第六十五話
 
 
 
 
 
 アオイとシンジがネルフにやって来て、シンジは地下まで入れるセキュリティカードを手に入れ、アオイは大佐としての肩書きを手に入れた。
 何処何処の、と断りが付かないのは完全なる全権を意味しており、作戦部だろうが諜報部だろうが、その気になれば動かせるのだ。
 そうでなければ、シンジの完全なフォローは出来ないとアオイが言ったからだが、この二人に取って権力とか力は、さしたる意味を持っていない。
 既に息子の切り離しを決意したゲンドウだが、シンジが抑え込めば反発するタイプなのは知っており、だからこそあえて危険なセントラルドグマへの権利も与えたのだ。
 結果は少し予想外だったが、レイが自らそれを見せ、シンジは普通に受け入れた。そのシンジはと言うと、別に権力に興味を持つでもなく、聖域なき内部改革に目を向ける訳でもない。
 アオイも同様である。
 ネルフ本部内に於いて、現時点まではこの二人が来た事で困る者はいなかったのだ。
 そう、ネルフ本部内では。
 だがここに一人居た。
 ドイツからアスカのお供という名目で同行し、その実とんでもない物を持たされた加持リョウジに取って、アオイとシンジの上京はまだしも、その持っている力は大幅に計算外であった。
 無論、リョウジは二人の裏稼業は知っているし、そんな二人がネルフ内部で茫洋と日々を過ごすわけは無い事も分かっている。
 本部へ呼ばれたのを幸い、あれこれと動こうと思ったのだが、この二人が網など張っていたら計算が狂うってしまう。
 近々、この戦艦へやって来る事は既に掴んでいる。
「とりあえず、お手並み拝見と行くか…」
 無精ヒゲを撫でながら呟いた時、不意にドアがノックされた。
「どうぞ」
 物騒な荷物をすっとベッドの下にしまって声を掛ける。
 姿を見せたのはアスカであった。
「アスカか。どうした?」
「うん、大した用事じゃないのよ。ただ、ちょっと聞きたい事があって」
(どっちだ?親かそれとも…)
 アスカの両親が変死した事はもう本人の耳に入っている。だがリョウジには、天秤に掛けられるもう一つの事由があったのだ。
「ネルフ本部から通達があった件よ。サードチルドレン碇シンジの、現場に於ける絶対権利ってどういう事?」
 やはりそっちか、とリョウジは内心で苦い顔になった。
 ドイツを発つ前に届いた一枚の令状は、アスカが言った通り現場の指揮権は碇シンジが最優先とされ、その命令には絶対服従すべしとあったのだ。総司令碇ゲンドウのサインはあるから、偽物ではない。
 どうしてこんな物を発行したのかは分からないが、エヴァに自分の全てを賭し、また優秀なパイロットを自認するアスカにとっては、絶対に受け入れられる物ではない筈なのだ。
 だからいざという時までは伏せておこうと思ったのだが、どこからか耳に入ってしまったらしい。
 もっとも、リョウジに取っても自分の関係外でアスカが知れば、自分にとばっちりはないと秘かに思っていたから、多少後ろめたい部分もある。
「聞いたとおりだ」
 だからここは、開き直る事に決めた。
「ネルフ本部にある初号機は、サードチルドレン専用の機体なんだ。だから、その辺りで本人が我が儘を言い出して、司令も断れなかったのかもしれない」
「息子だからって言う事?」
「それはどうかな。任務となれば、私情を挟む人ではないからな」
 そう言いながら、内心は多分その可能性が高いと踏んでいた。リョウジは、この時点でゲンドウが人類補完計画の強行に踏み切った事も、そして放り出した態にして実はもっとも安全な場所に預けていたのは目をそらす為だった事も知らない。
 信濃家に預けたのは、純粋に息子への思いからだと思っているのだ。
