第五十九話
 
 
 
 
 
「分かり切った結末ですわ」
「何それ」
「最後の最後、土壇場で計画は壊れる手はずになっているのです」
「JA共催の?」
 ええ、とにせリツコは頷いた。ミサトとリツコが向かった先−第二東京のJA展覧会で、既にシナリオが描かれているという。
「ちょっと待った」
「何でしょうか」
「じゃあの二人は、いや一人はいいとしてもう一人は何で行ったの」
「計画を見届ける為です」
「ヒットマンの見届け人みたいなモン?」
「違います。むしろ、快感と言った方がいいかもしれませんわ」
 にせリツコの顔に浮かんだ表情に、一瞬シンジは見なきゃ良かったという表情になった。そこには快楽に似たものが浮かんでいたのである。
 そのシンジの表情を知ってか知らずか、
「元々このJA自体が、エヴァの手助けをするために造られたものではありません」
「知ってる。対抗馬って言うか入れ替える為でしょ」
「その通りです。従ってその計画には、今回第三新東京を戦闘都市に変える利権から溢れた連中ばかりが名を連ねています」
「要するに土建屋の代理戦争みたいなもんか。あーあ、大人の世界ってやだやだ」
 宙を仰いだシンジに、
「潔癖性は生きていくのがつらいわよ。そう、自分が汚れたと思ったら分かるわ」
「じゃ、お前は真っ黒けなんだな」
 表情を変えぬままにゅうと伸びてきた腕から身を避けると、
「最近少し、自我が目覚め始めてない?」
 シンジの言葉に、造られた女の腕がぎくりと止まった。本人もそれは分かっているらしい。
「冗談だよ」
 軽く流してから、ところで、とまじめな顔になった。
「あれの動力源が東欧の原発って本当?」
「…事実です」
 かつてソ連が幾多の共和国を従えて独裁を布いていた時、推定被爆距離10万平方キロメートル以上−少な目に見積もってだが−という史上最悪な原発事故が発生した。悲惨だったのはむしろ、事故そのものよりも闇の中で進められた後始末にあったろう。作業に回された兵士達の中には、起きた事態をほとんど知らされていない者達が大多数を占めていたのだ。
 既に三十年も前の事を、無論シンジが知っている訳ではない。
 とはいえ、過激な動きをする機体に原子炉を組み込んだのは、その災害については知っている者ばかりなのだ。
「二の舞を起こすつもりなのかな」
 いいえ、とにせリツコは首を振った。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言います。まして彼らはそれを実体験したわけではありません−放射能がばらまかれるとどうなるか、自分たちで体験して見たいのでしょうね、きっと」
 
 
 
 
 
