第五十三話
 
 
 
 
 
「この設定だと、少しアンダーが出るね」
 湖畔の駐車場に車を止めた時、シンジは目を閉じたまま言った。
 この芦ノ湖は、以前は沿道はなかったのだが、数年前にほぼ湖面を見ながら走れるだけの道路が造られている。
 助手席を倒したまま、殆ど目を閉じていたシンジだが、その耳は無論エンジンの響きも排気音も、少しも聞き逃してはいない。
 そしてコーナーを抜けた時、車がどれだけぶれているのかもまた、感覚で察知していた。
「ここは高低差が少しあるから、カムにも少し手を入れた方がいいかしら?」
「いや、そこまではいいと思うよ」
 首を振ったシンジが、目は開けずに手を出すと、ちゃんと缶コーヒーが乗ってきた。
 やっと目を開けてシートを戻すと、
「750に、少し乗りすぎたみたいだね。右コーナーが若干だけど、余分に出てる。パッドごと変えちゃったら?」
「そうね、そうするわ」
 アオイが頷いて、シンジの手から缶を取って一口飲む。
 シンジの手に戻そうとしたその時ちょうど、シンジのポケットで携帯が音を立てた。
「はい…そうか、分かった」
 通話に要した時間は約八秒。
 電話を切ると、
「後二周くらいしてもらおうと思ったけど、あいにく中止になった。病院へ向けて」
「レイちゃん?」
「そ、僕の妹」
 シンジは頷くと、再度シートを倒して目を閉じた。
 目を閉じたシンジの顔に、一瞬視線を向けてからアオイがアクセルを踏み込む。
 周囲の空気を引き裂くような音と共に、ワインレッドの車体が飛び出していった。
 
 
 
 
 
