」
 マユミはあくまで強気である。
「碇さんはそう言う事に興味が無いって、転校当日に言ってたのを聞いた事があるわ。それに碇さんには…」
 信濃大佐が、とそう言いかけたのだが途中で止めた。
 ドイツから誰が来るのか知らないが、アオイと比してしまったら誰だって月と砂塵くらいにしかなるまい。
「と、とにかくその――」
 言いかけたら、
「信濃大佐でしょう」
「え?」
「信濃大佐はお似合いだもの。私だって自分のことくらいは分かってるもの」
(レイちゃん…)
 しばらく前、並んで歩く二人を街で見かけたのだが、マユミにはどう見ても余人の入り込む隙はないように見えたのだ。
 姉弟と言うならまだしも、他人となれば隙間は皆無に見えた。
「その事は最初から考えてないの。でもお兄ちゃんは優しいから…」
 しかし、ドイツから来る娘がシンジの彼女になる可能性は皆無なのに、レイが何を心配しているのかと、マユミはそっちの方が気になった。
(妹がもう一人とか…まさかそんな事はないわね)
 浮かんだ考えを笑い飛ばしてから、置いて行かれた妹をどうやって慰めたものかと明晰な頭脳をフル回転させ始めた。
 
 
 マユミがレイに手を焼いている頃、既にミサトは目的地へ着いていた。
 既にアオイからチルドレンのダミーの事は聞かされているが、シンジの用意が遅れたので先に来たのだ。
 尤も、アオイにユリ、それにシンジも揃ったフルメンバーと一緒に来るのは、ミサトにとっては気乗りしない事であった。リョウジを見張っておくようにとは言われたもののどうすればいいのか、と言うより会った時に何と言えばいいのかさえ、まだ考えついていなかったのだ。
 それに、先の使徒戦でシンジに火傷をさせて以来、何となく顔を合わせ辛いのもまた事実である。
 本人はまったく気にしている素振りはないが、まだ挽回しているわけではない。
 だから先に行くよう指示された時、内心ではほっとしていたのだ。
 戦艦(ふね)に着くとアスカはいなかった。
 まだ自分の部屋で寝ているらしい。
 それなら後回しだと、先に艦長へ会いに行った。
「ネルフの葛城ミサトです」
 ネルフのIDを提示したのだが、どう考えても関係なさそうなスリーサイズの部分はそのままになっている。
 最近まではけしらかんと塗り潰しておいたのだが、アオイが却下したのだ。
「新しいカードからは消しておくから、それまではそのまま使いなさい」
「し、信濃大佐…」
「言えないような身体のパーツじゃないでしょう?」
 と言ってもアオイの方が自分より胸も大きいし、背も高くモデルみたいに見えるからだと思ったが、そう言われては逆らえず元に戻したのである。
「国連軍太平洋艦隊総司令のサム・モーガンだ。よく来られた。君を歓迎するよ」
 流ちょうな日本語で出迎えられたが、
「この度はエヴァ弐号機の輸送、ありがとうございました」
「最近は国連軍も宅配業に手を出すようになってな。本業だけではやって行かれんのだよ」
 口調だけ聞くと、本気だか皮肉だか分からない。
「とはいえ、引き受けた以上全力で運ばねばならん。三十分後に冷えていては困るからな」
 側にいた副長らしい男が口許に手を当てて笑った。
「…光栄です。ではこの書類にサインを」
「引き渡し書類かね」
「そうです」
「断る。君は人の話を聞いていなかったのかね?」
「……」
「宅配業と言ったはずだ。水陸両用ではないものを海上で引き渡す、こんな無責任な事はないと思わんかね?弐号機と搭乗者は、我々が預かっているのだよ」
「ではいつ引き渡しを?」
 聞いた途端、艦長の視線がミサトを射抜いた。
 歴戦の軍人を思わせる視線であった。
「君のような者を引き取りに来させる辺り、ネルフ本部は相当な人材不足と見えるな。引き渡さないとは言っていないのだ。横須賀へ入ってからに決まっているだろう」
「分かりました」
 ぐっと唇を噛んで、
「ただし、有事の際は我々ネルフが最優先となります。それはお忘れ無く」
「断る」
「何ですって」
「君の言葉には間違いがあるからだ。我々、と言っても君一人しか来ておるまい。君のようなお嬢さんが指揮を執るなら、まだ我々が指揮した方が上手く行きそうだ」
(何ですって…)
 さすがにミサトの眉が上がったが、
「一人ではありませんわ。私達も来ております。もっとも葛城一尉の付録ですけれど」
 後方から鈴を振るような声がした途端、サムの表情が一変した。
「アオイ?アオイなのか!?」
 前線の将軍から一好々爺へと変貌したのである。
「お久しぶりです」
 唖然とするミサトを尻目に、サムはつかつかと歩み寄ってアオイを抱き締めた。
「久しぶりだなアオイ。まさか、こんな所で君に会えるとは思わなかった。君の恋人はどうした?」
「今度恋人と言ったらそのヒゲそり落としますわよ」
「あ、ああそうだったなこれは失礼。で、彼はどうした?」
「エヴァ初号機パイロット碇シンジなら、もう来ておりますわ」
「初号機?ネルフに入ったのか?」
「ええ、私と一緒に。今はネルフ本部所属大佐信濃アオイです。艦長、葛城一尉は優秀ですわ。あまり困らせないでさっさと署名なさって下さい」