「お兄…ちゃん」
 指で自分の乳首を挟み、レイは熱いため息をもらした。サツキに聞こえないようにパジャマを噛みながらいじっていても、自分の色の落ちたような指がシンジのそれと重なると、身体の芯から漏れてくる事は押し殺せなくなってしまう。
 自分でしても気持ちよくないのは分かっている。これはシンジの−お兄ちゃんの指だから気持ちいいのだ。最初は起動しなければならなかった妄想装置も、今では目を閉じるだけでシンジの像へと変わる。経験とは便利なものである。
「レイちゃん、ほら…触ってあげる」
 本人が聞いたら噴飯しそうな台詞だが、シンジの指はあくまでもレイの胸に優しく触れる。あん、と漏らすとまた股間からぬるりとした液が溢れた。
 シンジから離されてがっくりと落ち込んだレイに、サツキが渡したのはシンジの写真であった。無論、知られればただでは済まないことは分かっている。
 被写体本人が、いや何よりも常に側にいる女が、それを許さないのは分かっていた。
 それでもレイに渡したのは、半ばは自分の為だったかもしれない。
 迎えに来るのがシンジのダミーと知って、それはもうがっかりしてしまい、
「私は…私はきっといらない子なんです」
 と涙混じりに言い出し、サツキはもう少しで重度の精神患者用に作られた頑丈な部屋に押し込めようかと思った位だ。
 何かを思いだしたようにぽろぽろ泣き出すし、夜は夜であまり眠っていない。
 腫れた瞼がそう語っているのだが、泣き出すのは情緒不安と言うよりも家事でシンジの事を思い出すせいらしい。
 こんな娘と暮らしていたら、いくら元極道でも神経が保たない。ましてサツキは、昼間は病院での役目があり、決して暇人ではないのだから。
 そこでサツキが、
「これを枕の下に入れて眠れ」
 そう言って渡したのが、シンジを横からひっそりと撮った写真であった。シンジは顔自体が悪い造りではないのだが、やはり最初は自分の殻だけで生活しており、物好きでなければそんな少年には近づこうとはするまい。
 だがアオイと付き合うようになってから、シンジは雰囲気も変わった。それが実際には向き合っての付き合いはしていないにしても、シンジの人気は急に上がっていった。
 無論そこには、並のモデルでは到底追いつけなどしないアオイの存在も大きかったのは、言うまでもない。
 サツキ自身は、当然二人を知ったのはだいぶ後だから、当時の事を実際に見聞きしたわけではない。ある筋から聞いたのみだ。
 今サツキが手にしているのは、その少し後に高値で出回ったシンジの写真である。サツキはもう忘れていたが、今頃になって役に立つとは思わなかった。
 で、その渡された写真を嬉しそうに抱きしめたレイが、弾みか何かで胸に触れ、夜になると、サツキから見ても幼すぎ−妲姫からすれば児戯とも呼べぬであろうが、乳房をほんの少し触れるだけでも、シンジの名前を呼んでいれば十分らしく、数分でぐったりしているのをサツキは知っている。
「おっぱいだけ触って何が−」
 と言いかけ、
「私も汚れたか」
 苦笑混じりに呟いたのはつい先日の事である。
 たどたどしい手つきで胸を揉み、乳首に触れる。熱い吐息と切なげにシンジを呼ぶ声からして、多分股間も濡れている筈とは思うが、そこはまだ見知らぬ領域なのか指は伸びない。
 自分を自慰の対象にされてシンジが何と言うかは知らないが、元はレイを放逐したシンジが悪いのだ。一緒に住んでいれば、上にいるシンジの顔を思うだけでぐっすり眠れていたに違いないのに。
 しかもアオイと住んでいるわけでもない。実際の所、アオイと住むのに邪魔なのかと邪推した事がないでもなかった。単純に考えれば、それが一番ありそうだからだ。
 だがそんな様子はなく、シンジは今一人で住んでいる。ただし、家事の面でもセキュリティの面でもレイがいた時とはだいぶ様相を事にしていることは、無論サツキは知らないが。
「ここもまだ、完治はしていない事だし」
 その言葉通り、シンジに付けられた傷は思ったより深手で、今も痕は残っている。
 つう、とサツキの指が傷跡をなぞった時、
「んっ…ふはああっ」
 ひときわ甲高い声共に、何かがどさりと倒れ込む音が聞こえ、
「終わったか。今日も感度は良かったようだな」
 
 
 
 
 
