第五十話
 
 
 
 
 
 朝、太陽が昇って夕方には沈む。
 もう、数え切れない程の間これを繰り返してきた。
 だから、夜に太陽の顔を見る必要はなく、絶対に月がそこにあるのだ。
 無論、無粋な雲や雨や星が、月の美貌を隠してしまうことはある。
 でも大概は、ちゃんとそこにいてくれるのだ。
 だから−
 
「シンジ様…」
 一葉の写真を胸に抱き、月を見つめているのはモミジである。
 ウェールズのここにも、第三新東京と同じく月は出る。
 天候に左右はされるものの、ある意味では一番平等な物と言えるかも知れない。
 不死人の身体とは言え、全精力を使い果たせばやはりダウンもする。
 何より、回復出来る相手がここにはいないのだから。
 自分の霊力、と言うより生命力を注ぎ込んで大鷲を作り、シンジ用にとアオイに託した。
 出来ればすぐにでも飛んでいきたい。
 信濃邸でアオイと共になら別だが、奇妙なロボットに乗って前線に出ているなど、モミジには本来看過出来る事ではない。
 傍目には越権に見えるかも知れない。
 だが少なくとも、アオイとシンジはそうは言わない。
 死ねぬ身ながら、唯一その滅びの道を知っている二人は。
 シンジの死が、そのままモミジの死と同義である事を知っている、アオイとシンジだから。
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ところでこれはいかが致しましょう」
「これ?」
 アオイのカルテを見ていたユリに、サツキが一枚の書類を差し出した。
「アオイ様から、ドクターに治療をお願いするようにとご伝言が」
 そこにあるのはケンスケの資料である。
「今何を?」
「保安部の者に命じて、吊してあります」
 何でもないような口調だが、中身は冗談にしか聞こえまい。
 だが今、よりによって霊安室の、それも棺桶に挟まれて天井から吊されているのは、紛れもなく相田ケンスケ本人である。
 エヴァの出撃、いやそれより以前の使徒襲来時に、避難命令は第三新東京全体に出されており、それは勧告ではない。
 強制力を伴った物であり、意図的に従わない場合、留置所に放り込まれる事もある。
 更には、従わない結果の被害に関しては、一切の責任は取られない。
 ただその代わり、ネルフに過失があった場合、つまり避難に十分な時間がなく使徒が来襲した場合には、損害の全額はネルフが負う事になる。
 と言うことは、直前まで使徒に気づかず、その結果として人的被害でも出た日には、いくら請求されるか分かったものじゃない。
 超法規とは言え、そこまで好き放題出来るわけではない。
 いやむしろ、守るべきが人間にある以上、当然の範疇と言えるだろう。
 それをケンスケが知っていたかは不明だが、二度に渡っての法に抵触する行為は、看過される範囲は超えていた。
 前回無事に済んだのは、シンジが逃がしたからに他ならない。
 ただ、それを吊して置いたサツキの心中は、分からないが。
「本来なら私が解剖するところだ。いや、そうではなくてはならない。好奇心の塊は患者に取ってもいい材料になるからだ。が」
「はい」
「さっきアオイが来た」
「アオイ様が?」
「死があるならそれはシンジの為、そう言ってさっさと帰っていった。従って、私の初の試みはあっさりと挫折した」
「珍しいですわ」
 だが、サツキが言葉を返すのもよほど珍しい。
 ユリの表情がわずかに動いて、
「なぜ?」
 と訊ねた。
「ただの覗き屋ならともかく、シンジさんに累を及ぼす可能性の高い生き物です」
 確かに、とユリは頷いて、
「でもアオイはそれを知っている。私が伝えた」
 それを聞いて、サツキが軽く頭を下げ、
「では、そのまま放しておきましょうか」
「それもなるまい」
 ユリは軽く首を振った。
「妹とのままごとならともかく、命を賭したそれを物見遊山に出たのだ。そのまま返してはならない、二度とその気にならぬように処置を」
「ご指示通りに」
 深々とサツキが一礼した時、その声には確かに極道の凄みが備わっていた。
 
 
 
 
 