「…分かったよアオイ」
 ふうとため息を一つ吐いてから、
「君がそう言うなら間違いはあるまい。書類を渡したまえ、弐号機は君に任せよう」
 君に、の部分をアオイに向けて言ったのは間違いなかったが、とまれ書類はサインされた。
 その頃甲板では、トウジの身体が一回転していた。
「長門ユリだ。君たちチルドレンの担当医となる。よろしく」
「そ、惣流・アスカ・ラングレーです」
 どんな奴でも来いと待ち受けていたアスカだが、ユリの美貌に陶然となってしまい、何とか挨拶したところへ、
「優秀なチルドレンだと聞いている。期待している」
 などと言われたものだからすっかり舞い上がってしまった。
 危険な美貌に見つめられ、赤くなってただこくこくと頷いた所へ、
「葛城一尉と信濃大佐はもうじき来るはずだ。その前に君の仲間を紹介しておこう。サードチルドレンの鈴原トウジだ。出たまえ」
 妙に冷たい紹介だと思う余裕もなく、
「セカンドの惣流・アスカ・ラングレーよ。よろしくね」
 ユリに見られている手前、最大限までフレンドリーに手を差し出したのだ。
 だがそこへ一陣の突風が吹いた。甲板では珍しくもないし、こんなワンピースで出てくるアスカにも問題があるのだが、とにかくその風はアスカのワンピースを大きくめくりあげた。
(あっ)
 違う意味でかーっと赤くなったアスカが、慌てて前をおさえる。
 黙っていればまだ良かったろう。
「青やった…」
 トウジが呟いたのだ。
「あ、あ、あんたっ…」
 それでも必死に抑えようとしたところ、
「いくら慎み深い娘でも、我慢には限界があろう」
 ユリが危険な声で囁いたのだ。
 変わらぬ距離にいながらトウジには聞こえず、そしてアスカには中枢神経まで侵すような声で。
 それだけで十分であった。
 次の瞬間アスカの手が閃いたかと思うと、トウジの両頬が目の覚めるような音を立てており、
「な、何すんのや!」
「見物料よ。まだ足りないわよ」
 言うが早いかトウジの手は取られており、綺麗な弧を描いてその身体は一回転していた。
 受け身も取れずまともに叩き付けられたトウジをぽかっと蹴飛ばしてから、女医の存在を思い出した。
「す、すみませんあたし…そのっ」
「別に構わんよ」
 慌てて謝ったアスカに、ユリは妖しく笑った。
「なるほど、これなら確かに――」
 声は後方から引き取った。
「エースパイロット――僕の地位を脅かす存在になる」
(!?)
 目の前で転がっている少年からはまったく感じなかった物――痛烈な殺気が背部から叩き付けられたのだ。
「動かないでね」
 殺気と違って声は異様に甘い。
 むしろそのギャップに押されてアスカが硬直した直後、肩に鈍い衝撃を感じた。
 見ると小さな花が乗っている。
(な、何よこれ…)
「食べて」
 背後の甘い声が命じた。
 口調は変わらない。
 有無を言わせぬ口調にアスカが手を伸ばして取ると、それは小さなケーキであった。
「あ、あの…」
 助けを求めてユリを見たが、
「言われた通りにした方が良かろう」
 助けてくれる気配は微塵もなく、こうなれば自棄だと思い切って口に入れた。
 と、意外に美味しい。
(何よ美味しいじゃない)
 飲み込んだところへ、
「良かった、食べてくれて」
「何よあんたが食べろって…」
 振り向こうとして不意に嫌な予感がした。
(ま、まさか…)
「チルドレンの代わりは探せばいい。でも僕の座を脅かす子は、何としても排除しておかないとね。ほら、心臓が苦しくなってきたでしょ」
 いきなり心臓が早鐘のように鳴り始めた。一気に心拍数が上がり、苦しさが駆け上がってくる。
(い、息が出来ないっ)
 かっと目を見開いて喉を押さえたアスカに、
「あ、もう無駄だから。諦めた方がいいよ」
 相変わらず笑みを含んだ声が掛けられ、それを聞きながらアスカの意識は急激に遠のいて行った。
(あ、あたしこんな所…で…)
 アスカが倒れ込むのと、ヒカリがトウジに走り寄るのとが同時であった。
「鈴原、鈴原しっかりしてっ」
「心配は要らん。気絶しているだけだ。見えたのは偶然とは言え、あえて下着の色など口に出す事はなかろう。連れて行くがいい」
 駆け出そうとするヒカリは、ずっとシンジに制されていたのだ。
 ゆっくりとアスカに歩み寄ったシンジに、
「腕前が上がったようね」
 ユリが声を掛けた。
 もうトウジの方など見ようともしない。
「まあね」
 曖昧に頷いてから、アスカを抱き上げた。
 半分泣きながらトウジを連れて行こうとしているヒカリに、
「あ、そうだヒカリ嬢」
「何…」
「欲求不満らしいから、たまには見せてあげた方がいいかも知れない」
 ユリに聞こえぬように囁くと、ヒカリの顔が真っ赤になった。
「それからこれを飲ませればすぐ戻るよ。じゃ、僕はこれで」
 ポケットから丸薬を取り出して渡すと、そのままアスカを抱えて歩き出した。
 
 
 
 
 
(続く)

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