「ところでアオイ」
「何?」
「僕って正義の味方だったの」
「ベルトを巻いて月夜に変身?そんな子に育てた覚えはないわ」
 アオイに続き、
「今更自我の確認とは、自分に自信が持てなくなったと?」
「藪医者と一緒にしないで。それに僕は君に育てられた覚えは…あ、こら」
 覚えはない、と言おうとしたら上半身が降りてきた。なお、まだシンジはアオイの太股に頭を乗せたままである。
 あっという間に胸の谷間で窒息しかけ、
「そんな覚えはないの?」
 何故か冷たい口調に、声を出せずにぶるぶると頭を振るとやっと離れた。
「そう、それは良かった」
 胸の谷間で窒息、というのは人によっては至上だが、シンジにとっては違う。
「何が良かっただ」
 さっさと逃げようとすると、
「折角捕まえたのに逃がすと思う?いつも冷たいんだから」
 白い手がふわりと巻き付いた。全く力は入っていないが、いつでも白鎖と化す用意は出来ている。
 これはもう逃がさない気だなと諦めたところへ、
「ところで正義の味方がどうかしたの?」
「正義の味方?ああ、今日の話。被爆体験をもう一回したい連中がいるからって、別に天誅を下さなくてもいいんじゃないの」
「下さないわ、そんなのは」
「ふえ?」
「いつから正義を振りかざす天の使いになったのかしら?誰が被爆体験コースを選ぼうと、寸前でご破算になる計画に興味はないわ。それに、向こうから呼ばれたのはミサトちゃんと赤木博士だけよ−オリジナルのね」
 アオイがくすっと笑ったが、膝の上の少年は気にした。
「ちょっと待て、今なんて言った」
「オリジナルの単語がお気に召さなかったの?」
「その前だ、その前」
「ミサトちゃんと…ああ、それね」
「いつからそこの変態医者とその一派になったの?」
 すっと起きあがり、
「二度と僕には近づかな−ふぐ」
「いやよ」
 あっさりと拒否するときゅっと力を入れた。
「誰もユリと趣味を同じくなどしていないわ。ただ、いざというときは使える駒があると便利でしょう。私の命には逆らえない−来いと言ったら来、死ねと言ったら死ななければならない、私の術はもう忘れてしまったの?」
 寂しそうなアオイの口調に、
「あ、いやそんな事はないよ…あ」
 シンジの言葉を聞いた途端、アオイの顔にある種の笑みが浮かぶのを見て、しまった罠にはまったと知ったがもう遅い。
 こんな時、決してアオイは強く出ることはしないのを忘れていたのだ。
「もう、忘れられたかと思ったじゃない」
 きゅっと抱きしめられ、シンジでさえ不思議なほど艶と弾力に満ちた頬が顔にくっついた。
 すりすりと頬ずりしている女とされている少年に、運転手の女医は発情期に騒いでいるネコでも見るような視線を向けたが、ふとその表情が動くのとアオイの手が止まるのとが同時であった。
「暇なことだ」
 すっと取り出したライターが後方を映し、
「ひのふの…五台ね」
 真っ黒な車が音もなく追ってくる。音は消しても殺気は消しきれないらしい。
「僕はさんせ…なんでもないんだ、うん」
 お陰でアオイの柔肌から逃げられたし、と言いかけたがアオイの視線で即座に引っ込めた。賢明な判断だが、他の者が聞いたら呪詛をぶつけられて余りあるに違いない。
「あ、ちょっと待った」
「何か?」
「持って行かれたがこれの正当な持ち主は僕だ。傷なんか付けられちゃ困る」
「わがままな事を」
 そう言いながらもユリは、ブレーキだけでドリフトに移行しようとしていたのを止めた。放っておけばタイヤが悲鳴を上げて回転し、真横を向くのと同時に窓が開き、そこからアオイが一斉射という寸法に違いない。
 こんな時、何故気砲を使わないのかと前に聞いた事があるが、
「バーンて言った方がおもしろいでしょう?」
 と言うことらしい。アオイとシンジの相互読みはシンジの方が上だが、この部分だけは未だにもって分からない。
 いや、きっと来世まで分からないかもしれない。
「仕方ないわね」
 と、すっと車からアオイの白い腕が伸びた。窓から腕が出るのを見て、反撃に出ると見たか追ってくる車の窓から一斉に機銃の先が飛び出した。
 だが無論アオイの手に銃は握られておらず、その手のひらが後方を向いた三秒後、追ってくる車の群は揃って宙に舞った。
 車同士が仲良く合体して爆発炎上するのを見ながら、
「胸はもう治ったの」
「おかげさまでね」
 にこりと笑ったが、別段押しつけようともしない。
「ふうん」
 威力を見れば胸から来る影響はないと分かるが、そう言われると何となく気になるもので、手を伸ばして思い切り突き出した胸の谷間に触れると、そのまま深く吸い込まれていく。
 柔らかな感触はもう以前のものに戻っており、うんと頷いたところで、
「あ」
 ともう一度シンジは口にした。
「やっぱり触診はさせるんじゃなくて、してもらうのが一番ね。特に胸の場合には」
 銃口を窓から覗かせて追ってくる車を葬った事など忘れたかのように、アオイの笑みは一層深くなり、シンジの眉間はほんの少し寄った。
 
 
 
 
 
