第五十四話
 
 
 
 
 
「ほう、シンジが?」
 サクラの報告にユリが顔を上げた。
「はい。ですがアオイ様まであのような−」
 言いかけて止まったのは、ユリの視線に遭ったからだ。
 すなわち、宇宙人でも見るような視線に。
「学校へ戻って一から出直す必要がありそうね」
「え?」
「アオイが口を挟まなければ、綾波レイはシンジから一生付き合いを断たれている。そんな事も分からないと?」
「あ…」
 サクラの美貌からすっと血の気が引いていく。
 アオイの意はすなわち、そのままシンジの意だと言う初歩中の初歩を忘れていたのである。
 少なくとも、ユリの前では口にすべきではなかったろう。
 しかし、もしそうだとしたらシンジは、アオイの言葉を読んだ上で言った事になるのだが。
 結局その答えは見付かることなく、
「もういい」
 それきりユリはサクラを見ようともせず、また書類に文章を記し始めた。
 二十秒ほど経った時、
「そこにいられても迷惑だ。それよりサツキをここに」
 邪魔だと言われたのだが、室内に出た時サクラは大きく息を吐き出した。
 安堵と−そして過ちへの後悔から。
 滅多に見られぬシンジの表情を思い出した時、その口許が小さく動いた。
 
 
 
 
 
「あなたのあの表情(かお)も珍しいわね」
 長い廊下には、二人の足音だけが響いており、どこか静謐な空間を破壊する異端者にも見える。
「僕がもう一つの人格だったらいいけどね、相手は猫だぞ。あんな事言ってたら乗っ取られるのは目に見えてる。それに−」
 言いかけて止めたシンジに、
「だとしたら、どうなるの」
「…何を想像している?」
「シンジがレイちゃんの異人格−体つきも変わるのかしら」
 シンジの眉が少し寄ったが、
「うるさい」
 と言うまで若干間があったのは、もしかしたらある姿が脳裏に浮かんだのかもしれない。
 そして、
「悪くないと思うわ」
 これも、シンジの脳内を眺めたかのようなアオイの台詞であった。
 何か言おうとしたシンジだが、
「危機に際して変わるならシンジの方が安全なのだから」
 アオイの言葉を聞いて止めた。
「空想の世界はSF作家に任せておくよ。そんな事よりさっさと行くぞ」
「はいはい」
 うっすらと笑ったアオイは、その表情を崩さぬまますっとシンジの腕を取って自分に絡めた。
 二人が余人には決して許さぬ場所−すなわち右腕を。
 
 
 
 
 
「お呼びでしょうか」
「あの子を家に泊めておいてもらいたい。広さは足りるかしら」
「越したばかりで、少しまだ散らかっていますが、一応スペースは空いております」
 結構、とユリは頷き、
「危険手当は通常の三倍付けておく。必要な物は全て揃えて置くといい」
 危険手当の三倍、その単語が無くても元極道の娘には十分意味は通じている。
「かしこまりました」
 恭しく一礼してから、
「あの、一つおたずねしてもよろしいでしょうか」
「何か?」
「シンジさんは、もう自宅へはお戻しにならないのでしょうか?」
「不明ね」
 ユリは首を振った。
「実際の所、コアの存在を考えればシンジでもおそらく零号機には乗れる。無論、初号機にはダミーか、あるいはモミジを乗せることになるが」
「あの娘を乗せた方がよろしいかと思いますが」
「何故そう思う?」
 ユリに聞かれた時、その言葉にかすかだが笑みに似た物があるのに気づいた。
「指揮官が兵士を拒否する事がありますから」
 明確な言い回しは避けたのだが、ユリはふむと頷いた。
 だが、それを見た途端サツキは嫌な予感がした。
 根拠はないが、本能がそれと告げる物であった。 
 果たして、
「サツキなら、自分の分身は至極普通に受け入れるかね?」
「そ、それは…」
 返答に窮した時サツキは、自分が片方がいないとは言え板挟みになったのを知った。
 
 
 
 
 