「よく分からんな」
「それはこちらの台詞だ」
「大体、詳細が掴めないとはどう言うことだ」
「情報収集、それも秘かなそれは君の所の十八番だろうが」
「何だと」
 
 数字を描いたモノリスの間で、不毛な議論もどきが始まってからもう三十分近くにもなるが、一向に方向が見えてこない。
 それどころか、単なる中傷合戦にも発展しそうな気配がある。
「止めたまえ。今は、それどころではないだろう」
 8の番号を付けたモノリスの発言に、一瞬場は静まった。
「議長がもう来られる。議長の指示を仰げば良かろう」
 もっともな意見に、水を引くように場が静まる。
 だが彼らに取っては、例え一番単純明快な理論であっても、それを引き出すのは容易ではないらしい。
 やや気まずい空気が流れたそこへ、
「待たせた」
 声には威厳がない事もないが、陽の下で見たら即座に通報したくなるようなバイザーを着けたキールが姿を見せた。
「『議長』」
「分かっている」
 一斉に声が上がる前に抑えると、
「碇にも困ったものだよ、しかも冬月まで一緒と来た。この時期に呑気な連中だな」
 だが、どことなく事情を楽しんでいるような声に、モノリス達の間に戸惑いと困惑が流れる。
 この奇装を好むボスは、事態を把握しているのか?
 そんなメンバーの思考を読んだかのように、
「碇も、途方もない爆弾を手に入れたよ。使いこなせればこれ以上の物はなく、だが決して使いこなせはしないそれをな」
「ぎ、議長それは一体…」
 6番の問いかけに、キールは手元のボタンを押した。
「信濃アオイ?この娘が何か?」
 だが、モノリスの幾つかは確実に沈黙した。
 そしてそれは即ち画面の娘を、信濃アオイの名を知っていることを意味していた。
「サードチルドレンは碇シンジだ。そしてこの娘は、ネルフに大佐の肩書きで着任した信濃アオイ。この名称を聞いた事はないかね?」
 キールは一度言葉を切り、
「そう、黒衣の死天使と紅の女神、この二つの呼称を」
 いつもと変わらぬ声で告げた。
 反応があったのは、数秒後の事である。
「ある…いや、よく知っているとも。大統領の娘が攫われた時、CIAが総力を尽くしても見つからなかったのに、たった二日で捜し出したのはこの娘と連れだ。おかげで、我々の面目は見事に丸つぶれになった。そうか…やつらがネルフに入ったのか…」
「ところでキール議長」
「何だ」
「この者達が爆弾とは何のことです?」
「言うまでもなく、我らの目的は人類補完計画にある。だが、私が機械に諮ったところ、碇シンジと信濃アオイが、計画に賛同する可能性は極めて低いと出た」
「なっ!?」
「では早急にこの連中を…」
「黙れ!」
 突如として怒鳴ったのは、二人をよく知っていると言ったモノリスであった。
 幾分声を抑えて、
「暗殺を裏の生業としている奴らに、口封じや逆恨みで葬られた者は数知れぬ。知りもせず、あたら犠牲を増やすような事を口にするのは止めてもらおう」
「彼の言うとおりだ」
 キールも相づちを打って、
「彼らの実力、その筋では一体としてあまりに名高い。少なくとも、名ばかりの先行ではなさそうだ。それに、初号機のパイロットはこの碇シンジがもっとも的確のようだからな。何よりも、彼らには使い道があるのだよ」
「使い道?」
「そう。計画に反対するのは困ったものだが、碇が我らに全面服従していない気配もある。だが身内に爆弾を抱えていれば、少なくとも独自路線を行こうとは思うまい。いずれ、最終段階で消せばいいだけの話だ」
 あっさりと言ってのけたキールは、信濃アオイの抹殺と言う事に、それほどまでの自信を持っているのだろうか。
 そこへ、
「しかし議長。なぜこの娘がネルフへ?」
「それは、役に立たぬ女が上にいたからだ」
 ボタンと共に画面が入れ替わり、そこにミサトの写真が出てきた。
 が、
「これは…風俗嬢の?」
 奇妙な台詞が出てきたのには訳がある。
 そこには、胸を押さえた姿勢で前屈みになり、しかも、
「ここに注目」
 とルージュの落書きがしてあったのだ。
 こんな写真の被写体が、まさか人類を代表する前線にいるなどと、思いたくもないだろう。
 だがそれにしても、シンジでさえ見た事のないこれを、どうやって手に入れたのか。
 或いは、シンジには別物が行ったという事なのだろうか。
 ある意味もっともの問いに、
「ネルフ作戦部部長−葛城ミサトだよ」
「今から何年前の写真です?」
「まだ数ヶ月にもなっておらんよ。つい先だっての代物だ」
「ご冗談を」
 口を挟んだのは、別のモノリスであった。
「こんな乳しか能のないような女に、碇は作戦を任せていたと言われるのですか。我らのそれは、遊びではありませんぞ」
「そうとも言えんよ」
 キールの口許が僅かに歪み、
「この娘は葛城博士の−そう、セカンドインパクトの唯一の生き残りだからな」
「っ!?」
 刹那静寂がその場を支配した。
「少なくとも、あれの原因が使徒だ位の教育は受けていよう。だとすれば、復讐に燃える娘はあながち無能とも言えまい」
「しかし…」
 反論はせぬものの、やはり乳強調の写真からは目が離せないらしい。
 こんなのに、と言う思いは消せないようだ。
「その点信濃アオイ大佐なら、初号機パイロットからの信任も厚く、無様な指揮の取り様はあるまい。この娘が実質指揮を執ったのは、先般のそれだけだからな」
 言葉とは裏腹に、そこには皮肉が込められている。
 誰であろうと、所詮は自分達の駒と言う自信が、そこには含まれていた。
「取りあえずこの件はここまでとする。碇とその付き人の件は、私の方にもまだ確定情報は入っておらん。無論調査は進めておく。だがここは見ようではないか−碇ゲンドウが、駒をどう使いこなせるのかを、な」
「議長の仰せの通りに」
「我らがゼーレに栄光あれ」
 ヴーン、と次々に映像が消えていく。
 だがそれを見送った後、
「呑気なものだ」
 呟いたキールの口調は、決してのんびりした物ではなく、そこには確かに焦燥が含まれていた。
 無論キールとて、すべてを掴んでいた訳ではない。
 だがこの時点で、メンバーには言わなかったある情報を既に得ていたのだ。
 すなわち、ゲンドウが倒れたのはアオイの部屋を訪れた時である、と言う事を。
 冬月がアオイの気に遭った事は、キールも知らなかった。
 しかしゲンドウの一件は、すなわちその気になれば信濃アオイと碇シンジが、ネルフを自由に操り得る事を示している。
 とは言え、何が起きたかの確証も取れないまま動くのは、あまりにも危険であった。
 そう、彼らを相手にするにはあまりにも。
 少なくとも、ゼーレへの反抗、あるいはネルフに対する背任のそれでもなければ、動くわけには行かない。
 しかも、もしネルフが彼らの玩具と化したとしても、それが使徒撃退に功を奏するものとなれば、功になりこそすれ、罪とは言えないのだ。
「目下、信濃アオイに弱点は見付からん。だとすれば…やはり碇シンジのラインから、穴を捜すべきだな」
 指名手配者みたいな容貌からは、想像も付かぬ口調でキールは呟いた。
 