「じゃあ、本人にその実力はないと考えていいのね」
 アスカの言葉に危険な物が混ざった。
 普通に考えれば返答は否、であった。
 上京していきなり搭乗を命じられ、即使徒との戦闘に巻き込まれた。無論訓練はまったく積んでいない。にもかかわらずこれを撃破、機体の暴走という因子は必要としていないのだ。
 更にその後も続けて二対の使徒を撃破している。
 シンジ達の裏稼業を知らなければ、リョウジも或いは未来を知っている者とでも思ったかも知れない。
 そもそも、ファーストチルドレン綾波レイや、セカンドチルドレン惣流・アスカ・ラングレーでさえ、そう簡単にはエヴァが受け入れなかったのだ。それを一度にして起動させ、あまつさえ使徒を撃ち破るなど常識の範疇を超えているとしか言いようがない。
 普通に考えれば、ここでアスカの敵意を煽るのは賢明ではない。
 ネルフ本部自体が未知の地であり、本部の者達を手懐けていない筈はないのだ。そこでアスカがシンジに敵意を持てば、文字通り飛んで火に入る夏の虫になりかねない。
「そうだな。エヴァは一度動いてしまえばとんでもない兵器だ。適当に動いているだけでもその一撃は凄まじい物があるのは、アスカも知っているだろう」
 だがリョウジの言葉はその反対であった。
 アスカが頷く。
 リョウジは続けて、
「彼の前評判はほぼフェイク――だれがエースパイロットに相応しいか、たっぷりと見せてやるがいい」
 アスカの目に光が点った。
 戦闘を前にした時の兵士の目だ。
「オーケー、加持さん。日本の坊や達にたっぷりと思い知らせてあげるわ」
 だがリョウジもアスカも分かっていなかった。
 本当に恐ろしいのは、アオイでもシンジでも無いと言う事を。
 暗殺者なのに、祖父の影響で時折情が優先される彼らではなく、自分以外の他人など全て病人であり、患者(クランケ)として見ていない女医である事を。
 そしてその美貌の女医が、
「知りたがりも病の一つね」
 と、既にカルテを作っている事も知らないのだった。
 
 
 
 
 
「レイがATフィールドを使える?どういう事なの」
「聞いた通りよ。ただし、あの子本体ではないわ」
 もうベッドの上は片づけられ、淫闘の後は完全に消えている。
 ただし、二人のリツコはいずれも全裸の上に白衣をまとっただけの姿だ。オリジナルに室内を片づけさせようとしたのだが、リツコの方が腰が抜けて立てなかったのだ。
「レイの中にはもう一つの人格があるのよ」
「ユイさんの?」
「違うわ。想像も出来ない人よ。あなたの知識の範疇外よ」
「……」
 子供扱いされたような気がして、わずかに眉の寄ったリツコが煙草に手を伸ばした途端、その手がすっと取られて引き寄せられた。
「そう言う拗ねた顔見てると萌えちゃうのよね」
 んむっと唇が重ねられ、舌が入り込んできた。柔らかく嬲ってくるそれに自らの舌を絡めると、ふわっと白衣が脱がされ、あっという間に乳房が揉みしだかれていた。
 リツコの全身からふにゃっと力が抜けるのを確認し、やっとその身体は解放された。
「も、もう何を…」
 赤い顔で口許を拭ったリツコに、
「その顔はしない方がいいわよ」
「え?」
「私が押し倒したくなるから」
 リツコが首筋まで真っ赤に染める。
 その様子を愉しそうに見えているにせリツコだが、この二人が数時間前、全力を尽くして責め合い、女を賭けて闘ったとは到底思えない。
 表情を戻し、
「レイがATフィールドを使ったのを見た事は」
「ないわ」
(やはり、ね)
 一度あるのだが、その時は妲姫が見た者全ての記憶を一時的に消去している。それがまだ有効と言う事なのだろう。
「あなたが成長すれば、もしかしたら知る事になるかもしれない。でもレイちゃんには聞かない方が無難よ」