「ネルフに着任した信濃アオイです。よろしく、赤木博士」
「え、ええ」
 頷いたものの、これがネルフの個室ならともかく、こんな病室で寝込んでいては迫力が無い。
 やはり、リツコに取って白衣というのは欠かせないアイテムのようだ。
 しかも、
「自分に愛されるってどう?」
 シンジが耳元で囁いた途端、その顔色は文字通り七色に変化した。
「ど、ど、どうしてそれをっ!?」
 ネルフ一の頭脳と言われた才媛の大混乱を、アオイは黙って眺めていた。
「どうしてってそれはほら、ユリの創った物だし。どうやれば素行を白状するか位はねえ?」
 ねえ?と言われても困るが、リツコは目の前の少年にとんでもない秘密を知られたのを知った。
「そ、それで何しに来たのよ。作戦なら、私とうり二つのあの女に聞けばいいでしょう」
 強がったのかは分からないが、口調には普段の迫力と比較して五分の一もない。
「それでいいの?赤木博士」
「どういうことかしら」
 アオイがネルフに着いた時、無論リツコはそこにはいなかった。
 既に、自分と寸分変わらぬ女にたっぷりと嬲られてダウンしていたのだ。
 それだけについきつい口調になったが、シンジの表情に刹那危険な物がよぎった事にリツコは気づかなかった。
 アオイは気にした様子もなく、
「あなたのコピーではあるけれど、あなた達が創った精巧な物には及ばないわ」
「精巧?」
「そう、人の形を取らせ、地下の奥深くで飼っておいた少女達にはとても」
 それを聞いた瞬間、リツコの顔から血の気が引いた。
 ユリが、あるいはシンジが知っている情報は全てアオイが知っていても、少しも不思議はないのだが、直にそれを指摘されたのはやはりショックであった。
「シンジが創るのは、あくまでも毛髪を元にしたダミーよ。自分の体と憎み合うような変わった趣味でも無ければ、出来たそれとごく普通に会話も出来るわ。あくまでも科学に拠り所を求めたクローン技術とは根本的に別物よ。もっとも、オリジナルの体に興味を持つとは聞いていなかったけれど」
「そ、その事は…」
「心の傷より外面の傷の方が、見た目にははっきりとわかりやすいのよ」
 アオイは静かに言った。
「例えば、何らかのショックを受けて拒食症になった、と本人が言っても、それ以外の理由が十二分に考えられれば、第三者からは分かりづらいわ。人は大概の場合、目に見える事象を優先して信じる所があるの。霊を信じないとか、魔力をマジックだと嘲笑するのもその一端でしょう?あの子達の事も同じ−あなたがどう思っているかは知らないけれど、今もなお両手を優に越える数の創られた娘達が、あの水槽の中にいるのは確かな事実なのよ」
 シンジと同じだ、とリツコは思った。
 咎める口調でもなく、いきり立った口調でもない。
 そもそも髪型だけみれば、姉弟かあるいは恋人みたいな関係だろうとは気づくが、思考までもがよく似ている。
 が、何故か恋人同士のそれには見えない。
 シンジもまた、決して自分に責めるような口調では言わなかった。
 依然として変わらぬ口調のまま、
「もっとも、あなた達がしてのけた事は、私には関係もないし興味もないわ。幸か不幸か、彼女たちに自我を与えられる人もいるのだから。もっとも、それを人と呼んでいいのかは少し微妙だけど」
 この場合の対象はレイではないが、確かにヒトの範疇に含めて良いのかは、大いに疑問の余地を残す所である。
「な、何を言って−」
「あなたは知らない方がいい事よ」
 今度は幾分冷たさを乗せた口調で言うと、
「あなたがここでダウンして、もうネルフからはお役ご免になりたいというならそれでいいわ。ただし」
 アオイが言いかけた途中で、
「あれは僕の小間使いにする。ネルフに置くのはもったいないからね」
 思ってもいなかった事をシンジが言ったが、アオイはあえて異は唱えなかった。
「どうしても嫌ならいいんですが、あなたには色々とやってもらわなきゃならない事があるんです。例えば使徒の解剖とかね。アレの動力源もまだ分かっていないんでしょう?」
「そ、それは…」
「というわけで、リツコさんにはあまり寝てる時間はありません。さっさと帰ってきて下さい、いいですね?」
「え、ええ…」
「それは良かった。じゃ、僕はこれで帰ります。アオイちゃん、帰るよ」
 無理矢理頷かせて、シンジがアオイと一緒に部屋から出ていった後、
「私を必要として?そんな訳ないわね」
 自嘲気味に呟いたが、
「ではどうして私を呼び戻すのかしら」
 起きあがってドアの方を見ながら言った時、その双眸には少しだが、間違いなく光が戻り始めていた。
 
 
 
「何を考えているの?」
 先にアオイが口を開いたのは、部屋の前から離れた時であった。
 だが、
「ユリは何を考えている?」
 とシンジは逆に聞き返した。
「赤木リツコ二号を使って、精気を吸い取られた親父を造る気だ。と、それぐらいは僕にも分かる。でもその後はどうする?リツコさんがいないと駒が足りないんだよ−色々とね」
「一つ、いいかしら」
「なあに?」
「あなたは、彼女を最終的にどうするの?」
「それはない…んにゅ」
 内緒、と言おうとした途端、両側から頬を軽くと引っ張られた。
「身体に聞いてみようかしら?」
「え、遠慮します」
 そういいながらさっと離れると、くるりとこちらを振り返った。
「僕のこと分からなくなったの?」
「いいえ。ただ言わせてみたいのよ−あなたの唇から、ね」
 こんな時、アオイの雰囲気はぞくりとするほど妖しくなる。
 そう、男なら誰でも無意識に引き寄せられてしまいたくなるほどに。
 ただしここにいる例外は、
「分かってるなら聞くな」
 ぷいっとそっぽを向くと、そのまますたすたと歩いていってしまった。
 それを見送って、
「最近冷たいのね、シンジ」
 呟いたがふと、その行き先が駐車場の方では無いのに気づいた。
 なお、洗面所はすでに通り過ぎている。
 だがどこへとは言わず、
「独り寂しく待つのもいいものね」
 内容と合っていない口調で言うと、豊かな肢体を揺らして駐車場へと歩き出した。
 
