第六十話
 
 
 
 
 
「今年のクリスマス、私の家族はここで過ごすが、一切の護衛は無用だ」
「承知致しました」
 深々と一礼しかけて、その顔が途中で止まった。
 今、何と言ったのだ?
 有能で、側近を自ら引っ張っていくタイプのボスは、大統領など守られている玩具に過ぎないと思っていた彼らに取って、最初はとまどったが最近はだいぶ慣れてきた。
 世界の軍隊が国連に組み込まれ、各国が腰抜けになる中でも、選りすぐった精鋭からなる部隊を選び出し、かつての米軍ほどには行かないまでも、国内の反乱など即座に鎮圧してのけるだけの戦力を持たせた。
 その中で半数近くがグリーンベレー出身なのは、下の弟二人がそこ出身だから人脈を使ったらしいが、この国が国連の手先に成り下がらなければそれでいい。
 セカンドインパクトで大幅に人口が減ろうが、超大国が弱小国に落ちぶれていいわけはないのだ。
 予言にはあったが実際には半信半疑−最初のやつが来て初めて信じた使徒−だった汎用人型決戦兵器とか言うエヴァンゲリオンだって、この国が主導権を握るべく、全力を尽くしているのだ。
 むざむざ、東洋の黄色い連中にでかい顔などさせてはならない。
 とはいえ幾分強引なやり方に、反感を持つ者もいつも通りいるわけで、そいつらからこのボスを守るのは自分たちの役割だ。
 それを、よりによってクリスマスに護衛を外すとは、一体何を考えているのか。
「安心したまえ、別にテロリストのまな板に載ろうという訳ではないよ。ただ、私がそう言い切れるだけの友人が来てくれるのだ」
「大統領閣下のご友人−グリーンベレーから精鋭が?」
「いや、もっと頼りになる二人だ」
 内心でさらに首が傾いたところへ、
「日本からわざわざ来てくれるのだ。とにかく、ここへは何人たりとも近づけてはならない。分かったね」
 本物の確認をしたくなる衝動を抑えて、補佐官は深々と頭を下げた。
 
 
 
 
 
「暇だな」
「何が?」
「よく考えたら、別に僕がおもちゃの最期を見物に行く必要はないんだ。ユリ、車没収する」
「どこへ?」
「ハイウェイを流してくる。アオイと二人で行って来て」
「拒否する」
「…は?」
「拒否する、と言ったのよ。もう一人の意見は?」
「右に同じく」
 あっさりと寝返った親友の顔を、シンジは下から見上げたが、
「今までの二人なら興味はないわ。でも一人は私の玩具、そしてもう一人は自分のダミーに犯された女、人生観がどう変わったか知りたいのよ」
「つまり実験結果の確認ってこと?」
「そうとも言う、わね」
「なーにがそうとも言うだ」
 言うなりシンジは、弾力を帯びた太股をきゅっとつねり、あん、とアオイが小さく声を上げた。
 ただし、実感がこもってないのは致し方あるまい。
「おいたする子にはお仕置きが必要ね」
 にゅっと腕が伸びた途端、シンジはすっと起きあがり、これはアオイ以上の早さでその頭を抱え込んでいた。
 がしっと極めた姿勢で、
「そう言えば、君の解剖はまだした事がなかったかな」
 町中で口にしたら、間違いなく視線を集めそうな台詞だが、ここは町中ではなく、同行しているのも一般人ではない。
 そうね、とすぐに同意したアオイが別に抜け出そうともせず、
「どこから分解してみる?そうね、ここからなんていいんじゃない?」
 ブラウスの下にあるが、どんな女でも嫉妬に狂いそうな胸へシンジの手を当てた。
「千切っちゃっても構わないわよ」
 刹那シンジの指に力がこもり、乳房に指が沈んだ。
 すぐに離れた。
「そう言うのは同意しない相手限定にしてるんだ」
「そう。でもね、できる時にしないと後悔する事になるわ−きっと」
 言い終わらぬ内にアオイは抜け出しており、今度はシンジが身体ごと絡め取られていた。
「ご休憩ならその辺のホテルに寄るけれど」
 妖しい色香を帯びたアオイの表情に、運転席から声がかかった。
「じゃあ、宿泊で」
「いいからさっさとやって。まったくどいつもこいつも」
 ぶつぶつ言った途端、耳朶に軽く歯が当てられ、シンジの身体がぴくっと動いた。
 
