第五十一話
 
 
 
 
 
「ねえ鈴原、本当に良かったの?」
「ワシに分かると思うとるか?」
 逆に聞き返されて、ヒカリは一瞬受話器を耳から離した。
 いつの間にか、夜の通話などするようになった二人だが、今の話題はケンスケの事であった。
「止めた方がいいんじゃないの」
 一応ヒカリは止めた。
 無論、委員長としての責務というのもあったが、それよりも心配だったという方が大きい。
 トウジとの仲が出来たのは、元はシンジに端を発した物だが、あの時以来、自分の仕事に対する考え方は、ヒカリの中で微妙に変わってきている。
 それを放棄した訳では無論ない。
 しかしながら、
「委員長として云々」
 と言うことを前面に出して物を言った場合に、結果に責を負えるとは決まっていないのだ。
 また反対に、委員長としてではない方がいい場合もある。
 いや、あってはならない事が。
 簡単に言えば、シンジの時がそうだ。
 一見すればただの喧嘩だが、実際は違う。
 使徒の来襲による非常事態、という事は既に動かし得ない現実であり、そして避難命令が出されて、その時間もあったと言うのもまた事実なのだ。
 だとしたら、一般人の怪我のそれは、シェルター自体の破壊の結果に因らなければならない。
 しかしトウジの妹は違った。
 避難命令の出された中を勝手に帰宅し、結果として重傷を負った事は、自らが招いた以外の何物でもない。
 その上で見れば、シンジが絡まれる理由など、何処にも存在してはいないのだ。
 まして。
 ヒカリがシンジを呼び出す理由も、まして手を上げる理由などは。
 善悪は別として、あのときの事を考えると、ヒカリは今でも顔が赤くなってくる。
「私、彼女でも何でもなかったのに」
 と、小声で呟くことも珍しくはない位だ。
 明らかに、クラスを統制する委員長としてはらしかぬ、いやとんでもない行為だが、それが彼女の思考に影響を与えたというのは、ある意味奇妙な結果と言えるかも知れない。
 だからケンスケを止めたのは、単純にクラスメートとしての部分も少なくはなかったし、その中には彼女自身の思考が入っていた。
 すなわち、女の勘。
 別に勘がいい方ではないが、前回使徒戦を勝手に見に行った事は聞いている。
 そして、その時にさして咎められなかったこともまた。
 だが、それが今回も同様になるとは思えなかったのだ。
 ネルフが超法規である事はヒカリも知っている。
 その典型的な例が、この間転校してきたからだ。
 もっとも、前の学校でも半年ばかり前から、既に運転していた事は、ヒカリは知らないが。
 ただ何となく胸騒ぎを覚えて、
「鈴原、じゃこのままにしておくの?」
「それしかない、とちゃうか」
「え?」
「あいつがおらんのはいつもの事やからな」
 冷たい言い方だと思った瞬間に、しょっちゅう欠席することを思い出した。
 閲兵式だの航空ショーだの、あるいは新型空母が配備されるだのと言っては、そのたびに学校を休む。
 そのくせに、
「もう戦艦の時代じゃないんだよな」
 とか、何も知らないトウジを前にして熱弁を振るっている。
 もちろんヒカリに興味はないが、トウジを見ていたせいで、いつの間にかおきまりの単語を覚えてしまったのだ。
 ただし、戦艦と空母は別物だし、戦闘機の離着陸を主とした空母と、直に戦闘参加する戦艦ではその意味合いが違うが、トウジもヒカリもそんな事は知らない。
 単におかしな事を言ってるなと、思っているだけである。