 
 
 
 
「お待ちしておりました、マスター」
 病院に着いた二人を、シンジが出迎えた。
「血がどうしたって?」
 歩きながら、シンジは自分のダミーに訊いた。
 全身うり二つだから、まるで双子でも歩いているように見える。
 これが十人くらいになれば、見た者は仰天するかもしれない。
「生理だ、と」
「誰の」
「長門ユリの手によるものではなく」
「ははーん」
 シンジはにやっと笑って、
「主治医の面目が潰れたらしい」
 と、アオイを見た。
「姫が?」
「おそらく」
 ダミーが頷き、シンジに何やら囁いた。
「そうだね」
 軽く指を鳴らすと、すっとダミーの姿が消えた。
「やはり分からないわね、あなたの事は」
「何が?」
 分かっていながら訊く。
「ダミーよ。同じもの、わざわざ同伴させることもないでしょう」
「便利だからいいんだよ、こら」
 言いかけたら、にゅうと腕が伸びてきて巻き付いた。
「私はシンジが好き。でもオリジナル限定ね」
 人が訊いたら首を傾げそうな台詞と共に、ふうと熱い吐息が耳に掛かった。
 とそこへ、
「アオイ様、院内ではお控えを」
 サクラが姿を見せた。
「邪魔をするの?」
「病院内でくっつく方が悪い」
 さっさとアオイから離れて、
「患者は一人きり?」
「さっき意識が戻りました。安静を命じられましたが、ご面会は可能です」
「分かった、案内して」
 こちらです、と歩き出したサクラの後に、二人が続く。
 数分で着いた先は個室であったが、室内はかなり凝った造りになっており、とても一般個室とは思えない。
「豪華な部屋ね」
 アオイの言葉に、
「元はVIP専用室だったそうです。お嬢様が、ここをご指定になりました。お入り下さい」
 入ると、どこかの王宮ででも使っていそうなベッドが、二人の視界に入った。
 これなら、レイが五人くらいは寝られそうだ。
「あ、お兄ちゃん」
 出迎えたレイは、これが安静かとシンジが首を捻るほど、妙に血色が良かった。
 しかも、何故かその目許が赤らんでいるではないか。
(はて?)
 レイのこの表情を見るのは初めてではないが、少なくとも身体の調子が悪い時に、逆にハイになる兆候ではない。
 が、口には出さず、
「身体、大丈夫?」
「う、うん…あ、あのね…」
「何?」
「月経は性徴の証。でも私にそんな事は無縁だったわ。お兄ちゃん、一つ訊いてもいい?」
「何?」
「私はその…人間に成れたの?それとも…人間に戻ったの?」
 思いも寄らぬ問いだったが、シンジの表情は変わらない。
 或いは、その言葉を脳裏に浮かべているのか。
 そして、
「レイちゃんはどう思う?」
 と逆に聞いた。
「わ、分からないの」
 半ば想定していた答えが返ってきた。
「私の身体は、見た目は人と変わらない。でもその本質は違うわ。これも…この血ももしかしたらその一部なのかもしれないの…」
「ならば、そのままでいる事ね」
 シンジの後ろから、冷ややかな声がした。
「あなたが自分を使徒だと思うなら、その通りよ。自分の存在すら定義出来ない娘など、妹だと言われてもシンジが迷惑なだけだわ」
「なっ!?」
 レイの顔から血の気が引いた原因は、アオイの言葉よりもむしろ、否定しないシンジにあったろう。
「め、迷惑なの…?」
 シンジなら…お兄ちゃんならきっと否定してくれる、そう願った言葉は、
「大迷惑だね」
 あっさりと、そしてこれ以上ない言葉に遮られた。
「わ、私は…」
 レイの肩がゆっくりと震え出す。
 そのレイに、
「レイちゃんの悪い癖は、人の話を聞いていない所にある」
 奇妙な事を言いだした。
「…え?」