 自分と同じ姿をした者の口から、レイちゃんと言う単語が出ると妙な感じね、などとリツコが思った途端、
「死にたく無かったらね」
 にせリツコの言葉が一気に引き戻した。
「これは私からの忠告よ。と言うより命令ね」
「命令?」
 妙な事を言うと思ったら、
「そう。私はもうネルフへ出てくる気はないの。なのにあなたが死んだりしたら、私が出てこなくてはならないでしょう。面倒な事に私を巻き込まないで」
 リツコを気遣っているから、ではなく、リツコに何かあったら自分に回ってくるのが面倒だから気を付けろと言う。
 どこかで聞いた台詞だと記憶をたどったら、すぐに見つかった。
 シンジだ。
 仔細は覚えてないが、シンジがエヴァに乗る理由もまた、これに似ていたような気がする。
「言うとおりにするわ。それで、私は何をしたらいいの?」
「水槽にいる綾波レイの起動――自我はどうするの」
「自我はないわ。人間としての体裁を保てればそれでいいの…ごめんなさい」
 すう、とにせリツコの雰囲気が変わった時、リツコは目の前の女が自分と同じ姿形でありながら、その精神(こころ)はまったく別物である事を知った。
 自分は…水槽から引き揚げたレイを人間として扱わぬと言った時、何も感じなかったのだ。
「別に構わないわ。赤木リツコの人間性を矯正するように、とはシンジ様から言われていない。範疇外の事はしないものよ。代用のレイがそれなら、別に問題はないわね」
「え?」
「シンジ様から、レイちゃんには会わせないようにと厳命が出ているのよ。もしも会ったら綾波レイ同士で殺し合いを始めかねないから」
「ど、どういう事なの」
「分からないの」
 刹那憐れむような視線を向けてから、
「レイちゃんに取って、シンジ様は絶対の存在なのよ。それもドクターのようなすり込みではなく、自我を持った彼女が自分の意志でそう願っているの。でも水槽から持ってこられたレイは違う。まして綾波レイと自分の息子を見放して作る存在は、自分に対して絶対の忠誠を誓う存在に仕上げるのが普通よ」
「……」
 自我を持ったレイが自分の意志で、とにせリツコは言った。
 レイは元々、自我を持ち合わせていない存在ではない。
 だが、所詮はクローンなのだ。
 存在の尊卑ではなく、普通の人間として生きられるような身体ではない。定期的なメンテナンスも必要だし、一定量以上の運動は身体に危険を及ぼす。
 性奴ではないが、取りあえず必要な目的を達成出来ればいい、と言うのが綾波レイの存在理由であり、そのレイが自我を持ったらどうなるのか。
「どうにもならないわよ」
 今度こそ、リツコはビクッと全身を震わせた。
 まさか、心中を完璧に読まれるとは思っていなかったのだ。
「確かにレイちゃんの身体は普通じゃないわ。でも久方ぶり――それも数百年ぶりの筈よ――に身体を手に入れたあの人が、むざむざ身体を崩壊させると思って?」
 にせリツコの言葉は、リツコの心胆を寒からしめるに十分であった。
 それが誰を指すのかは知らない。
 だがレイの内部にいるのは肉体を外部干渉無しに維持出来る人物であり、しかも数百年以上前に存命していたという事になる。
(一体それって…)
 言うまでもない事だが、リツコはまだ依然としてロジック最優先型の思考である。にせリツコからもたらされた単語を打ち込み、脳内をフル回転させて思考に移る。
 既に全身を覆う快楽の余韻は消えていた。
「吸血鬼…なの?」
 にっと、にせリツコは笑った。
「あなたもまだまだ私の手の内ね――不正解よ」
 
 
「レイちゃんがしばらく起きあがれない?なんでまた」
「起きられると面倒だから」