「それに…洞木」
「え?」
「ケンスケのやつがワシを誘うのを諦めたのは…一人の方が身軽と思ったからやないからな…」
 歯切れの悪い口調に一瞬首を傾げたがすぐに、
「あ…」
 思い出したようにこちらも洩らした。
 ケンスケが単身で出かけたのは、ヒカリと話し込んでいる二人を見た時だったのだ。
 確か、お幸せになとか、言っていたような気もする。
「じゃ、じゃあ…私たちのせい…」
「いや、あいつが自分で選んだんや。洞木のせいやない…」
 とは言え、二人とも何となく自分達にも一因があるような気がして、言葉がどこか重くなっている。
 こんな会話になる筈ではなかったのに、重い空気が二人の会話に影を落とした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「上の階までぶち抜いたって事は、ここは全部アオイが占領したの?」
「そうよ、その方が安心でしょう」
 二人が入り、それにしたって十分広い湯船の中で、二人は向かい合って座っていた。
 足を伸ばし、目を閉じていたアオイだが、シンジの視線に気づいたかわずかに目を開けた。
 すなわち、浮遊している乳房に。
「気砲がさっきおかしかった。どこが悪いの?」
 訊かれてアオイは、
「やっぱり隠せないわね。で、どこだと思…んっ」
「多分ここ」
 言うと同時に、すうっと動いたシンジが、下からアオイの胸を持ち上げたのだ。
 が、その眉が寄ったのはシンジの方だ。
 片手に余る胸を乗せ、何を思ったかもう片方でその肩に手を当てた。
「どういうこと?」
 ごきり、と音がした時、シンジの表情はわずかながら危険な物に変わっていた。
「大したことはないのよ」
 婉然と笑って見せたが、
「君も僕を、へぼな指揮官に預けた訳じゃないだろうけど、僕も藪医者に預けた記憶はないぞ」
「そんな事言わないで」
 と言った時にはもう、シンジは立ち上がっていた。
「僕はこれで帰…む」
 立ち上がると同時に、アオイがその手を引いた。
「待ちなさい、どこ行くの」
「分かってるなら訊かないで」
「ユリのせいじゃないわ」
 手に力を入れ、アオイはぐいとシンジを引き寄せた。
 この年になると、シンジの方が腕力はありそうだが、その腕のどこにそんな力があるのか、シンジはたやすくアオイの上に捕獲されていた。
 シンジの体に腕を回すと、その背中でアオイの胸が柔らかく形を変えた。
 肩の上に顔を乗せ、
「お薬はない、先生はそう言われたわ。でもちゃんと、処方箋はあるのよ」
 妖しい声で囁くと、腕に少し力を入れた。
「処方箋?」
「抱き枕を変える事、ですって。付き合ってもらえるかしら?」
 ふう、と吹きかけた吐息に、シンジの体がぴくっと揺れた。
「だから、そこ止めてってば」
「じゃ、付き合ってくれる?」
「いいよ、別に」
 それを聞いたアオイが、うっすらと微笑んだ。
「シンジならきっと、そう言ってくれると思っていたわ」
 うん、とシンジは頷き、
「それはそうと」
「何?」
「どうして放さないの?」
「せっかく捕まえた獲物を放つ蜘蛛さんはいないでしょう?」
 顔を寄せてくると、シンジの顔をのぞき込んだ。
「それもそうだ。じゃ、そのままでいいから聞きたい事がある」
「なんなりと」
 裸の身体に腕を回され、しかも背中では乳房が潰れている状態では迫力がないが、シンジは真顔になると、
「補完計画、て何?」
 と訊いた。
 
