第五十二話
 
 
 
 
 
 かつて、とある皇帝は不老不死を求めて多大な財と時間を費やした。
 何故か?
 分かっていたからだ。
 すなわち、老いも死も生きとし生けるものの運命(さだめ)なのだと。
 東方に不老不死有りと、巨大な船団を組織して派遣した。
 不老不死が無かった事も、そしてそれが見つかりはしなかった事も、また言うまでもあるまい。
 だが、皇帝の例を挙げるまでもなく老いを、そして死に抗せんとした者は枚挙にいとまがない。
 そしてそれが、到底叶わぬ事であると知りながらも。
 病との戦いは古代から、そして未来永劫人類に取っての課題であろう。
 すなわち、人が完全体とならぬ限りは。
 及ばぬ事への抗いは、人が人であることの証なのかも知れない。
 その力量、兄には遠く及ばぬと評されたレイ。
 彼女にとって、悪魔の囁きはなんと聞こえたのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 月夜の下、二人の少年が向かい合って立っていた。
 別に問題はあるまい。
 間違いなく補導の対象となるであろう、この時間を別にすれば。
 そんなにおかしな事ではないだろう。
 そう、二人とも上から下までうり二つである事を別にすれば。
「では、一応付いているだけでよろしいのですか?」
「うん、いいや。一応黒いのも付けてあるし、多分今夜は静かにしているはずだ」
「もし動いたら?」
「その時は任せる。ただし、猫だったら付けるだけにするんだ」
「マスターの仰せの通りに」
 すっと一礼して歩き去った自分を、シンジは見送った。
 稀代の妖姫が、黒服などゴミ程度にも見ていないのは分かっている。
 まして、レイは既に黒服を幾人も片づけているのだ。
 それでも、目付がいなくては困るとシンジが放ったのは、自分のダミーであった。
 ある意味では、もっとも頼りになる監視役と言える。
 
 
 
 
 
 稀代の妖女の言葉に、レイはすぐには反応しなかった。
 ただし、考えていたのではないらしい。
 少なくとも、妲姫の言葉を受けるかどうかを。
 脳裏にある、あたかも眼前のような景色をぼんやりと見ながら、レイが首を振るには幾分の時間が掛かった。
「いいえ」
 とレイが言った時、その脳裏には何が浮かんでいたのか。
 だが
「何故じゃ?」
 訊ねた妖女の声に、笑みにも似た物が混ざっていたのを知れば、古の王達は驚愕するに違いない。
 あの女にも、そんな感情があったのか、と。
 しかも、
「よく…分かりません」
 無礼極まる答えにも、
「そうであろうの」
 などと言ったのを知れば、もはや茫然自失の態に追い込まれるであろう。
 す、とレイが目を閉じる。
 そして再度開けた時、もうその視界にはどこにも絵は映っていなかった。
「今のままでは多分、いえずっと、お兄ちゃんの右にいる事は叶わない。でも…私はそれでいいんです」
「増長する、と申すかレイよ」
 僅かに頷いた時、その眉はほんの少しだけ寄っているように見えた。
「…はい」
 頷いたその脳裏には、おそらく未来の自分が映っていたのであろう。
 さして遠くない、近未来の自分が。
 だが眉が寄ったのは、そこにいかなる像を見たせいなのか。
「では、そうするがよい。力を得た者が増長するのは、常に歴史が証明しておる。お前もあたら、その一つになる事はあるまい。ところでレイよ」
「はい」
「初めて、自らの手を染めたにもかかわらず、狼狽えぬは見事であった。褒めてつかわす」
「はい」
「褒美に一つ、面白い物をくれてやるとしよう」
「面白い、物?」
「そうじゃ。或いはこれの方が、お前には喜ぶやもしれぬの」
 奇妙な表情になったレイの脳裏で、ある声がこう言った。
 すなわち、
「血じゃ」
 と。
 次の瞬間、レイは下腹部に鈍痛を感じ、ゆっくりと倒れ込んでいった。
 
 
 
 
 