「さて、ちょっと休んでいくか?」
 肩に乗せた巨鳥に顔を向けてシンジが訊いた。
 桜並木でも歩くような雰囲気からは、使徒のこともエヴァの事もすっかり忘れたような感じさえ受ける。
 黒のロングジャケットに大鷲の図が、妙にマッチして見えるのは慣れだろう。
 そう、信濃邸でしばしば鷲を肩に乗せて、アオイと二人で散策するシンジの。
 アオイの家は分かっているから、鳥と一緒にてくてく歩いていたが、ふと大鷲を見て思い出したのだ。
 本物とまったく区別の付かないそれは、実際の肉体を持ってはいない。
 触感もうり二つであるにも関わらず。
 嘴に軽く手を触れた時、その造物主の事を思い出したのだ。
 すなわち、ウェールズでダウンしている知り合いの事を。
「モミジに電話しておこうか」
 腰を下ろした主に、巨躯の鷲は小さく鳴いた。
 賛成しているらしい。
 公園のベンチに腰を下ろしたシンジは、携帯電話を取りだした。
 地軸がずれているとは言っても、やはり夜ともなればやや冷えてくる。
 季節が、そのあるべき姿を失いきってはいない証拠のように。
 番号を押して耳に当てる。
 一度で出た。
「はい、わたくしです」
「ああ、僕だ」
「……」
 返事がない。
 泣いている、と知ったのは数秒経ってからである。
 三十秒ほど待ってから、
「鳥、もらったよ」
 とだけ告げた。
「も、申し訳ありません…取り乱してしまって…」
「別にいいさ。それより、よくやってくれた」
「お、お役に立てました?」
「モミジが使えない物をよこすとは思っていないよ。たまに例外はあるけどね」
 シンジが言っているのは、モミジがよこした呪符の件だが、
「シンジ様のせいでひどい目に遭いました」
 そう言って笑ったモミジ、もう涙は引いたらしい。
 例えまだ子供の年齢と言えども、土御門の当主はそうそう感情を露わにしてはいられないのだ。
 シンジが少し口調を変えて、
「そっち、異常はないかい?」
 と訊いた。
「今のところは何も。それよりシンジ様の方は」
「行方不明」
「はい?」
「東京タワーからどこ行ったのか、さっぱり分からない」
「シンジ様、ごめんなさい…」
 無論カエデの事だが、別にモミジには関係ない。
 それでも実姉、と言うことでどうしても負い目を感じているのかも知れない。
「モミジが気にすることはないよ。それに多分」
「それに?」
「次に狙ってくるのは、モミジじゃないような気がする」
「ではシンジ様を?」
「本音を隠すのは止めようね」
 そう言った時、モミジがちっとも思っていないことを、シンジは口調から感じ取っていた。
 モミジは分かっていたのだ。
 すなわち、シンジが誰の名前を出すのかと言うことを。
 そしてそれが、自分にはさして影響のない相手だということも。
「でもシンジ様」
「何?」
「私は、その娘が討たれてもかまいません。むしろ、その方が良いとさえ思っております」
 綾波レイ、その名を読みとりながらモミジは、はっきりとシンジに告げた。
 だがその真意は?
「でも、もう一人は強いよ」
 妙な事を言ったシンジに対し、
「別に誰でも良いのです」
 モミジの口調はどこか冷たい。
「ですが、シンジ様のお側を歩けぬような娘など、いるだけ無駄ですわ」
「そうかなあ」
 電話機を持ったまま首を傾げたシンジに、
「はい、間違いなく」
 土御門の若き当主は断言した。
 妬心に似たものがまったくない、と言えば嘘になるかもしれない。
 それで騒ぐほど、モミジの器は未完成ではないが、目下モミジが認めているのは、アオイのみである。
 つまり、その判断基準は能力をすべてとしているのだ。
 シンジがアオイに、或いはアオイがシンジに利き腕を預けているのは、相手の能力を完全に信頼しているからだ。
 もし襲撃されたとしても、自分が反応せずとも問題ないだけの物を、相手が持っていると知っているから、利き腕をいわば封じた状態でもよく出歩くのだ。
 だが、レイにはそれがない。
 シンジが右を預けないのは、ひとえにそれであり、モミジの過激な発言もまた、そこに理由がある。
 もしシンジがレイと、右手を繋いで歩くようならば、モミジも何も言いはしなかったろう。
 それが出来ない、モミジから見れば非力な娘が、シンジの側にくっついているというのはやはりモミジには問題なのだ。
 一見するとわがままな理屈だが、実際はそうでもない。
 そう、シンジの死はそのまま、モミジの死と同義なのだから。
「ちょっと待て」
「はい?」
「じゃ、そんなのを妹にした僕の立場は?」
 少し考えてから、
「それもありますわね」
 モミジらしい台詞と言える。
「僕が気に入らない娘を、仕方無しに妹にしている訳じゃあない」
 シンジの言葉を聞いたモミジは、すぐには返事しなかった。
 が、叱られたと思ったわけではなく、
「では、どうして妹にされたのです?」
「フィーリング」
 シンジの答えは早かった。
 本心であろう。
 ただし、モミジの方もそれは予測していたのか、別に驚いたような反応もせず、
「わたくしも、シンジ様にお会いしたくなりましたわ−何となく」
 と言った。
「動きがつかめていないから、しばらくはそっちにいて」
 冷たく却下したが、
「クリスマスはホワイトハウスだ。帰りにでもそっちに寄る?」
「大統領官邸?どうかされましたの?」
「少し前にどっかの医者があそこのMCに侵入したからね、あまりボスの誘いを断ってもいられないし」
「でもあそこは…」
「分かってる。アオイ本命の子がいるからね」
 シンジの口調が、何となく嫌そうになったのはどうしてか。
 それも、アオイを取られる心配のような物とは、まったく無縁に聞こえる口調で。
「アオイが言ってたけど、ドイツにある弐号機が多分こっちにくる。輸送と訪問と、幾つか頼みたい事もあるから」
「訪問?ドイツまで行かれますの?」
「弐号機のパイロットの家にね。自宅で貞操帯を浸けて寝る娘の家だ」
 その言葉に何かを感じたのか、
「分かりました。では、お待ちしています」
「多分ヒースロー空港だから。迎えは頼んだよ」
「お任せを。でも」
「ん?」
「あまり待たせると、私の首がろくろっ首になってしまいますわよ」
 ろくろっ首とは、夜中になると数十メートルも伸びて、行灯の油をおいしそうに呑むと言われる、妖怪女の首の事だ。
「大丈夫、待たせないから」
 自信ありげに言うと、
「直にお仕置きしてやらないと気が済まない」
 電話の向こうで、一瞬息を呑んだ気配が聞こえ、
「…お待ちしていますわ」
 何を想像したのか、たっぷりと濡れたような声が伝わってきた。
 ふっう、と熱い吐息さえ聞こえてきそうだ。
「じゃ、これで」
 通話を切って携帯をしまった時、シンジの頭上を旋回していた鷲が降りてきた。
 シンジの護衛でもしていたのかも知れない。
「モミジも喜んでいたし、行こうか」
 ばっさ、ばっさと羽ばたきした鳥を乗せて、またシンジはゆっくりと歩き出した。
 時計の針は、現在午前二時四十分を指している。
 