 
 
 
 
「歓迎されてないのは最初から分かってるわ」
「そうね」
「で、これは何かしら」
「あたしに訊かないでよ、そんな事。別にあたしが絡んでるわけじゃないんだから」
「ただ訊いてみただけよ」
「あんたがそう言う性格なの忘れてたわ」
 既にミサトとリツコは会場に着いており、招待客のプレートがそれぞれ置かれたテーブルに案内された。
 二人が見たのは、豪勢に歓迎の支度がされている他の卓と、そして微妙に違う自分達のテーブルであった。
 どうやら、企画立案を担当した者は歓迎などしたくないらしかったが、何者かが急遽用意させたらしい。
 しかし無論、それが二人の為などではない、などとはミサトもリツコも気づかなかった。
 そんな事などお構いなく、
「あ、この地ビールドイツ産だ。頂きまーす」
「あ、ちょっと」
 リツコが止める間もあらばこそ、さっさとミサトは手を伸ばしており、しかも五百サイズのそれを一気に飲み干し、
「あー、美味しかった」
 飲んだ気配など微塵も感じさせずに、ぷはっと息を吐いたところへ、
「これより、JA完成記念披露パーティを始めさせて頂きます。皆様のテーブルにささやかながら食事を用意致しました。別館にて機体をご覧頂いた後、ごゆっくりとお召し上がり下さい」
 アナウンスではなく肉声であり、しかもその視線はまっすぐミサト達に向けられていた。
 時田シロウ、この自慢会の司会者でありこれからリツコにとっちめられる−予定の男であった。
「あっちゃ〜」
 頭をかいたミサトに、
「まったく、こんな所まで来て恥をかかせないでもらいものね」
 これからあの生意気な背広に一発かまそうと思っていたのに、出鼻を挫かれたリツコがギロっとミサトを睨んだ。
 
 
 
 
 
「面倒だから破壊する」
「また物騒な事を」
「物騒?当然の事を言ったまでよ。あんなエヴァの足下にも及ばない代物など、存在させておく理由はないわ」
 アオイの口調がいくぶん斜めに聞こえるのは、機嫌がそのまま出ているからだ。
 狭い車内でシンジを捕獲した筈だったが、一体どこに隠していたのか、反対に荒縄で捕縛されてしまったのである。
 しかもアオイを持ってすら抜けられぬ頑丈さであり、ついさっきまで手首は赤く鬱血していたのだ。おまけにシンジは脱走と来ており、運転士ながら見物人と化していたユリはともかくとして、アオイの機嫌がいいわけはなかった。
「最後で大逆転、いい手だが少しリスクが高い。どこかで、余計な要素が入らないとも限らないわ」
「だからさっさと壊すのよ。ユリ、背後を切り抜いてリアクターを取り出して。原子炉を搭載したがるなど、脳の配線が数本切れている証拠よ」
「お断りよ」
「…嫌なの?」
「ええ嫌よ」
 声は後ろから聞こえた。
「シンジ?どこ行っていたの」
「ちょっとトイレ。男の子の支度は色々時間が掛かるんだ。そんな事より手の方はだいじょ−綺麗になったみたいだね。じゃ」
 さっさと身を翻したシンジに、
「どこへ?」
「いい匂いがした」
「いい匂い?」
「多分中ではご馳走が出てるんだ。僕も行ってもらってくる」
 すたすた歩きかけてから、
「来る?」
 今から悪戯しに行くんだけど付き合う?みたいな口調で訊いた。
 
 
 
 
 