 よく分からない問答は、ホワイトハウスの地下にある浴場でのものだ。湯に乳房を浮かばせているのは無論アオイだし、その腕に捕獲されているのはシンジである。
 例えどんな理由があろうと、自分を置いて勝手に訪米した時点でアオイの機嫌は良くない。
 かといって大きな声を出すでもなく、況や手を挙げる事など無く、風呂へ拉致するのはこの二人の関係を良く表していると言えよう。
「一応ダミーを四体用意してあるわ。向こうにはユリを置いてあるし、使徒来襲の時はダミーで出撃してもらうわ。初号機・零号機共にね」
「ふーん」
 ぴゅっと湯を飛ばしてから、湯面に顔を出している乳房を軽く指で押した。いつもと変わらぬ弾力を伝えてくるそれに掌を当てると、いつも通り収まりきらない。
「今のままじゃ役立たずなの?」
「そうでもないけど、少し精神面が安定していないから。出撃する時になって役立たずと言われるよりも、その前から動けない方がいいでしょう。それとシンジ」
「なに?」
「戻ったらレイちゃんを戻してあげて」
「断る」
 シンジの答えは早かった。
「別にアオイと住みたいから追い出した訳じゃない。今のあの子じゃ、僕の神経が持たないから別にしたんだ。それ位知ってるでしょ」
「分かってるわ」
「じゃ、放っておいて」
「ええ…」
 シンジには言ってないが、レイが夜な夜なシンジを思って自慰に耽っているのは、既にサツキから聞いていたのだ。
「アオイ様、大変申し上げにくいのですが…」
 そう言って切り出したサツキの顔が脳裏に浮かぶ。
 チルドレンの担当医は長門ユリだ。
 そのユリを飛ばして、直接自分の所に来た以上それなりの覚悟はしてきたのだろう。
 ただアオイには、レイの事をシンジに打ち明ける訳には行かなかった。
 シンジのパートナーとしてのアオイではなく、同じ女として口には出来ない事だったのだ。
 どっちが悪いかと言えばシンジが悪い。
 いつまでも人外に拘るレイも悪いのだが、所詮それは甘えであって、本心から悩んでいる訳ではない。その時期はもう過ぎている。
 だが、シンジにはその事も含め、レイが自分の意志でシンジを想っている事に気付いていない。おそらくシンジは、ユリに刷り込まれた(インプリンティング)事の続きだ位にしか思っていないのだろう。
 だからと言って、
「レイちゃんは自分の意志であなたを想っているのよ」
 などとアオイが言ったら、シンジは二度とレイと同居はしないだろう。
 シンジはそう言う少年なのだ。
「困ったものねえ」
 隠すでもなく口に出して呟いたアオイに、
「困った子は何処にでもいるもんだ。ところで、ドイツからの子はどうするの」
「会いに行くわ。もう向こうにも通達してあるから。パイロットの取捨選択は早めにした方がいいでしょう」
「取捨選択?」
「役に立たなかったら洗脳しないとね」
「しません。もうアオイってば過激なんだから…はう」
 言い終わらぬ内にぎゅっと捕縛され、シンジの頭は文字通り胸の谷間に挟まれた。
「私が過激?そんな事を言うのはどの口かしら」
 にゅうと顔が後ろに振り向けられると、有無を言わさず唇が重ねられた。
 シンジの両手はアオイの片手にがっしりと押さえ込まれ、シンジは身動きすら出来ない。
 好きなように舌が弄ばれ、次第にシンジの顔が上気してくる。責め立てる程のそれではないが、まったく身動き取れないと言うのは、普通より圧迫度が高いのだ。
 たっぷりと舌を嬲ってから唇が離れる。
 間をつないだ透明な糸を妖しく拭い取ってから、
「レイちゃんに黒服を付ける気はないの。警備費用の無駄だわ。今のあの子は自分の意志で動いている――私が保証するわ。すぐにとは言わないけど、戻してあげなさい。いいわね」
「…分かった」
 するりとアオイの手から抜け出したシンジには、たった今まで捕縛されていた感など微塵もない。