「ふわ」
 ブラインドから、うっすらと差し込む日光でシンジは目覚めた。
 朝日は見えぬとも、その量でシンジには大体の時間は分かっている。
「八時間丁度だ」
 その言葉通り、昨夜床に就いてから十秒後、揃って眠りに落ちて以後ずっと眠り続けていたのである。
 徹夜など珍しくない二人にしては、かなり珍奇な出来事と言えた。
 視線を下に向けると、そこに置かれている腕をそっと動かした。
 まるで、白蛇のように絡みついている白い腕から抜け出すために。
 これがミサトやリツコ辺りの体格なら、別段どうと言う事もないのだが、アオイほどの長身になると抱き枕の称号がぴったりになる。
 我にもっと丈を、とシンジが時々呟くのはそのせいだ。
 殆ど気配を感じさせずに抜けると、音も立てずにシンジは立ち上がった。
 見下ろすと、ガウンからは乳房が完全に家出した状態にあるが、これがシンジ以外では決して見せぬ姿態である事をシンジは知っている。
 例えそれが、本人は無意識だったとしても。
「ん…ん」
 僅かにアオイが身動ぎすると、乳房がつられて動く。
 一体何をすれば、と首を傾げたくなるほどの完璧な乳房は、身体を動かしてもまったく揺れようとしない。
 起床時には主の動きに合わせ、好きに動いている胸なのだが、横になるとまるで借りてきた猫のように大人しくなる。
 こっちを見ているような胸へ、シンジはすっと手を伸ばした。
 手には到底収まらぬそれへ、上から被せるように手を置くと、軽く指を曲げた。
 柔肉の中へ指が沈むのを見て、シンジは頷いた。
 満足したらしい。
 浴室へ消えていくシンジの後ろで、アオイが小さく寝返りを打った。
 
 
 
 
 
「はい、どいて」
 ふっとシンジが−ダミーだが、違和感を感じたのは、奇しくもレイが倒れ込んだ直後であった。
 状況が伝わったわけでは無論ないが、妙な物をその嗅覚に感じ取ったのだ。
 あえて言えば、そう−違和感。
 当然の事としてそれには、本体(オリジナル)の能力が強く反映されている事は、言うまでもない。
 暗がりから急に現れたシンジに、男達は一瞬懐に手を入れかけたものの、それをシンジと知って手を止めた。
 だが遅い。
 シンジであっても、この反応速度なら全滅させられる。
 少なくとも、人類の命運を背負っている者達を守る腕前とは、到底呼び難いものであった。
 が、シンジはその事は何も言わず、
「もう後はいい。俺がやる」
 と言った。
「何?」
「俺がやる、と言った。聞こえなかったか?」
 黒ずくめの少年が、やや危険な声で言った。
 その性はオリジナルにのみ絶対従順を示すのか他者に対しては、それもこの黒服など歯牙にも掛けていない節がある。おまけにこの黒尽くめは、黒服達は知らないが仕事中の証である。
 この辺りは、本体の一部から創られたとは言え、少し異なる点なのかも知れない。
 さすがに男達の顔色が変わりかけたが、この少年とその妹を追った者達が全滅した事を、既に知らぬ者はない。
 男達は黙って道を空けた。
 玄関口からシンジが一歩足を踏み入れた途端、その眉が少し寄った。
「血か」
 電気の点いていない室内を、まるで白日の下のように進んでいく。
 店の奥には廊下があり、かすかな血臭をシンジはその右側の部屋に感知した。
 とは言え文字通り微々たる物であり、黒服達ならまずこの位置では分かるまい。
 腰に手を伸ばす事もせず、シンジはすっとドアを開けた。
「これは…」
 さすがに驚いたような声も、室内の情景を見れば当然だったかも知れない。
 恐らくは入荷したてと思われる花が、室内を埋め尽くすように置かれている。
 色とりどりのそれらは、おそらくオーナーの趣味であったに違いない。
 だがどんなオーナーとて、それが見知らぬ少女の寝床になるなどとは、さすがに想像もしていなかったろう。
 ましてそれが、下半身を朱に染めた少女が横たわる物になる、などとは。
 下半身を朱に染めたレイを見ても、シンジは顔色を変えなかった。
 無論創られたと言う事もあるが、それ以前に気付いていたのだ。
 そう、これは傷から来るものではない、と。
「ホラーハウスにぴったりだな」
 ろくでもない事を呟くと、懐から携帯電話を取り出す。
 救命車が、サイレンを鳴らして現場に到着したのは、三分と経たない内であった。
 
 
 
 
 