「以上で大まかな説明を終わります。詳細については、お手元の資料をご覧下さい。これより皆様には別館にて、実際の起動と運動能力をご覧頂きますが、その前にご質問があればこの場で受け付けます。何かご質問のある方はおられますか?」
 びしっとここで手が上がり、厳重に保護された内部ならともかく、激しい戦闘の想定される所へ投入される機体に核融合炉を積む愚を、冷静かつ思い切りこき下ろす−筈だった。
 それなのに、この栄養が全部おっぱいとお尻に行ったような同行人のおかげで、始まる前から恥をかいてしまった。
 例えリツコは全く手を出していないにしても、酒飲み女とそのツレのレッテルはもう貼られてしまったのだ。
 ここに呼ばれている連中は、最初から鼻薬は効いているし、そうでなくとも技術面では何を言っているかなどもわかりはしない。
 お手元の資料を、と言われはしたが、実際に見るのが何人いるか。
 とまれ、リツコは溜まっているストレスをどうやって晴らすかと考えており、すでに共済とネーミングを共有する機体の事など、脳裏から消えていた。
 だいたいこんなもの、既に挫折が決まっているのだ。
 単に予めの一撃が出来なくなっただけである。
 だが。
 手は向こうからやって来た。
「本日はネルフより、赤木リツコ博士・葛城ミサト一尉にお越し頂いております」
(あん?)
 ふわあ、とあくびをかみ殺したミサトの顔が上がった。
 呼ばれたのに気づいたのだ。今回の計画を知っているリツコはまだしも、ミサトに至っては知らされてすらおらず、せいぜい食い散らかして帰ってやるわ程度にしか思っていない。
 ある意味正解と言える。
「皆様もご高承の通り、既にネルフでは未知の物体−使徒を相手に戦闘を経験しております。我々が開発した機体について、経験者の観点からもご意見を頂きたいものですがいかがでしょうか」
(来た)
 わざわざ向こうから土俵を用意してのこのことやって来てくれたが、そんな色は微塵も見せず、
「経験者、と言うほどの事ではありませんが−」
「いえ、そんな事をおっしゃらず、是非忌憚の無いご意見を拝聴賜りたい」
 内心は微塵も見せぬ二人だが、この時点でリツコにも分かっていない事が一つあったのだ。
 無論、最終切り札はリツコの手にあったが。
「では一つお訊ねします。先ほどの説明では内燃機関を内部に搭載、とあったようですが」
「その通りです。本機の大きな特徴であり、150日間の連続稼働が可能となっております」
「この機体は本来、格闘戦も行動パターンに組み込まれているようですが」
「勿論です。単なる狙撃程度で片が付く、と思うほど我々は甘くありません」
「格闘を前提とした機体にリアクターを組み込む、というのは安全面からして危険ではありませんか」
「五分も動けない代物よりはましです。物事は常に、悪い方の仮定もしておかなければならない、そのことは博士もご存じと思いますが」
「遠隔操縦では、緊急時の対処に後れを取ります。即座に対応できるのは、遠くから眺めている司令部ではなく、現場に臨んでいる者の筈です」
 しかしケンスケとトウジの両名が、命知らずにも戦場へのこのこ出てきた時、パイロット、つまり現場にいる者の判断に異論を唱えたり唱えなかったりしたのは、彼女たちではなかったか。
「その通りです。ですが−」
 時田はゆっくりと何かを取り出した。
 それを見たミサトの表情が僅かに動く。
 鬼の首のごとく掲げられたそれは、エヴァに関する最重要機密であった。無論、こんなのが流出するなど論外である。
「その結果、暴走して大暴れする機体もあると聞いております。その際、乗っているパイロットに全く負担が掛かっていなかったなどと、建前論を口にされる気ではありますまいな。パイロットに負担を掛け精神汚染を引き起こす、それを伴ったとしても、少年少女を送り込む事の方が人道的だと言われますか?」
 どこでどう取ったのか、初戦の折にあり得ぬ再起動をしてのけた初号機が、一方的に使徒を殲滅していく様が写真には写されていたが、他の連中が反応しない所を見ると、やはりこれは最初から仕組まれていたと見るべきだろう。
 しかしリツコはめげない。
 と言うよりも、結果が分かっているから遊んでいる、つもりだったのが、痛い所を突かれて予定が狂ってしまったのだ。
「人的制御の問題もありますが」
「制御不能に陥り、暴走を許すような危険極まりない決戦兵器よりは安全ですよ。まあ、言ってみればヒステリーを起こした女性みたいなもんです。手に負えませんな」
 その途端、どっと笑い声が起き−すぐに凍り付いた。
 誰もいない、いや警備員が貼り付いているだけの筈の外から、凄絶な気が流れて来たのだ。
 それはそこで間抜け面を晒してる連中にも、本能がそれと悟らせるほどの物であり、そして次の瞬間、ドアが吹き飛んだ。
「女ごとき、と申したか」
 姿を見せたのはレイであった。
 いや、違う。
 普段はレイと変わらぬ肢体を取りながら、既に必要な気を手に入れたものか、その姿は元に戻っている。
 淫靡にして悽愴な程の気もまた取り戻しており、ゆっくりと妲姫は入ってきた。
 既に室内にはしわぶき一つ上がらない。
 誰もが呪縛されていたのだ。
 その美しさに。
 そしてその放つ気に。
 ただ例外がいた。
 後ろに続く少年である。
 まったく傍迷惑な、とその表情はそう言っていた。
 