 
 
 
 
「例の子供、処置は終わりました」
 にせリツコがやってきて報告した時、ちょうどユリは書類に目を通し終わった所であった。
「確認を?」
「保安の者達が、ゴミ集積場に簀巻きにして放り出したのを確認しております」
「それでいい」
 ケンスケの処置を聞いたユリは、それきり忘れるように頷いた。
「あの、それは?」
 ユリが見ていた書類だが、ダミーがこんな事に興味を持つなど極めて珍しい。
 同時にそれはユリが、見せる位置で見ていた事も関係している。
「さっき届いた報告書だ」
 渡されたそれに視線を走らせ、
「山岸マユミ?ではさっきの娘が?」
「父親が忍びの末裔だそうだ。シンジが妙に興味を持っているらしい。夜な夜な、出自を明らかに出来ない物ばかりをさらって壊していると報告があった」
「変わった娘ですのね」
「それ自体は大した事ではない。だが、シンジがその現場に居合わせて、彼女を救った。しかも手当までしている」
 変わらぬ口調だが、温度は確かに数度下がった。
「はい」
 と言った時、にせリツコは自分でも、適当な台詞ではなかったような気がした。
「困ったものだ」
 とユリが言ったが、何に対してかは分からない。
「いかがなさいますか」
「何も」
「はい?」
「人の生き方に口を出すこと、お前のオリジナルならいざ知らず、私はそう造った記憶はないが」
「恐れ入ります」
「その娘に何かあれば、私がシンジの不興を買う事になる。想い人の意に添わぬ行動は、私にはあいにく出来ない。ただ」
「妹、でしょうか」
 確認するように聞いたにせリツコに、そうだと頷いて、
「兄を独占したがる気配があるし、とかく難しい所だ。以前、彼女の件でシンジに叱られたとも聞いている。とは言え、障害は多い方が面白い物か」
 にせリツコに向けた、と言うより呟くように言ってから、
「お前はどう思う?」
「私には分かりかねます」
 即答が返ってきた。
「碇ゲンドウもネルフでの補佐も、私には興味を持てる所ではありません」
「ダミーに造りながら、思考配分を誤ったか。では、何になら興味を持つ?」
 そう訊ねられた時、にせリツコの表情が初めて激しく揺れた。
 
 
 
 
 
「人類補完計画、何も知らない訳ではないでしょう」
「猫に聞いた」
 ぼんやりとシンジが言った時、アオイの顔はその肩に載せられていた。
 そこに妙な力が入った、と感じたのは数秒後の事である。
「猫?随分と、仲がいいのね」
「そうかな」
 ふと見ると、腕が首に回っていることに気づいた。しかも力が増えている。
 危険な体勢と言える。
「ええ、とても」
「嫉妬?」
 ぬけぬけと訊いたシンジに、
「ふふふ」
 とアオイは言った。
 笑ったのではない、言ったのだ。
 が、それも一瞬のことで、
「何を聞いたの?」
 訊ねたとき、口調から危険な物は消えていた。
「アカシアのレコード」
「アカシア?」
 アオイとてその単語は知っているが、ここで聞くとは思わなかったらしい。
「死海文書は一つではない、そう教えられたよ」
「そう…」
 何故か言葉を切った後、
「あなたはどうしたいの」
「どうしようかな」
 首を傾げたが、それが真顔なのは見ずともアオイには分かっている。
「ラジコンカーじゃないし、使徒は放っておいてもやってくる。どのみち、あれは倒さなきゃならないし。極悪計画の始動はその後だよね」
「そうね。もっとも、融合するとどうなるのか、私にも想像が付かないけれど」
「一つ言える事がある」
「なに?」
「気持ち悪いって事だ。だいたい、人間はジグソーパズルじゃないぞ」
 それを聞いたときアオイは、再度シンジを引き寄せた。
 胸が、文字通り潰れる位の距離まで抱き寄せると、
「じゃあ、潰す?」
 と訊いた。
「うん」
 シンジが頷く。
 混浴中の会話だと、誰が思うだろう。
 その体勢のまま、
「一つ訊きたい事がある」
「何かしら」
「アオイなら、君なら同じ事をする?」
 文法が正しくないが、アオイにはシンジの言葉は読めている。
 これは間髪入れずに、
「しないわ」
 と囁いた。
「私が、シンジに怒られてしまうもの」
 それを聞いたシンジが、姿勢は変えずに首だけ後ろを振り向いた。
 す、と手を伸ばしてアオイの顔を引き寄せる。
 その首にシンジが唇を付けると、アオイの唇から小さな声が洩れた。
 シンジの顔が離れた時、そこにはくっきりと鬱血の痕が残っている。
 そこを手でおさえながら、
「もう、スカーフしないと目立つのに」
 ちら、とシンジをにらんだが、
「髪、洗ってあげる」
 何事もなかったかのようなシンジの言葉に、
「そうね、お願いするわ」
 肌から湯を弾いて立ち上がった。
 
 
 
 
 