 
 
 
 
 シンジがウェールズに電話をかけている頃、中央病院の裏手に車が止まった。
 男が三人降りてきて、ゴミ収集所に、一つの物体を放り出した。
 音も立てずに、車はまたすーっと走り出した。
 縄で縛られたそれは、明らかに不法投棄なのだが、粗大ゴミではない。
 簀巻きにされ、いわば蓑虫になっているのは、ケンスケである。
「とりあえず、血ぐらいは使い物になるだろう」
 と通常の四倍、つまり四回連続で献血したのと同量の血を抜かれた後、
「法を守ることを、身体に教えてやりな」
 ドスの利いた声と共にサツキから、保安部の連中に引き渡されたのだ。
 看護職としてはあるまじき行為だが、こういう時に睨みを利かせられるのは、やはりサツキが一番だ。
 アオイやユリは駄目だし、シンジに至っては、ドスの『ドの字』も持っていないように見える。
 元、が付くとは言え、本職の極道の娘であったサツキの視線は、これ以上はないほどの強制力を持っていた。
 それに呑まれたかサツキの肢体に見とれたかは不明だが、とまれケンスケはさっそく連れ出され、命へ別状が及ぶぎりぎりのラインでタコ殴りの目に遭った。
 法に抵触してまで好奇心を満たそうとした事へ、軽い報いだったのか、それとも余りに重い報いだったのか。
 ただ一つ言えるのは、人の手に寄る行為ではないと言え、同じく避難所から勝手に出てトウジの妹は、数週間経っても目を覚まさぬ程の衝撃を受けたのだ。
 それも、原因がまったく不明と言う状態で。
 せめて、そうせめてコンピュータを、ちょっと覗く程度にしておくべきだったかもしれない。
  