 
「レイちゃん何でこ−誰も呼んでないぞ」
 一目見た途端シンジの眉はぴくっと動いた。そこにいたのが、妹ではないと見抜いたのだ。
「つまらぬ事を気にするものではない。わらわは行きたいところに行き、眠りたい所で眠る。それとも、わらわに束縛を課してみるか?」
「僕はそんなに暇じゃない、好きなようにするといいさ。でも僕を巻き込むなよ−何がおかしい」
「巻き込むな、か。皆そう申した。古代の王達はいずもわらわを警戒し、そしてわらわ無くしてはいられなくなった。最初よりわらわを受け入れた者など一人もおらぬ」
「そう、それは良かった。じゃ、僕はこれ−こら」
 十メートル近くはあった筈だ。
 シンジが身を翻そうとした途端その首が捉えられたが、いつ動いたのかを目撃した者はいない。
「お前に身体は要求せぬ」
 薄霧みたいな声で妲姫は囁いた。
 ささやく、ただそれだけの動作なのに、シンジの背をぞくりとするような感覚が走り抜け、それが官能の色だとシンジは本能で知った。
「どうせお前の狙いは僕じゃないだろ、何の用だ」
 すう、と手がある種の形を取ったアオイを視線で制し、シンジはぶっきらぼうに訊いた。
「吸わせよ」
 妲姫の言葉は簡単であった。
「やなこった。何でお前なんかに吸われなきゃならないんだ」
「わらわが要るからじゃ、異論は許さぬ」
「それもうとっくに聞いた。で、無理強いする?」
 にやっと笑ったのは、この美女に唯一耐性がついた存在という事もあるが、いざとなれば無理強いできないのは知っているからだ。
 目下、妲姫がその姿を取り戻す為には、シンジのそれ以外に手はなく、しかも自らを俺と呼ぶ存在ともなれば、まったく無意味なのだ。
「吸わせよ」
 妲姫はもう一度言った。
 ただ、さっきより口調は幾分変化している。
「まだ」
「吸わせよ」
 不意に妲姫の声が甘くなった。
 口調が示すもの−これが最後の意にはシンジだけが気づいている。
「いいよ。ただし戻るなよ」
 とシンジは言った。
 何をしに来たのかは知らないが、こんな所で元の姿になど戻られては迷惑だ。
「わかっておる、シンジよ」
 だが妲姫の顔を見た途端、シンジは大嘘が発生したのを知った。
 そこにあった笑みは魔性−少年の言葉など歯牙にも掛けていない。
「お前のせいで、わらわのプライドはいたく傷付いた」
 そのままの表情で妲姫は囁いた。
「傷付いたプライドの礼はさせてもらうぞ」
 言った途端、血のように赤い唇がシンジの首筋に貼り付いた。
 アオイが何とか抑えたのは、シンジを巻き込む可能性があったからだ。それがなければ、間違いなく必殺の気砲を放っていたに違いない。
 ただし、もう一人の傍観者は相手が妲姫と無論知りつつも、黙って眺めている。
 対象が想い人でない以上、積極的に関与する気はないらしい。
 妲姫の正体は吸血鬼だが、シンジが吸われているのは血に非ず−しかしシンジにダメージを与えるには十分であり、その事はレイの中にあった碇ユイの人格を引き出して滅ぼした時実証されている。
 しかし、
「吸い過ぎだっての」
 シンジが力弱く突き飛ばすと、妲姫はあっさりと離れた。本人の意思に関係なく、力が出ないのだ。
 首筋をおさえたシンジが、
「あれ?」
 僅かに首を傾げた。
「シンジ−無事?」
 殺気を抑えた声でアオイが訊いた。
「ああ、大丈夫…なんで大丈夫なんだ?」
「慣れたからじゃ。無論、吸いきっておらぬ事もある」
 妲姫は当然のように言った。
 シンジにとってはどっちでもいいが、いずれにせよ自分が無事ならそれでいい事だ。
 変化(へんげ)の度に脱力するまで吸われてはたまらない。
「ところでシンジよ」
「…何」
「お前が非協力的なのは、ダウンするからであろう。であれば、身体が慣れてくれば異存はあるまいな」
「あるに決まってるだろ」
「何故じゃ?」
「まず一つ、お前は場所を選ばない」
「選ぼう。朝に吸えばそれで済む事じゃ」
「二つ。僕が絶対無傷ってわけには行かない。お断りだ」
「無傷じゃ」
 妲姫は断言した。
「お前が何を勘違いしているかは知らぬが、その気になれば傷など微塵も付けぬ。それどころか却って健康な肌にしてくれるわ」
「三つ目…三つ…とにかくやだ」
「理由が見つからぬが気乗りはせぬ、か。ではシンジよ−」
「やっぱいい。僕の気が向いた時だけ吸わせてやる」
 妲姫が言いかけた事に、シンジは気づいたのだ。
 わらわの身体と引き替えるか?そう言おうとしたのをシンジは見抜いていた。
 力ずくで吸われたならまだしも、希代の妖女とは言えその肢体に溺れたなどとあってはプライドが許してくれない。
 第一…この肢体はレイのそれでもあるのだから。
 こうして交渉はシンジにとっては不本意な結果に終わったが、妲姫は揚々と中に赴いたのだ。
 