 気が付いたらここにいた。
 ややふらついた足取りに加え、その身には何もまとっていない。
「私、どうしてここにいるの」
 声に出したそれが、やや遠く聞こえた時初めて、自分は夢の中にいるのかと思った。
 だが。
 今までに自分が夢の中で動いた事はない。
 いや、夢を見ることすら今までは無かったのだから。
 だとしたら。
「これは…姫様の…?」
 無論答えは無かったが、眼前に拡がった光景がそうだと告げていた。
 すなわち、広大な敷地にうごめく人々が。
 その髪型は、歴史書の中でのみレイが見た事のある光景であり、
「あれは…」
 レイの顔に奇妙な表情が浮かんだ通り、彼らの格好は異様であった。
 全裸である。
 いや、違う。
 よく見ると、いずれも尻尾を生やしているのだ。
 本物ではないが、非常に良く似せてあるそれが、実際の獣から取った物だなどとレイは知る由もない。
「交尾?」
 とレイが呟いたのも、無理はなかったろう。
 尻尾を生やした男女が、或いは男同士女同士が、あらゆる体位で絡み合っているそれを見れば。
 後背位で繋がっている男女がいる。
 一人の女を三人で責めている男達がいる。
 髪の長い若者の股間に、先を争うようにして顔を埋めている女達がいる。
 そのどれを取っても、レイの年頃にはあまりに強すぎる刺激であったろう。
 しかしレイは、それを見ても何ら感情が動くことはなかった。
 無論、行為の意味自体が分からなかった訳ではない。
 それに地下では、シンジに危険な口づけもされているレイなのだ。
 例え、その目的は違ったとしても。
 にもかかわらず、眼前に見えるそれはレイに取って、単なる映像にしかならなかったのだ。
 それも、自分にはまったく無関係な。
 女達に責められていた男が、全身をびくびくと震わせ、大きく精液を吹き上げた。
 それを女達が奪い合うようにして飲んでいくそれに、ぼやけた焦点と間近の映像とが重なって見えた。
 そう、実際には遠くの光景なのに、まるですぐそばで起きたかのように見えたのだ。
 ふとレイが、ある匂いに気付いた。
 性のそれではなく、酒のそれに。
「お酒かしら」
 表情を変えずに呟いたのは、シンジと飲んできた成果だったろうか。
 が、レイの見る限り飲んでいるのは誰もいない。
 そこにいる全員が、乱交に耽っているのだ。
「どうして」
 レイの視線が何かを捜すように動き、そしてある物を見つけた。
 設えられた高台から下を見下ろし、杯を傾けている人物を。
 その男もやはり、両側に女を侍らせているが、レイの表情が初めて動いた。
 右側の女が杯の中身を口に含み、男に口移しで飲ませたのだ。
 初めてレイの顔がうっすらと赤くなったのは、シンジとの事を想像したものか。
「変わっておるのう、お前も」
 ふいに、頭の中で声がした。
「…姫様?」
「酒池肉林、この単語を聞いたことはあるか」
「一度だけ、あります」
「語源はこれじゃ。殷王朝、これはどこであったかの」
「殷・周・秦・漢と続く、中国の古代王朝です」
「その通りじゃ」
 レイは、見えぬはずの稀代の妖女が、軽く頷いたような気がした。
「殷には名君と言われた王がいた。それがあれじゃ」
「あれ?」
 レイは首を傾げた。
 目の前には狂態のみが広がっており、名君の“めの字”も見あたりそうにはなかったのだ。
「玉座じゃ、レイよ」
「…はい」
 ゆっくりとレイの視線がそこに動く。
 だが、該当する人物は見あたらない。
「まだ分からぬか、女から口移しで盃を受けている男がいるであろうが。あれこそが名君と言われた紂王のなれの果てじゃ」
「本当にあれが?」
 レイの反応も当然であったろう。
 王者たるものの何か、などレイが知るわけは無い。
 しかし、目前の狂態を肴にしているようなそれを見れば、間違いではないかと普通は思うに違いない。
「ある女に会ったのが間違いであったな」
「ある女?」
「その女の歓心を買うために、あやつは瞬時に愚鈍な暴君と化した。この光景を創り出したのも、女の笑みを見るための手段の一端じゃ」
 姐姫があの女、と言った時何故かレイは、それが直感的に分かった。
 即ち、姐姫その人だと。
「これを立案したのは…」
「立案、か。面白い事を申す。これはわらわが操った物じゃ、お前も分かっていたであろう」
「はい…」
「だがまだ、これだけでは終わらぬ。孕んだ者の腹を割くことも、燃える鉄に人を乗せ、歩かせるのもわらわの創り出した事じゃ。レイよ、お前はわらわを忌むか?」
 レイでなければ訊かなかったろう。
 また、レイでなければ答え得る事は出来なかったろう。
 少なくとも、
「いいえ」
 と、淡々と答える事は。
「ほう、なぜじゃな」
「お兄ちゃんの敵を、それを殺す事を私は躊躇わなかったから」
 ある意味では、綾波レイの思考を凝縮した答えと言えるかも知れない。
「そうか、そうであったの。お前は手を、既に朱にしておったか」
「はい」
 とは言え、稀代の妖女から見れば、それこそ児戯にも等しいものであったろう。
 が、何故か姐姫は嘲笑うこともなく、
「なれどレイよ、今のお前ではあまりに力が足りぬ。碇シンジのそれには、まだ遠く及ばぬぞ」
 一瞬、レイの肩がびくりと動いた。
 レイ自身も、それはよく分かっていた。
 ATフィールドを張れる、としてもそれを自在に使えることとは関係ない。
 その事はレイが、東京タワーに於いても、そして海上のS・Aでも嫌と言うほど、思い知らされた。
 塔内ではいきなり拉致されたし、駐車場内では自分とうり二つの敵を相手に、肉弾戦を演じる羽目になった。
 実際、シンジが来てくれなければどうなっていたか、レイは自分でも分からない。
「分かっています…」
「そこでじゃ」
「はい?」
「お前が危機に陥るたび、わらわが出るわけにも行くまい。我が力、お前にも与えてくれる。どうじゃな?」
 遠くに感じた声は、ひどく邪悪な物に聞こえた。
 