 
  
「赤木リツコをどうするかって?さて、どうしましょうか」
 今日のお夕飯は、と呟く主婦みたいな口調だったが、その顔には妙に危険な物が浮かんでいた。
 だが、その表情のどこにも既にレイの事は浮かんでいない。
 日光の差し込んでくる廊下を、そのまま音も立てずに歩いていく。
 医療過誤、そしてそれの隠蔽とろくな事をしなかった前任の院長とその一味だが、この辺りの造りだけは功労と言えるだろう。
 行き交うナース達の中には、シンジを見て一礼していく者も多い。
 無論、既に長門病院と入れ替えられている為であり、ユリがここに手を入れたのは巨大な機体に搭乗する友人のためだと、知らない者はいない。
 もっとも、知っていたとしても何も変わらないだろう。
 病める者、あるいは傷ついた者を癒し、適切な治療を施す。
 その基本概念に変わりはなく、そして彼女たちはおそらくその職に就いた中ではもっともそれを理解している部類に属していた。
 以前長門病院を訪れたある大臣をして、この意識の半分でもあったらと嘆かせたのはごく少数の人間だけが知っている。
 すれ違った時、ふとシンジが後ろを振り返った。
 珍しい事に歩いていくその後ろ姿を追っている。
 ぼんやりした視線が豊かな尻を追っていく、かに見えたがすぐ戻った。
 くるりと振り向いた途端、むぎゅっと何かにぶつかった。
 シンジのよく知る、だがそれとは微妙に異なった感触に。
「ナースでしたらその辺のをまとめてお貸ししましょうか?」
「いや、いいです」
 シンジの声がくぐもってるのは、発生源が胸の谷間だからだ。
 いかにシンジでも、身長の差だけはどうしようもないのである。
 ぽん、と離れると、
「何の用?」
 嫌な視線でこっちを見てるサツキに訊いた。
 それには直接答えず、
「シンジさんの基準では如何ですか?」
 やっぱり、やな事を言いだした。
「もっときゅっとしてる方がいい。もっとも、見た目と実用は必ずしも比例しないけどね」
「よくご存じですね」
「…帰るよ」
 逃げ出そうとした所へ、
「失礼しました」
「ん?」
「本当はあの、シンジさんに…」
 これはかなり声を潜めたサツキに、
「アオイがいなくて良かった?」
「い、いえそんな事はっ」
 あわてて首を振ったが、表情からすると当たらずとも遠からず、と言った所らしい。
「レイちゃんの事?」
「え、ええ…」
 何となく言いづらそうなサツキに、
「喉乾いた、何か買って」
 菓子をねだる子供みたいな口調で言ったものだから、これでサツキの表情が緩んだ。
「あの、自販機で良ければ」
「それでいいよ」
 子供のくせに熱いお茶なんか選んだシンジは、サツキから缶を受け取ると、
「泊めたくない?」
 ごく普通に訊いた。
「いえ、そうではないのです。ただ…」
「ただ?」
「あの娘は、ほとんどシンジさんに依存しています。ここでシンジさんに嫌われたと思ったら…」
「たら?」
「え?」
「依存している、ただそれだけだったら司令の玩具でいい。まだ処女みたいだし、遊ぶにはちょうどいいよ?」
「シ、シンジさんっ」
 思わず大きな声を出してしまい、
「も、申し訳ありません」
 すぐに俯いた。
「珍しいね」
 一口飲んでから、おもしろい物を見たような口調でシンジが言った。
「め、珍しい?」
「どうしてそんなに肩入れする?サツキには別段関係あるまい?それに大体だな」
「はい?」
「サツキが知ってるかどうか知らないけど、今のあの子は単に依存対象が変わっただけだよ。別に進化したわけでも進歩したわけでもない」
「シンジさん、それは違います」
 すっとサツキの声が低くなる。
 それに伴って、その表情もまた極道の物へと変化しつつあった。
「いいですかシンジさん、あの娘が碇ゲンドウに向けていたのは一方的な物です。たとえ自分がどう思おうと、それに応える視線は自分を通り抜ける物です。それはレイに取って、いや女としては最大の屈辱です」
「でもあの子はそれを良しとしていた。でなければ−どうして僕を敵と認識する?そしてもう一つ、返ってくるからそっちに転んだ、そうでないと何故分かる?」
「分かります」
 サツキはやや俯き加減で言った。
「私も…私も女ですから…!?」
 避ける間もなかった。
 いや、分かっていても避けられなかったろう。
 文字通り光速に近い動きを見せたシンジの手が、その指にナイフを挟んでいたのだ。
「女だから分かる?女なら皆、同じだとでも言うの?僕の前で、二度とその単語を口にするな」
「シンジさん…」
 身を翻したシンジの後ろで、サツキが呆然と立ちつくす。
 シンジの姿が消えた後、首筋にわずかな痛みを感じて、そこに触れたのだが何ともなっていない。
 首を傾げたサツキだが、顔色が変わったのは次の瞬間であった。
 手を離すと同時に、首筋からの出血を感知したのだ。
 名人の手に寄る枝の切り落としは木にそれを気付かせないと言うが、シンジのナイフもその域と言えたろうか。
 鮮血が糸を引いて流れ出すまで、実に数分を要したのである。
 いや、正確にはサツキにもよく分かっていなかった。
 シンジの手が動いた、とそこまでは分かったのだが、その手が抜き出した物も、そしてそれが何をしたのかも見えてはいなかったのだ。
 呆然としていたサツキだが、手が見る見る朱に染まっていくのを見て、慌てて止血剤を取り出した。
 首に押し当てるとすぐ止まったが、
「どう…して…」
 無論サツキの言葉には、レイを彼女なりに気に入った事もあったろう。
 そして女だから、と言った言葉にも決して偽りはなかった。
 しかしながら、それが引き起こすシンジの反応に付いては全く想定していなかった。
 予想していれば、口が裂けても言いはしなかっただろう。
 血を吸って赤くなった止血剤を首から剥がしながら、
「アオイ様、申し訳ありません…」
 力無く項垂れた。
 