 
「あ、あなたは…」
 リツコが辛うじてかすれ声で口にしたのは特筆事項と言える。
 既に一度見てはいるが、あの時は妲姫がまとめて記憶を弄ったので覚えていない。
「姫と呼べ」
 妲姫は当然のように命じた。
 政財界の著名人を集めた披露会ではあったが、元より格式と自分の保身のみに汲々としている連中であり、妲姫を前にして既に気死しているような状態であり、ここ最近とは言え、人外とも言える経験を自らがしてきたリツコだからこそ何とか持ったのだ。
 時田に視線を向け、
「お前、面白い事を申したの。ヒステリーを起こした女、か。その通りじゃ」
 不意に妲姫は微笑した。
 透き通った聖女のような笑みであった。
 そこにいた者達が陶然と吸い込まれ、シンジの表情が違う意味で動いた次の瞬間、複数の靴音が響き渡った。
「闖入者は貴様か!?」
「手を挙げろ、そこを動くな」
 すっと妲姫の手が上がった。
 手を挙げたのである。
 依然として笑みは変わっていない。
 それが崩れぬまま、
「わらわはおまえ達の命に従った。わらわを命に服させた代償に、おまえ達は何を支払う気じゃ?」
 ファーストチルドレン綾波レイ。
 蒼い髪をした可愛い子−少なくとも外見はそうだ。
 例えその心がただ一人の少年で占められ、それを妨げる者には死の災いをもたらすものだとしても。
 元は確かにそれだ。ここへ来た時、シンジが会ったのは確かに自分の妹であったのだから。
 だが今ここにいる女を、なんと形容すればいいのだろうか。
 万歳するかのように手を挙げたまま、妖艶な美貌に笑みを浮かべ、銃口を向ける男達を見つめている女を。
 つい、と妲姫が前に出た。
 男達は動かず、また銃口も動かない。
 動かないのではない、動けないのだ。まるでこの館内がそこだけ凍り付きでもしたかのごとく。
 男達が動いた。
 妲姫がにっと笑った刹那、何故か呪縛が解けたのである。
 辛うじて任務への責任感が欲情のそれを上回り、四名いたうちの二名が妲姫の髪に手を伸ばした。
 本来なら非合法だが、要人の護衛が任務に含まれるため、肉体には強化措置を施してある。勿論腕もだ。
 妲姫が首を振った。
 嫌いな男に髪を触られ、拒絶する娘のように。
 その途端、丸太のような太さを持った男達の腕が根本からちぎれた。肉塊と化したそれが、一瞬経ってから重い音を立てて地に落ちて、漸く会場内から悲鳴のような声が洩れた。
 だがそれは序章に過ぎなかった。
 妲姫が動いたのだ。