 
 
 
 
「身体が柔らかくなった気がするわ」
 白い肌を見せたまま、アオイが言った。
 既に二人とも上がっており、かなりおかしな音を立てて、シンジがアオイの肩を揉み終えた所だ。
 まるで、骨が砕けそうな音がしたのだが、アオイの表情はどこか恍惚に近い物があった。肩の凝りもここまでくると、半端な力では効かないらしい。
「いででで」
 自分の腕を回しているシンジを、
「ありがとう、かなり楽になったわ」
 言うなりアオイはすっと引き寄せた。
「あ、こら」
 べしゃっと潰れたシンジを見ながら、アオイは薄く笑って上半身を起こした。
 重たげな胸が揺れているのを、ガウンを合わせて直す。
 乱れを直すと再度横になり、
「ね、シンジ」
「何?」
 少し奇妙な表情で、
「…忘れたわ」
「え?」
「話す事、沢山あった筈なのに…変ね」
「まったく、忘れっぽいんだから」
 と言った数秒後、
「そう言えば、僕もあったような気がするな。ま、忘れるなら大した事じゃないんだな、きっと」
 勝手に納得したシンジだが、
「そうかも知れないわね」
 同調すると、
「今日は、久しぶりにゆっくり眠れそうな気がするわ。おやすみ、シンジ」
 軽くシンジの髪に口づけすると、シンジを抱き寄せた。
 文字通りの、抱き枕にする気らしい。
 シンジは別段抗いもせずに受け入れた。
「おやすみ」
 室内の明かりが消えて十秒後。
 ほとんど計ったように、二人は揃って寝息を立てていた。
 ぴたりとくっついた姿は、仲の良い恋人か或いは姉弟にも見える。
 もっとも、これが姉弟なら幾分問題があるかも知れないが。
 まだ高い位置にある月光が、二人の寝姿を静かに照らし出していた。
 
 
 
 
 
(続く)

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