「で。今回の計画に戦自は絡んでるの?」
「いいえ、絡んでないわ」
 こちらは地を行く連中とは違い、第二東京までヘリを飛ばして向かっている。無論車は二人とも持っているが、
「リツコの運転なんかおばさんの運転でつまらないわ」
 と言うミサトと、
「直線は踏むカーブは切り込む、まるで飲酒運転みたいなミサトの車には、長距離になど絶対乗れないわね」
 と真っ向から対立するリツコが同道するわけで、必然的に電車か飛行機になる。
「どうりで好きにやってる訳ね…あ、そう言えば思い出したけど、戦自から歳暮みたいなのが来てたの知ってる?」
「戦自から!?どう言う事?」
 戦略自衛隊、ネルフとは相容れぬ筈のそこからなんでそんなのが、そう顔に書いてあるリツコに声を潜めて、
「それがね…信濃大佐宛てだったのよ」
「なぜ?」
「私が知ってる筈無いでしょ、だから聞いてるのよ」
「この間初号機を動かしたのよ」
「初号機を?何で?」
「この間の使徒戦で、結局戦自から徴収してきた物は使わなかったでしょ、あれを返しに行ったらしいのよ」
「そう…」
 その作戦時に、陣頭指揮どころか現場にいることすら出来なかったミサトの声は重いが、それを知ってか知らずか、
「その時に初号機を使って、戦自の施設の土木工事でもしたんじゃないのかしら」
「信濃大佐が?」
「それぐらいしか考えられないでしょう」
「ま、それもそうね」
 二人してけたけたと笑いかけ−すぐにその笑みはぴたりと止んだ。
 
 汝、決して触れるべからず。
 
 大鎌を手にして黒衣に身を包んだ者が、二人の脳裏で囁きかけていたのである。
 
 
 
 
 