 細い肢体が軽やかな動きを見せ、男達の間をすり抜けたかに見えた直後、鮮血が奔騰した。残った二人も腕をちぎり取られ、繊手の一振りで男達の首は揃って地に落ちていた。
 鮮血をまき散らして倒れていく男達の間にいながら、自分は一滴も返り血を浴びぬまま、妲姫は蒼白になって震えている時田に歩み寄った。
「女など所詮は感情のままわめき散らす生き物にしか過ぎぬ。では、常に国を滅ぼして来たのは誰じゃ?女などと言う生き物の乳や尻に顔を埋めたまま、大虐殺を命じてきたのは誰であったな。死の風吹きすさぶ西欧でも、砂塵舞う中東でも、常に男達は女の身体の下で喜々として国を滅ぼしていったのじゃ。お前は、あるいはそれらの王座にあった者達とは異なると申すか?」
 妲姫が指を動かすと、容易くブラウスのボタンは飛んだ。
 制服でなかったのはまだましだったろう。
「ほれ、試してみるがいい。これがわらわの肢体じゃ、乳じゃ。お前が見事これを征服してみるが良かろう」
 次の瞬間、獣のような声を上げて時田が飛んだ。
 妲姫に襲いかかった動きはまさに、襲いかかったと評するのが正解だったろう。
 こぼれ出た匂い立つような色香を伴った乳房に、我を忘れた男から妲姫はすっと身を引いた。
 派手な音を立てて顔面着陸した時田を見下ろし、
「所詮はその程度。男などは女の色に溺れるだけの生き物じゃ。せいぜい上に乗って威張り散らすが関の山−安心せい、女の股に顔を埋めながら、最後まで男が偉い存在じゃと口走りながら旅だった男達が、大勢お前をまっておる。寂しい事はあるまい」
 すっと妲姫の腕が上がった。
 それが振り下ろされれば、いや髪をかき上げる程度の動きであっても、時田の首にとどまらず胴でさえ真っ二つになるだろう。
 だが時田が冥土へまっしぐらに走り出す事は、遂に無かった。
「その辺にしておくがいい」
 勝るとも劣らぬ妖気が後ろから漂ってきたのである。
「大将軍」
「機体に核融合炉を積み込むなど、所詮人間が他人事からは何一つ学ばぬ証だ。そしてまた、物事の見分けもつかぬ愚か者が、得意げに吹聴するのも古の時代から何一つ変わってはいない。分かり切った理論より、一つ見せてもらおうではないか。彼らの誇る最新兵器とやらを」
「あなたがそう言うならそうするわ。わざわざ、来てくれたのね?」
 冥府の女王から、まるで恋に夢中な小娘みたいな変わり身を見ても、笑う者は誰一人としていなかった。笑うにはあまりにも呪縛され過ぎていたのである。
 ただ、我関せずと冷ややかに眺めるアオイと、僅かながら鬼気に似た気を帯びだしているユリの二人に変化があったのみ。
 