 
 
「JAに関する開発総覧」
 そう記された書類がユリの机に置かれており、ユリの指先が分厚い報告書を次々とめくっていく。
 半分ほど進んだとき、ユリは一瞬顔を上げたが、それはちょうどサツキが首からの出血を知ったのと同時であった。
「さて」
 一言呟いてまた視線を戻す。
 最後まで読み終えた時、ドアが静かにノックされた。
「開いている」
 音もなく開いた扉は、これも音もなく人を吸い込んだ。
「お嬢様、申し訳ありません」
 深々と頭を下げたのはサクラであった。
「シンジさんに、余計なことを申し上げてしまいました」
「別に構わん」
 ユリは興味もなさそうに言うと、ペンを取ってその先にインクを付けた。
 尻尾に羽の生えているそれが、ユリの手のひらでふわっと一回転するのを見ながら、
「女だから、とサツキはそう言った」
「は、はい」
 この部屋にいながらも、院内の出来事はその目を逃れられないらしい。
「女の子には、あるいは女心を−また乙女心とも言う。女、という種族を端的に表現するには便利だが、基本的には個性を知らぬ愚か者の台詞だ。少なくとも、シンジ相手には決して使うべきではない。乙女心とやらを使っておいた方が、まだしも正解だったな」
「お嬢様、如何致しましょうか」
「放っておく」
 即答が返ってきた。
「それとも、シンジが切り裂き魔と化した原因に心当たりでも?」
「そ、それは…」
「ならば、おかしな口出しはしない事ね。顛末を知らぬ者の介入など事態の好転は招かないわ−決してね」
「は、はい…」
 シンジとアオイを見ていれば、少なくともシンジが女嫌いな訳ではない。
 しかし、それではまたシンジの過剰とも言える反応に説明が付かないのだ。
 図星を突かれて逆上した、そんな風には到底見えなかったのである。
 サクラが一礼してから出ていった後、
「碇ゲンドウへのそれと、シンジに対するそれでは根本的に異なってはいる。だが惜しむらくは…本人がそれに気づいていない事だ。何よりも、あの言葉はシンジの前では決して口にしてはならないものだった」
 どこか惜しむように言った後、ふと報告書に視線を落とした。
「確かに危険ではある。とは言え死線に赴く友人の為にも、決して存在させてはならない物だ」
 ユリの手元にあるのは、本来ならば総司令、つまりゲンドウの手元にあるべき物であった。
 だがそれはユリの所に運ばれてきた。
 静かな声と共に手が動き、鋭いペン先がページのある部分に突き刺さった。
 すなわち−
「子供に暴走兵器を扱わせる危険性」
 と記された箇所に。
 
 
 
 
 
(続く)

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