 シャワー室を出たシンジは、洗濯機の中に衣類を放り込んだ。
 アオイのも一緒になっているが、気にもせず液体洗剤を入れてボタンを押す。
 一昔前からは、信じられないような低音で回り出すのを見てから、シンジは部屋を出た。
 普通なら裸で帰る理屈だが、アオイが自分の服を一式揃えていると、シンジは勝手に決めつけている。
 寝室に戻ってくると、アオイはまだ寝ていた。
「まだ寝てる。叩き起こすか」
 バスローブを羽織ったまま、シンジは台所へ行き冷蔵庫を開けた。
 中からワインを一本取り出すと、今度は食器棚から栓抜きを持ってくる。
 家の備品を、殆ど分かっているような感すらあるが、栓を抜いたそれを手に寝室へ戻る。
 枕元に立ったシンジは、瓶を傾けて一口飲んだ。
 正確には、口に含んだまま止めたのだ。
 何を思ったか、シンジはアオイの顔を見下ろした。ワインを含んだまま口づけして、そのまま流し込む。
 普通なら溢れだして当然だが、何故かこぼれなかった。
 いきなりの口移しにもかかわらず、こぼれる代わりに、ゆっくりと嚥下されていく。
 が、数滴あふれた。
 つう、と喉元に落ちていくのを見たシンジが、そこに唇をつけた。
 少し強めに吸い上げた時、アオイの肩がぴくりと動いた。
 やっと目が開く。
「おはよう」
「うん」
 幾分気怠げに身を起こしたアオイに、
「少しは良くなった?」
「お陰様で、と言いたいけれどよく分からないわね。触診を」
 促すアオイに、再度シンジは手を伸ばした。
 見事な胸の谷間に、一瞬シンジの指が吸い込まれた。
 アオイの表情は変わらない。
 すぐに指を抜き出してから、
「もう、七割くらいは治っているよ。そう言えば、一緒なのもしばらくぶりだね」
「その通りよ」
 にこり、と笑ったアオイがシンジを引き寄せる。
 きゅっと抱きしめてから、
「シンジ無しで体調が崩れるとは、困ったものね」
 まったくだ、と頷いたシンジに、
「ところで君の車、私がもらったからね」
「僕の?」
「そう、750の方よ」
「ちょっと待った」
 身体に手を回された格好で、シンジは首だけ後ろに向けた。
 なお、身体は少しも動いていない。
 身体を動かさずに首を回す事が出来ると、古来の中国では危険視されたと言う。
「アオイのポルシェはどうしたの?」
「売っちゃった」
 あっさりと言ったが、911カレラをアオイが気に入っていたのは、シンジが一番良く知っている。
 だいたい、売ったと言っても時価で二千万は到底下らない筈だ。
「売るのはいいけど、なんで?」
「モミジの所の護衛費用に」
 短いアオイの言葉で、シンジにはすべて通じた。
 今ウェールズにいるモミジは、実の姉から命を狙われかねないと言う状況にある。
 使徒退治がなければ、シンジはさっさとこっちに呼んでいる所なのだ。
 ところでウェールズとは言っても、無論一都市ではなく、国のことを指している。
 ケルト文化を色濃く残すここは、イギリスと合併して数百年になるが、今なお独自とも言える文化があちこちに残っている。
 モミジのいる、土御門の屋敷があるのはその最北とも言える、コンウィである。
 首都のカーディフほど開発が進んではいないが、その代わり時代を感じさせる建造物には事欠かない。
 街の代名詞とも言えるコンウィ城は、シンジがよくモミジに連れられて行った所でもある。
 ほぼ無尽蔵にも近い魔力と引き替えに、モミジは自らの命を預ける契約を結んだ。
 それはすなわち、自らは首が吹っ飛んでも死なないが、シンジの死はそのまま自分の死を意味する事になる。
 言い方を変えれば、死ねぬ身になったとも言えよう。
 と言うことは、どんな攻撃をされても死ぬことはないが、それを知っているカエデなら、五体をばらして封じる位の事はしかねない。
 モミジ同様、カエデの事もよく知っているアオイだからこそ、の判断なのだ。
 ただし。
 別に金に困るアオイではないし、単にシンジの車を自分のにすると、シンジに怒られるから自分のを売った、と言う部分もまた強いのをシンジは見抜いていた。
 つまり、モミジの件は二次的な理由なのだ、と言う事を。
「ま、いいや。僕は家の探検でもしてるから、君は着替えてきて。少し、湖畔道路でも回ってもらおう」
 分かったわ、とアオイは言ったが腕は離れない。
 するりと抜けたシンジが、よいしょと引っ張るとやっと起きた。
「食事はテーブルの上に作ってあるから、ちゃんと食べるんだよ」
「分かってるわ、シンジ」
 今までに、シンジの出した物を、アオイが残した事は一度もない。
 にもかかわらず、シンジの台詞はやっぱり変わらないのだ。
 