 
 
 
 
「あ、あのお兄ちゃん…」
「何?」
「お、怒ってる?」
「別に怒ってないよ」
 シンジは軽く首を振った。
 死神に取り憑かれたような動きでJAを起動させた時田ではあったが、これまた既に半分死人のような状態になっている招待客の前で予定外の動きを始め、あっという間に制御不能の状態に陥った。
 そこまでは予定通りのシナリオだったが、問題は観客の精神がもはや半分ほどこの世のものでは無くなっていた事であった。
 彼らが見物している別館にJAが迫ってきた時、誰一人として逃げようとはしなかったのだ。
 ミサトやリツコさえも呆然として眺めるのみであり、夭糸の一閃がなければ揃って全身を肉塊と化していたに違いない。
 この計画は破綻する、そう知っているリツコですら目前の死を回避しようという気概は起こらず、ただ迫り来る死を見つめるのみであった−まるで他人事のように。
 あたかも景色を見つめるように彼らが眺める中、JAは予定通り炉心融解の寸前で停止したが、奇妙な事に誰一人として制止の手を打つどころか、逃走の手段すら取らなかったのだ。
 目の前で見た女、そして起きた光景。そのいずれもが彼らの全身を呪縛しており、地に足がついていないとはまさにこの事であったろう。
 ユリが向きを変えさせたとは言え、完全に制御したわけではなく、中・軽傷が十数名出ている事もあり、時田の航路はほぼ決まったと言えよう。
 レイが戻った事を知ったシンジは、アオイとユリを先に帰らせ、列車の中で膝の上にレイを乗せていた。
 目を覚ましたレイが、一瞬びくっと身を縮め、悪い夢でも見たのかとレイを見たシンジに言ったのが冒頭の台詞だったのだ。
「多分躍起になってもみ消すだろうね。ユリさんを呼んだのは科学技術庁長官らしいけど、あんな事になって自分達が何も出来なかったなどと、政治家のプライドが許さない筈だ。もっとも、本能が記憶を拒絶する可能性も高いけどね」
 他人事みたいに言ってから、
「でもレイちゃんが元だとばれると、こっちにまでとばっちりが回ってくる。だからばれないように守っていてあげるから」
「お兄ちゃん…」
 レイの口元に一瞬嬉しそうな笑みが浮かんだが、
「あ、あのね」
「なに?」
「じゃ、じゃあ…」
「うん」
「お、お兄ちゃんとまた…い、一緒に住んでもいい?ま、守ってもらうなら、その方があの…」
「だーめ。それとこれとは話が別なんだから。レイちゃんは当分サツキの所にいなさい。それともサツキに不満でもあるの?」
「そ、そんな事はないわ。サツキさんは優しくしてくれるもの」
「じゃ、そっちだね」
「も、もう…お兄ちゃんの意地悪」
 レイは小さく口を尖らせた。
 最初に会った時は想像もつかぬ、そして今も他の者には決して見せぬそれだが、そのままシンジの膝にまた頭を乗せた。
「何?」
「疲れたからここで寝ていくの。気持ちいいんだもの」
 何も言わず、シンジがその髪を撫でると、レイはきゅっと目を瞑った。特別列車ではないが、乗客は他に誰も乗っていない。
 ただし油断だけはせず、その注意は四方に向けられている。
 数分経つと、もうレイはすやすやと寝息を立て始めた。妲姫としてのそれが、レイの身体にも疲労を残しているらしい。
 眠ったと知りつつ、シンジの手は終点に着くまで止まらなかった。
 
 
「そっか、出たんだ」
 別に幽霊ではない。
 セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーがドイツを機体共々船で出航したとの情報が入ったのは、それから間もなくの事であった。
 
 
 
 
 
(続く)

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