 
 
 
 
 アオイのマンションは、繁華街を抜けた所に建っており、付近に住宅はない。
 女性専用のマンションが、主に治安重視で建てられたそれが、急激に増加したのはここ数年である。
 ストーカー、一時は流行語にもなったそれだが、それが住居侵入も含む凶悪な物と化すにつれて、女性専用住宅の需要は急速に伸びた。
 無論、女が男をつけ回したり、或いは女が女をと言うやや歪んだ形のそれが、増えた事も忘れてはならないが。
 ほぼ完全なセキュリティを誇る住居だが、やはり難点はあった。
 いきなりの訪問者に対応できないのだ。
 あらかじめ登録しなければ、郵便配達人すらも、それも玄関のホールにすら入る事が出来ない。
 登録を変えるためには、一週間の期間がかかり、従って誰かが代打として行くことは出来ない。
 無論、住人の友人も同様である。
 恋人に、
「ちょっと上がっていって」
 などと言おう物なら、たちまちレーザーがぴたりと照準を当てる事になる。
 その意味では文字通り、閉鎖された空間と言え、どちらかと言えば人との接触を拒むような女性が、その殆どを占めるようになった。
 行き過ぎの感がない事もないが、力においては絶対的に劣る女性が、それも何らかの被害に遭った女性であれば、最後の砦と言えるのかも知れない。
 シンジもそれは知っていたが、もう一つの事も知っていた。
 すなわち、六階建てのここを一人で占有する女性が、碇シンジという人物に対し、好きなように歩き回る設定にしていることを。
 だから今、シンジはここにいるのだ。
 五回にある、アオイの部屋の前に。
 網膜スキャンが四回に、指紋照合を三回受けた。
 だがそれは、リツコが組んだ物ではない。
 それを遙かに上回る、そう長門病院で使われているのと同じ物だ。
 四度目の網膜スキャンがずれた場合、機銃が問答無用で火を噴くように設定されているのを、シンジの視界は捉えていた。
「もう、物騒なんだから」
 ぶつぶつ言いながらドアを開ける。
 独身女性の部屋だというのに、ノックをしようともしない。
 普通の家の三倍くらいありそうな廊下を進むと、わずかに水の匂いがした。
 左側のドアを開けて、中に一歩足を踏み入れると、檜の香りが強く漂ってくる。
 シンジの表情がわずかに動いた。
「僕の家よりいい物使ってるぞ」
 その匂いだけで量を、すなわち使用されている檜の量を知ったらしい。
 目の前のドアを開けると、そこは脱衣場になっていた。
 左右の棚には脱衣かごが置いてあり、どこか銭湯のそれにも似た物がある。
 それだけなら、単に物好きの趣味が高じた部屋と言えただろう。
 ただし、その一つは現在埋まっている。
 下着が畳んで入れてあるのだ。
 別に引き返せば済む話であり、さして問題はあるまい。
 単に家の中の点検中に、入浴とぶつかったのだから。
 がしかし。
 それは単に下着が入っているだけではなかった。
 かごには、張り紙がしてあったのだ。
 すなわち、
「シンジはこちら」
 達筆で書かれたその下には、よく式場案内の看板などに使われる、人の手が描いてあった。
 ある方向を指さしている手が描いてあり、その指さす先は浴室の扉となっていた。
「どうしようかな」
 中に先客がいるのは分かっている。
 そして、自分を待っていることもまた。
 下着の入ったかごを前にして首を傾げている姿は、持っていこうか迷っているように見えない事もない。
 と、ふともう一枚の紙に気が付いた。
「もう一つ?」
 指の先で一枚目をはがしてみた。
 そこには、重要と太文字で書いてあり、その下には、
「逃げちゃ駄目」
 と書いてあった。
 それを見たシンジは、左に一度右に三度、首を傾けた。
 十秒くらい何やら考えていたが、
「まあいいか」
 ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
 なお、既に鷲の方は室内をうろうろしている筈だ。
 エクトプラズムで創られたその身体が、警備に一度も引っかからなかった事は、言うまでもない。
 