 
  
 
 
「ダミーだな」
 シンジは入ってくるなり、ユリは一目で断定した。
「どうして分かる」
「シンジは今、アオイと同衾中だ。レイ嬢を優先することはまずあり得ない」
 確かにその通りだが、シンジが聞いたらこう言うに違いない。
「誰も同衾なんてしてないぞ」
 と。
「さすがに良く知ってるな」
 シンジはこれも、本体ではないせいか別段否定しようともせず、
「マスターからはすべて一任されている。で、綾波レイの容態は」
「生理だ」
「整理?」
「正確に言うならば月経だ。単語の基礎知識が足りないと見える」
「ドクターユリの投薬が済んだのか?」
「違う」
 ユリは首を振った。
「私のはまだ、ここにある」
 と、白衣の中からカプセルを取りだした。
 透明なカプセルの中に、ピンク色の粉末が詰まっている。
「これが綾波レイに月経を起こす代物か」
「女性ホルモンの促進剤だ。もっとも、彼女には最初から存在しないから、多少強引になるが」
「無い、とは?」
 普通に考えれば、既に乳房も発達し出しているレイに、無いというのはあり得まい。
 だがユリは、はっきりとレイにそれが無いと告げた。
「あの娘は、これ以上の成長は無いように創られている」
「纏足もどきか」
「レイ嬢の身体を分析して、面白い事が分かった。一般の人間なら、その身体を保つのは基本的に血と肉だ。少なくとも、身体の血をすべて抜かれ、なおかつ生きられる人間はいない。だが綾波レイと言う娘の場合には、幾分事情が異なる。無論、血も肉も兼ね備えてはいるが、今の身体を形成するには、それ以上にある物が必要なのだ」
「ある物?」
「そう、すなわちATフィールド」
 それを聞いた時、シンジの口許が奇妙に曲がった。
「ATフィールドで身体を維持する娘、か。その言葉、決してマスターにはお伝えできないな。とは言え、既に赤木リツコと碇ゲンドウの処遇も、決めておられるか」
「その通りだ」
 ユリが頷いた時、何故か室内の空気が一瞬冷えたような気がした。
 
 
 
 
 
「お待たせ」
「うん」
 頷いた時、既にシンジはアオイのFD3Sの点検を終えていた。
 とは言っても、シンジが出てから二十分も経っていない。
 その間にシャワーに食事、おまけに着替えて出てきたのだ。
 これが、シンジタイプの所要時間と知ったら、周囲はシンジを呪うかもしれない。
 運転席のドアを開けながら、
「これ、あまり乗らなかったね」
 とシンジが言った。
「ええ、750の慣らしに出てたから。すぐ分かる?」
「当然だね」
 断定したシンジに、
「やっぱり、シンジの目はごまかせないのね」
 ふう、と溜息をついて見せた仕種が、ぞくりとする程に妖しい。
「付き合い長いからね」
 よく分からない口調で言うと、
「さて、少し流してからにしようか。行くよ」
「そうね」
 軽く頷いてから、アオイは運転席に乗り込んだ。
 既に暖機運転は済んでおり、エキゾーストが重低音を響かせる。
 爆音仕様になっている筈だが、車は妙に静かな音で駐車場から出て行った。
 
 
 
 
 