「クリスマスに手袋一つじゃ、少々不足か」
 妙な事を口にしてから、
「僕からも一つプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
「そ。じゃ、僕はこれで」
 くるりと身を翻したシンジが、胸から下にすっぽりバスタオルを巻き付けて出ていった。
 数分後、着替えたシンジが髪を拭きながら廊下に出ると、そこに待っていたのはメアリーであった。
「あ、あの…」
「奴は今入浴中だ。今なら間違いなくしとめられる」
「し、仕留めって…でも、本当にいいの?」
「嫌なら構わないけど」
「お、お願いするわっ」
「結構」
 シンジは頷いた。
「一つ言っとくけど、別に善人になれとは言わない。でも、僕は別にアオイの恋人じゃないの。これ以上僕を狙わない方が、身の為だと思うよ。アオイが本気になったら僕じゃ止められないから」
「わ、分かったわ…」
 一方的な横恋慕で、おまけに自分を助けたシンジを知らずして目の敵にしている娘だが、それでもシンジは怒る気にはなれなかった。
 シンジがその気になれば、洗脳どころか完全な下僕にも出来るのだが、少々邪とは言え、ここまで一途になれる娘がある意味で羨ましい部分もあったのだ。
 その感情は、自分にはもう決して無い物だったから。
 ただし、それをレイに適用出来ないのは、シンジがまだそこまでは成長してないせいだ。その辺りは、シンジにはもっと成長の余地を残していると言えよう。
 嬉々として中に入っていくお嬢様を見送ってから、
「お嬢様には混浴券をプレゼントしておいた。アオイにはお世話係をしてもらおう。それにしても…レイちゃん戻すと夜ばいされそうだし。たまには真っ黒いアフロにでもなってもらうかな」
 出立する前の晩の事を言ってるのだが、シンジの口調に冗談の色はなく、それどころか口許に妙な笑みが浮かんでいる。
 了承した以上翻せないが、かくなる上はレイのアフロヘアでも見てやろうかと、ろくでもない事を企んでいるらしかった。
 
 
 日本へ戻った二人を待っていたのは、相田ケンスケの父親が自殺した事と、相田ケンスケの転校であった。
「どういう事?」
 アオイの髪にブラシを掛けながら訊いたシンジに、
「割腹自殺よ。見事に腹を切ってのけたらしいわ。遺書には息子の咎は自分がすべて負うから、と」
「息子はちゃんと始末したね?」
「シンジ?」
 予想外の言葉に、さすがのアオイも驚いた。
「父親には何の咎もないんだ。脳内に虫の湧いた息子が、避難命令を無視してエヴァを見に行った挙げ句、今度は最高機密に侵入しようとした。それで、どうして父親が自殺しなきゃならないのさ」
「父親だからよ」
 アオイの言葉はどこか淋しげであった。
「確かにシンジの言う通りよ。未成年ではあっても、もう十四ともなれば親が全面責任を負う必要はないわ。子供の犯した罪ならば、臓器を売ってでも本人が償えばいい。でも父親はそう思わないのよ…最近は違うケースも多いけれど。首つりでも拳銃自殺でもなく割腹を選んだ。あの子の父親は、確かに武士だったのよ」
「……」
 シンジの表情はまだ戻らない。
 ケンスケが袋だたきにされたのは知っていたが、それは本人の問題だし、自業自得以外の何物でもない。
 世の中には、決して触れてはならない物が幾つもあるのだ。
 命と引き替えにそれを知らなかっただけまだましだが、だからと言ってどうして父親がその責めを負わねばならないのだ。
「もしもこの街に一歩でも足を踏み入れるような事があるならその時は――」
 最後の言葉は言わずに飲み込んだ。
 無論、アオイもそれ以上の事は訊かなかった。