「夜歩くって楽しいの」
「え?」
「お兄ちゃんに聞いたわ、山岸さんは夜に歩くのが趣味だって」
「そ、それは…い、いけないことだって分かっているけど」
「何故」
「え!?」
「出自が明確なら持って行かれた場合大騒ぎになる。それが弁天小僧マユミで大騒ぎにならないのは出所もろくな物じゃないからだって」
「そ、それも碇さんが?」
 ええ、とあっさり頷いたレイにさすがのマユミも絶句した。
 結局ダミーと聞いた時、
「お兄ちゃんがいいです」
 と駄々をこねたレイに、シンジがマユミに頼んだのだ。この辺りはダミーの存在を認めないアオイと似ているかもしれない。
 忍びの末裔の娘、これなら黒服より頼りになるし、何よりも安上がりである。
「妹の世話頼んでいい?」
「別に私は構いませんが」
 簡単に二つ返事で頷いてから、
「ただし、いきなり首を絞められたりしなければ、ですけど」
 くすっと笑ったマユミに、
「マユミ嬢の首は、絞め甲斐がないからしないように言っておくよ」
「お兄ちゃんの首なら絞め甲斐があるんですか?」
 どんなプレイをしているのかと言う視線を向けたマユミに、
「僕にそんな趣味は…って君は僕たちの事を勘違いしているな」
「優しくするだけが愛情ではありませんから」
「それは良かった。ところでマユミ嬢」
「なんでしょう?」
 すっかり優位に立ったマユミだが、
「うちの変態主治医だけど、女の子の肢体への腕は確かなの?」
 シンジが訊いた途端、ぼんっと音を立てて真っ赤になった。
 これであっさりと攻守が入れ替わり、
「今の年頃は成長に身体が追いついていないから、触ってもぎくしゃくする事があるらしい。そこへいくと普段から鍛えてある体は、良く引き締まっていそうだよね」
 ひょい、と顔を覗き込んだシンジに、
「も、もう言わないでください…」
 マユミは顔を真っ赤にして俯いた。
 言葉責めも別段興味のないシンジは、
「じゃ、お願いするね」
 ぽんぽんとマユミの肩を叩き、
「も、もうっ」
 とマユミが恨めしげに顔を上げた時にはもう、その姿は影も形もなかった。
「あ、綾波さんは気にしないの?」
 漸く訊いたマユミに、レイはすぐには反応しなかった。
 十秒以上経ってから、
「ヒトって、簡単に死ぬのね」
「…え」
「トカゲはしっぽを切られても死なないし、蛇に至っては頭が落ちても死なないわ。そうでしょう」
「え、ええ…」
「でも人間は簡単に死んでいく。そこを突けば死ねる急所などいくらでもあるわ」
 不意にレイの顔が上がった。
「私がそれを知っているのは、自分でそれを体験したから。お兄ちゃんの敵を殺す事など、私には何でもないことだわ」
 レイはただマユミを見ているだけだ。なのに、何故かその赤光に射抜かれたような気がして、マユミは一歩も動けなかった。
「そうは言っても、私はユリさんみたいに糸も使えないし、信濃大佐みたいに気も使えない。私に使えるのは−これ」
 次の瞬間見た物を、おそらくマユミは一生忘れ得まい。レイの手から飛んだ八角形の物体は、まるで本に出てくるUFOみたいな色をしており、それが置いてあった電柱を直撃した途端電柱はすっぱりと断たれたのだ。
 廃材置き場のようになっていたから停電騒ぎにはならないが、マユミはそれが使徒の発する物だと言う事を既に知っていた。
「私だけあなたの事を知っているのは不公平だから、私のことも見せたわ。これでおあいこね」
 どこでそんな単語を覚えたのかは不明だが、まだ呆然とした態のマユミに、
「多分そうだと思ったわ。あなたには私の護衛は無理。じゃ、さよなら」
 すたすたと歩き出したレイは、もう後ろを振り返ろうともしない。
「ま、待って…」
 絞り出すような、それでもはっきりした声が聞こえたのは、十メートル近くも歩いてからであった。
「何」
 振り返ろうとはしないレイに、
「あなたがどうしてそんな力を使えるのかとか、あなたが何者なのかとかは訊かないわ。私には、ちょっと行きすぎるけれど、碇さん思いと言う事だけで十分だから。でも…ありがとう」
「え?」
「話してくれた事、嬉しかったから」
「そう、嬉しいのね」
 嬉しい、と言ってもレイには分からない。
 レイにとって嬉しいのは、シンジの側に居られる時が一番嬉しいのだ。
「護衛するなんてもう言わないわ。でも…」
「でも?」
「私とその…お友達になってくれる?」
 片方は夜に貴重品をさらって壊して歩く娘、もう一人は人ならざる身に生まれた尋常ではない力を持つ娘。
 マユミはその過去と趣味を、そしてレイは自らの事を全て−人には話せぬ身であり、そこは二人とも似ているのかもしれない。
「友達に…」
 口の中で咀嚼するように呟いたレイだが、ややあってから手を差し出した。
「え?」
「よろしく、そう言う時はこうするんでしょう」
 顔がほんの少し赤いのは、自分の行為に照れているのではない。初めてシンジに会った時、シンジに差し出された手を振り払ってしまった事を思い出したのだ。
 ただし別に後悔しているわけではなく、これでまた一つシンジに話しかける口実が出来たと密かに喜んでいるのだ。学校でもシンジにほとんど話しかけられない事も、レイの焦燥の一つになっていたのだ。
 シンジが無視するわけではなく、なぜか以前のようになんでもないことを話しかけられなくなっている。その事自体はレイの自我が確立された証であり、悪いことではないのが彼女自身まだ気づいていない。
 差し出された白い手を、一瞬目をぱちくりさせて見たマユミだが、すぐにその手をきゅっと握り返した。
「よろしくね、綾波さん。あ、でもね」
「何?」
「私のことはマユミでいいわ。いつまでも山岸じゃ他人行儀で−」
「じゃあマユミ嬢でいいわ、お兄ちゃんがそう呼んでた」
 嬢の呼称はシンジ以外は何となく違和感がある。そのマユミの胸中を知ったのか、
「私のことはレイ様でいいわ」
「え!?」
「冗談よ。友達は名前で呼ぶって書いてあったからそれでいいのね」
「え、ええ」
 くすり、と笑ったレイだがシンジに向ける以外で笑った顔など見た事がなく、マユミの口許が緩みだしたのは数秒後の事であった。
 ただし。
(書いてあったからって…やっぱり少し違うのね)
 と思ったことは否めなかったが。
 
 
 
 
 
(続く)

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