「さて、気分はどうかしら?」
「あ…ユリさん」
 起きあがろうとしたレイを、ユリの手がそっと押さえた。
「一応鎮静剤を射っておいたから、身体はふらつく筈よ。横になっていた方がいい」
「はい」
 運び込まれて来たときは、殆ど血の気を喪ったような顔をしていたが、点滴が効いたか今はだいぶ戻っている。
 とは言え、普段のレイを見ていなければ、どっちとも区別は付かないかも知れない。
「あ、あのユリさん…」
「何か?」
「わ、私どうなったんでしょうか。何かの…病気に…」
「いや、至極健康よ」
 ユリの言葉に、レイはほっと安堵したような表情を見せた。
 以前ならこんな表情は、いやそれ以前に自分の身体の事など、聞きもしなかったに違いない。
 が、それはそれで気になるのか、
「じゃ、じゃああの…」
「その前に」
「はい?」
「一つ訊きたい事がある」
 ユリの言葉が、妙に冷たく、そして遠く聞こえたような気がして、レイは一瞬肩をびくりと震わせた。
「君の身体に起きた事を、単純に言えばこうなる−そう、生理が始まった、と。女であれば誰しも経験するし、それ自体はまったく問題ない。むしろ、喜ばしいとも言えるだろう。だが、それは君の場合には当てはまらない。少なくとも、ATフィールドが人の形を取らせているような娘には」
「っ!?」
 その途端、レイの顔色がはっきりと変わった。
 見る見る血の気が引いていき、文字通り死人のようなそれへと変わったのだ。
「ど、ど、どうしてそれをっ」
 叫ぶように言った時、レイは確かに相手を忘れていたに違いない。
 すぐに思い出した。
 すっと俯いたレイに、
「使徒もどき−君の身体の事はシンジも知っている。先だって実家に戻ったのは、シンジからある薬を頼まれたからだ。すなわち、君に生理を起こさせる為の薬を」
「…お、お兄ちゃんが?」
 そうだと頷いてから、
「それが不意になったのは、大した事象ではない。むしろ、使う必要が無くなった事の方が意義は大きい。だが問題は、何故それが発生したのか、だ。私の知る限り、要因は一つしかない。誰が君に血を与え、生体バランスまで変えてのけた?」
「そ、それは…」
 それは?とユリは促さなかった。
 ただ、その秀麗な美貌をじっと患者に向けている。
 落ちるのに時間は掛からなかった。
 例えその名が、ユリにどんな意味を持つかを知っていても。
「ひ、姫様が…」
「やはりそうか」
 と言った時、既に分かっていたような口調にも関わらず、ユリの口調にはどこか危険な色があった。
 だがそれも一瞬の事で、すぐいつもの表情に戻ると、
「数千年は人類の常識すら嘲笑うか。とまれ、これで一般の娘と変わらなくなったと言える」
 が、言葉が途中で止まったのは、レイの表情を見たからだ。
「生理、それの意味は知っているね?」
「いいえ」
 あっさりと、否の答えが返ってきた。
「要らぬ物は教えなかった、か」
 短く呟くと、
「簡単に言えば、子を為す事の出来る身体になった、と言うことだ」
 これまた簡単に告げた。
「子供、を?私がですか?」
 どうも、ぴんと来ていないらしい。
 それを見たユリは、ある言葉を継げた。
 簡潔にして、これ以上はない位に効果のある言葉を。
 ユリはこう言ったのだ。
「そう、シンジの子でもよ」
 と。
 だが言い終わらぬ内に、レイに変化が起きた。
 瞬時に顔が紅潮したのだ。
 ぼん、と音でも立てたように真っ赤になった瞬間、ぱたっとその身体は倒れ込んだ。
 気が緩んだせいか、失神したらしい。
 ユリの説明中に二度も、それもこんな短時間に途中で切らせるなど、レイが今までに初めてである。
 手首を取り、脈拍が正常なのを確認してから手元のベルを押した。
 サツキがすぐに顔を出し、
「お呼びでしょうか」
「自分の現状を把握したら失神した。取りあえず安静にしておくように」
「分かりました」
 レイの顔を見下ろして、サツキは一礼した。
 この元極道の娘も、レイの事はどこか気に入っている節があり、一任すればまず問題はあるまい。
 ユリは出て行きかけたがその背に、
「あの、ドクター」
「どうした」
「現状の認識と言われましたが」
「生理は、シンジの子も可能だと言った」
 その言葉に、一瞬サツキの表情が固まった。
「そ、それはシンジさんのお耳には…」
「いずれは入る。投薬を選ぶとき、第一に効果を、そして第二に副作用を考えるのは当然だ。想い人には、愛を囁くだけが愛情ではない」
 出て行くユリを、サツキは一礼して見送った。
 だがその胸中は、シンジの第一声を模索中であった。
 すぐに答えは出た。
「お前なんか嫌いだ」
 ぽつりと呟いた言葉は、間違いなくシンジをよく知っている者の台詞と言えた。
 そのころ、シンジがある車の助手席でくしゃみをしたのだが、無論サツキはそれを知らない。
 
 
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]