 だが、世界を無に帰しても亡妻と会う事を選び、自分の事を切り捨てた父親と、命の危機でもないのに咎は自分が負うと割腹してのけた父親――両者の姿はあまりにも対照的だったろう。
 理由はともあれ、ここ数日がシンジにとってストレスの貯金時期となっていた事は間違いあるまい。
 
 
 外傷はないのだが、実戦に出すには身体のキレが重い事は、勿論サツキもとっくに気付いていた。
 それでも本人のたっての希望でシンクロテストは行い、若干ながら値が上昇して満足げなレイを見るサツキの視線は、世話の焼ける妹を見る姉の物であった。
 アオイやユリも、サツキの姉御肌の事は考慮して任せているから、その辺は計算通りと言えよう。
 シャワーを浴びてあがってきたレイに、
「一桁だが、また上がったな。いい傾向だ」
「はい」
 レイにとってシンクロ率の上昇は、自分の為どうこうよりも、少しでもシンジの側に近づける物である。
 嬉しそうな顔で頷いたレイは、勿論サツキが本気で自分に接してくれていると知っているからだ。
 とそこへ、
「この分なら、次の使徒は任せられそうかな」
 のんびりした声がした。
 手袋を置き土産に発っていったシンジの事は、一時たりとも忘れた事はない。
 大きく開かれたレイの目にみるみる涙がわき上がったかと思うと、
「お兄ちゃんっ」
 人目も憚らず抱き付いた。
 と言っても、サツキとシンジしかいなかったのだが、例え万人の観衆がいても取った行動は同じだったろう。
「ただ今。ちゃんといい子にしてた?」
 こくこくと頷くしか出来ないレイの頭をよしよしと撫でてから、
「サツキ、機体の方は」
「仕上がってます。零号機・初号機共に完調です」
「分かった。ところで、マヤさんはどうしてる」
「オペレーターのですか?」
 一瞬レイがぴくっと反応したが、何も言わずシンジの肩に顔を埋めた。
 嫌な顔をしている、と思ったのかも知れない。
「赤木博士に妙にくっついてますが。何かありましたか」
「あったらしい。ま、それならそれでいいんだ。ところでレイちゃん」
「はい」
 ぐしっと涙を拭ったレイが顔を上げた。
「食事に行くからさっさと着替えてきて。今日は作る気がしないんだ。どこか美味しい所ある?」
 今までの付き合いを考えれば妙な台詞だったが、レイは勢いよく頷いた。
「いいかレイ、シンジさんが帰ってこられた日にえらく機嫌が悪くなければ、食事に誘って下さるだろう。それまでにどこか店を見つけておけ」
 予めサツキに言い含められていたのが的中した。
 シンジの方はそれを読んではいなかったのだが、レイが地に着かぬ足取りでロッカールームに飛んでいった後、その表情は一変した。
 アサシンの表情で、
「地下水槽に動きは」
 と訊いたのだ。
「出ました。既に一体減っているのが確認済みです」
「そう。とうとう地雷に点火したか。まあいいさ、向こうを出る時から縁なんて期待してなかったんだし」
「シンジさん…」
「今日は取りあえず、レイちゃんの食べっぷりでも観察するとしよう。じゃ、行ってくるわ」
 背を向けたシンジの後ろ姿を、サツキは最敬礼で見送った。
 その晩、レイの睡眠は久しぶりに熟睡であった。
 サツキは夜勤で出かけたから、家の中にはレイしかいない。
「レイを一人にして何かあったら責任問題だ。どうするかね?」
 と、要するに預かっておけとユリに押しつけられて家に持ってきたのだが、途中で酔い潰れてしまった。
 酔った頭で家の中をうろつかれ、万が一トラップに引っ掛かられては面倒だと、自分のベッドに寝かせる事にしたのだ。
 がしかし。
 レイを預かっていたサツキは、アオイほどではないがそれなりの酒豪であり、従ってレイもだいぶ鍛えられたのだ。