「房総の夜の事もそうだったが、僕は何と言った?剥離すると言っても、君は自信が持てなかった。僕はレイちゃんに、ATフィールドが使える化け物だと言ったかい?」
「に、人間だって…そ、そう言ったわ」
「その通りだ」
 シンジの言葉もどこか冷たく、
「通常ではない力がそのまま人外だと言うなら、二度と僕の妹などと口にしないでもらおう。いーや、僕との付き合いもこれきりだ」
 シンジのこんな口調も珍しい。
 すなわち信濃アオイ。
 すなわち土御門モミジ。
 普通とは異なる、すなわち異種の力を使う者達。
 土御門の名を持つ者が、古よりある時は畏れられ、またある時は忌まれ−その歴史を知らぬシンジではない。
 行為の原因はそこにあったのかもしれない。
 すなわち、言うなりくるりと背を向けた事のそれは。
「ま、待って…」
 陶器のような顔色になったレイが、ここで行かれたら、今生の別れになるとでも言うように手を力無く伸ばす。
 だがその手が、いつものように包まれる事はなかった。
 背を向けた少年が、もういちど振り向いてくれることは無かった。
 もはや一顧だにせず、そのまま歩き出したシンジにアオイが続く。
 閉まったドアの後ろで、レイの腕が力無く落ちた。
「ごめんなさい…お兄ちゃん、ごめんなさい…」
 レイの双瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちても、だだっ広い室内を占めるのは、ただその嗚咽の声のみである。
 出てきたシンジを、サクラは一礼したまま出迎えた。
「ユリは院長室か」
「はい」
「血を与えたのは妲姫、そのままにしてはいないだろうけど…」
 妙な事を口にしてから、
「今日はこのまま帰る。綾波レイは、当分サツキの家にでも泊めておけ」
 泊めて、ではなく泊めろであった。
 すなわちそれは、家へ戻らせぬと言っているのだ。
 その言葉にも、
「ご命令の通りに」
 一礼したまま、恭しく告げた。
 彼女自身、むしろ楽しんでいる節がある。
 無論、シンジの変化の理由は分かっている。
 それが、レイの言葉にある事も。
 だが、怒りとしての色をシンジの場合はほとんど見せず、サクラ自身も一度か二度、記憶にあるかどうかである。
 それだけに、その色を見せたシンジを見るのは、貴重なサンプルなのだ。
 しかしアオイが気付いた。
 シンジが先に歩き出してから、
「サクラさん」
「はい?」
「楽しんでいない?」
「いえ、そんな事は」
 口調に乱れはない筈だったが、
「余計なものを見たがらないことね。あなたの腕が必要な患者は、まだまだ数多くいるわ」
 危険な事を静かな口調で告げると、これもほとんど足音を立てぬまま、歩み去っていった。
 完全に気配が消えてから、ようやくサクラは顔を上げたが、背中が汗ばんでいるのを知り、僅かに眉を寄せた。
 
 
 
「と思ったけど」
 廊下を行くシンジの足が止まった。
「なに?」
「父親の愛人に会っていこう。確かアオイは、まだ見てなかったね」
「本体はね」
 普通に考えればかなり不気味な返答だが、
「じゃ決まり」
 歩き出して、
「ユリさんの仕掛けに本体は邪魔。で、いつまで置いておくのかな」
 一瞬考えてから、
「長くはないはずよ。どのみち、雑用はオリジナルにさせるつもりのようだから」
「ふーん」
 何を思ったか、シンジがにやっと笑った。
「緩くなったって怒るかな…痛い」
「なんなら−試してみるかしら?」
 にゅうと伸びてきた腕が首に巻き付き、シンジの喉元がきゅっと閉まった。
 
 
 
 
 
(続く)

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