 
 
 
 
 遊び疲れて眠る子供、これはさして珍しくない。
 失恋のショックで泣き疲れて眠った少女、これもそんなに珍しくはないだろう。
 だが、同じ泣き疲れて眠ったにしても、それが少女とはやや縁遠かったら?
 さらには全身の体毛のうち、頭髪だけが金髪だったとしたら?
 何よりも。
 どうして泣いているのか、自分でも分かっていなかったとしたらどうだろうか。
「厄介な代物ね」
 ケンスケを放り出す指示を出した後、部屋を訪れたサツキは、ベッドで寝ているリツコを発見した。
 そして、その涙の痕と。
 その頬に残る涙のそれは、何を思っての物だったのか。
 サツキはその寝顔を冷ややかに見下ろしていたが、ふとその口元に笑みを乗せた。
「本来なら、オリジナル以上の力を持ったダミーが出来た時点で、お前にはもう用はない。だが、それはシンジさんがお許しにならない。既に、使途の決まっている物を消すことは」
 使途が決まっている、とサツキは言った。
 しかし、未だシンジは一言も彼女に告げていないはずだ。それを、口にしていないシンジの胸中を、サツキは読んだのだろうか。
 人間をして使途とは、少なくとも好意には見えまい。
 なのに使途という単語を使ったサツキ。
 そしてその口調は、明らかに冷ややかな物で満ちていた。
 毛布を掛けてから出ていったサツキだが、どこか生け贄用の犠牲を扱うかに見えたのは、気のせいだったろうか。
 
 
 
 
 
「あ、重い」
 見るからに重たげな、そして実際にその扉は重かった。
 樫で作られた扉を、よいしょとスライドさせてシンジは中に入った。
 タオルを腰に巻いて入ったシンジの前には、予想通りの光景があった。
 一人用にはあまりにも大きな、と言うより二十人くらいが一緒に入れそうな浴槽は、総檜造りであり、木の匂いを漂わせながら、なみなみと湯を湛えている。
 多分そうだと思っていた。
 そして、ここにユリが手を入れた事も。
 この浴場の造りは、アオイの好みを知らずに出来る物ではない。
 リツコなら、ホルマリン漬けのようになって入る、外国のバスタブを真似た物でも作るだろう。
 シンジは少しの間、湯煙の向こうを見ていた。
 だが。
「やっぱりそうか」
 呟いた通り、湯船には誰も入っていなかった。
 ただ、透明な湯がどこか寂しげに張られていただけである。
 では、下着だけ脱いでいた主はどこへ?
 シンジの首がゆっくりと動き、その視界にある物を見つけた。
 すなわち、上へ上がる階段を。
 腰にタオルを巻いただけの格好で、シンジは上っていった。
 少し螺旋を描いたそれを上がりきった時、一瞬シンジの動きが止まる。
「うーん」
 思わず洩らしたのは、そこに月光を見たせいだ。
 大胆に空いた空間は、天窓からの月光を贅沢過ぎる程に室内へと流し込んでおり、偽りの電光などいらぬほどに、室内を妖しく輝かせていた。
 そして、その月光を浴びているのもまた。
 壁にガウンが掛かっていた時、シンジは予想通りだったのを知った。
 こちらに背を向けている人物が、シンジの知る通りの女性であれば、ここまで何も身に着けずに上がってくるような事はしない筈なのだ。
 下の階ほど大きくはないが、それでも五人くらいは優に入れそうな大きさであり、ここには透明ではなく乳白色の湯が満たされていた。
 シンジは少しの間、それを黙って眺めていた。
 流れるように艶やかな、自分と変わらぬ髪のそれを。
 そして陶磁器にも似た、艶めいて白い肌のそれを。
 数十秒が経った頃、その顔がこちらを振り向いた。
「一緒に泳ごうと思っていたのに」
 第一声がこれである。
 さっきの、プールでの事を指しているらしい。
「待った?」
 訊ねたシンジに、
「入ってきたからお咎め無しにしてあげる」
 どこか、熱く吹きかけた吐息のような声で言うと、
「髪、洗ってくれる?」
 軽く髪をかき上げると、首筋から妖香が滴のようにこぼれる。
 近づいて髪を手に取った動きに、アオイはにこりと微笑った。
 
 
 
 
 
(続く)

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