 シンジの腕に抱かれて運ばれる途中、完全に意識は残っており、ふにゃふにゃと真っ赤になった顔をシンジが酔いと勘違いしてくれたのは僥倖であった。
 おまけに酔った振りをしてシンジに抱き付いた時は、心臓が飛び出すのではないかと危ぶんだのだが、シンジの方は気付いた様子もなく、
「レイちゃんおやすみ」
 頬に小さな音を立ててキスしてくれたものだから、レイは慌てて腕を解いて向きを変えたのだ――熱い涙を悟られないように。
 その翌日、トウジとヒカリは屋上へ呼び出されていた。
 呼んだのは勿論シンジである。
 開口一番、
「キスは済んだね。で、どこまで行った?」
 生真面目な顔で訊かれ、二人の顔が揃って真っ赤になる。
「その分だと、まだ避妊の心配はなさそうだ」
 勝手に頷いてから、
「相田ケンスケの事は残念だった。まさか世代違いとはね」
「世代違い?」
「子の事だけを考えてきた父親が先に行くなんて、どう考えても間違ってる。子供なんてまた作れば済む話だ。僕の上司はどうも甘くて困る」
「碇君…じゃ、じゃあ追っ手は出さなかったの」
「抜け忍じゃあるまいし、そんなのは出さないよ。僕の上司が甘いって言ったでしょ。本来、ギブアンドテイクは対等な物なんだ」
「どういう事?」
「エヴァが使徒退治に出る時、ネルフは一般市民の安全確保に全力を注ぐ。その代わり一般市民はちゃんと言う事を聞いてくれなきゃならない。言う事を聞かず、あまつさえエヴァを見に来る悪ガキをどうやって守るのさ。もっとも、二人はもうエヴァ見物のデートなんかしないよね?」
「しっ、しないわそんな事」「ワ、ワシらはケンスケとはちゃうでっ」
「そう。それならいいんだ」
 何故か身を寄せ合うような姿勢になった二人を見てふふっと笑ってから、
「ところで、二人に頼みがあるんだけど聞いてくれる?」
「頼み?」
 どう考えても、自分達に出来てシンジに出来ない事よりも、シンジに出来て自分達には不可能な事の方が数十倍位ありそうな気がする。
 その最たるもの――金銭ではまずあるまい。
 一瞬顔を見合わせたが、最悪の初対面を除いて後は普通の級友として接しているシンジの言う事だし、聞く前から断るのは少し気が引ける――第六感が危険信号を最大音量で鳴らしているとしても、だ。
 シンジが尾を引いてないのは分かっている。
 相田ケンスケが半死半生の目に遭わされたのは、二度目の覗きに対してであり、自分達へはまったくお咎め無しだったのだ。
 ネルフの何とか条項を適用、乃至は作り上げ、二人を連行する事などシンジがその気になれば容易かったろう――と二人は思っている。
 一瞬目を合わせてから、二人は頷いた。
「何が出来るか分からんけど、ワシらに出来る事なら協力させてもらうで」
「彼女の方は?」
「わ、私も勿論よ」
 思わぬ呼称で顔を赤くしたヒカリも慌てて頷いた。
「包容力のあるカップルで助かった。そんなに面倒な事じゃないよ。鈴原にサードチルドレンになって欲しいんだ」
「エ、エヴァを操縦するのっ?」
「しなくていいさ。そう言う事じゃなくて。サードチルドレンとその彼女として、ある戦艦まで同行して欲しいの。数時間でいいから。だめ?」
 シンジの黒瞳に覗き込まれた時、二人は反射的に頷いていた。
 本能が勝手に体を動かした、と言っても良かろう。
 それも恐怖心からではなく、魅入られた者のそれに近い。
 二人が我に返った時、シンジは既に歩き出していた。セカンドがどうとか言っていたような気がするが、よく覚えていない。
 二人はそっと視線を見交わしたのだが、これがとんでもないデートになるとは、二人ともまったく想像していなかった。
 
 
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]